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懐柔のアップルパイとサンドウィッチ

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 くらりと眩暈にも似た揺れと、身体が軽く落下するような感覚をやり過ごし、私はそろそろと瞳を開ける。足元には魔法陣。だが、視界に映る部屋の内装は先ほどまでとは趣を変えている。まずここまで広さはないし、調度品もベッドも置いていなかった。

「転移魔法をこんなことで使うのって、毎度贅沢よねえ……」

 私とエマ様は、地に足がついていることにほっとため息を漏らす。滅多にできない体験をしているものの、身体にかかる不思議な感覚だけは、未だにちょっと慣れない。
 ここは、王弟殿下の執務室に備えられている仮眠室だ。
 魔法陣同士で行き来ができる転移魔法は、聖女の部屋と殿下の部屋を秘密裏に結びつけていた。聖女の仮面を脱いで侍女としての私が活動しやすくなるようにと、ルクス殿下が設えてくれたものだ。聖女が忽然と消える理由はこれである。

「ごきげんよう、殿下、皆様」

 執務室へ続く扉をノックすると、瞬時に是と返事がくる。エマ様の手で開かれたドアをくぐり、私は侍女服のスカートを摘まみカーテシーで挨拶をする。
 すると、ルクス殿下の側近の一人、スペンサー子爵ジャック様が、表情をぱあっと明るくして両手を開いた。

「お待ちしておりました。我らが救世主、もとい聖女様!」
「……何ですか、ジャック様」
「ははは。ユユア嬢がいないと、殿下がまともに休憩を取ってくださらなくてね」
「またですか?」

 私の入室と共に一度手を上げてくれたルクス殿下は、執務机に噛りついて羽ペンを動かしていた。一つに結った長い金髪が、背後の窓から陽の光を受けて淡く輝く。真剣な顔で書類に目を通している彼の姿は、まるで宮廷画家の描いた絵のようで、数多の令嬢を虜にしそうなほど麗しい。ここまで真面目に仕事に取り組んでいるということは、おそらく魔法省からの案件に違いない。
 昼食を私と一緒に摂るようになってから休憩の頻度は増えたものの、時折、ルクス殿下は食事や休息をほっぽりなげて政務や研究に没頭してしまい、ジャック様を嘆かせている。
 昨日、私は聖女の仕事を行わず、ルクス殿下の所有する屋敷(研究室ともいう)で授業を受けていたため、参内しなかったのだ。
 ルクス殿下は、私が学園を退学せざるをえなかった状況を鑑み、聖女の役割の一環として教師をつけてくれた。王宮に上がるには教養やマナーが甘かったので、付け焼刃とはいえ大変助かっている。
 私は、じとりとした視線を向けた。

「ルクス殿下、ジャック様にご迷惑をかけてはいけませんよ」
「かけていない。書類の締め切りが近いんだ。あと少し待ってくれ」
「それなら仕方ないですね。本日は、殿下のお好きなアップルパイを焼いて持ってまいりましたのに……。では、殿下以外の皆様といただいてしまいましょう」
「わあ、ありがとうございます! ユユア嬢のアップルパイは、絶品ですからね。殿下の分まで、私がいただきますよ」
「ちょ、待て、待て待て! ユユア嬢のアップルパイなら食べるから! 皆の者、休憩!」

 ジャック様の言葉に、がたがたと椅子から腰を浮かせたルクス殿下が、白旗をあげ慌ててソファに着席した。室内にいた皆は、くすくすと笑いながら、昼食の準備を始める。
 王宮は格式ばって息苦しそうだと思い込んでいたが、存外王弟殿下の元で動く皆は協力的で優しく、働きやすかった。おかげで、どうにかここでの仕事をこなせている。

「はぁ……君には敵わないな。すっかり僕の扱いが板について」
「堅苦しくしなくても良いと仰ってくださった殿下のおかげですよ。聖女より、よほど侍女の方が性に合っていますね」
「僕は、君の聖女姿も好んでいるけどね。もちろん、その姿も愛らしいから、どちらも捨てがたい」
「それはそれは、ありがとうございます」

 手に持っていた時間停止機能と毒検知機能の付いた収納鞄から、私はテーブルの上にアップルパイを取り出す。出来立てのアップルパイが食べたい、というルクス殿下の我儘から作成され借り受けることになったのだが、本来パイの保管に使うような代物ではないはずだ。ルクス殿下のめちゃくちゃさにも、いい加減慣れてきた自分が嫌だ。
 エマ様からナイフを借り受け、ホールのアップルパイを6等分に切り分けていく。まだ温かさを残すパイからは、甘酸っぱい林檎とシナモンの香りが漂う。やはり焼き立てに勝るものはない。
 エマ様と扉の外で警護についているディディエ様の分は、後で食べていただくために避けておき、パイを配膳する。その間に、ジャック様が厨房から運ばれてきたサンドウィッチとフルーツを並べ、エマ様は紅茶を淹れてくれた。
 手に取りやすいよう一口大サイズにカットされたサンドウィッチは、肉や卵、チーズに野菜がバランスよく挟まれていて、とても美味しそうだ。

「聖女と言えば」

 殿下が散らかしたままの書類を軽く片付けて、私とルクス殿下の相向かいにクロード様とジャック様も腰を下ろした。
 ルクス殿下は早速アップルパイをつつき始め、ジャック様はサンドウィッチをぱくぱくと食べている。ルクス殿下の目尻が幸せそうに下がっているので、私は内心でぐっと拳を握りしめた。自分の作ったものをこれだけ美味しそうに食べてもらえるなら、作り手冥利に尽きるというものだ。

「王弟殿下の寵愛を受けた姫君との噂が横行していますね」
「ぶは」

 思わず、含んでいた紅茶を吹き出しそうになってしまった。
 あれか。聖女として王弟からの庇護を得ている雰囲気を演出するために、公然と手の甲に口づけをされたり、騎士団へのエスコートを受けたりしたからか。
 ルクス殿下に未だ婚約者がいないことも相まって、パフォーマンス効果が抜群だったのは計画にとって良いことであるが、思い返せば王子様然とした彼の姿が脳裏を過って、かっと頬に熱が上ってしまった。いや、事実元王子様だし、顔だけは文句なしに良いので、免疫のない私には平然としていられない程度には刺激が強かった。普段ののほほんとしている殿下とのギャップが凄くて。

「そうなるように、多少仕向けたからね。実際可愛がっているしなあ。だが、聖女ムーブが順調なのはいいことだ。おかげで時間が稼げている」
「ええ。殿下のご様子から考えると、ユユア嬢のことは特別気に入っていらっしゃいますよね」
「じ、実験動物的な意味では……?」
「失敬な」

 むっとルクス殿下は唇を曲げるが、私は魔法狂いの彼の被検体でもあるので、あながち間違いでもない気がする。
 ちょっとだけ怯えた風を見せた私に、ルクス殿下はにやりと悪戯っぽく目を輝かせた。そうして、私の手をそっと取り、いつよりも一段低い蠱惑的な声で囁き始めた。

「もしかして、もっと直接的に愛を囁いてほしいのかい? ユユア嬢、君のその黒髪も、アメシストのように輝く瞳も、愛らしく笑う顔も、何よりその身に宿す魔法も魔力も、全てが魅力的で僕の心を震わせるよ」
「あ、一気に信憑性がなくなりましたね」
「何故だ!?」
「ひとえに普段の行いのせいかと。殿下、口説く才能ないですねぇ」
「くそ、放っておけ」

 苦笑混じりのクロード様による鋭いツッコミが冴えて、ルクス殿下は苦虫を噛み潰したかのような顔で舌を打った。というより、こんな場所で言い寄っても、真剣に取られるわけがないとわかっていないのだろうか。変なところで抜けている。
 だが、すぐに気を取り直して、今度はサンドウィッチを一つ摘まみ、私の口元へと差し出してくる。

「僕はこんなにも君を愛しているのに、全く酷いな。ほら、あーん」

 どうやら、言葉がダメなら行動で示すということだろうか。にこにこと瞳を細めて、不器用げに甘さを滲ませてくる殿下は、酷く愉しげで可愛い。揶揄い混じりなのが透けて見えても、そこいらのご令嬢なら簡単にころっといってしまうだろう。しかし、残念ながら私には通用しない。

「……そのサンドウィッチ、殿下の嫌いな野菜が入っていますよね?」
「ううむ、手ごわい……」
「ちゃんとバランス良く食べないと、倒れてしまいますよ。はい、あーん」

 27歳という年齢の割に、味覚が少し子供じみているルクス殿下は、偏食気味で野菜が苦手だ。私が反撃とばかりに、野菜サンドであーん返しをすると、殿下はうっと詰まった。

「あむ……」

 それでも、意を決し私の手ずからサンドイッチを食べてくれたルクス殿下は、眉間に皺を寄せながらもどうにか咀嚼した。もの凄く渋い顔をしていても、綺麗な顔は綺麗だなどと余計な知見を得てしまった。
 同じく野菜嫌いな弟のグレイアも、にんじんを食するとき似た表情を良くしていたなあなんて思い出してしまって、私は懐かしさにふふっと声を漏らす。よくできましたと頭をなでなでしてあげたくなったが、さすがに不敬が過ぎるのでぐっと堪えた。
 代わりのご褒美というわけではないが、殿下から差し出されたサンドイッチを、私もありがたくいただく。差し出されたまま放置しておくほどの勇気は、さすがになかった。
 なお、お味は絶品だったとここに記しておく。野菜、美味しいんだけどなあ。




「私たちは、一体何を見せつけられているんでしょうか?」
「これでユユア嬢は自覚がないんだから、驚きですよね……」
「男扱いされていないだけなのでは……。でも、魔法絡み以外であんなに生き生きと楽しげな殿下、初めて見ますよ」

 向かいに座る側近二人が、ひそひそと顔を寄せ合って話していた内容は、私の耳には届かなかった。

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