上 下
2 / 10

八月、夕涼み

しおりを挟む
 怪しげな喫茶店に出会ったあの日から間もなく二ヶ月が過ぎようとしていた。

 季節は夏真っ盛り。
 セミの鳴き声が体感的な温度を二割増しにしているような気がする。
 ずいぶんと鳴き声が近いと思って見回してみると、網戸の端に止まって鳴いているではないか。網戸を指で弾くとセミは短く鳴いて逃げるように飛び去って行った。

 うだるような暑さの中でアイスコーヒーを淹れようと戸棚に手を掛けた寺岡は小さく舌打ちをした。
 数日前に豆を切らしていたのだ。

 日に何杯もコーヒーを飲むほどのコーヒー中毒ではないが、一度飲みたい気分になるとどうにも落ち着かなくなる。
 これまでは仕事の帰りに豆を買いに行っていたが、退職してからというものその習慣が崩れてしまっていた。
 ちょうどその他の食料品も買い出しに出なければいけないタイミングだったこともあり、陽が落ちる夕方を狙って坂の下にある行きつけの店に買いに行こうと心に決めた。



 スーパーでの買い物を終えて行きつけのコーヒー屋へ向かった寺岡はがっくりと肩を落とした。
 店はシャッターが降り、そこには張り紙が一枚。

“誠に勝手ながらしばらく休業いたします”

 いつ張り出されたものなのか、紙には雨染みができ、ところどころが破れていた。
 この様子だといつ営業再開するかもわからない。かといって勝手のわからない店にふらりと立寄ろうと思えるほど寺岡のフットワークは軽くなかった。

「これだからおじさんは、って言われるんだろうなぁ」

 自然と思い出されたのは丘を上がる途中にあった不思議な喫茶店のことだった。
 前はいきなり好みを当てられて不気味に思ってしまったが、時間が経つほどマスターの人懐っこい笑顔の印象の方が強くなる。

 どうせ帰り道の途中だし、あそこで豆を売ってもらうことにしよう。
 額に浮いた汗をハンカチで拭って、寺岡は長い坂道を上り始めた。



 二か月ぶりに入る喫茶店への脇道は、もはや雑草に覆われて判別もできないほどになっていた。
 そんな状態でも寺岡は迷うことなく草を掻き分けながら歩いて行くことができた。

 それはこの通りを通るたびに無意識のうちに喫茶店へ入る脇道に視線を向けていた証拠でもある。
 だが、寺岡には気にかかることがあった。

「まさか、あそこも休業してたりしないだろうな……?」

 外観を見た限りだと、あそこは住居にできる部屋があるようには見えなかった。
 その上に誰かが通った様子もない荒れた道。客が入らないなら営業を続けることもないだろう。

 嫌な予感がますます募る。
 纏わりついてくるやぶ蚊を手で払いながら進んでいくが、羽音で手足に痒みを感じるような気がしてきた。

「……何ヶ所か刺されたかもしれないな」

 買い物帰りに寄る場所ではなかったと後悔しながらも進み続けると、急に草むらが拓けた。
 そこには以前と変わらない姿で「風美鶏」の建物があった。
 寺岡は恐る恐るドアを引いてみる。すると、ドアはすんなりと開いた。

「いらっしゃいませ」

 カランカランとベルが鳴り、マスターの明るい声が寺岡を出迎える。
 変わらず営業していたのだ。
 安堵しながら寺岡はカウンター席に着いた。

「あー、マスター。『いつもの』」
「お買い物帰りですか」

 寺岡の持っていたスーパーのレジ袋に目を落としながらマスターが尋ねてきた。

「コーヒー豆を切らしたからついでに買いに出たんだがね、行きつけの所が臨時休業で……」
「それは災難でしたね」
「ここで出してるコーヒーがあるだろ? それの豆をいくらか売ってもらえないだろうか」
「ええ。もちろんですよ」

 マスターはにっこりと微笑んで小さな紙袋に小分けになったコーヒー豆を何種類か取り出した。

「いつもの豆はこちらでしたね」

 それぞれに貼られたラベルを確認して、そのうちの一つを寺岡に差し出した。
 銘柄はずばり寺岡がいつも買っているものだった。

「一度お邪魔しただけなのに、よく覚えていられるね」
「見ての通り、お客さんも少ない店ですから……」

 自虐的に笑うと、マスターは大きめのグラスを手に取った。
 氷がグラスにぶつかる涼しげな音が響き、スティックシュガーが一つとコーヒーフレッシュが二個添えられたアイスコーヒーが差し出された。

 夕方とはいえ空気はまだ熱を孕んでいる。
 買い物に歩いて火照った体に冷たいコーヒーが染み渡った。

「そうそう。夕飯にと思って作ってみたんですが作りすぎましてね。もしよかったら貰っていただけませんか?」

 そう言いながらマスターは冷蔵庫から円柱形のタッパーを二つ取り出した。

「ひとつあれば十分なので、味見して気に入っていただけたら持って帰ってください」

 片方の蓋を開け、小鉢に丸く盛り付ける。
 アイスクリームのような見た目だが、冷蔵庫から出てきたということは別のものだろう。

 寺岡は手渡された割り箸を割って「それ」を口へ運ぶ。
 ほのかな甘みとイモの香りが口の中へと広がった。
 イモ以外の具材の入っていない、シンプルながら舌触りの滑らかなポテトサラダだった。

「ほう……」

 思わず感嘆の声が漏れる。
 そして、二口目を頬張った寺岡の脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。

「これはすごい偶然なんだが」

 そう前置きしてぽつぽつと寺岡が語り始める。

「もう五年以上前になるか。週に二、三回通う居酒屋があってな。七十過ぎの婆さんが一人でやってる店なんだがそこのポテトサラダが絶品だったんだよ。どうやって作ってるのか何度聞いてもはぐらかされて、結局教えてもらえないまま店を閉めちまった。そこの味にそっくりだよ」

 寺岡の話をうんうんと頷きながら聞いていたマスターはふふふと笑った。

「きっと、寺岡さんにレシピを教えたら奥様に同じように作るように言うんじゃないかって心配されて秘密になさってたんでしょうね」
「……ポテトサラダなんてイモを茹でて潰すだけだろ?」
「とんでもない」

 マスターは大げさな身振りで寺岡の言葉を否定する。

「詳しい作り方はお教えできませんが、結構手間が掛かってるんですよ」
「そ、そうか……」

 やや不満げながら、寺岡は引き下がった。

「教えてもらったところで作ってくれる家内はもういないんだけどな」

 自嘲気味に言うと、寺岡は残っていたグラスの中身を一気に煽る。これが酒であれば格好もついたのだろうが、あいにく砂糖とフレッシュの入ったアイスコーヒーだ。
 なんだか締まらない気分のまま尻のポケットで押し潰されていた財布を取り出す。

「いくらだい」
「六百五十円です」

 マスターの返答を聞いて寺岡は眉をひそめた。

「それは豆だけの値段だろう?」
「あぁ、アイスコーヒーとポテトサラダはオマケですからお代は結構ですよ」
「あのなぁ……」

 頑として譲らないマスターに渋い顔をする他なかった。 寺岡は千円札をカウンターに置くと釣りは受け取らずに店を出た。
 薄闇に包まれた坂道を歩きながら、寺岡は二年前に出て行った妻のことを思い出していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

処理中です...