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死神と運命の女

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「――ロア!」

 妙に重い瞼を開くと、そこには心配そうに見守るマリアの顔があった。

「……ぁ、マリア、おはよう」
「おはよう、ではないですよ! いくら声を掛けても目覚めないし、顔色は悪いしで心配したんですから」

 薄いカーテン越しに、明るい日の光が差し込んでいる。部屋の時計を見ると、時刻は既に午前九時だった。

「ごめん。ちょっと悪夢がね。でも情報は得られた。疑問も生まれたけどね」
「どういうことですか?」

 怪訝な顔をするマリアに、ロアは簡単に夢の中での出来事をかいつまんで話した。

「……」

 全てを話し終えると、マリアの顔は一層険しくなっていた。

「マリア、女の子が眉間に皺を寄せるのはよくないよ」
「何を悠長に言ってるんですか! あの女、夢の中にまで現れるなんて無遠慮にも程があります! それにリィもなんなんですか、毎夜貴女の夢を覗き見ているってことですよね!? あわよくば忍び込んでいるということですよね!?」
「えっ気にするのそこなの? マグナス神父のくだりが一番謎じゃないの?」

 マリアはいいえと否定した。

「その点は理解しました。師は彼女らと契約を切ったのでしょう。同時に記憶を消した。記憶操作はホノオの得意分野ですから彼に頼んだのかもしれません」

 神父は徹底して足跡を消している。ホノオという悪魔に事情を聴くことが出来ればあるいはその意図も分かるかもしれないが、手がかりもない以上現実的ではなさそうだ。

「……大丈夫?」

 神妙な顔つきをしているマリアに、ロアは思わず尋ねる。けれどマリアは一貫して、師のことは心配していないと言い切った。

「ミス・テンダーとの待ち合わせの時間を過ぎています。はやく支度を」

 ** *

 ホテルのラウンジの、昨夜と同じテーブルで、エレン・テンダーは不機嫌な顔を寸分も隠さず待っていた。

「――待ち合わせの時間に遅れた事情は分かったけど、つまるところカルロスの記憶と能力を引き継いだあの女もその死神とやらの行方はわからないわけでしょう? だったらやっぱりロンディヌスに戻るべきよ」
「おや。君はもっと執着心を示すのかと」
「どう考えても粘着質なのはそっちでしょ!」

 エレンは吠えてから、自らをクールダウンさせるように大きく息を吐いた。

「私だってあの女のことが気にならないわけではないけど、死神について私たちが知っている情報が少なすぎる。実際に命を賭けるのは前線にいる私達なんだから、あの女に関わるにしても、ガトーに死神について知っていることを全部聞き出してからでも遅くはないはずよ」

 エレンの言葉に、ロアとマリアは揃って彼女をじっと見つめた。エレンは昨日の時点から、ロンディヌスに帰ろうと言っていたのだ。あの女に関わるのは御免だとも。だから先刻の彼女の言葉は、ロアとマリアに向けた彼女なりの気遣いなのだ。

「なによ」
「いえ。貴女の物言いはともかく、思考は非常にシンプルというか」
「なんなの!? けなしてんのか褒めてんのかどっちなの!?」

 マリアの代わりに、若干の苦笑いを湛えたロアが答えた。

「マリアは褒めてるんだよ、ミス・テンダー。君はどうやら人が良いらしい」

 名前を訂正しようとして、エレンはきちんと「テンダー」と呼ばれたことに気付いて呆けた。マリアはホテルの鍵をポケットから取り出す。

「貴女の意見に賛成して、一度ロンディヌスに戻りましょう」

 ** *

 意識が弾けるように引き戻される。彼女が瞼を開くと、上等なクリーム色のカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
 貧富の差が激しいイアロの中で、富裕層が居を構えるアパルトマンの南向きの角部屋。寝心地のいいベッド、温かい毛皮の絨毯。獄中のカルロス・ケニーに接触するためにこの街に来たが、ひと月はこの部屋に滞在しただろうか。
 もともとこの部屋に居住していた夫婦は邪魔だったので消した。その子供も泣き喚いて鬱陶しかったので消した。ここの夫婦は物乞いをしていた老人を足蹴にするような人間だったが、子供にとっては良い両親だったのかもしれない。

 彼女――アリシア・イノセントには、両親の記憶が全くない。
 物心ついた頃には孤児院に入れられていたからだ。
 孤児院にも馴染めずにいた頃、彼女は突然国の施設に放り込まれた。その施設には年代様々な子供が収容されていた。
 もうその記憶も不確かだが、そこで彼女は様々な体験をさせられたように思う。彼女にとっては『体験』だったが、そこにいた大人達にとっては『実験』だったのだろうと今では分かる。彼女はそこで他の子どもたちの能力を複写し、多くの能力を得た。
 沢山のことができるようになって、嬉しくなった彼女は大人たちの制止を振り切って施設を飛び出した。

 裸足で駆け出した土の温かさ、突き抜ける真っ青な空の解放感を今でも覚えている。けれど楽しかったのも束の間で、すぐに彼女は行き倒れた。
 彼女は外に出たことがなかったので、社会のルールを知らなさすぎた。
 ひとりで生きていく術を知らなかったのだ。

 虫も鳴かない熱帯夜。
 とある街の路地裏で、彼女はいよいよその命の灯を消そうとしていた。
 そこに現れたのが、彼だった。
 燃えるような赤い髪の美しい紳士は、彼女を優しく抱き起こし、囁いた。

「こんなところで朽ちるのは勿体ない雛鳥だ。君には沢山の力があるのに、どうしてこんなにやせ細ってしまったんだい?」

 彼女は言葉すら発することが出来なかった。衰弱していたのもある。けれどそれ以上に、その紳士の美しさと、氷のような身体の冷たさに恍惚としてしまったのだ。
 紳士に与えられた水を飲み、生気を取り戻した彼女は、紳士に教えられたとおり、自身の能力を駆使して栄養を摂取した。衣服だって綺麗なものをることができた。
 金色の髪を綺麗に梳かして結い、上等な衣服で着飾った彼女は、良家の令嬢と見間違うほどの姿になった。

「よろしい。これで君はこの世界で生きていける。或いは一国に君臨する女王にも成れるだろう。それは君次第だ」

 そう言って去っていこうとする紳士に彼女は縋りついた。

「わたし、女王になんてなりません。貴方のお嫁さんになりたいわ」

 すると彼は、少し遠い眼をしてから微笑んだ。

「私の花嫁たりえるのは、運命ファム・ファタールだけだ」

 黒い外套を翻し、彼は去っていった。
 それから彼女は努力した。多くの人間を踏み台にして、強かに生きた。彼の足跡を追うように、世界中を転々として。すべては彼の花嫁になるために。

「……ああ。あの人は今どこにいるの。もうこの世界にはいないの?」

 そうひとりごちて、白い天井に手を伸ばす。日に日に硬くなり、皺やヒビが目立つようになった肌が目に入って、彼女はすぐに目を閉じた。

「いいえ、だとしたらやっぱりあの人がそうなんだわ。だってあんなにそっくりなのだもの」

 アリシアは意を決してベッドから起き上がる。顔を洗って、化粧を施す。最後はかの紳士の髪色によく似た、真紅の紅を唇に引いて。

「夢では邪魔が入ったけれど。――ロア様、今度は逃がさないわ」
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