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Cantabile-そして色鮮やかに

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 「あぁ!すいません……。えっと、あ…お名前……」
 「おっと、すいません名乗り忘れてて。湯野麻衣です」
 「麻衣さんですね」
 この仕事を始めてからの習慣で、理一は麻衣の名のほうを呼んだ。
 「麻衣…さん……」
 突然名前で呼ばれて、麻衣は少々面食らう。その姿に気付いた理一は慌てて弁明した。
 「あああの、他意はなんですよ?この辺は高橋さんが多いので一部の生徒さんをお名前で読んでいたら、他の方々に不公平だと言われまして、それから生徒さんはお名前で呼ぶことにしているんです。お嫌でしたら苗字でお呼びしますが……?」
 「いいえ、新鮮でいいですね。それでよろしくお願いします。えっと……」
 名前で呼ばれたら名前で呼ぶ。あだ名で呼ばれたらあだ名で。苗字なら苗字。麻衣のポリシーなので看板に書かれていた名前で呼ぼうと思ったのだが、読みに不安があった。
 「さとかず先生?りいち先生?」
 名前を呼ばれた瞬間、理一は心臓を素手で鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。ヴァイオリンのような涼やかな声が耳の中を木霊する。
 「先生?」
 麻衣の問い掛けに理一はハッと硬直を解き、先ほどからジリジリと染み出してきた汗のせいで下がってきた眼鏡のブリッジを押し上げると、搾り出すように「……さとかずです」とポツリ、声を落とした。
 「理一さとかず先生ですね、オケです」
 「……はい。それでは、そちらのソファで見学して下さい」
 言われるままに麻衣がソファに腰掛ける。
 「お飲み物は何がいいですか?一応コーヒーと紅茶を用意したのですが……」
 用意したと言う事は、わざわざ私の為に買ってきたのか?と麻衣は思いつつ、鞄からペットボトルを取り出す。
 「これがあるので大丈夫です」
 「あぁ、そうですか。それでは、ええと……」
 「大人しく聴いてますので、どうぞレッスンを始めて下さい」
 「……はい」
 理一は亜矢の横に立つと、「ツェルニーからですよね?」と亜矢がツェルニー五十番の楽譜を開く。
 (あ、すごーい五十番だー。しかも後ろのほうだー。私なんか三十番の初めのほうで先生諦めたもんな……)
 亜矢は高校生の時点でかなり腕前のある生徒で、ツェルニーの後は平均律二巻の二十二番を弾いていた。
 (私なんか平均律自体やらせて貰えなかったのに……凄いなこの子。音大で十分通用するレベルで上手いぞ?)
 麻衣は亜矢の演奏を聴いて、技術は素晴らしいのだがパパ・バッハの割りに神聖さが足りないと感じていた。しかし、理一はその技術面で既に引っかかりを覚えているらしく、しきりにここのほにゃららは~と指導している。バッハを弾き始めて三十分が経っているのだが、楽譜の数を見る限り後二曲ありそうなのにいいのだろうかとも思う。
 やっと形が見えたのか、バッハは次回持ち越しとなり、次はバラキレフのイスラメイを弾きだした。
 (ロッシャーキター!)
 麻衣の言葉を訳すと「ロシア来た」である。麻衣はロシアの作曲家が大好きなのだ。
 (いやいやいや、マイナーどころを出して来ましたなぁ……。しかし、曲に踊らされておる……)
 今、亜矢が弾いているイスラメイはピアノ曲の中でもかなり難易度の高い、いやかなりどころではなく高い曲である。亜矢もかなり苦戦しているらしく、出だしの指が踊るような音の羅列に亜矢のほうが踊らされている。曲としてはなんとか成り立っているのだが、演奏会に出せるかと言えば悩んでしまうレベルだろうか。
 (ちょっとこの曲やるには早すぎたんでないかい?)
 麻衣はペットボトルの水を飲みながら、自分の腕前を差し置いてそんな感想を抱く。しかし、どうやら理一もそう思っているらしい。会話の中に「やはりまだ……」「どうしてもやりたい」「長期戦」の言葉が聞こえた。亜矢がこの曲をやりたいと言い出したのだろうと当たりをつけて、麻衣はフカフカとしたソファに身を沈み込ませそうになり留まる。例えレッスンと言えど聴いている立場の人間も真剣に。が信条の麻衣だ。

 そうこうしているうちにレッスン終了時間。亜矢はちらりと時計を見たが、理一は気付く様子が無い。
 「じゃあ、次の曲を」
 きっと普段ならここで亜矢は「はい」と言って楽譜を開くのだろうが、今日は見学者が居る。楽譜に手を伸ばしつつ、麻衣をチラチラと見るが理一は首を傾げるだけで「どうしました?」とのたまった。
 (おうおう、存在忘れられてる気がするね!)
 心の中でだけツッコミを入れ、邪魔にならないようさらに存在が希薄になるよう静止していると、亜矢は結局楽譜を開いた。
 (ショパン様キター!)
 弾きだしたのはショパンの黒鍵。
 こちらは完成間近のようで、殆ど止められることは無かったのだがどうも妙な癖がついてしまっているのか途中で指がへんなポジションになっているらしい。
 「ほら、そこを二番の指で弾いてしまうとその後の音が弾きにくいですよね?」
 二番というのは人差し指のことだ。教師に依っては親指、人差し指、と言うものも居るが、ピアノ譜には大抵この指で弾くべきと指南される時、番号で書いてあるため殆どの教師が一番二番と表現する。
 「直そう直そうって思ってるんですけど……」
 亜矢が若干悔しそうに、何度か弾き直すが返って音がつっかえつっかえになる。
 「慣れたら絶対にこう弾いたほうが綺麗に聴こえるはずですから」
 「うぅー」
 亜矢の呻き声に、左側のピアノを使っていた理一が立ち上がり、目の前で見せるために亜矢が使っている右側のピアノで実演する。
 「ね?こうやるより……こう……やるほうが指もスムーズでしょう?」
 「はい」
 何度も、言われた部分を弾き直す亜矢に無言で頷いた理一が左側のピアノに戻ろうとして、麻衣と目が合う。
 (……………………)
 (……………………)
 この沈黙は何秒くらいだったのだろうか。
 「あっ!!」
 理一が目を見開いた。
 「すすすすす、すいっ……!」
 慌ててどもる理一に、湧き上がる笑いを必死に押さえ、それでもにやけた顔になりつつ麻衣は言葉を返す。
 「あぁ、お気になさらず。集中していた見たいですし」
 麻衣の返答に、理一は右往左往とするだけだった。
 「切りのいい所までどうぞ、続けて下さい」
 (どうせ、今日は見学だし)
 金を取られるとなると終われと言うが、そうでないなら音楽を聴いているのは例え拙い演奏であれ好きな麻衣だった。
 「すいません……」
 「ありがとうございますー」
 申し訳なさげな理一とは違い、亜矢は嬉しそうだ。
 「それじゃあ、続きから……」
 そのやり取りの後はスムーズに進み、しかし結局亜矢のレッスンが終わったのは二十時三十分を過ぎた頃だった。
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