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領主と吸血鬼
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ふたりがロンディヌスの駅に辿りついた頃には、日はとっぷりと落ちていた。
工場の煙突からの粉じんと、人々の喧騒で、ロンディヌスの空は随分と赤く、曇って見える。
ボルドウの清浄な空気に慣れ過ぎたせいか、ここのそれに慣れるのには時間を要しそうだと、列車を降りたマリアはすぐにそう思った。
ちょうど仕事が終わる頃合いなのか、駅の周辺には多くの人々が喧しく集まっている。
マリアとしては少し意外だったが、ロアはこの都会の風景を興味深そうな顔で眺めていた。
「あまりよそ見をしないでください。人が多いのではぐれてしまいます」
マリアが忠告すると、ロアはそうだね、と頷いた。
「手でもつなぐ?」
思いがけないロアからの提案に、マリアは目を丸くする。
「恥ずかしいので、結構です」
「えー。私は別に恥ずかしくないのに」
「行きますよ、宿へのチェックインが予定より5分も遅れています」
足早に先を行くマリアのあとを、ロアは追いかけた。
ロンディヌスの街は広い。
ふたりの行動の拠点となる宿は、出来るだけ各区域にアクセスの良い場所で、かつ、標的に不用意に動きを悟られないよう、あえて市街の中心部に構える大衆向け――つまりはごく普通のホテルを予約していた。
……のだが。
「ヴェルヌ様、ロクサーヌ様、お待ちいたしておりました。ルクルス様にはいつも懇意にしていただいておりまして、ご親戚の、こんなにも麗しいご婦人方を当ホテルにておもてなし出来ることをスタッフ一同大変光栄に思います」
決して華美ではない小さなホテルのフロントで、ふたりは場に不似合いなほどの手厚い歓迎を受けた。
歯の浮くような営業文句を隙の無い笑顔でつらつらと述べたのはこのホテルの総支配人だ。
彼の脇には複数名のボーイがずらりと並び、深々とふたりに向かってお辞儀をした。
思いもよらない待遇にマリアは絶句し、固まる。
そんなマリアの横で、ロアは上品に微笑んだ。
「こちらこそ歓迎痛み入りますわ。しかしわたくし共はなにぶん田舎者ですゆえ、こういった厚い待遇には慣れておりません。どうぞお手柔らかにお願いいたしますね」
その言葉と微笑みだけで、何人かのボーイが赤面を隠すように再度お辞儀をしたのがマリアにはひどく滑稽に見えた。
「お困りの際はいつでもフロントにお電話ください!」
荷物を運んでくれたボーイがようやく部屋を出ていって、マリアはふうと息を吐いた。
「……ルクルス様は一体なんと言ってこのホテルを予約されたんでしょうか」
「彼のことだから、『親戚だから』手厚くもてなすよう言ってくれてたんだろうねえ。普通の地味な宿でいいって言ったのに……いや、宿はまあ普通なんだけど」
確かにロアの指示通り、ホテルは並みのランクのようだが、部屋のランクはこの宿で最も高いものであることは見てすぐにわかった。
部屋は広いし、天井も高い。
ベッドも大きいし、ソファも上等だ。
加えてバスルームも十分すぎるほど広い。
壁にかかった絵画はどれもロマンチックな題材のものばかりで、首都に新婚旅行に来た夫婦向けの部屋のようにも思える。
「……しかしどうしてふたりで1部屋なんです?」
「え!? そこは絶対一緒でしょ!? 別室のが良かったの!?」
「私は別に別室でも構わなかったのですが」
マリアの言葉に、ロアはおよよと崩れるようにテーブルに寄りかかった。
そのままテーブルにのの字を描き始める。
「せっかくマリアと一緒の宿に泊まるのに、そんな寂しいこと言わないでよぉ……」
「いつも同じお屋敷にいるのに?」
「同じ屋敷にいても部屋は別だもん!」
「お屋敷で同じお部屋だとむしろおかしいでしょう。主人と女中なんですから」
「だからだよ! 今は『いとこ同士』なんだから、一緒でもおかしくないでしょ! ね!? ね!?」
熱弁するロアにマリアは気圧されつつ、「まあ……」と曖昧に頷いた。
マリアとしても、別に同室が嫌というわけではない。
ただ、少しだけ、緊張するというか。
(いや、普段から四六時中一緒にいる相手に何を緊張するのかという話なのですが)
マリアが首を振っていると、
「とりあえず今日は早めに夕食をとって、早めに寝よう? 今夜はここのレストランで良いかな。明日は外で食べてもいいかもしれないね。あんまり待遇がいいと逆に気を遣うし」
ロアはいつになくちゃきちゃきとディナーに向かう準備を始めた。
先ほどのやりとりといい、普段よりもなんとなく、テンションが高い。
そんなロアの様子に、マリアは不審げに首を傾げる。
「ほら、マリアもはやく支度して!」
やたらと急かすロアに押され、マリアはとりあえず髪を直した。
レストランで夕食をとった後部屋に戻ったふたりは、シャワーを浴びて早速寝ることにした。
先にシャワーを借りたマリアは、ロアが戻ってくるまでは起きていようと持参していた本をベッドで読んでいたのだが、旅の疲れでうつらうつらとしている間に本を取り落とし、仕方なくベッドに横になった。
眠るつもりはなかったのに、おやすみ三秒とはまさにこのことで、横になるなりマリアは自然と眠りに落ちてしまった。
シャワールームから戻って来たロアは、そんなマリアの寝顔を見て、ほっとした自分に苦笑する。
肩から力が抜けたのをはっきりと自覚したロアは、思わず頭をかいた。
「……余裕ないなぁ」
つまるところ、ロアも緊張しているのだ。
マリアとは常日頃一緒にいるというのに、この部屋に入ったとき、このベッドが目に入ったときから、どうにも落ち着かなくなった。
この部屋がどんなに広くても、2つのベッドだけはぴったりと並んでいる。
いくら一緒の屋敷にいても、今まで隣同士で眠ったことなどなかったから、それをどうしても意識せずにはいられなかった。
何を話そう。
何をしよう。
ロアも本の中でしか知り得ないシチュエーションだが、きっと新婚夫婦の初夜とはこんな気分なのだろう。
こうしてマリアが先に寝入ってくれたのは、ロアにとっては幸いだ。
下手にテンションの高い会話をしなくて済むし、何より、妙な緊張で強張った顔を見られずに済む。
「おやすみ、マリア」
起きているときよりもあどけない表情で眠る彼女に、ロアは小さな声でそう呟いて、自らもベッドに入った。
工場の煙突からの粉じんと、人々の喧騒で、ロンディヌスの空は随分と赤く、曇って見える。
ボルドウの清浄な空気に慣れ過ぎたせいか、ここのそれに慣れるのには時間を要しそうだと、列車を降りたマリアはすぐにそう思った。
ちょうど仕事が終わる頃合いなのか、駅の周辺には多くの人々が喧しく集まっている。
マリアとしては少し意外だったが、ロアはこの都会の風景を興味深そうな顔で眺めていた。
「あまりよそ見をしないでください。人が多いのではぐれてしまいます」
マリアが忠告すると、ロアはそうだね、と頷いた。
「手でもつなぐ?」
思いがけないロアからの提案に、マリアは目を丸くする。
「恥ずかしいので、結構です」
「えー。私は別に恥ずかしくないのに」
「行きますよ、宿へのチェックインが予定より5分も遅れています」
足早に先を行くマリアのあとを、ロアは追いかけた。
ロンディヌスの街は広い。
ふたりの行動の拠点となる宿は、出来るだけ各区域にアクセスの良い場所で、かつ、標的に不用意に動きを悟られないよう、あえて市街の中心部に構える大衆向け――つまりはごく普通のホテルを予約していた。
……のだが。
「ヴェルヌ様、ロクサーヌ様、お待ちいたしておりました。ルクルス様にはいつも懇意にしていただいておりまして、ご親戚の、こんなにも麗しいご婦人方を当ホテルにておもてなし出来ることをスタッフ一同大変光栄に思います」
決して華美ではない小さなホテルのフロントで、ふたりは場に不似合いなほどの手厚い歓迎を受けた。
歯の浮くような営業文句を隙の無い笑顔でつらつらと述べたのはこのホテルの総支配人だ。
彼の脇には複数名のボーイがずらりと並び、深々とふたりに向かってお辞儀をした。
思いもよらない待遇にマリアは絶句し、固まる。
そんなマリアの横で、ロアは上品に微笑んだ。
「こちらこそ歓迎痛み入りますわ。しかしわたくし共はなにぶん田舎者ですゆえ、こういった厚い待遇には慣れておりません。どうぞお手柔らかにお願いいたしますね」
その言葉と微笑みだけで、何人かのボーイが赤面を隠すように再度お辞儀をしたのがマリアにはひどく滑稽に見えた。
「お困りの際はいつでもフロントにお電話ください!」
荷物を運んでくれたボーイがようやく部屋を出ていって、マリアはふうと息を吐いた。
「……ルクルス様は一体なんと言ってこのホテルを予約されたんでしょうか」
「彼のことだから、『親戚だから』手厚くもてなすよう言ってくれてたんだろうねえ。普通の地味な宿でいいって言ったのに……いや、宿はまあ普通なんだけど」
確かにロアの指示通り、ホテルは並みのランクのようだが、部屋のランクはこの宿で最も高いものであることは見てすぐにわかった。
部屋は広いし、天井も高い。
ベッドも大きいし、ソファも上等だ。
加えてバスルームも十分すぎるほど広い。
壁にかかった絵画はどれもロマンチックな題材のものばかりで、首都に新婚旅行に来た夫婦向けの部屋のようにも思える。
「……しかしどうしてふたりで1部屋なんです?」
「え!? そこは絶対一緒でしょ!? 別室のが良かったの!?」
「私は別に別室でも構わなかったのですが」
マリアの言葉に、ロアはおよよと崩れるようにテーブルに寄りかかった。
そのままテーブルにのの字を描き始める。
「せっかくマリアと一緒の宿に泊まるのに、そんな寂しいこと言わないでよぉ……」
「いつも同じお屋敷にいるのに?」
「同じ屋敷にいても部屋は別だもん!」
「お屋敷で同じお部屋だとむしろおかしいでしょう。主人と女中なんですから」
「だからだよ! 今は『いとこ同士』なんだから、一緒でもおかしくないでしょ! ね!? ね!?」
熱弁するロアにマリアは気圧されつつ、「まあ……」と曖昧に頷いた。
マリアとしても、別に同室が嫌というわけではない。
ただ、少しだけ、緊張するというか。
(いや、普段から四六時中一緒にいる相手に何を緊張するのかという話なのですが)
マリアが首を振っていると、
「とりあえず今日は早めに夕食をとって、早めに寝よう? 今夜はここのレストランで良いかな。明日は外で食べてもいいかもしれないね。あんまり待遇がいいと逆に気を遣うし」
ロアはいつになくちゃきちゃきとディナーに向かう準備を始めた。
先ほどのやりとりといい、普段よりもなんとなく、テンションが高い。
そんなロアの様子に、マリアは不審げに首を傾げる。
「ほら、マリアもはやく支度して!」
やたらと急かすロアに押され、マリアはとりあえず髪を直した。
レストランで夕食をとった後部屋に戻ったふたりは、シャワーを浴びて早速寝ることにした。
先にシャワーを借りたマリアは、ロアが戻ってくるまでは起きていようと持参していた本をベッドで読んでいたのだが、旅の疲れでうつらうつらとしている間に本を取り落とし、仕方なくベッドに横になった。
眠るつもりはなかったのに、おやすみ三秒とはまさにこのことで、横になるなりマリアは自然と眠りに落ちてしまった。
シャワールームから戻って来たロアは、そんなマリアの寝顔を見て、ほっとした自分に苦笑する。
肩から力が抜けたのをはっきりと自覚したロアは、思わず頭をかいた。
「……余裕ないなぁ」
つまるところ、ロアも緊張しているのだ。
マリアとは常日頃一緒にいるというのに、この部屋に入ったとき、このベッドが目に入ったときから、どうにも落ち着かなくなった。
この部屋がどんなに広くても、2つのベッドだけはぴったりと並んでいる。
いくら一緒の屋敷にいても、今まで隣同士で眠ったことなどなかったから、それをどうしても意識せずにはいられなかった。
何を話そう。
何をしよう。
ロアも本の中でしか知り得ないシチュエーションだが、きっと新婚夫婦の初夜とはこんな気分なのだろう。
こうしてマリアが先に寝入ってくれたのは、ロアにとっては幸いだ。
下手にテンションの高い会話をしなくて済むし、何より、妙な緊張で強張った顔を見られずに済む。
「おやすみ、マリア」
起きているときよりもあどけない表情で眠る彼女に、ロアは小さな声でそう呟いて、自らもベッドに入った。
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