セイレーンの家

まへばらよし

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第二章 松井卓朗

第一話 有名絵画を彷彿とさせる女性

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 君は多角的な視点を持っている、素晴らしい資質だと言われたことがある。言われたそのときは光栄だと思ったのだが、後に皮肉なことだと思い直した。
 いろいろな視点でものを考えるようになったのは、裏切りがあったからだ。
 言い換えれば疑り深いのだ。
 信頼していた肉親から深く傷付けられれば、誰だってそうなる。
 ただ一方で自分は、その見返りとでも言うのか、他人に恵まれている。
 卓朗はそう思っている。
 川口巌夫の作品を見る度に、絵にある父性愛に救われた。尊いものは、自分は得ることができなくとも、世に存在はしているという証拠を見ることができるのは嬉しかった。
 川口の作品が展示公開されるとその場に通い詰めた。その際に川口巌夫の甥である川口稔と知り合った。稔は、卓朗が熱心なファン、というより信者であると知ってから、生前の川口巌夫の逸話を話してくれた。
 そうして川口の切なる願いの一端を理解した。
 なんとしても彼の思いを、世に伝える手伝いをしたいと願い続けた。その思いは、記念館の設計に携わることでひとつ叶った。現在、川口巌夫記念館館長となっている稔から、生前の画家川口の話が聞けたのが転機であり、僥倖であった。

 ある土曜の朝、松井卓朗は川口巌夫記念館に来ていた。開館前だが、すでに職員は中で働いている。松井もこの日、関係者として招かれていた。
 川口巌夫記念館の人の入りを確認し、反応を知りたいと稔に申し出た。仕事が休みの日に、館内で滞在する許可を稔からもらった。一日だけのスタッフのカードを用意してもらい、だがそれを首に下げず胸のポケットに入れたままで、卓朗は館内のあちらこちらを覗いていた。
 彼女に気付いたのは、午後を過ぎてからだった。
 本日、川口の絵を見ていたのかは知らない。卓朗が気に留めなかったのか、たまたま行き違ったのか、少なくとも卓朗は館内では彼女に会わなかった。館内の大窓から外を見たときに、卓朗が先輩の勧めで設置したベンチに彼女は腰掛けていた。
 日傘を差し、白のワンピースを着ている姿は、クロード・モネの作品「日傘の女」を彷彿とさせる。巨匠の絵を思い出させる女性が、まさにいるだけで絵になる姿を晒しているのは、卓朗をある種誘っているかのように思えた。声をかけられるのを待っているという意味でなく、あなたの仕掛けに気付きましたというサイン。
 気を取られていると、隣に川口稔が立った。
「先生の仕掛けに気付かれたんでしょうかね」
 稔は面白そうに笑っていた。卓朗は照れてしまい、どうでしょうかねと言葉を濁し、一旦その場を離れた。
 だが、小一時間経っても彼女はそこに座ったままだった。
 もしや具合が悪いのではと思い至り、そうなるとずっと懸念としてひっかかった。卓朗は意を決して、外のベンチの女性の元へ向かった。
 彼女は卓朗に気付くやいなや慌てて立ち上がった。卓朗の、座っていても構わないという意思表示を無視し、そのままベンチの前で立ったままでいた。
「あそこに木があるでしょう。あれは息子さんですよね」
 彼女は記念館を手で示しながら、言葉を織り始めた。
 特別美しい声ということはない。しかし、抑揚があるのに煩くなく、すっと耳に落ち着く話し声だ。綴られる言葉のひとつひとつに、想いが込められ卓朗の中へ入ってくる。
 一曲の歌のように。
 彼女は、日傘の薄い影の中、明るい屋外とのコントラストで浮き上がるようにそこにいる。
 夢を見るように一途に、卓朗のデザインした川口巌夫記念館を見つめている。
 至上の楽園──そこは決して手が届かない、次元の異なる場所だと──どこか諦めさえ混じった目を向けている。
 卓朗は完全に魅入られてしまった。
 何も言わない卓朗に対し、彼女は身構えた。
 まるで姿を見せてはならない掟を破ってしまったかのように、卓朗を怯えた目で見た。
「済みません! 私ってばちょいワルおやじみたいに」
 彼女の口から発せられた言葉の意味が汲めなかった。予想外とかそういうレベルの話でない。途中からいきなりラテン語で話されたかのような違和感が卓朗の脳内に残った。
 謎の言葉を残し、異質な女性は去ってしまった。

 卓朗に強烈な印象を残した謎の女は、あれから一度も川口巌夫記念館に姿を見せなかった。とは言っても、卓朗も頻繁にそこに足を運んだワケではない。月に一度か二度、その程度だ。それは個人の見解によっては「頻繁」というかもしれないが。

 同じ頃、卓朗が唯一親しくしている親族の青年のこどもが産まれて一年経った。八歳ほど年下だが、いつも冷静で大人びた感じを持っていた彼は、三つ年上の女性と昨年に急遽入籍した。授かり婚だったそうだ。お食い初めの祝いに呼ばれ会ってみると、彼は随分雰囲気を変えていて、妻とこどもと共に幸せそうで始終にこやかにしていた。卓朗も当てられた、とでも言うのだろうか。祝いに出してもらったお酒は少量だったにも関わらず、酔いが回ったのかぽろっと、俺も結婚しようかなと新婚夫婦の前で、独り言のように呟いた。
 従兄弟は「でしたらいい人に巡り会えますよ」と言った。聞き違いかもしれないが、やけに断定的に言うものだと不思議に思った。卓朗の従兄弟、田所孝文はそういうことを時々言う。
 翌朝に卓朗は、結婚したい気になっていた。

 卓朗は二十四歳のときの病気が原因で、精子の数が少ない。生殖能力は低いが、女性を妊娠させることが絶対にできないというレベルではないと医師は言った。
 だが、卓朗は自分のこどもが欲しいと思えなくなっていた。とりわけ、自分を通して肉親の血が入った子孫を。
 結婚を希望するにも、相手には最初にそのことを伝えなければならない。それを踏まえて会ってくれる相手を探す際に、あらかじめフィルターではないが、先に知ってもらえていれば毎回楽しくもない話を繰り返さなくてもいいのではと考えた。そういう意味でシステム化された、ネットを介した婚活サイトというのは便利だ。
 その流れで大学の友人が、昨年結婚相談所に入ったという話をしていたのを思い出した。連絡を取って飲み屋で会うこととなった。彼はまだ結婚できていなかった。
「いや、縁がまだないというか、それだけだ。相談所自体はいいところだと思う」
 彼は負け惜しみとも、相談所を庇うとも、どちらとも取れそうな言い分を吐いた。呑みながら話を聞くと、それなりの金額がかかっている分、確かにバックアップは充実している。
「よさそうだな。俺もそこに入ってみようかな」
 友人は考え込むような仕草をした。
「待ってくれ。お前は俺にとって大きなライバル過ぎる」
「あ?」
「あと半年、いや、三ヶ月待ってくれ。それまでに絶対成婚して卒業、いや退会するから!」
 大手に勤めて年収もあれば上背もある、ハイソな趣味の男に今入ってこられると、目当ての女性がみんなお前のところに行ってしまう!と彼はのたまった。
「ハイソな趣味?」
「絵画鑑賞はいかにもハイソだろう」
 ブロンズィーノの作品「愛と勝利の寓意」を食い入るように見た過去がある、模範的な思春期男子時代を通過してきた身としては耳が痛い。しかし友人の偶像を壊したくもないので、卓朗は黙っていることにした。
「お前はまだ相談所に登録せず、インディーズで活動してくれ」
 だいぶ酒が入っていやがると卓朗は思った。
「ならせめて、お前が相談所で習ったノウハウを俺に教えてくれよ」
「いいだろう」
 だが友人は、記憶が曖昧なのか酒のせいで頭が働かないのか、途中で言い淀むと「ここから先は有料です」と逃げたりもした。相談所の回し者かと思ったが、しかし入会を渋られたのでそうでもないのか。結局、相手の話を聞くという、至極当たり前なアドバイスだけされた。
 そうこうしているうちに、卓朗は賞を受賞した。
 大野財団が主催の賞で、その年の優れた作品、主に建造物や家具、文具など、美術品ではないが、「作品」に対し贈られるものだ。卓朗単身の受賞ではないが、川口巌夫記念館に主に携わった人間として、連名のなか卓朗も含まれていた。
 受賞式のあとの懇親会にも卓朗は参加した。会の後半にさしかかったとき、卓朗の上司が一人の女性と話をしているのを見た。
 卓朗はしばらく、その中年女性を見ていた。
 ほっそりとした体に、スマートな立ち居振る舞いが、職人ではなくデザイナーの側に近い。自分の姿を客観的に見て、ある程度演出できるタイプの人間だ。
 だが目を惹かれたのはそれが理由ではない。
 昨年に、川口巌夫記念館で会った謎の女性と似ている気がした。
 卓朗は苦笑した。あれから、彼女に似た人間を目が勝手に追うようになっていたが、年齢が全く違う女性に彼女の姿を見い出し始めた。いよいよ末期か。
 卓朗の上司が卓朗の存在に気付き、手招いてくれた。
「松井君」
 卓朗は興味もあっていそいそと従った。
「桐島さん、紹介するよ。うちの若手で、川口巌夫記念館のデザインを担当をした松井卓朗君だ」
「初めまして」
 卓朗が会釈すると、桐島先生と呼ばれた彼女は笑顔で会釈した。
「初めまして。桐島美晴です。川口巌夫記念館、行きました。姪に誘われたんです。素晴らしかったです。一見モノトーンなんだけど少し寒色が入った外壁で、でも中は同じ色合いなのに光の加減で、レトロであたたかい雰囲気を造っておられたのに感心しました。川口巌夫先生の代表作がそのまま建物になったみたいって思いました。本当によく川口先生の作品を学ばれたようで。勝手にお年を召した方だって思い込んでいたんですけど、こんなに若い方だったんですね」
 分野が違うといえど、先人のクリエイターにこんなふうに褒められるのは嬉しかった。いや、嬉しいなどという言葉だけでは表せない。這って礼を言いたいくらいだ。
「勿体ないほどの光栄なコメント、ありがとうございます」
 上司も破顔していて、彼もまず礼を述べた。
「松井君は勉強家でね。それに彼は俯瞰の視点を持っていてね。多方面からアプローチもできる、柔軟な思考の持ち主なんだ。将来、いやすでに、我が会社の発展を担う有望な青年だよ」
 卓朗が、上司に対し礼を言うべきなのか謙遜すべきなのか迷っていると、彼は話をまだ続けた。
「最近、婚活を始めたそうなんだ。桐島さん、もしお知り合いにいいお嬢さんがおられたら、彼に紹介してくれないか」
 なるほど、だから妙に上げてくれたのかと卓朗は納得した。上司にも以前、酒の席でいい人がいたらと相談した。今はいないと返されたが律儀なことに覚えていてくれたのだ。
 そしてそんな話を振れるほどに、上司と桐島は懇意なのだ。
 桐島は首を傾げていた。
「ごめんなさいね。私、松井君ほどの年下には興味がなくて」
 隣で上司が笑いを堪える動作をした。
「残念です。私は桐島先生のような女性がタイプなので」
 やや芝居じみた仕草で、肩をすくませ残念なフリをした。予想通り、上司と桐島は笑った。卓朗は恨みがましい視線を上司に送った。
「速攻でフラれました」
 さらに二人は声を出して笑った。
「ごめんなさい。悪かったわね。おばさんのありがちな冗談に付き合わせて。お酒の席だから許してちょうだいね」
 桐島は笑いを収めてから、卓朗と上司を交互に見た。
「紹介できる子が、いないわけではないんだけど」
 なんとも意味深な言葉を彼女はもらした。卓朗は胸のポケットから名刺を出した。
「桐島先生、もしご紹介が可能でしたら、ここに連絡を下さい」
 卓朗の名刺を桐島は丁寧に受け取り、彼女も鞄から名刺を出し卓朗に渡した。彼女がデザインしたのか、型どおりではないがシンプルな名刺に目を通す。
「家具のデザインをされているんですね」
「あら、そういえばその紹介がまだだったじゃない」
 三人は笑って、桐島の仕事の話に移った。

 翌日の夜に桐島から電話があった。結婚相手について、卓朗の詳しい条件を聞きたいという。
 試されているのだなという感覚があった。桐島はああして冗談を飛ばし、卓朗がどう反応をするのか見たかったのだろう。
 大切な隠し球を持っていて、そのヒントを見せてもいいものかどうか、桐島は卓朗を計ったのだ。
 卓朗は自分の条件を正直に話した。年は同じ頃がいいこと、自分の年齢を伝え、相手には上下五歳程度の範囲内を希望していること。そして、自分の生殖能力が低く、さらにこどもを望んでいないことを伝えた。
 桐島は引くかと思われたが、そんなことはなく「ならちょうどいい」と軽く言った。どういう意味なのか取り損ねたのだが、桐島は電話の向こうで身構えている様子もない。
 桐島には独身の姪がいるという。懇親会でも少し話をしていた、川口巌夫記念館への訪館を誘った、卓朗より二歳下の女性とのことだ。彼女に話をするので、向こうに会う意思を聞き、改めて卓朗にも話をすると桐島は約束した。

 会うことになり、相手の釣書が届いた。写真が同封されていて、卓朗は眉をひそめた。
 川口巌夫記念館で会った女性に似ている気がする。気のせいかもしれない。現に自分は、桐島美晴と会っても彼女の姿を見い出した。だが、そこで自分の間抜けな失策に気付き、卓朗は慌てて桐島に電話をかけた。
「私は、自分の写真の同封を忘れていました。申し訳ないです、すぐに」
『うーん。大丈夫じゃないかしら』
 桐島美晴は何故か大事だと思っていないようだ。実際に会う日に間に合うかどうかも分からないとのことで、再送しなくてもいいと言った。
 そしてその日、卓朗は「彼女」に会った。
 桐島柊子に。
 桐島美晴の隠し球は、とんでもない上玉、ただし変化球だった。
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