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転移

01.社畜は潤いが欲しい

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 疲れたなぁ……。
 どこか遠くに行きたいなぁ……。


 そんな風にぽつりと呟いたささやかな望みが、思いもよらぬ斜め上な方法で叶えられると、誰が思うだろうか。





 はぁと吐き出す息が、わずかに白さを帯びる。空気は澄んでいるが、肌を掠める朝晩の風は随分と冷たくなった。
 真っ暗な闇に包まれた帰り道。かろうじて午前様にはなっていない時間帯。点在する街灯の明かりだけが、唯一の光源。
 そんな住宅街の通りを、ふらふらと私は歩く。

 ようやくの週末土曜日。毎日毎日こんな時間まで残業三昧、何なら今日は休日出勤で、朝から晩まで働いているのに、仕事は一向に減ってくれない。それどころか増えている気さえする。夕食も食べそこなって、お腹もすっかりペコペコだ。

 あと少しで自宅アパートに辿り着くものの、くたびれすぎて足取りは重い。
 明日は待ちに待ったお休みのはずなのに、多分一日の大半を泥のように眠って過ごし、家事に追われて終わる未来しか見えない。
 あまりにも潤いがなさすぎて、泣きそうになる。
 ちょっと心が弱っているのかな。自分みたいなのでも社会の役に立てている気がするし、仕事は好きでやっているものの、何のために生きているのかわからなくなりそうだ。
 私は、重々しくため息をついた。

 一宮要いちのみやかなめ。早生まれの24歳。大卒の社会人3年目。職業SE、のはず。あれこれやらされすぎているので、SEというより最早雑用の気分になってきている。まだまだペーペーのはずなのにおかしいなぁ。
 肩甲骨くらいまで伸びた黒髪をひっつめた、ごくごく平凡な女。でも、今は目の下のクマが濃いかもしれない。

 今週は、正直災難の一言で体現できる週だった。エナジードリンクとお友達だった。寿命縮んでると思う。
 悪いことというのは、えてして重なるのは何故なのだろう。

 仕事に追われへとへとだった日曜日、買い出しに出かけたところ、憧れていた営業部の先輩が彼女さんと歩いているところを、偶然見かけてしまった。綺麗な女性だった。
 凡庸な自分が、格好いい先輩の隣に立てるとは到底夢見てもいなかったけれども、同じプロジェクトでやり取りがあって、とても優しくしてもらっていたから気落ちした。
 そんな失意失恋の中でも、仕事は待ってくれない。
 週頭から盛大にミスをやらかした後輩に泣きつかれ、尻ぬぐいで客先への謝罪行脚とフォロー対応で、自分の仕事は進まないときた。こういうのって、普通上司の出番じゃないだろうか。

 忙しかったおかげで余計なことを考えずに済みはしたが、どっと疲労が全身に伸し掛かってくるようだった。肩から下げている鞄もやけに重い。よく倒れずに乗り越えられたものだと自画自賛したい。健康な身体が憎くもある。

「はぁ……疲れたなぁ。どこか遠くに行きたいなぁ……」

 ぽっかりと満月の浮かぶ空を見上げながら、私は何とはなしに呟いて遠い目をする。
 遠くなんてのは曖昧だけど、海外とか贅沢は言わない。温泉のあるちょっとした観光地辺りに泊って、ゆっくりするの、いいよね。癒されたい。
 ぶっちゃけ、別に温泉街じゃなくてもどこでもいい。

 ここではないどこかに行きたい。

 そんな、ちっぽけな願望。

「まぁ、無理なんですけどー」

 とはいえ、散々に余っている有給を使えるわけでもなく、所詮願望は願望のまま。
 へへっと空しい笑いが漏れた。
 北風がぴゅうと吹いて、身体を冷やしていく。私はぶるりと身を震わせた。心だけじゃなく身体も寒い。
 望み薄な妄想をする暇があったら、アパート近所のコンビニに寄って、ビールとおつまみでも買おう。そろそろおでんも美味しい時期だ。夜中だとか知るものか。そうでもしなければ、やっていられない。
 そう思って、足を踏み出したその時だ。

『やっとだわ! 貴女のその願い、叶えてあげる』

 どこからともなく、鈴を転がしたような愛らしい声が響いたかと思えば。

 ――突如、ぐらぐらと地面が揺れた。

 こんなタイミングで地震とか!? 本当に厄いとしか言いようがない。

「な、何!?」

 結構な揺れに耐えられず、身体がもつれる。
 バランスをとるべく足を踏み出した先には、何故か地面がなかった。

「……へ?」

 ぽっかりと道路の中央に空いた綺麗な円を描いた穴は、底の見えない深淵にも似た深く昏い闇。
 ぞくりと、本能が背筋を震わせる。
 意味がわからない。どうしてこんなところに穴が開いたのだ。マンホールや、工事があったわけじゃない。何ならつい先ほどまで、私の視界に存在すらしていなかった。
 地震と共に、それは急遽口を開けたのだ。
 しかし、揺れで身体の安定を欠いた私が、その場に踏みとどまれるべくもない。

「嘘でしょ!?」

 唐突な事態に目をぎゅっと瞑るしかなかった私は、息を詰めて、そのまま闇の中へと呑み込まれてしまった。





 地面に開いた穴に落ちたのだから、身体は落下しているはずなのに、どうしてか天にでも上っているような錯覚がある。いうなれば、幽体離脱か。私、死んだのかなあ。
 そろそろと目を開いてみても、周囲は真っ暗な闇に覆われている。
 でも、何故か、それを恐いと思わなかった。

 永遠にも、一瞬にも思える上昇の後、やがて不意に、ラップみたいなものに触れる感覚があった。
 ラップというのは、あくまでも喩えだ。
 目に映る存在ではない。かといって透明なわけでもない。触れてはいるものの、どこかあやふや。なのに、確かに存在している概念じみた膜は、不思議と境界のようにも感じられた。

『ようこそ、私の愛しい子』

 先ほど響いた愛らしい声が聞こえる。
 膜の向こう側、ただそこには闇がある。底の見えない黒く深い闇。
 けれども、その闇が、嬉しそうに微笑んだ気がした。形はないはずなのに、どこか女性らしさを感じる。

 抵抗の強い膜の先をぎゅぎゅっと無理に押し通ると、膜が柔らかく私の全身を包み込み、馴染んだ。
 ほっとしたのも束の間、膜を抜けると、今度は虚空に放り投げられるかのように身体が真っ逆さまに急降下した。
 ジェットコースターみたいな乱高下、内臓がせり上がってくる浮遊感。でも、悲鳴は出なかった。

 そこで、私の意識はブラックアウトしたからだ。





 ふ、と瞳を開く。視界は焦点を結ぶが、未だ思考がぼんやりしているらしい。どこか夢うつつの気分だった。
 でも、それは視界に飛び込んできた光景が許してくれない。
 私は、ぽかんと目を瞬かせた。

 どこかふわふわとした緩やかな浮遊感を、身体が覚えている。
 しかし、いつの間にやら背は地についているようだ。
 先ほどまで深夜だったにもかかわらず、目に眩しい光は朝のそれ。木々の間から差し込んでくる陽光が、些か眩しい。空は雲一つない快晴、気持ちが良い。
 北風はどこに行ったのかというくらい、気温は暖かく穏やかだ。

 そして、どうやら私は、草むらの上に横たわっているらしい。
 青い草の匂い、土の匂い、葉に載った朝露の匂いが鼻をつく。風がざざっと梢を揺らす音が、耳に届いた。
 幼少の頃に、母に連れられ訪れた田舎の森に、少しだけ似ている気がする。
 アスファルトは、コンクリートは、一体どこにいったのか。

 さっきからおかしなことばかり起きている。混乱する間もなかったからか、今更取り乱してきた。
 何が自分の身に起きたのだろうか。
 変な感触が、未だに抜けきらない。身体も重怠く、起き上がれる気もしない。
 どうしよう。わけがわからず、段々と心細くなってくる。

 すると、近くで馬の嘶きと、蹄が地を蹴る音が聞こえた。
 エンジン音じゃない、まごうことなき馬だ。
 そのまま私の傍までやってきた馬から、誰かが降りてくる気配がする。ざ、と靴が重々しく草を踏みしめる。
 恐い。でも向こうからしてみれば、地面に横たわる私のほうが不審者然としている。
 動きたいが、身体は鉛のようで指一本動かない。

 転がっている私を覗き込んできたのは、一人の男だった。
 ミルクティーみたいな……亜麻色っていうんだったか、そんな色合いの髪に、エメラルドみたいに輝く緑の瞳が印象的だ。
 年の頃は私よりも上そうだ。
 彫りの深い顔は、男性らしい精悍さがあって、びっくりするほど整っている。なかなかお目にかかれないほどの美形だ。
 けれども、私が動揺したのは、彼の容姿にばかりじゃない。
 しっかり筋肉のついている肢体は軽鎧とマントに覆われ、更に腰には剣を携えていた。
 コスプレにしたって、現代日本でぶらつくには、あまりにもありえない姿だった。

「大丈夫か!?」

 そのくせ、口から飛び出してくる言語は流暢な日本語で、困惑する。
 いや、もう本当に厄年か何かか!?わけがわからない。正直、次から次へと襲い掛かる常識とはかけ離れた不可思議な事態に、いっそ現実逃避をしたいくらいだ。
 これは夢、こんな荒唐無稽なこと、きっと夢に違いない。
 ぐるぐると思考が渦巻く最中、心配げに眉を寄せた男性は、私を支え上半身を優しく起こしてくれる。
 だが、身体も精神も私が思っている以上に消耗が激しいらしく、眠気と眩暈に襲われた。

「だめ……そう……」
「おい!? しっかりしろ!?」

 こんなところで、見ず知らずの男性に抱えられたまま無防備に意識を失うなど、とんでもないとはわかっていても、もう自分ではどうにもならず。
 気が遠ざかっていく瞬間、きゅるるるるとと空腹のお腹が立てた切ない音が、何とも間抜けで。

 そういえば、夕飯を食べ損ねていたんだった……。






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お久しぶりの連載になります。どうぞお手柔らかによろしくお願いします。

たくさんの作品の中から当作品を見つけていただきありがとうございます。少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
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