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翌日はトニエルから連絡が入り、ランチの誘いがあった。
 食欲が落ちている伊織をリルトは心配したけれど、かまわず了承した。
 これ以上気を使わせたくなかった。
 外で待ち合わせをしていたのでそこまでは歩いて行った。
 人通りがそこそこある広場のモニュメント前が待ち合わせ場所だ。
 隣にいるリルトはやっぱり手を引いてはくれなかった。
 目は合うようになってきたけれど、お互いいまだにぎこちない状態だ。
 待ち合わせ場所に先にいたトニエルとケリーがその二人の様子に顔を見合わせる。

「義兄さん、トニエルと二人でそこの自販機でコーヒー買ってきてください」

 おもむろにケリーが口を開いた。

「兄さん行こう」

 ガシリとトニエルがいい笑顔でリルトの腕を掴む。

「おい」
「ここで待ってるから大丈夫ですよ」

 ひらひらと容赦なくケリーが手を振って促すと、伊織がぽかんとしているあいだにトニエルにぐいぐい引っ張られて少し離れた自販機の方へとリルトは行ってしまった。
 一瞬の出来事だ。
 遠くなっていく長身を見送っていると、ケリーが顔を覗き込んできた。

「まだ仲直りできてないの?」
「うまく話せなくて……」

 視線が合わせられなくて気まずげにしていると、ケリーが頬を両手で挟んで顔を上げさせられた。

「聞きたかったんだけどさ、伊織は義兄さんと本契約する気ってあるの?」

 喉が詰まった。
 このままだとそんなのは無理だろうとわかる。

「トニエルが大好きなお兄さんだからね。俺としても幸せになってもらいたい。マッチングしたときに言われたでしょ、選択権はオメガにあるんだよ」

 その言葉にハッとした。
 いつも流されてリルトに甘えっぱなしだった。
 リルトに何かを返したことも、伝えたこともない。
伊織はきゅっと唇を一度引き結んだ。
伝えたい気持ちがちゃんとある。

「本契約、したい」

 ケリーがその様子に目を細める。
 笑う彼の赤毛が揺れた。

「そっか!それなら大丈夫。それを早く言えばいいよ」
「うん」

 久しぶりに目の前の霧が晴れた気分だった。
 ケリーが伊織から離れて、自動販売機の方へ手を振っている。
 そちらに目を向けようとして、視界に入った人物に伊織はぎくりと身を強張らせた。
 一メートルほど離れた場所に、二十年間見慣れた母親が驚いた顔で立ち尽くしている。
 ハンドバックは持っているけれど、ワンピースも上着もしわくちゃで髪もボサボサだった。
 生活を支えていた松島が離れた今はどうやって金を工面しているのかはわからないけれど、少なくとも余裕のあるようには見えない。
 目を見開いている爽子は次には鬼のような形相でこちらへ走り出した。

「母さん」

 ハンドバックに入れた手が刃渡りの広いナイフを掴んでいる。
 途端に辺りに悲鳴が響き渡った。
 そんなものを持ち歩いているなんて、もしかして自分を探していたのかもしれないと思う。

『あんたなんて産むんじゃなかった』

 聞きなれたセリフが耳に甦る。
 ケリーが腕を掴んできたのを危ないと思い、離れるように思い切り突き飛ばした。
 伊織とたいして変わらない体格のケリーは、簡単に離れたところへ尻もちをつく。
 じっと爽子が眼前に迫るのを見ていた。
 怖いとかそんなものはなく、ただもう爽子は自分をいらないんだなと受け入れた。
 目前に来てナイフを振り上げた爽子に、どうしたらいいんだろうとぼんやり考えたとき、腕を強く引っ張られて温かいものに包まれた。
 途端周囲に悲鳴が上がる。

「兄さん!」

 トニエルの声がことさら大きく響く。
 気づいたらリルトにしっかりと抱き込まれていた。
 何がどうなったのだろうとぎこちなくリルトを見て、視界に赤が飛び込む。
 伊織を抱く右腕。
 薄茶色のジャケットの前腕部分が真っ赤に染まっていた。
 地面にも血が滴って汚している。

「リ、リル!腕!腕が!」

 真っ青になって悲鳴を上げたけれど、リルトはそんなものに気を回す余裕もないとばかりに腕のなかの伊織の全身を確かめた。

「怪我は?何ともない?よく見せて」

体も顔もと視線を走らせるリルトに伊織はひくりと喉を震わせた。
涙が一気に盛り上がり視界が潤んでいく。

「馬鹿!俺よりリルだろ!」

 止血と思うけれど、動揺して動けない。
ボロボロと涙がみっともなく流れるばかりだった。

「死んでよ!」

 ヒステリックな声が響いた。
 のろのろとそちらへ目をやれば、トニエルに地面へ抑えつけられた母親が真っ赤な形相で伊織を睨みつけている。
 そのすぐ近くには血に濡れたナイフが落ちていた。
 あれでリルトを切り裂いたのかと思うと、自分の母親が、とか自分を庇って、と申し訳なさがこみ上げた。

「かあさん……」
「死んで!オメガは死んで!何で生きてるの!」

 いつも綺麗にしていた髪は見る影もなくボサボサに振り乱している。

「聞かなくていい」

 まるで耳を塞ぐように抱きしめられて、爽子の声は聞こえなくなった。
 誰かが通報したのかすぐに警察がやってきた。
 リルトもケリーが呼んだ救急車で運ばれてすぐに処置室に入った。
 伊織も救急車に同乗した。
 処置室には一緒に入れなかったので、外のベンチでずっと青い顔色で待っていた。
 救急隊員が到着してからはすぐに処置をしたし、命に別状はないとわかっていても怖かった。
 処置室でしばらく休んでいいと言われたので、治療が終わったと聞いた伊織はそっと扉を開けてルトのいる処置室へ入った。
 消毒の匂いが強くなって鼻につく。
 処置用のベッドに腰掛けたリルトは、出血のせいか顔色が悪かった。
ジャケットの下は白いシャツを着ていたので、血の汚れで上半身は酷いことになっている。
 右腕は袖がまくられていて、包帯がしっかりと巻かれていた。
 事情聴取は明日でいいと言われたのと、あとはトニエル達が対応すると言われたのでそれに甘えて少し休んだら帰ることになっている。
 おずおずとリルトの前まで歩くと、座っているズボンに目がいった。
ズボンにまでついた血汚れが、出血の多さを表している。
 改めて見て、また涙が出てきてしまった。
 救急車に乗ってからも目が溶けるほど泣いて、治療中にやっと止まったと思った涙がまたとめどない。
 そんな伊織に、ベッドに座っているリルトが眉を下げた。

「伊織大丈夫だ。それ以上泣いたら目が溶ける。派手に血が出ただけで神経も傷ついてないし傷も深くない」

 確かに医者に同じことを言われた。
 だからってそうかと済ませられるわけがない。

「待ってたオメガだからって俺なんか庇うなよ!」

 張りつめていた神経が限界を迎えて、大声で怒鳴りつけた。
 ありがとうとかごめんとか言わなきゃいけないことは沢山あるはずなのに、そんなものは頭に浮かばなかった。
 握りしめた拳がブルブルと震える。
 唇を噛みしめると血が滲んだのか鉄の味がした。

「庇うに決まってる」

 凛とした声が返された。
 さっきまでの困った顔じゃなく、強い意志を持った眼差しで。

「言ったはずだ。君が唯一大事なんだって」
「俺なんかに、何でそんな」
「なんかじゃない」

 リルトがギシリとベッドを鳴らして立ち上がった。
 一歩一歩と近づいてくる。

「君はそうやって自分を粗末に扱う。それだけは許せない」

 ひくりと伊織の喉が震えた。

「運命だからって」
「君だからだ。運命だからじゃない」

 そこまで言われたら駄目だった。
 両手で目元を覆った瞬間、最後の一歩を詰めたリルトに抱きしめられる。
 温かい腕のなかは、やっぱり安心をもたらしてくれた。

「最初のきっかけにはなったけど、君と日々を重ねて運命になりたいと思ったんだ」
「だって避けてた」

 ぐすぐすと鼻を鳴らせばこめかみに口づけられた。

「それは……怖がらせたかと。発情期のことだってよくわかってなかった君には刺激が強すぎたと思ったんだ」
「俺と発情期過ごす気だったくせに」
「うぐ、そこは譲れなかった」
「言っちゃうんだ」

 顔を上げると。

「言っちゃうんだよ」

 子犬のように眉を下げて可愛い顔をする。
 やっぱりちょっと残念な人だ。
 顔を見つめ合って、お互いどちらともなく笑みを零した。

「発情期、一緒に過ごしてくれるって言ったの嬉しかった」
「伊織……」
「ちゃんとしたオメガなら、受け入れても許されるって思った」

 じっと見上げると、リルトがしんなりと目を細めた。
 その眼差しにはもう気まずさはない。

「発情期が不安定でも大丈夫だよ」
「ちゃんとしたオメガじゃないのに?」
「俺は最初から伊織に完璧さなんか求めてないよ。俺を可愛いって仕方なさそうに甘やかす君に、受け入れてもらいたいだけ」

 リルトの言葉も眼差しも真っ直ぐで、眩しい。
 伊織はすんと鼻をすすった。

「本当に?」

 涙声で尋ねれば。

「本当に」

 紺碧色が真っ赤になった目を覗き込んだ。
 その目をじっと見つめ返す。
 熱い眼差しに、まるでそうするのが当然のように瞼を下ろすと、そっと唇が重なった。
 はじめてのキスはしょっぱくて仕方がなかった。

「リルが好きだよ。俺ちゃんとした人間じゃないけどいい?オメガとして不完全だけど、俺でいい?」
「それがいい」

 力強く言われた瞬間、涙が堰を切ったように流れて伊織は幼子のように声を上げて泣きじゃくった。
 こんなふうに無防備に自分をさらけ出したのははじめてだった。
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