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またお弁当を持ってきてくれたリルトと面会中。
いつものように給餌されるのにもだいぶ慣れた。
慣れてはいけない気がするけれど、断ったらしゅんとされて無下に出来ないのだ。
最後のおかずを口に入れられてもぐもぐしながら、伊織はリルトをちらりと見やった。
今日はどことなく、ちょっとソワソワしている気がする。
トートバッグにお弁当箱を片付けるリルトを見やりながら、会ってからずっと気になっていたことがピークに達した。
ごくりと食べていたものを飲み干して顔を覗き込む。
「どうかした?今日変だよ」
挙動不審な自覚はあったのか、リルトがバレてたかと後ろ頭をかいた。
一瞬目を泳がせて、伊織を見据える。
「あー……いや、伊織にお願いがあって」
「お願い?珍しいね、何?」
「……キスしたい」
「え?」
思わぬ言葉に伊織はぽかんとまぬけに口を開けてしまった。
よもやキスなんて単語が出てくるとは思わなかった。
「ああ勿論、口にじゃない。いや口にもしたいけど」
「したいんだ……」
「したい」
キリッとしないでほしい。
気を許してくれてる証拠なのか、リルトはだんだんと残念な部分が出るようになってきた。
正直面白い。
「でも今はそうじゃなくて、なんていうか愛でたい」
「愛でたいって」
あけすけにハッキリ言われてしまい、伊織は目尻に朱を走らせた。
リルトはいつも直球で好意を示してくるので、会うたびに顔を赤くしている気がする。
そんな愛でたいと言い切ったリルトの眼差しは真剣そのものだ。
「見てると頬なんかにキスしたくなる」
「ああ、海外ってキスとかよくするんだっけ?」
それの延長かなと思っていると。
「いや、俺は家族ともしなかったな」
バッサリ否定されてしまった。
「じゃあ何で」
「伊織を見てると可愛がりたくなる」
「えぇ……俺なんかを?」
わけがわからない。
けれど頬を両手に包まれて顔を上向かされてしまった。
整った顔が間近にあって落ち着かない。
「君だからだ」
そんなことを言われては恥ずかしすぎて視線が泳いでしまう。
「可愛い女の子とかじゃないんだけど」
「可愛いおでこだからしたくなる」
「何それ」
ふはっと笑いが零れる。
額丸出しのベリーショートを可愛いなんて言われる日が来るとは思わなかった。
「髪は母さんが強制的に短くしてたんだよな」
「髪型を?」
途端リルトの眉が寄せられた。
綺麗な顔をしているので跡がつかないか心配になってしまう。
「なんかオメガとしてアルファと幸せにならないようにしたかったらしいんだよ。オメガは中世的な外見が多いって聞いたから、オメガに見えないようにしたかったんじゃない?」
憶測を口にすると、リルトは舌を打った。
「クズな発想だな。絞めてやりたい」
「物騒」
「制限されたこと、沢山あったんじゃないか?」
手が伸ばされ、そっと右頬に当てられた。
体温が高くて温かい。
「いやでも、たいして困ってないよ。俺図太いから気にしてなかったし」
あっけらかんと笑ってみせる。
「……抱きしめたい」
「は?」
急に言われたかと思うと、長い腕に閉じ込められた。
ひえっと悲鳴が口の中で上がる。
触れた腕や胸が思った以上に逞しく感じた。
「あの、わっ」
慌てて顔を上げると、ふわりと瞼に柔らかいものが触れた。
それがリルトの唇だと気づき、伊織の体が羞恥で体温を上げる。
カピリと固まった伊織の瞼だけでなく、額にも唇が落とされた。
「口には絶対にしないから、これからも伊織にキスをしていい許可をちょうだい」
「ちょ、ふわっまだいいって言ってない!」
ちゅっちゅっと鼻や頬にもキスをされて、伊織は悲鳴じみた声を上げた。
くすりとリルトがキスをしながら吐息で笑う。
その眼差しはトロリとした蜂蜜のようだった。
「伊織はいいって言ってくれそうだから」
「調子乗らないでほしい」
くぅと悔し気に顔を顰めると、眉を下げられた。
「乗ってないよ。ね、いい?」
「その顔やめて」
「可愛いんだっけ?やだ」
とんだ我儘犬だ。
おねだりはやめる気がないのか、ちゅっちゅっと何度も唇が降ってくるのに耐えられなくなり、伊織は疲れたようにため息を吐いた。
「うぅ……もう好きにしたらいい」
「ありがとう……本当心配になるな」
「うるさい」
それ以来、面会日にお弁当と一緒にキスが追加されるようになった。
お弁当は吐き気もほとんど収まってきたから食べる量も増えてきた。
それに比例して体にも肉がついてきている。
体重が増えたことをリルトに告げたら、とても喜んでいた。
そしてキスだ。
毎回会った挨拶と帰る挨拶で頬と額にキスをされ、それ以外にも何か琴線に触れたらキスされる。
正直恥ずかしいけれど許可を出してしまったものだから、拒めないし困ったことに嫌じゃない。
男同士というものは予想外にまったく気にならなかった。
リルトがまったく気にしたそぶりがないのもあるけれど、女は爽子で苦手意識があるような気がするから、逆に男が相手でよかったかもしれないと伊織は思った。
診察室にて。
向かいの椅子には、呼び出した日下部が座っている。
大事な話があると言われて、伊織だけでなく何故かリルトも一緒だった。
パソコンを見ていた日下部が、体ごと伊織へと向き直る。
「薬はだいぶ抜けましたね。吐き気も眩暈も最近は無いようですし」
「そうですね、体調結構いいです」
年々具合が悪くなっていたから、体に不調がないのはとても不思議だった。
「オメガとしてのフェロモンや他の数値も、最初に比べたら安定してきました」
日下部の言葉に、リルトがよかったと言ってそっと右手を取られた。
その表情は本当に心から安堵しているようで、何だか面映ゆい。
「食事もクランベルさんが差し入れしているものは、よく食べているとか」
「あー……そうですね。病院のご飯多くて、見てると食欲がなくなるというか……すみません」
「だいぶ減らしてるんですけれどね」
日下部に驚いた顔をされてしまった。
そうか、あれで減らされた量なのかと、いつも配られるトレーの食事を思い出しげんなりする。
リルトのお弁当を中心にだいぶ食べる量が増えたと思っていたけれど、まだまだらしい。
長年食事に拒否感があったせいか、量を見ると見ただけでうぷっと満腹な気分になってしまうのだ
リルトの作ってくれるお弁当は全部一口サイズで量もそんなにないから、正直凄く食べやすい。
改めて考えると、とても気遣われているなと思い至った。
「それでですね、提案があります。お二人はマッチングを進める気はありますか?」
思ってもみなかった質問に、ぱちりと伊織はまばたいた。
日下部は柔和な表情でにっこりと笑って見せる。
「町田さんの体調はクランベルさんが側にいることで安定している可能性が高いです」
「そうなんですか?」
「オメガにとって信頼できるアルファが側にいるのは何よりも心身の安定に繋がります。投薬治療もそろそろ開始しますけれど、現状あまり体に負荷をかけない方が望ましいですね。なので病院にいるより二人で過ごした方がいいのではと思っています」
日下部の言葉をなんとか脳内にて噛み砕くと、伊織はへ?とまぬけな声を出した。
「それって退院してリルと住んだ方がいいってことですか?」
「そうです」
あっさり頷かれてしまった。
「いや、そんな迷惑は!」
驚いて伊織は手を動かそうとして右手が大きな手に握りこまれていたことを思い出した。
そんなことを言われたらリルトも困るだろうと慌てて横を向けば、目があった途端に満面の笑みを向けられた。
なんていうか凄く嬉しそう。
これは迷惑なんて微塵も考えていない顔ではなかろうかと、確信にも似たものを持ってしまう。
「機関には話はしてあります。仮番でもいいので一緒にいた方が、町田さんの体にいい筈です。お二人で話し合ってくださいね」
「……わかりました」
そうとしか答えられず、診察室を後にした。
いつも通りに面会室で望月と合流して隣同士の椅子に腰を下ろしてからは、伊織は落ち着かなげにキョロキョロと視線をさまよわせた。
リルトがそっと顔を覗き込んできてドキリとする。
「伊織はさっきの話どう思った?」
「どうって……」
「困る?」
「困るのはリルじゃない?」
さっきは困ってるようには見えなかったけれど、一応聞いてみた。
けれどリルトはにっこりと笑い完全に否定してきた。
「俺は困らないよ。伊織が嫌でないなら、好機とばかりに家に連れ帰りたい」
「正直すぎる」
思わず笑ってしまうと、リルトも笑い返してくれたおかげで、変に体に入っていた力が抜けた。
「えっと、でも、本当に迷惑じゃないの?いや俺行く当てないから正直本音は助かるけど」
「来てくれたら嬉しい。実は思いがけない展開に、伊織を抱えて走り回りたいくらいテンション上がってる」
おどけて見せるリルトに、伊織は笑いを零した。
本音かもしれないけれど、気遣ってくれてもいるのだろうと思う。
「やめてね、テンション高すぎるでしょそれ」
クスクス笑うと、リルトがそっと伊織の右手を両手で包んだ。
ただでさえ大きさが違うのに、両手で包まれるとすっぽりと伊織の手が隠れてしまう。
温かさとは別になんだか安心もした。
「でも本心だよ。仮番でかまわない。マッチングを受け入れて一緒に住んでくれないか」
「ええと、ごめん。その仮番って何?普通の番と違うの?」
「聞いてない?」
「うん」
聞きなれない言葉だ。
素直に知らないと頷けば、リルトは少し考えたあとに苦笑を漏らした。
「聞いたらマッチングを拒否する可能性も考えて言わなかったのかな。仮番はそのまま仮の契約状態だよ。ただ噛んでマーキングするんだ。そうしたら一年くらいは他のアルファに噛まれても番にならない。発情期やフェロモンは変わらないけどね」
「ちゃんとした番とは違うんだね」
「本契約をすれば番のアルファにしかフェロモンも発情期も反応しない。そして本契約はセックスして射精中にオメガの項を噛むんだ。発情期じゃなくても契約は成立する」
「何それ!」
まさかの本契約の方法に、伊織はボンと顔を一瞬で真っ赤にさせた。
そんな恥ずかしい方法なんて一ミリたりとも予想していなかったので、激しく動揺してあわあわと視線が泳ぐ。
(つ、つまりリルに抱かれるってこと?キスすらする自信ないよ!)
内心は悲鳴の嵐だった。
そもそも抑制剤の効果なのか、伊織は性欲を一切感じたことはない。
反応だってほとんどしたことないので、必然的に自慰もほぼしたことがないのだ。
はっきりいってセックスなんて高難易度すぎる。
ダラダラと冷や汗をかく伊織に、なだめるように片手が右手から離されて背中を撫でた。
「落ち着いて、君が嫌がることは絶対にしない」
「いや、でも」
「本当だ。仮契約出来ればとりあえず俺は安心出来る。仮契約ならただ噛むだけで済むんだ」
嘘は言っていない声音だ。
そもそも会ってからリルトはずっと真摯に接してくれているから、そう言うのなら伊織に無理強いはしないと思えた。
「そうなの?」
おそるおそる尋ねれば、しっかりと頷かれた。
背中を撫でる手が止まり、そっと添えられる。
「うん。そうすれば少なくとも他のアルファに取られることはないし、機関も他の候補は出してこない」
「他の候補?何それ、他にもアルファと会うってこと?」
そんな話は聞いていない。
はくりと唇が我知らず震えた。
右手を包むリルトの手が、きゅっと握られる。
「俺とのマッチングが上手くいかなければ、他のアルファとのマッチングになる。勿論オメガである伊織の意見が優先されるから、そこは安心して」
そんなことがあるのか。
今の今まで予想もしていなかったことだった。
リルトを不安げに見ると「でも」と右手が離された。
体温が離れたことで物足りなく感じた瞬間、ぎゅうと抱きしめられる。
大きな体に隠されるように抱き込まれると、何だか酷く安心した。
「俺は他のアルファに伊織を渡したくない。だから俺を選んで」
懇願するような声だった。
目じりにそっと唇が押し付けられる。
他のアルファとマッチングをすれば、こういうことも他のアルファとすることになるのだろうかと頭に過った。
リルトとのマッチングがなくなれば、もうお弁当を作ってもらうことは勿論のこと、話すことも無くなる可能性がある。
そっと自分を抱きしめるリルトの顔を見上げると、やっぱり無碍に出来ない表情を浮かべている。
(子犬みたいな顔も見れなくなるのかな)
この可愛い人と接点が無くなる。
そう考えると、心にぽっかりと穴が開いてしまいそうだと思った。
「……リルと会えなくなるのは嫌、かも」
「伊織……」
「でも俺好きとかわからないし……人と交流したことないから」
視線をさまよわせると、頬に手が当てられてひたりと視線を合わせられた。
紺碧色がじりじりとした熱さを湛えていて、視線を逸らせない。
「かまわない、仮契約だけでいい。俺と一緒にいてほしい」
「……いいの?」
「それがいい。言ったろ、好機とばかりに連れ帰りたい」
おどけて見せるから、ふふっと笑いが零れてしまった。
そうだなと思う。
リルトなら、きっと自分を傷つけたりしないんじゃないかと変に信頼出来てしまった。
アルファの傍にいた方がいいなら、ここまで伊織を想ってくれるリルトがいい。
「うん。仮契約、お願いします」
口した途端、パアッとリルトの表情が華やいだ。
まるで宝箱を開けた少年のように、無邪気で満面の笑み。
(あ、可愛い)
思ったときには手を伸ばして、その豪奢な金髪を撫でていた。
一瞬驚いたリルトの目がしんなりとたわむ。
「このあいだも撫でてくれたね。頭撫でられたのなんて初めてだったよ」
「可愛いからつい」
パッと手を離すと抱きしめていた腕が片方解かれて、右手を掬い上げられた。
そして手の甲に柔らかな唇が触れる。
「もっと撫でていいよ」
「それ言っちゃうところがなあ」
恥ずかしいより仕方ない人だと思ってしまった。
顔を見合わせると、お互いくすりと笑い合う。
そのあとは衝立から望月が出てきて、とても恥ずかしかった。
マッチングの成立について話を詰めましょうと言われて、そういえば衝立の向こうには全部聞こえていたんだと今までの面会が頭を駆け巡り身もだえた。
その場で話を詰めたら日下部にも連絡がいき、あれよあれよという間に退院日も決まってしまった。
展開が早いなか、花にも連絡をしたら退院日に来ると言われて迎えに来るリルトと会うことになるなとのんびり思う伊織だった。
いつものように給餌されるのにもだいぶ慣れた。
慣れてはいけない気がするけれど、断ったらしゅんとされて無下に出来ないのだ。
最後のおかずを口に入れられてもぐもぐしながら、伊織はリルトをちらりと見やった。
今日はどことなく、ちょっとソワソワしている気がする。
トートバッグにお弁当箱を片付けるリルトを見やりながら、会ってからずっと気になっていたことがピークに達した。
ごくりと食べていたものを飲み干して顔を覗き込む。
「どうかした?今日変だよ」
挙動不審な自覚はあったのか、リルトがバレてたかと後ろ頭をかいた。
一瞬目を泳がせて、伊織を見据える。
「あー……いや、伊織にお願いがあって」
「お願い?珍しいね、何?」
「……キスしたい」
「え?」
思わぬ言葉に伊織はぽかんとまぬけに口を開けてしまった。
よもやキスなんて単語が出てくるとは思わなかった。
「ああ勿論、口にじゃない。いや口にもしたいけど」
「したいんだ……」
「したい」
キリッとしないでほしい。
気を許してくれてる証拠なのか、リルトはだんだんと残念な部分が出るようになってきた。
正直面白い。
「でも今はそうじゃなくて、なんていうか愛でたい」
「愛でたいって」
あけすけにハッキリ言われてしまい、伊織は目尻に朱を走らせた。
リルトはいつも直球で好意を示してくるので、会うたびに顔を赤くしている気がする。
そんな愛でたいと言い切ったリルトの眼差しは真剣そのものだ。
「見てると頬なんかにキスしたくなる」
「ああ、海外ってキスとかよくするんだっけ?」
それの延長かなと思っていると。
「いや、俺は家族ともしなかったな」
バッサリ否定されてしまった。
「じゃあ何で」
「伊織を見てると可愛がりたくなる」
「えぇ……俺なんかを?」
わけがわからない。
けれど頬を両手に包まれて顔を上向かされてしまった。
整った顔が間近にあって落ち着かない。
「君だからだ」
そんなことを言われては恥ずかしすぎて視線が泳いでしまう。
「可愛い女の子とかじゃないんだけど」
「可愛いおでこだからしたくなる」
「何それ」
ふはっと笑いが零れる。
額丸出しのベリーショートを可愛いなんて言われる日が来るとは思わなかった。
「髪は母さんが強制的に短くしてたんだよな」
「髪型を?」
途端リルトの眉が寄せられた。
綺麗な顔をしているので跡がつかないか心配になってしまう。
「なんかオメガとしてアルファと幸せにならないようにしたかったらしいんだよ。オメガは中世的な外見が多いって聞いたから、オメガに見えないようにしたかったんじゃない?」
憶測を口にすると、リルトは舌を打った。
「クズな発想だな。絞めてやりたい」
「物騒」
「制限されたこと、沢山あったんじゃないか?」
手が伸ばされ、そっと右頬に当てられた。
体温が高くて温かい。
「いやでも、たいして困ってないよ。俺図太いから気にしてなかったし」
あっけらかんと笑ってみせる。
「……抱きしめたい」
「は?」
急に言われたかと思うと、長い腕に閉じ込められた。
ひえっと悲鳴が口の中で上がる。
触れた腕や胸が思った以上に逞しく感じた。
「あの、わっ」
慌てて顔を上げると、ふわりと瞼に柔らかいものが触れた。
それがリルトの唇だと気づき、伊織の体が羞恥で体温を上げる。
カピリと固まった伊織の瞼だけでなく、額にも唇が落とされた。
「口には絶対にしないから、これからも伊織にキスをしていい許可をちょうだい」
「ちょ、ふわっまだいいって言ってない!」
ちゅっちゅっと鼻や頬にもキスをされて、伊織は悲鳴じみた声を上げた。
くすりとリルトがキスをしながら吐息で笑う。
その眼差しはトロリとした蜂蜜のようだった。
「伊織はいいって言ってくれそうだから」
「調子乗らないでほしい」
くぅと悔し気に顔を顰めると、眉を下げられた。
「乗ってないよ。ね、いい?」
「その顔やめて」
「可愛いんだっけ?やだ」
とんだ我儘犬だ。
おねだりはやめる気がないのか、ちゅっちゅっと何度も唇が降ってくるのに耐えられなくなり、伊織は疲れたようにため息を吐いた。
「うぅ……もう好きにしたらいい」
「ありがとう……本当心配になるな」
「うるさい」
それ以来、面会日にお弁当と一緒にキスが追加されるようになった。
お弁当は吐き気もほとんど収まってきたから食べる量も増えてきた。
それに比例して体にも肉がついてきている。
体重が増えたことをリルトに告げたら、とても喜んでいた。
そしてキスだ。
毎回会った挨拶と帰る挨拶で頬と額にキスをされ、それ以外にも何か琴線に触れたらキスされる。
正直恥ずかしいけれど許可を出してしまったものだから、拒めないし困ったことに嫌じゃない。
男同士というものは予想外にまったく気にならなかった。
リルトがまったく気にしたそぶりがないのもあるけれど、女は爽子で苦手意識があるような気がするから、逆に男が相手でよかったかもしれないと伊織は思った。
診察室にて。
向かいの椅子には、呼び出した日下部が座っている。
大事な話があると言われて、伊織だけでなく何故かリルトも一緒だった。
パソコンを見ていた日下部が、体ごと伊織へと向き直る。
「薬はだいぶ抜けましたね。吐き気も眩暈も最近は無いようですし」
「そうですね、体調結構いいです」
年々具合が悪くなっていたから、体に不調がないのはとても不思議だった。
「オメガとしてのフェロモンや他の数値も、最初に比べたら安定してきました」
日下部の言葉に、リルトがよかったと言ってそっと右手を取られた。
その表情は本当に心から安堵しているようで、何だか面映ゆい。
「食事もクランベルさんが差し入れしているものは、よく食べているとか」
「あー……そうですね。病院のご飯多くて、見てると食欲がなくなるというか……すみません」
「だいぶ減らしてるんですけれどね」
日下部に驚いた顔をされてしまった。
そうか、あれで減らされた量なのかと、いつも配られるトレーの食事を思い出しげんなりする。
リルトのお弁当を中心にだいぶ食べる量が増えたと思っていたけれど、まだまだらしい。
長年食事に拒否感があったせいか、量を見ると見ただけでうぷっと満腹な気分になってしまうのだ
リルトの作ってくれるお弁当は全部一口サイズで量もそんなにないから、正直凄く食べやすい。
改めて考えると、とても気遣われているなと思い至った。
「それでですね、提案があります。お二人はマッチングを進める気はありますか?」
思ってもみなかった質問に、ぱちりと伊織はまばたいた。
日下部は柔和な表情でにっこりと笑って見せる。
「町田さんの体調はクランベルさんが側にいることで安定している可能性が高いです」
「そうなんですか?」
「オメガにとって信頼できるアルファが側にいるのは何よりも心身の安定に繋がります。投薬治療もそろそろ開始しますけれど、現状あまり体に負荷をかけない方が望ましいですね。なので病院にいるより二人で過ごした方がいいのではと思っています」
日下部の言葉をなんとか脳内にて噛み砕くと、伊織はへ?とまぬけな声を出した。
「それって退院してリルと住んだ方がいいってことですか?」
「そうです」
あっさり頷かれてしまった。
「いや、そんな迷惑は!」
驚いて伊織は手を動かそうとして右手が大きな手に握りこまれていたことを思い出した。
そんなことを言われたらリルトも困るだろうと慌てて横を向けば、目があった途端に満面の笑みを向けられた。
なんていうか凄く嬉しそう。
これは迷惑なんて微塵も考えていない顔ではなかろうかと、確信にも似たものを持ってしまう。
「機関には話はしてあります。仮番でもいいので一緒にいた方が、町田さんの体にいい筈です。お二人で話し合ってくださいね」
「……わかりました」
そうとしか答えられず、診察室を後にした。
いつも通りに面会室で望月と合流して隣同士の椅子に腰を下ろしてからは、伊織は落ち着かなげにキョロキョロと視線をさまよわせた。
リルトがそっと顔を覗き込んできてドキリとする。
「伊織はさっきの話どう思った?」
「どうって……」
「困る?」
「困るのはリルじゃない?」
さっきは困ってるようには見えなかったけれど、一応聞いてみた。
けれどリルトはにっこりと笑い完全に否定してきた。
「俺は困らないよ。伊織が嫌でないなら、好機とばかりに家に連れ帰りたい」
「正直すぎる」
思わず笑ってしまうと、リルトも笑い返してくれたおかげで、変に体に入っていた力が抜けた。
「えっと、でも、本当に迷惑じゃないの?いや俺行く当てないから正直本音は助かるけど」
「来てくれたら嬉しい。実は思いがけない展開に、伊織を抱えて走り回りたいくらいテンション上がってる」
おどけて見せるリルトに、伊織は笑いを零した。
本音かもしれないけれど、気遣ってくれてもいるのだろうと思う。
「やめてね、テンション高すぎるでしょそれ」
クスクス笑うと、リルトがそっと伊織の右手を両手で包んだ。
ただでさえ大きさが違うのに、両手で包まれるとすっぽりと伊織の手が隠れてしまう。
温かさとは別になんだか安心もした。
「でも本心だよ。仮番でかまわない。マッチングを受け入れて一緒に住んでくれないか」
「ええと、ごめん。その仮番って何?普通の番と違うの?」
「聞いてない?」
「うん」
聞きなれない言葉だ。
素直に知らないと頷けば、リルトは少し考えたあとに苦笑を漏らした。
「聞いたらマッチングを拒否する可能性も考えて言わなかったのかな。仮番はそのまま仮の契約状態だよ。ただ噛んでマーキングするんだ。そうしたら一年くらいは他のアルファに噛まれても番にならない。発情期やフェロモンは変わらないけどね」
「ちゃんとした番とは違うんだね」
「本契約をすれば番のアルファにしかフェロモンも発情期も反応しない。そして本契約はセックスして射精中にオメガの項を噛むんだ。発情期じゃなくても契約は成立する」
「何それ!」
まさかの本契約の方法に、伊織はボンと顔を一瞬で真っ赤にさせた。
そんな恥ずかしい方法なんて一ミリたりとも予想していなかったので、激しく動揺してあわあわと視線が泳ぐ。
(つ、つまりリルに抱かれるってこと?キスすらする自信ないよ!)
内心は悲鳴の嵐だった。
そもそも抑制剤の効果なのか、伊織は性欲を一切感じたことはない。
反応だってほとんどしたことないので、必然的に自慰もほぼしたことがないのだ。
はっきりいってセックスなんて高難易度すぎる。
ダラダラと冷や汗をかく伊織に、なだめるように片手が右手から離されて背中を撫でた。
「落ち着いて、君が嫌がることは絶対にしない」
「いや、でも」
「本当だ。仮契約出来ればとりあえず俺は安心出来る。仮契約ならただ噛むだけで済むんだ」
嘘は言っていない声音だ。
そもそも会ってからリルトはずっと真摯に接してくれているから、そう言うのなら伊織に無理強いはしないと思えた。
「そうなの?」
おそるおそる尋ねれば、しっかりと頷かれた。
背中を撫でる手が止まり、そっと添えられる。
「うん。そうすれば少なくとも他のアルファに取られることはないし、機関も他の候補は出してこない」
「他の候補?何それ、他にもアルファと会うってこと?」
そんな話は聞いていない。
はくりと唇が我知らず震えた。
右手を包むリルトの手が、きゅっと握られる。
「俺とのマッチングが上手くいかなければ、他のアルファとのマッチングになる。勿論オメガである伊織の意見が優先されるから、そこは安心して」
そんなことがあるのか。
今の今まで予想もしていなかったことだった。
リルトを不安げに見ると「でも」と右手が離された。
体温が離れたことで物足りなく感じた瞬間、ぎゅうと抱きしめられる。
大きな体に隠されるように抱き込まれると、何だか酷く安心した。
「俺は他のアルファに伊織を渡したくない。だから俺を選んで」
懇願するような声だった。
目じりにそっと唇が押し付けられる。
他のアルファとマッチングをすれば、こういうことも他のアルファとすることになるのだろうかと頭に過った。
リルトとのマッチングがなくなれば、もうお弁当を作ってもらうことは勿論のこと、話すことも無くなる可能性がある。
そっと自分を抱きしめるリルトの顔を見上げると、やっぱり無碍に出来ない表情を浮かべている。
(子犬みたいな顔も見れなくなるのかな)
この可愛い人と接点が無くなる。
そう考えると、心にぽっかりと穴が開いてしまいそうだと思った。
「……リルと会えなくなるのは嫌、かも」
「伊織……」
「でも俺好きとかわからないし……人と交流したことないから」
視線をさまよわせると、頬に手が当てられてひたりと視線を合わせられた。
紺碧色がじりじりとした熱さを湛えていて、視線を逸らせない。
「かまわない、仮契約だけでいい。俺と一緒にいてほしい」
「……いいの?」
「それがいい。言ったろ、好機とばかりに連れ帰りたい」
おどけて見せるから、ふふっと笑いが零れてしまった。
そうだなと思う。
リルトなら、きっと自分を傷つけたりしないんじゃないかと変に信頼出来てしまった。
アルファの傍にいた方がいいなら、ここまで伊織を想ってくれるリルトがいい。
「うん。仮契約、お願いします」
口した途端、パアッとリルトの表情が華やいだ。
まるで宝箱を開けた少年のように、無邪気で満面の笑み。
(あ、可愛い)
思ったときには手を伸ばして、その豪奢な金髪を撫でていた。
一瞬驚いたリルトの目がしんなりとたわむ。
「このあいだも撫でてくれたね。頭撫でられたのなんて初めてだったよ」
「可愛いからつい」
パッと手を離すと抱きしめていた腕が片方解かれて、右手を掬い上げられた。
そして手の甲に柔らかな唇が触れる。
「もっと撫でていいよ」
「それ言っちゃうところがなあ」
恥ずかしいより仕方ない人だと思ってしまった。
顔を見合わせると、お互いくすりと笑い合う。
そのあとは衝立から望月が出てきて、とても恥ずかしかった。
マッチングの成立について話を詰めましょうと言われて、そういえば衝立の向こうには全部聞こえていたんだと今までの面会が頭を駆け巡り身もだえた。
その場で話を詰めたら日下部にも連絡がいき、あれよあれよという間に退院日も決まってしまった。
展開が早いなか、花にも連絡をしたら退院日に来ると言われて迎えに来るリルトと会うことになるなとのんびり思う伊織だった。
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