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ヒリキかもしれないぼくとぶどう畑とくそじじい
初げんかと佐伯母の行方
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山のすっきりとした空気がぼくらをつつんだ。あの家のよどんだ空気とは大違いだ。
「あ~、すっきりした。よく言ったね。あの家でまともなの、おじさんだけだね」
と、光岡は言った。
違う。
「よくよく考えてみ。あの二人を止められない時点で、もうそれは共犯なんだよ」
そう、あの健次さんは、あの家にいて、くそじじいとくそばばあを止められなかった。もうそれだけでバツ!
佐伯は、黙ったままだった。
「大丈夫か? 言いすぎたかも」
と、声をかけると、佐伯は首を横にふった。
「おれの居場所ってないんだな」
極端じゃないか? 自分の血を分けたじじいが嫌なやつだからって、なんで居場所がないになるわけ? 本当に佐伯は…、あほだ。
でも、わからないわけでもない。母親に会えるかもって思って緊張して来てみれば、あんなひどいじじいがいて、ごちゃごちゃ言ってさ。嫌だよね。でもさ、居場所って、そんなに大事か? ぼくだって、ない。いやプラモ屋は居場所になるか。でもまだ一回しか行ってないし。どうなるなんてわからない。
家が安心できないっていうのは、つらい…。それはわかるけどさ。
「そんなことないよ。できるって」と、光岡がかばうように言った。
「そんなことない? それはある人が言うんだよ! 光岡の家は、優しい親といいお兄さんがいて、クラスの人気者で、居場所いっぱいあるじゃないか!」
と、佐伯は急にどなった。
光岡は、びっくりしたという顔をしている。
「渋谷だって、そうだ。いい家があるじゃないか。それに比べたら…」
いい家だって? いい成績をとらないと怒る母親がいる家が? 看病もろくすっぽしてくれない、お金だけしかくれないアレが? 父親もほとんど家にいないのに? どんな家族だ。
佐伯、お前はぼくたちに甘えすぎてる。ぼくだって、ぼくだってしんどい。だけどさ、佐伯のためだと思って、付き合ってるのに、なんで、そんなことを言うんだ。いい家? 冗談じゃない。母親をアレと言う気持ちなんて、佐伯わかるのかよ。わかんないだろ。
頭にかっと血が上った。ついバッと言葉が飛び出した。
「お前に何が…。あんな家族、欲しかったらやるよ。わかってくれたと思ってたけど、違ったんだな」
思わず、手に持っていたパーカーを地面にたたきつけた。すっとした。
ぼくの気持ちは? ぼくががんばって佐伯のためにって思っていたのは、佐伯のためにならなかったのか? 心が通じ合ったと感じてたけど、そうじゃなかったのか? 間違いだったのかもしれない。
「どうしちゃったの、ねえ。3バカでしょ、私たち。チームじゃん」
と、光岡はおろおろしている。
佐伯は目がつり上がった状態で、そのまま雨宮家の左の道路をずんずん歩き始めた。佐伯がぼくから離れると、すっとヒートアップしていた熱が引いた。ちょっと待て。このまま佐伯を一人にさせていいのか。いや、まずい。
どうしていいのか迷っている光岡に声をかけた。
「悪い。佐伯についていて。ぼくは今、ちょっと、無理…」
ぼくと光岡はスマホを持っている。佐伯は何もない。つまり、佐伯がはぐれたら、連絡がとれないことを思い出した。
光岡はすぐに察してくれたようで、うなずくと、ダッシュして佐伯のあとを追っていってくれた。
そうか。改めて当たり前のことに気がついた。佐伯には、何もない。スマホも持ってない。何もないだということに…、ぼくは改めて気がついた。
◇ ◇
初めてケンカした…。ぼくはその場にしゃがみこんでしまった。どうしよう。
どうしてあんな言葉が出てしまったのだろうか。つらい思いをしている佐伯に何と言った? ひどい言葉を投げつけたよな。佐伯に申し訳ないという自分を責めるような気持ちになった。
ぼくはどうしたっけ。自分のつらい部分をわかってくれと佐伯に強制した。ぼくはばかだ。今、一番大切にしなきゃならないのは佐伯の気持ちなのに。守ろうと決めたのに、それなのに…。さっき言った言葉をぼくの中に戻したい。しばらく動けなかった。
サービスエリアであんなに気持ちよく叫んだ富士山には、雲がかかって、見えなくなっていた。
心の中で、また「ばかやろう」と叫んだ。佐伯の気持ちに鈍感になっていた自分に対しての「ばかやろう」だ。情けないな、ぼくは…。
少し頭を冷やさなきゃ。土にまみれたパーカーを拾って、歩き出すことにした。
◇ ◇
佐伯が行った方向とは反対の方向、右の道をぼくは歩き始めた。
左右には、ぶどう畑しかない。目印がないのだ。人も見当たらない。どこだ、ここ。迷路にでも入りこんだ気分だった。
2、3分くらい歩いただろうか。ふと視線を感じた。じっと見られているような気がする。
急に声がした。
「おまん、どこのぼこずら」
何? どこにいるんだ、声の主。あたりをきょろきょろと見まわした。畑の奥から、作業着姿をした小さなおばあさんがのそっと出てきた。この人が声の主か。
突然の出現で、言葉が出てこない。謎のおばあさんは、同じことを繰り返した。
ぼこ? ずら? ぼこは、子どもという意味だというのは、あのくそじじいとのやりとりでわかってる。意味は、お前どこの子か、ってこと?
「え~っと、佐伯、いや佐伯じゃない、雨宮…さんの関係者なのかな、です」
と、しどろもどろで答えた。
「美穂ちゃんのぼこかい」
いやいや違うって。それは佐伯。
声の主が、網をくぐって、ぼくが歩いている道に出て来た。
「ほうけ、美穂ちゃんの」
どう言ったらいいんだろう。そのおばあさんは、ぼくを佐伯だと決めつけている。
「美穂ちゃん、元気けえ。おめもあかんころ、ちんびぃかったのに、でっかくなって」
一人でがんがんしゃべってくる。むちゃくちゃパワフルなおばあちゃんだ。誤解だと言いたいけど、口をはさむ余地がまったくない。
佐伯に小さい時に会ってるってこと? どうしよう。ぼくは佐伯じゃないけど、ここで訂正するより、話を聞き続けたほうがいいか。
「よく知ってるんですか?」
「ほうけ、ぼこん頃から、知っとるさー」
佐伯のお母さんの知り合いか。そりゃ、こんな田舎なんだから、東京とは違って、近所はたいてい顔見知りなんだろうな。
「元気そうで、よかったじゃんけ。深沢さんちのさつきちゃんから、最近の美穂ちゃんの話は聞いちゃってたども、元気そうでなによりさ」
深沢さんちのさつきちゃん? 最近の話を聞いてる? ということは、もしかして、深沢さつきさんという人はお母さんと連絡をとっているってことなのかな。違うかも。念のため聞いておくことは…いいよね。
「あの、美穂さんの居所を、深沢さんは知っているんですか?」
おばあさんはうなずいた。
「おまん、知らなんだんけ。雨宮さんちには、いっらっこと、いわんくりょう。さつきちゃんから止められてっから」
「いっら」は、いらない…かな。「いわんくりょう」は言わないでかな。ということは、『今言ったこと、言わないで』ってことか。と、いうことは、その深沢さつきさんという人に聞けば、行方がわかるってこと?
手がかりがつかめた? ちょっと、えっ。超ラッキーってこと?
何も手がかりがないのだから、情報があるなら、どんなことでもほしい。行くしかないか。
「ありがとうございます。深沢さんにお会いしたいんですけど、家はどこですか?」
「その先を曲がった先さー」
たぶん行けばわかる、かな。不安だけど。道もわかんないし。でも…とりあえず行こう。もう何もてがかりがないんだから。行動…あるのみ、か?
謎のおばあさんにお礼を言うと、手を出してきた。握手ってことかな。おばあさんの手をにぎった。しわしわで、がさがさで、シミもいくつかあるけど、あたたかな手だった。
「元気そうでよかった。気をつけろしね」
おばあさんは、そう言って、手をふってくれた。
◇ ◇
おばあさんは、すぐって言ってた。けれど、そうじゃない! 田舎のすぐと東京のすぐって…違う。家がない。ぶどう畑だらけだ。どこにあるんだよ、家。車だと感じないけど、歩くってなると…。ぶどう畑の間に家があるって感じなのかな。今、自分がどこにいるのかさえわからない。それにこの先、二手に分かれてる。大きな道路から入った時、こんな道、あったっけ。どうしよう。
ふと、スマホを見る。着信は…ない。大丈夫か。佐伯。
光岡がスマホを華麗に操作していたことを思い出した。あ、GPS。そっか、光岡みたいに調べればいいんだ。そう思って、自分の位置情報を確認した。少しマップを拡大すると、家が数軒あった。そのまま右に行けば、通ってきた道だ。左に進んでみた。
少し行くと、表札に『深沢』とある家を見つけた。雨宮さんの家と同じように大きい。敷地に足を踏み入れた。どうしようか。知らない家に突撃するのは、度胸がいるな。少し迷ったけど、姿勢を正し、前へと進んだ。
チャイムを鳴らした。「すみませ~ん。深沢さんいらっしゃいますか」と大きな声で、家の人を呼んだ。すると、奥のほうから「は~い」という声が聞こえた。玄関の戸に手をかけると、するすると開いた。女の人が出てきた。やった。ビンゴ?
奥から出てきたのは、たぶん深沢さつきさん? まだわからない…けど。顔は浅黒く、きびきびした感じの人。お腹が大きい。赤ちゃんがいるんだ。
「あの、深沢さつきさんですか? 雨宮美穂さんのお知り合いの?」
「そうだけど、誰? ここらへんの子じゃ…ないよね」
よかった。佐伯母のことを知っている人だ。緊張の糸が切れたような気がした。…よかった。ひざからくずれ落ちるような感覚だった。
ぼくは、虐待のことを除いて、今までのことを説明した。最初、警戒していた深沢さんも少しずつ話してくれた。なまってないかなって思ったけど、標準語。助かった。そのことを言うと、さつきさんは「年寄しかなまってないから」とけらけらと笑った。
「まあね、美穂ちゃんはお父さんのこと嫌ってたしね。年中聞かされてたよ。健次ばっかりかわいがるって。ひどいことを言われて、よく泣いていたし。あのお父さん、見た?」
ぼくはうなずいた。
「まあ、ぶっちらかす人でさ、嫌ってたの。それにさ、知ってっかわかんねども、美穂ちゃん、旦那にイジメられてたんだよ、ひどくねか。子どもに言うことじゃねかもしれんが」
知ってます。だから来たんです。それにしても、ぶっちゃけすぎじゃね。それに標準語じゃないぞ。あの雨宮家の人やおばあちゃんよりは意味がわかるけど。ぼくはうなずいた。
「佐伯を置いていったことも聞きました」
「知ってたんかね。本当は連れて行きたかったみたいなんだけども、離婚すっ時は、美穂ちゃんボロボロでさ、そのまま病院に入院したのさ。お父さんは、離婚に反対すっしで、家、帰ってこれなかったさ。相談にのってたんだけども、ここには住めねえって、さ」
入院してたから、子どもを引き取れなかったんだ、そっか、単に邪魔でいなくなったわけじゃないのか。
何で、佐伯のお母さんは、あんな男と結婚したのだろう。ずっと疑問に思ったことを聞いてみよう。教えてくれるかな。
「あの、つっこんだことを聞きますが、何で佐伯のお母さん、あの人と結婚したんですか? すごく謎で」
さつきさんは、少しためらっていたが、教えてくれた。
「ここらの人は知ってっから、まあいいけ。峻ちゃんは知らんだか。知ってたほうがいいかもしれん。教えてあげてくれんけ」
話によると、長雨のせいで、ぶどうにカビが生える病気がまん延した時、雨宮さんは多額の借金をしたらしい。ちょうどその時、知り合いだった佐伯の父方のおじいさんが借金の肩代わりをしてくれることになった。前から佐伯のお父さんは、お母さんが好きだったらしく、その代わりに結婚してくれと圧力をかけたのだそうだ。
「そんなのおかしいじゃないですか。お金で買われたようなものってことですよね。今の時代、そんなことあるんですか」
「私もそう思って、言ったんよ。『おかしい』って。そうしたら、『お父さんがそう言うから』って。美穂ちゃん、逃げればよかったのにさ。嫌ってたのに、なぜ言うことを聞くのか、わかんね」
借金のかた? いまどきそんなことがまだあるなんて、信じられない。おかしい。
あのくそじじいが言いそうだっていうことはわかる。佐伯のお母さんは、なぜ従ったんだろう。
暴力…。つながっている、のか。くそじじいとくそおやじがどなるのは、暴力で優位に立とうとしているからだ。あの二人は血がつながってないけど、同じことをしている。
ああそうか。じそじじいたちは自分の思いどおりにさせたいんだ。あの家で感じたとげのある、いやな空気は、そういうところから生まれたのかもしれない。
そうだ、肝心なこと聞かなきゃ。
「あの、佐伯くん、お母さんに会いたがっているんですけど、お母さんが今、どこにいるか知ってるんですよね」
「ん、だども、住所はわかんね。この間、旦那の妹の家に行った時、偶然、ショッピングモールで見かけたのさ。ほら、横浜にあるキングスクエアっての、そこのお惣菜売り場にいてさ。似てるなあと思って、声をかけたら、美穂ちゃんでびっくりしたさ。あんまり元気なかったけんども」
いつごろのことだろう。もういない可能性もあるはず。聞いた。
「ゴールデンウイークの頃だから、まだそんなにたってないよ。雨宮のじいさまには言うなって言われたけど、小林のおばあちゃんには喋ったさ。心配さ、してたっから」
やった! 単純にホッとした。ミッションコンプリートだ。知りたかった佐伯母の行方も雨宮家のことも、少しわかった。深沢さんに感謝だ。これで、佐伯にお母さんを会わせてあげられるかもしれない。
ぼくは、色々教えてくれた深沢さんにお礼を言って、家をあとにした。
◇ ◇
ふとスマホを見ると、着信履歴がすごいことになっている。深沢さんの家を探して、1時間はたっていた。
まずっ。それも光岡と小田切先生の両方。うざいと思って、ミュートにしていたのがよくなかったかも。LINEをすると、すぐにつながった。
「どこにいるわけ? もう雨宮家は出たんだけど、渋谷が見つからないから、ここらへんうろうろしてたんだよ、ダサっ。今度やったら、GPSで追跡できるようにするからね」
と、光岡がガンガン文句を言っている。先生にかわってもらった。
位置情報を送ってしばらく道ばたで待っていると、車が来た。
GPSって便利。見張られてる感はハンパないけど…。
「あ~、すっきりした。よく言ったね。あの家でまともなの、おじさんだけだね」
と、光岡は言った。
違う。
「よくよく考えてみ。あの二人を止められない時点で、もうそれは共犯なんだよ」
そう、あの健次さんは、あの家にいて、くそじじいとくそばばあを止められなかった。もうそれだけでバツ!
佐伯は、黙ったままだった。
「大丈夫か? 言いすぎたかも」
と、声をかけると、佐伯は首を横にふった。
「おれの居場所ってないんだな」
極端じゃないか? 自分の血を分けたじじいが嫌なやつだからって、なんで居場所がないになるわけ? 本当に佐伯は…、あほだ。
でも、わからないわけでもない。母親に会えるかもって思って緊張して来てみれば、あんなひどいじじいがいて、ごちゃごちゃ言ってさ。嫌だよね。でもさ、居場所って、そんなに大事か? ぼくだって、ない。いやプラモ屋は居場所になるか。でもまだ一回しか行ってないし。どうなるなんてわからない。
家が安心できないっていうのは、つらい…。それはわかるけどさ。
「そんなことないよ。できるって」と、光岡がかばうように言った。
「そんなことない? それはある人が言うんだよ! 光岡の家は、優しい親といいお兄さんがいて、クラスの人気者で、居場所いっぱいあるじゃないか!」
と、佐伯は急にどなった。
光岡は、びっくりしたという顔をしている。
「渋谷だって、そうだ。いい家があるじゃないか。それに比べたら…」
いい家だって? いい成績をとらないと怒る母親がいる家が? 看病もろくすっぽしてくれない、お金だけしかくれないアレが? 父親もほとんど家にいないのに? どんな家族だ。
佐伯、お前はぼくたちに甘えすぎてる。ぼくだって、ぼくだってしんどい。だけどさ、佐伯のためだと思って、付き合ってるのに、なんで、そんなことを言うんだ。いい家? 冗談じゃない。母親をアレと言う気持ちなんて、佐伯わかるのかよ。わかんないだろ。
頭にかっと血が上った。ついバッと言葉が飛び出した。
「お前に何が…。あんな家族、欲しかったらやるよ。わかってくれたと思ってたけど、違ったんだな」
思わず、手に持っていたパーカーを地面にたたきつけた。すっとした。
ぼくの気持ちは? ぼくががんばって佐伯のためにって思っていたのは、佐伯のためにならなかったのか? 心が通じ合ったと感じてたけど、そうじゃなかったのか? 間違いだったのかもしれない。
「どうしちゃったの、ねえ。3バカでしょ、私たち。チームじゃん」
と、光岡はおろおろしている。
佐伯は目がつり上がった状態で、そのまま雨宮家の左の道路をずんずん歩き始めた。佐伯がぼくから離れると、すっとヒートアップしていた熱が引いた。ちょっと待て。このまま佐伯を一人にさせていいのか。いや、まずい。
どうしていいのか迷っている光岡に声をかけた。
「悪い。佐伯についていて。ぼくは今、ちょっと、無理…」
ぼくと光岡はスマホを持っている。佐伯は何もない。つまり、佐伯がはぐれたら、連絡がとれないことを思い出した。
光岡はすぐに察してくれたようで、うなずくと、ダッシュして佐伯のあとを追っていってくれた。
そうか。改めて当たり前のことに気がついた。佐伯には、何もない。スマホも持ってない。何もないだということに…、ぼくは改めて気がついた。
◇ ◇
初めてケンカした…。ぼくはその場にしゃがみこんでしまった。どうしよう。
どうしてあんな言葉が出てしまったのだろうか。つらい思いをしている佐伯に何と言った? ひどい言葉を投げつけたよな。佐伯に申し訳ないという自分を責めるような気持ちになった。
ぼくはどうしたっけ。自分のつらい部分をわかってくれと佐伯に強制した。ぼくはばかだ。今、一番大切にしなきゃならないのは佐伯の気持ちなのに。守ろうと決めたのに、それなのに…。さっき言った言葉をぼくの中に戻したい。しばらく動けなかった。
サービスエリアであんなに気持ちよく叫んだ富士山には、雲がかかって、見えなくなっていた。
心の中で、また「ばかやろう」と叫んだ。佐伯の気持ちに鈍感になっていた自分に対しての「ばかやろう」だ。情けないな、ぼくは…。
少し頭を冷やさなきゃ。土にまみれたパーカーを拾って、歩き出すことにした。
◇ ◇
佐伯が行った方向とは反対の方向、右の道をぼくは歩き始めた。
左右には、ぶどう畑しかない。目印がないのだ。人も見当たらない。どこだ、ここ。迷路にでも入りこんだ気分だった。
2、3分くらい歩いただろうか。ふと視線を感じた。じっと見られているような気がする。
急に声がした。
「おまん、どこのぼこずら」
何? どこにいるんだ、声の主。あたりをきょろきょろと見まわした。畑の奥から、作業着姿をした小さなおばあさんがのそっと出てきた。この人が声の主か。
突然の出現で、言葉が出てこない。謎のおばあさんは、同じことを繰り返した。
ぼこ? ずら? ぼこは、子どもという意味だというのは、あのくそじじいとのやりとりでわかってる。意味は、お前どこの子か、ってこと?
「え~っと、佐伯、いや佐伯じゃない、雨宮…さんの関係者なのかな、です」
と、しどろもどろで答えた。
「美穂ちゃんのぼこかい」
いやいや違うって。それは佐伯。
声の主が、網をくぐって、ぼくが歩いている道に出て来た。
「ほうけ、美穂ちゃんの」
どう言ったらいいんだろう。そのおばあさんは、ぼくを佐伯だと決めつけている。
「美穂ちゃん、元気けえ。おめもあかんころ、ちんびぃかったのに、でっかくなって」
一人でがんがんしゃべってくる。むちゃくちゃパワフルなおばあちゃんだ。誤解だと言いたいけど、口をはさむ余地がまったくない。
佐伯に小さい時に会ってるってこと? どうしよう。ぼくは佐伯じゃないけど、ここで訂正するより、話を聞き続けたほうがいいか。
「よく知ってるんですか?」
「ほうけ、ぼこん頃から、知っとるさー」
佐伯のお母さんの知り合いか。そりゃ、こんな田舎なんだから、東京とは違って、近所はたいてい顔見知りなんだろうな。
「元気そうで、よかったじゃんけ。深沢さんちのさつきちゃんから、最近の美穂ちゃんの話は聞いちゃってたども、元気そうでなによりさ」
深沢さんちのさつきちゃん? 最近の話を聞いてる? ということは、もしかして、深沢さつきさんという人はお母さんと連絡をとっているってことなのかな。違うかも。念のため聞いておくことは…いいよね。
「あの、美穂さんの居所を、深沢さんは知っているんですか?」
おばあさんはうなずいた。
「おまん、知らなんだんけ。雨宮さんちには、いっらっこと、いわんくりょう。さつきちゃんから止められてっから」
「いっら」は、いらない…かな。「いわんくりょう」は言わないでかな。ということは、『今言ったこと、言わないで』ってことか。と、いうことは、その深沢さつきさんという人に聞けば、行方がわかるってこと?
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「ありがとうございます。深沢さんにお会いしたいんですけど、家はどこですか?」
「その先を曲がった先さー」
たぶん行けばわかる、かな。不安だけど。道もわかんないし。でも…とりあえず行こう。もう何もてがかりがないんだから。行動…あるのみ、か?
謎のおばあさんにお礼を言うと、手を出してきた。握手ってことかな。おばあさんの手をにぎった。しわしわで、がさがさで、シミもいくつかあるけど、あたたかな手だった。
「元気そうでよかった。気をつけろしね」
おばあさんは、そう言って、手をふってくれた。
◇ ◇
おばあさんは、すぐって言ってた。けれど、そうじゃない! 田舎のすぐと東京のすぐって…違う。家がない。ぶどう畑だらけだ。どこにあるんだよ、家。車だと感じないけど、歩くってなると…。ぶどう畑の間に家があるって感じなのかな。今、自分がどこにいるのかさえわからない。それにこの先、二手に分かれてる。大きな道路から入った時、こんな道、あったっけ。どうしよう。
ふと、スマホを見る。着信は…ない。大丈夫か。佐伯。
光岡がスマホを華麗に操作していたことを思い出した。あ、GPS。そっか、光岡みたいに調べればいいんだ。そう思って、自分の位置情報を確認した。少しマップを拡大すると、家が数軒あった。そのまま右に行けば、通ってきた道だ。左に進んでみた。
少し行くと、表札に『深沢』とある家を見つけた。雨宮さんの家と同じように大きい。敷地に足を踏み入れた。どうしようか。知らない家に突撃するのは、度胸がいるな。少し迷ったけど、姿勢を正し、前へと進んだ。
チャイムを鳴らした。「すみませ~ん。深沢さんいらっしゃいますか」と大きな声で、家の人を呼んだ。すると、奥のほうから「は~い」という声が聞こえた。玄関の戸に手をかけると、するすると開いた。女の人が出てきた。やった。ビンゴ?
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「あの、深沢さつきさんですか? 雨宮美穂さんのお知り合いの?」
「そうだけど、誰? ここらへんの子じゃ…ないよね」
よかった。佐伯母のことを知っている人だ。緊張の糸が切れたような気がした。…よかった。ひざからくずれ落ちるような感覚だった。
ぼくは、虐待のことを除いて、今までのことを説明した。最初、警戒していた深沢さんも少しずつ話してくれた。なまってないかなって思ったけど、標準語。助かった。そのことを言うと、さつきさんは「年寄しかなまってないから」とけらけらと笑った。
「まあね、美穂ちゃんはお父さんのこと嫌ってたしね。年中聞かされてたよ。健次ばっかりかわいがるって。ひどいことを言われて、よく泣いていたし。あのお父さん、見た?」
ぼくはうなずいた。
「まあ、ぶっちらかす人でさ、嫌ってたの。それにさ、知ってっかわかんねども、美穂ちゃん、旦那にイジメられてたんだよ、ひどくねか。子どもに言うことじゃねかもしれんが」
知ってます。だから来たんです。それにしても、ぶっちゃけすぎじゃね。それに標準語じゃないぞ。あの雨宮家の人やおばあちゃんよりは意味がわかるけど。ぼくはうなずいた。
「佐伯を置いていったことも聞きました」
「知ってたんかね。本当は連れて行きたかったみたいなんだけども、離婚すっ時は、美穂ちゃんボロボロでさ、そのまま病院に入院したのさ。お父さんは、離婚に反対すっしで、家、帰ってこれなかったさ。相談にのってたんだけども、ここには住めねえって、さ」
入院してたから、子どもを引き取れなかったんだ、そっか、単に邪魔でいなくなったわけじゃないのか。
何で、佐伯のお母さんは、あんな男と結婚したのだろう。ずっと疑問に思ったことを聞いてみよう。教えてくれるかな。
「あの、つっこんだことを聞きますが、何で佐伯のお母さん、あの人と結婚したんですか? すごく謎で」
さつきさんは、少しためらっていたが、教えてくれた。
「ここらの人は知ってっから、まあいいけ。峻ちゃんは知らんだか。知ってたほうがいいかもしれん。教えてあげてくれんけ」
話によると、長雨のせいで、ぶどうにカビが生える病気がまん延した時、雨宮さんは多額の借金をしたらしい。ちょうどその時、知り合いだった佐伯の父方のおじいさんが借金の肩代わりをしてくれることになった。前から佐伯のお父さんは、お母さんが好きだったらしく、その代わりに結婚してくれと圧力をかけたのだそうだ。
「そんなのおかしいじゃないですか。お金で買われたようなものってことですよね。今の時代、そんなことあるんですか」
「私もそう思って、言ったんよ。『おかしい』って。そうしたら、『お父さんがそう言うから』って。美穂ちゃん、逃げればよかったのにさ。嫌ってたのに、なぜ言うことを聞くのか、わかんね」
借金のかた? いまどきそんなことがまだあるなんて、信じられない。おかしい。
あのくそじじいが言いそうだっていうことはわかる。佐伯のお母さんは、なぜ従ったんだろう。
暴力…。つながっている、のか。くそじじいとくそおやじがどなるのは、暴力で優位に立とうとしているからだ。あの二人は血がつながってないけど、同じことをしている。
ああそうか。じそじじいたちは自分の思いどおりにさせたいんだ。あの家で感じたとげのある、いやな空気は、そういうところから生まれたのかもしれない。
そうだ、肝心なこと聞かなきゃ。
「あの、佐伯くん、お母さんに会いたがっているんですけど、お母さんが今、どこにいるか知ってるんですよね」
「ん、だども、住所はわかんね。この間、旦那の妹の家に行った時、偶然、ショッピングモールで見かけたのさ。ほら、横浜にあるキングスクエアっての、そこのお惣菜売り場にいてさ。似てるなあと思って、声をかけたら、美穂ちゃんでびっくりしたさ。あんまり元気なかったけんども」
いつごろのことだろう。もういない可能性もあるはず。聞いた。
「ゴールデンウイークの頃だから、まだそんなにたってないよ。雨宮のじいさまには言うなって言われたけど、小林のおばあちゃんには喋ったさ。心配さ、してたっから」
やった! 単純にホッとした。ミッションコンプリートだ。知りたかった佐伯母の行方も雨宮家のことも、少しわかった。深沢さんに感謝だ。これで、佐伯にお母さんを会わせてあげられるかもしれない。
ぼくは、色々教えてくれた深沢さんにお礼を言って、家をあとにした。
◇ ◇
ふとスマホを見ると、着信履歴がすごいことになっている。深沢さんの家を探して、1時間はたっていた。
まずっ。それも光岡と小田切先生の両方。うざいと思って、ミュートにしていたのがよくなかったかも。LINEをすると、すぐにつながった。
「どこにいるわけ? もう雨宮家は出たんだけど、渋谷が見つからないから、ここらへんうろうろしてたんだよ、ダサっ。今度やったら、GPSで追跡できるようにするからね」
と、光岡がガンガン文句を言っている。先生にかわってもらった。
位置情報を送ってしばらく道ばたで待っていると、車が来た。
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8月中、ほぼ毎日更新予定です。
(※他小説サイトに別タイトルで投稿してます)
R:メルヘンなおばけやしき
stardom64
児童書・童話
ある大雨の日、キャンプに訪れた一人の女の子。
雨宿りのため、近くにあった洋館で一休みすることに。
ちょっぴり不思議なおばけやしきの探検のおはなし☆
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