とある田舎の恋物語

やらぎはら響

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「はあ……やっとついた。でもやっぱり電車でもちょっとしんどいな」

 古ぼけた駅を出ながら軽鴨日向は震えている自分の右手を見た。
 かすかに動悸がして、背中を暑いだけでない汗が流れる。
 木造づくりのこじんまりした駅の前にある
 バス亭。
 そこに電車の到着に会わせているのか白い年季の入ったバスが停車した。
 乗る気のない日向が、それを素通りしようとすると。

「お客さん乗らないの?」

 運転手がマイク越しに声をかけてきた。

「はい。気にせず行ってください」

 青いキャップのツバをぐっと引き下げて答える。

「大丈夫なのかい」
「大丈夫です」

 一時間に一本しかバスがないので気を使ってくれたのだろう。
 ありがたいけれど、日向にはバスに乗れない理由がある。
 運転手に小さく頭を下げると、扉が閉まりバスが出発していった。
 それを帽子と前髪の下から見送ってふうと一息つく。
 そうしてから、さてと目的地に向けて日向は歩き出した。
 青いキャップにおさえられたボサボサの長い前髪。
 その隙間から見える顔の左側には大きな傷跡があり、白く肌理のこまかい肌のなか色が変わっていて目立っていた。
 黒いTシャツに茶色いチノパンに黒いシューズ。
 荷物は紺色のショルダーバックひとつだ。
 延々と続く美しい田園風景に挟まれた道をてくてくと歩けば、もうすっかり暑くなった七月の日差しがじりじりと肌を焼いて汗が噴き出してくる。
 ミンミンと鳴く蝉の声は夏本番に向けているようだった。
 普段都会に住んでいる日向には、馴染みのないものばかりだ。
 つい最近まで事故にあい入院していたせいだろう。
体力が落ちていて、なかなかに道のりはしんどい。
そうなるのはわかっていたけれど、バスには乗れなかった。
日向は十三歳のときから動画サイトで歌を配信していた。
更新頻度も早かったせいか再生回数も結構あった。
レーベルにスカウトされ、来年の二十一歳にデビューが決まっていた。
 けれど、タクシーに乗っているときに事故にあい、すべて失った。
 顔の左側に目元から頬にかけて、大きな傷跡が残ったのだ。
 それ以来、まず車に乗れなくなった。
 レーベルにもデビューは諦めてくれと首を切られてしまった。
 レーベルのスカウトしてくれた人間は歌で売り出すつもりだったけれど、プロデューサーがアイドルみたいに売り出すと言っていたのだ。
 動画で顔出しはしていなかったけれど、それでも歌さえみんなに聞いてもらえるならと思っていた矢先に、顔に傷が残った。
 歌でスカウトしたのなら顔は関係ないと主張し、今まで通りに顔出し無しでもいいではないかと言ったけれど、首を縦に振られずに結局話は白紙になってしまったのだ。
 自分の外見なんて興味もなかった。
なのにそんな理由で打ち切られてしまうなんて、自分の歌にはなんの魅力もなかったのかと愕然とした。
 家庭も子供の頃から冷え切っていたし、一人でもくもくと動画を上げていたので友人は元々少ない。
レーベルで関わりのあった人も自分を腫れ物に触るみたいになり、もう何もかもどうでもよくなった。
 部屋で一人何をするでもなくぼんやりと過ごす日々で、ふと亡くなった祖母の事を思い出したのだ。
 小さい頃、唯一歌を褒めてくれた祖母。
 その祖母のいた田舎の風景が懐かしくなった。
祖母の家の鍵も持っていたことから、ふらりとこの何もない田舎にやってきたのだ。
 一時間も歩いた頃、涼し気な川辺で足を止めた。
 青々とした木々の下、透明な水の中を魚が泳いでいる。
 ジワジワと忙しない蝉時雨のなか、ひんやりした空気が熱気のこもった体に気持ち良かった。
 せっかくだから休憩しようとショルダーバックを下ろして、ゴロゴロと転がっている岩のひとつに腰を下ろす。
 ぼんやり川の中を眺めていると、せせらぎの音が気持ちいい。
 そのさらさらと流れる音に、小さく歌を口ずさんだ。
デビュー曲になるはずだった歌だ。
 日向はもともと動画サイトで既存の歌を歌っていたわけではなく、自作の歌を歌っていた。
 だから、デビュー曲も自分に任せてもらえた時は嬉しかった。

「ばあちゃんも喜んでくれてたのにな……」

デビューの話は一年前、祖母が亡くなる前にきたので、当然伝えてあった。
亡くなる直前まで、楽しみだと言ってくれていたのだ。
仕事ばかりの両親に長期休暇はいつもこの田舎に預けられていた。
小さい頃からよく歌を歌っていた。
祖母はそれを聞くたびに「上手ねえ」と頭を撫でてくれたものだ。

「これからどうしよう……」

 祖母の墓参りも考えてはいたが、とても合わせる顔がない。
 ふいに風が強く吹いて、ばさりと被っていたキャップが川の方へと飛ばされた。
 無造作に長い黒髪が、風にあおられますますくしゃくしゃになる。
 川に浮かんだ帽子に溜息を吐き、仕方ないなと日向は川の中へ入っていこうとしたときだった。

「おい待て!」

 突然声が聞こえたかと思うと、ぐいと右腕を引っ張られた。

「うわ!」

 その途端ずるりと足を滑らせて、ばしゃんと大きな音を立てて日向は川の中に尻餅をついた。
 びしゃりと腰から下が水に沈む。

「なにしてんだ!」
「はあ?それはこっちのセリフだ!」

 身に覚えのない怒鳴り声に、ぐっしょりと濡れた自分の体を見下ろしたあと、イライラと顔を上げた。
 そこで日向は言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
 顔を上げた先にいたのは、一言で言えば王子様だった。
 二十半ばくらいだろうか。
薄茶色の髪にすっと通った鼻筋と形のいい唇。
 華のある外見に、色素の薄い焦げ茶色の瞳が印象的な男だ。
しかし見た目にそぐわない焦った表情を浮かべている。
 思わずぱちりと瞳をまばたかせて、日向はその男の顔に見惚れた。

「自殺とか考えんな!」
「自殺!?」

 言われた言葉に思わず大声を上げると。

「あ、違うのか」

 日向の様子に男は目を丸くした。

「違うに決まってる。帽子を取ろうとしただけだ」

 ぴっと水面に浮かんでいる帽子の方を指さすと、はあと男は嘆息した。

「何だ。ここすげー深くなってるからてっきり……」

 外見を裏切る雑な口調に、あらためて男を見ると黒いタンクトップにハーフパンツというラフな格好で、地元民なのだろうと予想がついた。
 上品な顔とラフな服装が、なんだかちぐはぐに見える。

「はあ、最悪」

 差し出された手を無視して立ち上がると、臍から下がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪い。
 下着まで完全に全滅だった。

「わりぃわりぃ。ん?」

 首を傾げた男に、何だと前髪のあいだから睨みつけると。

「おい、怪我してるじゃねーか」

 突然声を上げて、体温の高い手のひらが止める間もなく日向の前髪をかき上げた。
 あらわになったその顔は、日焼けしていない白い肌に濡れたような黒い瞳。
 繊細な雰囲気の整った容貌に、しかしそれを台無しにするように、左目から頬にかけてのグロテスクな大きな傷跡。

「っ見るな!」

 バッと男の手を払いのけるとそれはあっさりと離れていき、さらりと長い前髪が再び顔を隠した。

「それ……」
「っ」

 同情的な事でも言うつもりだろうか。
 そんなものは聞き飽きたし、憐れむような目なんて見たくもない。
 ぎり、と拳を握って唇を引き結んだけれど。

「何だ、今怪我したわけじゃねーんだな。吃驚させんなよ」
「なっ勝手に見といて!」

 デリカシーのない物言いに思わず睨みつけたら、わりぃわりぃとまた笑う。
 その顔には同情的なものはない。
 初めての反応に思わずぽかんと毒気を抜かれていると、男はサンダルのままためらうことなく川の中へ入って行った。
バシャバシャと浮かんでいる帽子を拾って戻ってくる。

「ほら」

 ひょいと差し出された青いキャップに、思わず一瞬唇を尖らせたが。

「ありがと……」

 親切には素直に感謝してそれを受け取った。
そのまま二人で川辺に上がる。
ショルダーバックを手に取った日向を見ると、男は苦笑を浮かべた。

「しっかしびしょ濡れだな」
「誰のせいだ」

 服の色が濡れて変わってしまった下半身を見て関心したように言った男に、じろりと日向は半眼を向けた。
 けれど男は悪びれた様子もなく、俺だなと笑っている。

「俺は中川知臣。この辺じゃ見ない顔だな」
「……軽鴨日向」
「旅行者?」
「そんなところ」

 ふうんと頷くと、何を思ったのか。

「うちに来いよシャワー貸すからさ」

 知臣がにかりと笑った。
 端正な顔に屈託のない表情を浮かべてみせる。
 その笑みは人懐こい大型犬のようだ。
 実際、日向よりも拳二つ分は背が高い。

「いや、いくあてあるから」
「近いのか?」
「……四十分くらい」

 言うと、知臣は。

「七月とはいえ体冷えるぞ」

 ぐいと日向の右腕を取ると、意気揚々と歩き出した。

「いやほんとに大丈夫だから」
「いーからいーから」

 ぐんぐん歩いていく知臣の足は長くて歩幅が違うので、日向は小走りになってしまう。

「人の話を」
「すぐそこだからさ」

 そんな押し問答のすえに、結局は日向が根負けしておとなしくついていくことになった。
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