セイレーンの家

まへばらよし

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番外編

義姉と夫の気遣い 前半

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 柊子の義理の姉夫婦である勝原家に、修理の済んだ木馬を届けた日、依頼主の梓は柊子と貴久を客間に招いた。説明と確認のあとでサインをもらう手はずだが、梓は柊子と貴久を待たせて一旦部屋を出た。戻ったときにはお茶とお菓子を持参し、二人にそれで一服させているあいだ、梓は一読して書類にサインをした。梓は万年筆の蓋をした直後、柊子に話しかけてきた。
「あなたの中学校の卒業アルバムを見たのよ」
 柊子は硬直した。
 同席の貴久も目を見開き、柊子と梓を交互に見た。そうした動揺中の第三者へ、席を外せとも同席のままでいてほしいとも言わず、梓はさらりと無視している。
「母が柊子さんを調べたときのことね。こんなものどこで入手するのかしらって思いつつも、そこは調査員の方に突っ込んだりはしなかったのだけど。それより、柊子さんは今も昔も変わらないわね」
 梓は一旦お茶に口をつけた。なお固まっている相手の二人に頓着せず座っている。
「神秘的で、綺麗な感じで。あなたに憧れていた男の子は多かったんじゃないかしら」
 梓が、何を言わんとしているのか柊子には汲めない。息を浅くして待っていると、梓がふと顔を上げた。
「だから、あなたの噂を広めたひとは、あなたに嫉妬していたんだと思うのよ」
「……は?」
 柊子は、ようやく枷が取れたように声を出した。
「嫉妬?」
「勝手な想像なのだけど。ある女子中学生Aさんには、好きな男子生徒がいるとします。その男子生徒は、浮ついてなくて綺麗な、しかも表彰されるほど綺麗な声で話す、Aさんの友達が好きなんです。そんな状況下で、友情を続けられるひとは少ないでしょう。あの年頃なら尚更。お友達だったのが、さらに溝を深めたのもあり得るわね」
 友達。
 柊子はまたも息を詰めた。
「……だれが、噂を広めたのか、分かるものなんですか?」
「噂が真実かどうか裏を取らなければならないでしょう」
 梓は、人形かと思えるほどに冷静でいた。
「彼女、Aさんは、柊子さんが修学旅行を境に学校に登校しなくなって、孤立したみたい」
「え」
「あなた以外の当時のクラスメイトだけど、柊子さんがAさんから嫉妬され敵視されていたこと、数人は知っていたんじゃないかしら。それで修学旅行のことがあって、あなたが登校できなくなって、それは彼女のせいだってなるのも、よくある成り行きだわ。クラスに一人、正義感の強い子がいたらすぐよ」
 軽く目眩がした。自分が去ったあとで、あのクラスはそんなことになっていたのか。
「……みんな、笑っていたから、みんな私のこと、そんなに気にしていないって思っていました。……気にしていないというか、本当だと思っていたというか……彼女に賛同していると、いうか」
「防御反応みたいなものなのよ。笑うのも」
 梓は、何もかも理解しているとばかりの目をしている。
「あまりにひどいことがあったら、笑ってしまうこともあるわ。全く笑えないのは理解しているけど、その最悪の状況から逃げたくて、大したことないって取り繕って、笑ってしまう。周りのひとと、それを確かめるように顔を見合わせながらね。それに、こどもなら特に」
 そんなものか、と柊子は思ったのだが、それまで隣で黙っていた貴久が「私も似たようなことを聞いたことがあります」と絞った声を出した。
 梓もうなずいた。
「とにかく、柊子さんに酷い対応をして登校拒否にさせた彼女は、周りから糾弾され、そうして孤立した」
 柊子は梓に顔を覗き込まれた。
「あなたが罪悪感を覚えることはないのよ」
「……それは、まあ」
「彼女の罪はまだあるもの」
 茶器の音が微かに鳴った。
「彼女の中に後悔もあったかもしれない。でも自分は悪くないと思いたい方が強かった。これも防御反応ね。だから自分の流した最初の嘘は嘘でないと証明したくて、何度も、時には尾ひれを付けて公言する。何度も言ううちに真実と思い込んでいく。真実でなければならないのよ。嘘ということになったら、故意の悪意であなたを学校から追い出したことになるから。自分の流した噂が本当だったら、柊子さんが悪くて、自分は悪くないことにできるから」
 人間は脆いのよと、梓はすごみのある笑顔で囁いた。

 帰りの車内で、貴久はぼやいていた。
「なんで俺まで聞かなければならなかったの」
「前に、私一人で聞いて倒れたからだと思う」
 ハンドルを握りながら、貴久は「そういうことか」と息を吐いた。
「でもまあ、多少なり原因が分かってよかったのかもね。もう何もできないことだけど、柊子ちゃんが気にしてそうだから教えてくれたみたいだし……それに、手土産がもうさ、『込み』なんだよね」
 貴久はちらと、一瞬視線をずらした。
「俺とおかーさんは確かにガトーフェスタハラダのオードブルラスクがほんと好きで、たまに買ってるよ。でもどうして俺たちが好きなお菓子まで知ってるんだよ」
 後部座席には、柊子へと貴久へと、それぞれ謝礼としてくれた手土産が積んである。梓から渡されるとき、沢山ご迷惑をとの一言があったのだが、貴久はその外袋を見た瞬間顔を強ばらせていた。
「店で定期的に買ってるわけじゃないし、それに時々ネット通販も使ってるのにさあ。まさに敵対したら分かってるわよねっていう警告……」
 たまたまじゃないかしらと、柊子は言ったが貴久は納得した顔をしていない。
「多分、貴久さんは勝原さんともう会わないと思うから」
 そういう問題でもないんだなあと貴久は言う。
「そっちの手土産も、柊子ちゃんの好きなお菓子?」
「ううん。私の知らないブランド」
 車に積むときに柊子は中を覗いたが、全てが見たことのないものだった。
「ホラあ。無作為なら柊子ちゃんにも俺と同じラスクか、もしくは有名な甘いやつ渡すでしょ。わざわざ全く別のなんて面倒なだけなのに」
 柊子は、考え過ぎじゃないかしらと、言うのはやめた。

 貴久に住まいのマンションまで送ってもらい、柊子は部屋に入って一段落してから、梓のくれた袋の中を見た。やはり柊子の知らないブランドのお菓子と、お茶の葉のセットだ。
 そして手紙も入っていた。

 ──柊子さんへ
 このたびは、木馬の修理を引き受けて下さり本当に感謝しています。
 本日、私があなたに告げたことについて、私なりにあなたの気苦労を和らげたいと思ってのことではあります。しかし、あなたの気が完全に休まるとは思っていません。あなたの心は多少なり乱れているはずです。気にするななど、気楽な言葉であなたを慰められるとも思っていません。
 どうか今日は、おいしいものを食べてゆっくりしてください。
 その手助けとして、些少ですが本日お渡ししたこちらを楽しんで下さい。
 ──勝原梓

 ぬかりのない人だ。柊子はどういう感情を抱けばいいのか分からない。梓の思いやりを疑ってはいないが、それだけではない。愛する夫を陥れた過去を持つ、奸計に長けたひと。
 教えてくれたことも、噂など全部事実無根だと言ってくれたことだと理解できる。それについては感謝している。
 柊子は目を閉じてから大きなため息をいた。
 もう広まった噂は消えない。もしかしたら彼女は──かつての友は──まだその話を広めている可能性もあるのだ。しかもだんだんエスカレートした内容を。
 そんなにも、私の存在が、私の行動が癪に障ったのか。
 自分に向けられる悪意の理由を知りたいと思うのは、見たくないものを敢えて覗く行為に似ている気がする。
 魂を削る行為だ。
 無意識のため息がもう一度出たことで、柊子は我に返った。思考が陰に傾いている。
 柊子は焦点を目の前の、梓の手土産の箱に絞った。
 お菓子は小ぶりなチーズケーキ。お茶のパックは沢山あり、どれもカフェインレスのものだ。
 柊子は、自分を甘やかすために早速頂くことにした。
 よく見るケーキのサイズよりやや小さい。とはいえ半分にして卓朗に残しておいてもいいといえばいい大きさだが、一人でも食べきることができそうだ。
 卓朗は、梓からの土産と聞いて食べるだろうか。それを思いながらとりあえず半分に包丁を入れ、四分の一でなく、半分を豪快に皿に入れた。
「わ」
 一人なのに、思わず声を出してしまうほどに美味しい。上のジャムが何の味なのかすぐに分からなかったが、酸味も含んだ甘さがいい。フィリングは濃厚な食感なのに味はあっさりとしていて、上のジャムととても合っていた。
 柊子は梓にもらったお茶も淹れ飲み干した。そうすると、チーズケーキの、残していたあとの半分も食べたくなった。柊子は結局それも平らげてしまった。
 さすがというべきなのか。頂いたお菓子もお茶もとても美味しかった。貴久への手土産のラスクも、有名なブランドのものだ。お酒が好きでも嫌いでも、あれは大人のお菓子といっていい。梓があれを選んだのは偶然で、こちらが勘ぐりすぎているだけかもしれない。
 柊子は、自分でまた買おうと、チーズケーキの店の名前をメモした。外袋は何かに使えるかもしれないので、ストックの場所に入れておいた。


 卓朗は定時に退社したのか、思っていたより早くに帰ってきた。帰って早々に柊子の顔を見て、肩の力を抜いた。
「おかえりなさい」
「ただいま。どうだった」
 卓朗にとって梓は信頼できない相手なのだから、この反応も仕方がない。柊子は卓朗を安心させたくて微笑んだ。
「無事に済んだわ」
「そうか」
 しかし卓朗は、しばらくじっと柊子の顔を見続けた。ほんの少し、卓朗の眉間に皺がよった。
「何かあった?」
 ほっと微かに息を吐いた。
 今まで、自分の中だけで消化できないのに、一人でずっと背負っていた重いものがあった。
 それを卓朗は共有しようとしてくれる。
 その存在と、進んでそうしてくれようとする彼の心づかいと。
 なにより、それに頼ることができることが嬉しい。
 肩の荷を下ろしたように、柊子の体がすっと軽くなった。

 カランと、氷の音がした。柊子のグラスの中の氷の音だ。卓朗はビールを飲んでいる。おつまみはオリーブと柿の種。
 柊子は梓から聞いた話を全て話し終えた。一息ついて、ピーナツに手を伸ばし、音を立てて食べた。歯でかみ砕くとかすかな爽快感がある。
 そして話を終えたことにもカタルシスを感じていた。
 フィン・ユールの椅子を向かい合わせにし、買ったばかりのサイドテーブルを二人のあいだに置いている。
 卓朗は、何やら考え込んでいるような顔をしていた。
 彼から言うべきことなど何もないのなら、それはそれでよかった。聞いてくれただけで満足している。柊子はフォークでオリーブを刺そうと手を伸ばしながら、目を合わさずに卓朗に話しかけた。
「聞いてくれてありがとう」
「柊子」
 呼ばれ、顔を上げた。卓朗は妙な、すっきりした表情を見せた。
「俺の言った通りだ」
 柊子は手を止め、背筋を伸ばして卓朗を見た。彼は柊子が少し緊張するほど、真摯な顔をしている。
「なにが?」
 卓朗は彼特有の、きつい視線で柊子を、睨むように見据えている。
 完全に手が止まったとき、卓朗はゆっくり口を開いた。
「やっぱり君はモテてた」
「……はい?」
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