手児奈し思ほゆ

三谷銀屋

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破滅

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 俺は結局、手児奈を村から連れ出すことができなかった。
 心を堅く閉ざした手児奈の目に俺は映らない。そんな手児奈を無理に俺のものにすることは出来ないと思ったのだ。
 その代わり、俺は毎日欠かさずに手児奈の家に行き、俺の作った小さな畑で採れたいつくかの菜や入り江で採った魚など、食べる物を運んだ。屋根の茅も葺き直した。
 村の者はほとんど手児奈の家に近づこうともしない。商人の言ったように、いくら手児奈が国造の母から拒まれているとはいえ、手児奈は歴とした国造の血縁者である。手児奈の後ろにあるかもしれない国府の威光を村人達は恐れ、敢えて避けるようにしているらしかった。
 しかし、このことは俺にとっても手児奈にとってもかえって都合が良かった。俺は手児奈と一緒にいるところを村人に見咎められずに済んだし、手児奈が一人の時に村の男達に狼藉を働かれる心配もなかった。
 俺は手児奈の暮らしの面倒を見ながらも手児奈には指一本触れずにいた。
 俺は待っていたのだ。手児奈がいつの日か正気を取り戻し、その瞳にしっかりと俺の姿を映してくれることを。そうしたら、俺は手児奈を女房にし、二人でこの村を出て新しい暮らしを始めよう。そんな夢のようなことを考えていた。
 しかし、月日が過ぎても、手児奈は相変わらず一言も言葉を発しなかった。始終、ぼんやりして何の感情も宿さない目を虚ろにさまよわせている。俺が食べ物を差し出せば、両手で掴み、物も言わず獣のように貪った。
 おしゃべりが好きでくるくると表情を変え、泣いたり笑ったりしていた少女の頃の手児奈を思い出すと、胸の奥が痛くなるようなやるせなさを感じる。
 一体、何が手児奈をこんなにまで変えてしまったのか。嫁に行った上総国での悲惨な出来事のためか。それとも、それよりもっと前……生まれ育った国造の館での窮屈な気苦労のためか。おそらく様々なことが積み重なりすぎて手児奈からついに心を奪ってしまったに違いない。
 手児奈の身の上を痛ましく思えば思うほど、俺の怒りの心は、手児奈の継母にではなく、むしろ荒嶋に向かった。己の母の横暴を止めることもできず、手児奈を守ることのできなかった荒嶋を俺は強く蔑み、そして恨んだ。

 俺が手児奈の近くで過ごす日々は、行き詰まりながらも穏やかにゆるゆると流れていった。しかし、そんな緩慢な時の流れにも楔が打ち込まれる日が来た。
 それは冬の足音がそろそろ聞こえてくる頃かという、肌寒い朝のことだった。その日、空は青く澄んで冴え渡っていた。

「皆の者、しかと聞け!」

 馬に跨がって胸を張った役人が往来の真ん中で声を張り上げた。いつものように通りの端に座って物乞いをしていた俺は顔を上げる。慌ただしげに立ち働いていた商人や馬子達も、足を止めて振り返った。

「今朝方、国造のお母上である沙由子様が身罷(みまか)られた」

 人々の間にざわめきが広がった。役人は咳払いをして続ける。

「これより、七日間、皆の者よく喪に服せ。通りでの商売も行うことまかりならんぞ。よいな!」

 往来の者達は顔を見合わせた。言葉には出さないが、誰の目にもありありと不満の色が浮かんでいた。通りに集う人足や商人達のほとんどは、明日あさっての暮らしも覚束ない中で毎日をしのいでいる。七日間も商売を禁じられてはたまらない。顔さえ知らないような貴人の死を悼むよりも、自分たちが今日明日生き抜くことの方が大切なのは誰もが同じだった。
 役人が去ると、皆、ぶつくさと文句を言いながらも商売道具を畳んでいく。商売と言っても何も持たない身軽な俺は、商人達の店じまいを尻目にさっさとその場を立ち去った。
 歩きながらも頭の中では手児奈のことを考えていた。
 手児奈を疎んじていた沙由子が死んだ……。手児奈は国造の館に帰ることができるかもしれない。おそらくその方が手児奈のためには良いだろう。入り江のあの粗末な家に住んでいるよりは……。
 しかし、それは俺がもう二度と手児奈には会えなくなるということでもある。俺の心中は複雑だった。手児奈がもし館に戻ってしまうのだとすれば、その前にせめて手児奈と言葉を交わしたかった。凍てついた手児奈の心がいくらかでも解け、俺のことを思い出し、かつてのように俺に微笑みかけてほしい。そんな虚しい望みが胸の奥に疼く。
 俺の足はいつものように自然に手児奈の家に向かった。

 入り江に続く薄の原の手前で俺はふと立ち止まった。
 人の声がする。今までにないことだ。手児奈はしゃべらないし、ここに来る人間も俺以外にはまずいない。
 俺は身を低くして、音を立てないように足を忍ばせて手児奈の家に近づいていった。
 手児奈の家の傍らに立つ松の木に大きな黒毛の馬が繋がれている。毛並みが滑らかで、背に載せられた鞍も意匠を凝らした贅沢なものだ。
 荒嶋の馬だ、と俺は思った。胸の中がひやりと冷える。そのうちに国造の使いが手児奈を迎えに来るだろうとは思っていたが、荒嶋が自ら一人でこの場所へやってくるとは考えてもいなかったのだ。しかも、母である沙由子が死んだその日に……。

「手児奈、何とか言ってはどうだ」
 
 家の中から荒嶋の声が聞こえた。

「母上は身罷った。ぬしは館に戻れるのだ。今はまだ戻すことはできぬが……母上の殯(もがり)が終われば改めて使いを寄越そう」

「…………」

 やはり手児奈は荒嶋に対しても何も答えずにいた。

「手児奈……聞こえているのか、いないのか、わしの言うことが。聞こえているのなら、しかと聞け。母上の殯が終わったのならば……わしはぬしと婚礼を挙げる。良いか? ぬしは国造の妹としてただ館に戻るのではない。わしの妻として館に入るのだ」

「…………」

「手児奈……ぬしも気がつかなかったわけではあるまい、わしの心に。わしは昔からぬしのことを……」
 俺の鼓動が早くなる。手が震えた。荒嶋の言葉を聞く手児奈がどんな表情を浮かべているかは俺には分からない。俺といる時と同じように、氷のような無表情で、うつろな瞳をあらぬ方にさまよわせているだろうか。それとも……。

「手児奈、わしのものになれ……」

「……っ!」

 手児奈が後ずさり、息を呑む気配が伝わった。ゴツン、と家の中の壷が転がる鈍い音がした。

「手児奈……!」

 荒い息づかいで荒嶋が叫ぶように手児奈の名を呼ぶ。

「…………いやっ……!」

 それは確かに手児奈の声だった。俺が十余年ぶりに耳にした手児奈の声。

「いや……いやだっ…………いやあああああああぁぁ!」

 閉ざされていた感情が突然奔流したかのように、喉も破れんばかりの手児奈の絶叫が響いた。次いで、激しくもみ合うような音が聞こえる。
 手児奈を救わなければ。頭ではそう考えたものの、俺は石のようにその場から動くことができなかった。

「いや……いやっ……!」

 髪を振り乱し、衣も痛々しく破れて半ばはだけさせた手児奈が家からよろめくように飛び出してきた。それを荒嶋が追いかける。

「手児奈……!」

 荒嶋は逃げようとする手児奈の肩を掴んで乱暴に引き寄せた。

「や……あにう……え、やめてぇ……いやあああ!」

 手児奈の泣き叫ぶ声が響いた。水鳥達が驚いたように飛び立つ。
 手児奈と荒嶋は共に倒れ込んだ。

「手児奈、手児奈……手児奈っ……!」

 荒嶋が狂ったように手児奈の名を呼ぶ。生い茂った薄がゆさりゆさりと揺れた。
 手児奈はもう叫ばなかった。
 その代わり、手児奈が時折しゃくりを上げてすすり泣く声と、荒嶋の獣のような息づかいが途切れ途切れに続き、入り江に充満する湿った空気を震わせた。
 俺は家の陰に隠れたまま一歩も動けずにいた。頭の芯が痺れて何も考えられない。目を閉じた。なぜか瞼の裏の闇の向こうに、通りの端で血塗れになって死んでいた親父の姿が唐突に浮かんだ。
 俺は墓守だ、と痺れた頭で思う。そして、荒嶋は国造なのだ。広大な下総国の民の全てを治める国造……。
 そうしている内にどれほどの時が過ぎたのか。
 気がつくといつの間にか手児奈のすすり泣きは止んでいた。目を開ける。荒嶋一人が立ち上がり、薄の中に伏したままの手児奈を見下ろしていた。

「……また来るぞ、手児奈。次はぬしを迎えに来る」

 自らの欲を果たしておきながらその行いを悔いているのか、荒嶋はやけに弱々しい声色で手児奈に言った。そして、いつまでも起きあがらない手児奈はそのままに、自分の着ているものを整えて黒毛の馬に跨がると早々に去っていった。
 馬蹄の音が遠ざかり聞こえなくなると、俺はようやく立ち上がった。手児奈の元にゆっくりと歩み寄る。
 手児奈は胸もはだけて秘部も露わにした姿のまま、薄の中に仰向けに倒れていた。手児奈は天に向かって目をしっかりと開けていたが、その瞳はやはり何も映していないようだった。俺が近づいたことにも気がついていない。
 しかし、今までずっと氷のように無表情だった手児奈の顔には明らかな苦悶と哀しみの色が浮かんでいた。眉根には深いしわが刻まれ、頬には幾筋もの涙の跡が残されている。
 白い肌を日に晒した胸は、手児奈が息をする度に苦しそうに上下していた。
 俺はこれ以上手児奈に近づくことを躊躇った。俺は今の手児奈に手を差し伸べることができるのか、と考える。
 荒嶋は言っていた。「手児奈を迎えに来る」と。国造の妻と墓守の女房……どちらが手児奈の幸せかは誰に訊いたとしても明白だろう。きっと手児奈もいずれ正気に戻り、そう考えるに違いない。
 俺は無理矢理、自分にそう言い聞かせた。俺はもう手児奈とは会ってはならないのだ。
 俺は手児奈から目を背け、踵を返した。丈の高い薄を手でめちゃくちゃにかき分けてがむしゃらに駆ける。入り江のあの家から、手児奈から、逃げ出すように。それでも、手児奈がすすり泣く悲しげな声が追いかけてくるように耳の中に響き、いつまでも消えてくれなかった。

 手児奈が真間の入り江に身を投げて自らの命を絶ったのはその晩のことだ。
 月のない、暗い夜のことだった。
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