月影の約束

藤原遊

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1章

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冷たい夜風が廃屋の中に吹き抜け、月影澪はぞくりと肩を震わせた。目の前に立つ青年の姿が、どうにも現実感を欠いて見える。闇の中に溶け込むかのような白い肌と、儚げな横顔。彼の存在そのものが、この場所の異質さを象徴しているようだった。

「名前は?」澪は強く尋ねた。

青年は彼女をじっと見つめたまま、一瞬だけ唇を噛むように迷った。だが次には、静かにその名前を口にした。

「……篠崎陸。」

その響きに、澪は奇妙な既視感を覚えた。どこかで聞いたことがあるような──いや、聞いたことがないはずなのに、頭の奥深くに刻み込まれているような感覚だ。

「あなた、どうしてここにいるの?」

澪の問いかけに、陸は目を伏せた。長い睫毛が切なげに影を落とす。

「俺は、ここに縛られている。何もできずに、ただ……」

「ただ?」彼が口を閉ざそうとしたのを、澪は逃さなかった。

「ただ、見届けている。誰かがここに足を踏み入れないか。それを待つために。」

その言葉に澪は息を飲んだ。まるで彼が、この場所に命じられて立っているかのような響きだった。

「待つって……誰を?」

「俺をここに縛りつけた人間だ。」陸の声はどこか虚ろで、諦めを含んでいた。

澪は目を細め、彼をもう一度観察する。陸の佇まいには、恐怖や怒りといった感情はない。ただ、長い時間の果てに置き去りにされたような静けさだけが漂っていた。

「それが……この場所の呪い、ってこと?」

彼は何も答えず、代わりに月明かりを背にふっと微笑んだ。その笑みが、どうしようもなく胸を締めつけた。

「教えてほしいの。この場所で何があったのか。あなたが縛られる理由も。」

「……知ってどうする?」彼の声はかすかに震えていた。「君には何もできない。帰ったほうがいい。今ならまだ間に合う。」

澪は一瞬躊躇った。だが、心の奥底から湧き上がる衝動に背中を押されるように口を開いた。

「私には、帰れない理由があるの。」

その言葉に、陸は初めて表情を曇らせた。彼女の中に何か強い決意があると気づいたのだろう。

「なら……覚悟しろ。この場所に触れるということは、君の過去も未来も変えることになる。」

「それでもいい。」澪の瞳は揺るがなかった。

陸はしばらく彼女を見つめた後、静かに踵を返した。

「ついて来い。」

澪は無言で彼の後を追った。彼の歩みは軽やかだったが、どこか虚ろで、地に足がついていないようにも見えた。彼の背中を見ながら、澪はひっそりと拳を握りしめた。

廃屋の奥へと進むにつれ、空気は一層冷たくなり、闇が濃くなっていく。壁には古びた木材の裂け目から湿った風が吹き込み、天井から滴り落ちる水音がどこからともなく響いている。

「この奥に……何があるの?」澪が声をかけると、陸は短く息を吐き出した。

「過去の残骸だ。20年前、ここで起きたことのすべてが眠っている。」

その言葉に澪の心臓が跳ね上がる。彼女がこの場所に来た理由、その核心がそこにある。だが、その残骸を見ることが彼女にとって何を意味するのか──その時はまだ知る由もなかった。

彼らがたどり着いたのは、廃屋の一番奥にある部屋だった。扉はひどく古びており、触れただけで崩れそうなほど傷んでいる。陸がその扉に手を伸ばすと、静かにきしむ音を立てて開いた。

その瞬間、澪の目に飛び込んできたのは、壁一面に描かれた奇妙な文様だった。円形に描かれたその模様は、見たこともない不気味な形をしている。何かを象徴するようでいて、言葉では表現できない。

「これは……何?」

「儀式の痕跡だ。」陸が低く答えた。「ここで20年前、魂を繋ぎ止めるための儀式が行われた。失敗した儀式だ。」

澪は言葉を失った。この場所が、彼が今ここに存在している理由に繋がっている。彼の冷たい瞳に浮かぶ悲しみが、ようやく少しだけ理解できた気がした。

「そして……その代償として、俺はここに囚われた。」

彼の声はひどく静かで、澪の耳に痛いほど響いた。
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