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ふと、嗅いだことのある不思議な匂いを感じて揚羽は身じろいだ。
震える瞼をゆっくりと押し上げる。
最初に見えたのはクリーム色の天井だった。
優しい色合いに、自分は雨の公園にいたはずなのにとぼんやり天井を眺めていると。
「にゃあ」
胸の方で甲高い声がした。
何だろうと少し首を上げて視線をやると。
「おまえ……」
ピンクの耳と鼻に青い目の白い子猫が胸の上にちょんと乗っていた。
「にゃん」
もう一声鳴くと、トッと軽い足取りで胸から下へ降りる。
そこでようやく自分がベッドに寝ていたことに気付き、体を起こした。
「わあ」
起き上がって視界に入ったのは、紙の海だった。
部屋中にスケッチブックや何かが描かれた紙の束が積んであったり床に放置されていたりと、無造作に置かれている。
壁の隅にはキャンバスが立てかけてあり、それは揚羽も見覚えのある桜の木が描かれていた。
匂いのもとは絵の具だったのだろう。
「これ、奈夏の……」
じゃあここは奈夏のいるはずの本家だろうかと思ったけれど、本家は純和風だった。
「ここ、どこだろう」
きょろりと部屋を見回すけれど、ベッド以外の家具はない。
窓には紺色の遮光カーテンが半分引かれている。
窓の外は晴れていて、あの土砂降りが嘘のような天気だ。
ゆっくりと布団から出て床に足をつける。
そこで足袋ではなく裸足なことに気付き自分を見下ろすと、ダボタボの黒いパーカーとスウェットを着ていることに気付いた。
熱っぽかった体はすっかりだるさがなくなっていた。
「にゃう」
子猫がしっぽをゆらゆらと揺らしながら揚羽をじっと見ている。
うながされるように立ちあがると、少しだけ開いていたドアからするりと体を滑り込ませて出ていってしまった。
一瞬迷ったけれど、いつまでもここにいるわけにもいかないので立ち上がり揚羽はキイッとドアを押し開けて廊下に出た。
廊下に出ると、そこも壁や床に絵や紙束が置いてある。
ときおり木彫りの置き物などもあった。
思わず立ち止まってしまうと、子猫はにゃんにゃんと廊下のはじに行き角を曲がってしまう。
慌てて追いかけると、そこは階段だった。
階段も乱雑にスケッチブックなどが積んである。
子猫はおぼつかない足取りで階段を降りて行っていた。
それを追いかけるように階段に足を踏み出しながら、ここはどこだろうと思う。
奈夏が住んでいるはずの本家は純和風の大きな屋敷だが、ここはどう見てもファミリー向けの普通の一軒家のようだ。
けれど、桜の絵があったのだからどこかに奈夏がいるはずだと思う。
一階に降りると子猫は迷うことなく三つあるドアのひとつへ向かう。
他の部屋のドアはしっかり閉められているのに、そのひとつはドアが開け放たれていた。
そっとそのドアの内側を覗くと、その部屋はカウンターキッチンとリビングが広がっていた。
大きな出窓に腰かけて何かを描いている人物がいる。
そこには思った通りに奈夏がいた。
今はツナギではなくアイボリー色のコットンシャツにジーンズの姿で、シャッシャッと鉛筆を迷いなく動かしている。
その眼差しがふとこちらに向いた。
「起きたんだ」
スケッチブックを置いて出窓から立ち上がった奈夏がちょいちょいと手招きするので揚羽は呼ばれるままに部屋に入った。
この部屋も例にもれずに紙やスケッチブックが積まれている。
右側にはカウンターキッチン。
その前にはダイニングテーブルがあり、左側にはローテーブルと黒いソファーにテレビが置いてある。
ぺたぺたとフローリングの床を歩いて近づくと、奈夏がさらりと前髪の下のおでこに手を当てた。
思いのほか大きな手と低い体温にドキリとする。
「まだ微熱あるな。病院行く?」
その言葉に揚羽は小さく頭を振った。
病院に行くほどではないし、このくらいの微熱なら慣れている。
それよりも何故ここにいるのかがわからなかった。
「あの、ここは?」
「俺の家兼アトリエ」
ぱちくりと奈夏の言葉に揚羽はひとつ瞬きした。
「ここに住んでるの?」
「まあね」
本家に住んでいないことに驚いたけれど色々とその家その家で事情があるのだろうと思い、そっかと頷いておいた。
事情は違うだろうが自分だって家を追い出されたばかりだ。
「公園で会ったの覚えてる?」
言われてふるふると首を振った。
公園に行ったことは覚えているが、そこから先の記憶はない。
「こいつがさ」
腰を折って奈夏が足元に座っている子猫の喉をくすぐる。
嬉しそうににゃんと子猫が甘えた声を出した。
「気になって見に行ったら、揚羽がいた」
「僕も、この子が気になって」
撫でられるのに満足したのか、子猫はすりりと奈夏の足に顔を一度こすりつけるとそのまま出窓に飛び乗って丸くなってしまった。
なんとも自由な姿に思わず口元に笑みが浮かぶ。
「桜って名前にしたんだ」
「飼うの?」
「連れて返ってきちゃったからな。ほっとけないし」
苦笑する奈夏の眼差しは優しい。
それにつられて揚羽はよかったと呟いた。
「揚羽のことも気になってた」
「僕?」
思わぬ言葉にドキリとする。
「あんな別れ方だったからさ。俺からヘタに分家に連絡とれないし」
「気にしなくていいよ」
万が一連絡がきていたら自分の状況を知られていたかもしれない。
何日間も男に犯され続けた記憶がよみがえりそうになり、後ろめたくて視線をそらした。
「ごめん、迷惑かけたね。すぐ帰るから」
行く当てなんてないけれど、これ以上迷惑はかけたくない。
ぺこりとお礼を言って頭を下げた。
「しばらくいれば?」
「え?」
思いがけない言葉に揚羽は顔を上げて目を丸くした。
マジマジと目の前の男の顔を見るが、表情は変わらない。
「なんか訳ありっぽいから」
ちらりと奈夏が目をやった先は、ダイニングテーブルの上のびしょ濡れの通帳だった。
中の金額は見ていないが、それなりの額が入っているのだろう。
「……聞かないの?」
「なんか聞かせたくなさそーだから。だから調べてもない」
言われて泣きそうになった。
聞かれたくなんかない。
知られたくなんかない。
「なのに置いてくれようとするの?ろくに知らない奴なのに」
「知ってるじゃん、音石揚羽だろ」
打てば響くように返って来る言葉に、揚羽は自分がどんどん泣きそうな顔になっているのを気付かなかった。
「僕が家に言われて取り入ろうとしてる奴だったらどうするんだよ」
「そんときはそんとき」
駄目押しで言った言葉は、にっと不敵に笑った笑顔に受け止められた。
小さくありがとうと震える声で答えると、じゃあ決まりだと言われた。
こんな自分が傍にいていいわけがないという気持ちと、嬉しいと気持ちがないまぜになって揚羽は一粒だけ涙を零した。
震える瞼をゆっくりと押し上げる。
最初に見えたのはクリーム色の天井だった。
優しい色合いに、自分は雨の公園にいたはずなのにとぼんやり天井を眺めていると。
「にゃあ」
胸の方で甲高い声がした。
何だろうと少し首を上げて視線をやると。
「おまえ……」
ピンクの耳と鼻に青い目の白い子猫が胸の上にちょんと乗っていた。
「にゃん」
もう一声鳴くと、トッと軽い足取りで胸から下へ降りる。
そこでようやく自分がベッドに寝ていたことに気付き、体を起こした。
「わあ」
起き上がって視界に入ったのは、紙の海だった。
部屋中にスケッチブックや何かが描かれた紙の束が積んであったり床に放置されていたりと、無造作に置かれている。
壁の隅にはキャンバスが立てかけてあり、それは揚羽も見覚えのある桜の木が描かれていた。
匂いのもとは絵の具だったのだろう。
「これ、奈夏の……」
じゃあここは奈夏のいるはずの本家だろうかと思ったけれど、本家は純和風だった。
「ここ、どこだろう」
きょろりと部屋を見回すけれど、ベッド以外の家具はない。
窓には紺色の遮光カーテンが半分引かれている。
窓の外は晴れていて、あの土砂降りが嘘のような天気だ。
ゆっくりと布団から出て床に足をつける。
そこで足袋ではなく裸足なことに気付き自分を見下ろすと、ダボタボの黒いパーカーとスウェットを着ていることに気付いた。
熱っぽかった体はすっかりだるさがなくなっていた。
「にゃう」
子猫がしっぽをゆらゆらと揺らしながら揚羽をじっと見ている。
うながされるように立ちあがると、少しだけ開いていたドアからするりと体を滑り込ませて出ていってしまった。
一瞬迷ったけれど、いつまでもここにいるわけにもいかないので立ち上がり揚羽はキイッとドアを押し開けて廊下に出た。
廊下に出ると、そこも壁や床に絵や紙束が置いてある。
ときおり木彫りの置き物などもあった。
思わず立ち止まってしまうと、子猫はにゃんにゃんと廊下のはじに行き角を曲がってしまう。
慌てて追いかけると、そこは階段だった。
階段も乱雑にスケッチブックなどが積んである。
子猫はおぼつかない足取りで階段を降りて行っていた。
それを追いかけるように階段に足を踏み出しながら、ここはどこだろうと思う。
奈夏が住んでいるはずの本家は純和風の大きな屋敷だが、ここはどう見てもファミリー向けの普通の一軒家のようだ。
けれど、桜の絵があったのだからどこかに奈夏がいるはずだと思う。
一階に降りると子猫は迷うことなく三つあるドアのひとつへ向かう。
他の部屋のドアはしっかり閉められているのに、そのひとつはドアが開け放たれていた。
そっとそのドアの内側を覗くと、その部屋はカウンターキッチンとリビングが広がっていた。
大きな出窓に腰かけて何かを描いている人物がいる。
そこには思った通りに奈夏がいた。
今はツナギではなくアイボリー色のコットンシャツにジーンズの姿で、シャッシャッと鉛筆を迷いなく動かしている。
その眼差しがふとこちらに向いた。
「起きたんだ」
スケッチブックを置いて出窓から立ち上がった奈夏がちょいちょいと手招きするので揚羽は呼ばれるままに部屋に入った。
この部屋も例にもれずに紙やスケッチブックが積まれている。
右側にはカウンターキッチン。
その前にはダイニングテーブルがあり、左側にはローテーブルと黒いソファーにテレビが置いてある。
ぺたぺたとフローリングの床を歩いて近づくと、奈夏がさらりと前髪の下のおでこに手を当てた。
思いのほか大きな手と低い体温にドキリとする。
「まだ微熱あるな。病院行く?」
その言葉に揚羽は小さく頭を振った。
病院に行くほどではないし、このくらいの微熱なら慣れている。
それよりも何故ここにいるのかがわからなかった。
「あの、ここは?」
「俺の家兼アトリエ」
ぱちくりと奈夏の言葉に揚羽はひとつ瞬きした。
「ここに住んでるの?」
「まあね」
本家に住んでいないことに驚いたけれど色々とその家その家で事情があるのだろうと思い、そっかと頷いておいた。
事情は違うだろうが自分だって家を追い出されたばかりだ。
「公園で会ったの覚えてる?」
言われてふるふると首を振った。
公園に行ったことは覚えているが、そこから先の記憶はない。
「こいつがさ」
腰を折って奈夏が足元に座っている子猫の喉をくすぐる。
嬉しそうににゃんと子猫が甘えた声を出した。
「気になって見に行ったら、揚羽がいた」
「僕も、この子が気になって」
撫でられるのに満足したのか、子猫はすりりと奈夏の足に顔を一度こすりつけるとそのまま出窓に飛び乗って丸くなってしまった。
なんとも自由な姿に思わず口元に笑みが浮かぶ。
「桜って名前にしたんだ」
「飼うの?」
「連れて返ってきちゃったからな。ほっとけないし」
苦笑する奈夏の眼差しは優しい。
それにつられて揚羽はよかったと呟いた。
「揚羽のことも気になってた」
「僕?」
思わぬ言葉にドキリとする。
「あんな別れ方だったからさ。俺からヘタに分家に連絡とれないし」
「気にしなくていいよ」
万が一連絡がきていたら自分の状況を知られていたかもしれない。
何日間も男に犯され続けた記憶がよみがえりそうになり、後ろめたくて視線をそらした。
「ごめん、迷惑かけたね。すぐ帰るから」
行く当てなんてないけれど、これ以上迷惑はかけたくない。
ぺこりとお礼を言って頭を下げた。
「しばらくいれば?」
「え?」
思いがけない言葉に揚羽は顔を上げて目を丸くした。
マジマジと目の前の男の顔を見るが、表情は変わらない。
「なんか訳ありっぽいから」
ちらりと奈夏が目をやった先は、ダイニングテーブルの上のびしょ濡れの通帳だった。
中の金額は見ていないが、それなりの額が入っているのだろう。
「……聞かないの?」
「なんか聞かせたくなさそーだから。だから調べてもない」
言われて泣きそうになった。
聞かれたくなんかない。
知られたくなんかない。
「なのに置いてくれようとするの?ろくに知らない奴なのに」
「知ってるじゃん、音石揚羽だろ」
打てば響くように返って来る言葉に、揚羽は自分がどんどん泣きそうな顔になっているのを気付かなかった。
「僕が家に言われて取り入ろうとしてる奴だったらどうするんだよ」
「そんときはそんとき」
駄目押しで言った言葉は、にっと不敵に笑った笑顔に受け止められた。
小さくありがとうと震える声で答えると、じゃあ決まりだと言われた。
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