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本編 雄花の章
第四話 夏の電霆
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懐紙入れを探り、避妊具がなくなっていることに気が付いたのは、二日目の見合いに向かう前だった。
昨晩に自分がやらかした粗相の後始末で、懐紙を出したときに落ちたのだろう。彼女なら上手く処理してくれていると思うが、念の為、俊は本日も避妊具を懐へ忍ばせた。
見合い二日目の夜、俊を追いかけているかのように、雨がパラついてきた。雷の音もしている。俊は足早に見合いの場へ向かった。早い到着になってしまったが、相手はすでに離れの中で待っていた。
大雨になりそうだと伝えると、彼女はうなずきながら、細々と世話をやいてくれた。麦茶の入ったグラスを渡され、半分ほど飲み、置き場所がないかと左右を見ていると、彼女は手を出してくる。
何も言っていないのに、相手が何を欲しているかが分かるらしい。長年添った夫婦みたいじゃないか、とニヤついてしまった。
おそらく、彼女にとっては、こうした先読みは日常茶飯事なのだろう。
俊はニヤニヤ笑いを苦笑に変えた。
本日も、見合い相手の女は緊張していた。
昨晩、自分の大失態がよかった……とは流石に言わないが、あのあと、かなり打ち解けてくれた。帰る前には抱きついてくれるほどに。
だがまた、初日の固い空気に戻ってしまっている。
「昨日、俺はここに避妊具を置いて帰ってなかったか?」
俊は、話題としてはどうかと思いつつ、なるべく気負わせないような内容を話しかけた。
「ええ、そう」
女は、クスクスと笑いながら俊の会話に乗ってくれた。
なんだ、緊張しているように感じたのは俺の気のせいだったのか。相手が楽しそうに話をしているのを聞きながら、俊は暗闇で安堵し口角を上げた。
その後も、彼女はずっと笑いながら話を続けた。
笑い上戸だったのか、とも思ったが、違う。笑い声は段々とぎこちなくなっていく。素人が自分本位の漫才をやり、大衆に全く受けていないような気まずい空気が流れている。とうとう、彼女は完全に笑うのを止めた。
「ごめんなさい。親馬鹿……というか、飼い主馬鹿でしたか」
「そうじゃない。今日、何かあったのか?」
女は、膝の上に置いていた手を握った。やっぱり、緊張している。
「灯りが点いていたら、俺も分からなかったかもしれん。あなたの姿が今、見えないからこそ違和感がある。今日のあなたは変にテンションが高い。無理をしているように感じる」
正直なところ、少々面倒な相手だと思った。もちろん、いきなり全て打ち解けてくれとは言わないが、気遣われ明るく振る舞われているのは痛々しい。結婚をして、その先もずっと、感情を殺したような──相手の腹を探りながら、彼女は俺と生活をするつもりなのか。
そんな生活はもちろんごめんだ。
向こうは黙って俊を見ている。俊も、彼女が次に何を言うか待っていたところ、いきなり雷鳴が轟いた。
来たなと俊が思ったのと同時に、対峙の女が悲鳴を上げた。
俊の目の前で、女は自らの両腕を胸の中で囲むように身を伏せた。俊は思わず傍に寄り、有無を言わせず彼女を抱えて抱きしめた。背に添えた手から伝わる、彼女の心音の速さに俊は眉をひそめた。
「大丈夫か?」
再度、雷が落ちた。またも近くだったようで、天窓から電気の流れが確認できた。俊の腕の中の彼女は、再び短い怯えの声を漏らした。
俊は彼女の耳に手を添え、自分の胸に押しつけるように力を入れ抱き直した。すぐさま、彼女も俊の背に手を回し、くたりと、俊に完全に体を預けてきた。相変わらず心音が早いが、精神に多少なりとも余裕が戻ったようだ。
雷を追いかけるように、雨雲もやってきた。大粒の雨の音が重なり、やがて本降りの空に変わっていった。
「あなた、かさ、持って、る?」
俊は瞬き、失笑してしまった。
「俺のことが心配なのか。この雨だったら、すぐに雷と一緒に移動するだろう」
彼女も、声は出さなかったがこくりとうなずいた。俊に抱きしめられたまま抵抗せず寄り添っている。
話をした方が、彼女の気が紛れるかもしれない。
「あなたこそ、雷が苦手なのか?」
「大きな音だったからびっくりした……」
女の声の調子が戻ってきたようだ。
「そうか。車のクラクションも苦手なほうか?」
え?という疑問の声と共に、女は俊の腕の中でもそもそと動き始めた。手を緩めると、俊から離れず、俊の顔をまじまじと見ている。
「……ええ。間近でいきなり鳴らされるとびっくりしてしまう」
なるほど。
俊は女の膝裏に手を差し入れ、抱えて布団の上に寝かせた。すぐ隣に俊も横になり、彼女を抱きしめた。彼女の首筋に指を添えたが、相手は嫌がらず、俊のしたいようにさせている。
「だいたいあなたのことが分かった」
俊の腕の中で、女は肩を丸めて小さくなった。まるで、何かに怯え、消えたがっているような仕草だ。俊が何を言うのか、聞きたくないような。
どうして。
どうしてここまで、彼女は自分を責め続けているのだろう。長子長女にありがちな、責任感の強さからくる自己肯定感の低さだけではなさそうだ。
俊は、扱いにくい女だと思いながらも、ここを去って見合いを終えようという気にもなれない。
俊は見合い相手の、自責の理由を知りたくてしかたがなかった。こんなにも、一人の女性に執着しつつある己に戸惑いながらも、知るために先へ進むことに躊躇いはない。
「穏やかな話し方をするし、動作もゆっくりで、せかせかともしていない。声も可愛らしくて、そういう人は顔立ちもあどけない」
俊は敢えて、自分の予想と違ったことを言った。自信満々に間抜けなことを言って、笑ってもらおうと画策した。思惑通り、腕の中で彼女は笑っているようだ。だんだんと柔らかくなっていく。いい感じになってきたかもしれない。
彼女の手が伸ばされ、俊の後頭部を撫でた。子供に対するそれではない。女が、男の体を探り、心を虜にするような動きだ。
「ここ。手触りが好きです」
「そうなのか。なんだろうな。俺もあなたのここが好きだ」
昨日も我が物のように手を差し入れた、しなやかな女のうなじは、今日も俊の劣情を湧かせた。
肌の感触に引き寄せられ、俊は椎奈の首筋に鼻を寄せた。爽やかな柑橘の香りが今日もする。
「やっぱり、あなた、どどいつと行動が一緒だわ」
女は笑い、俊にぴたりと体を添えてくる。彼女の鼻先が、俊の首に触れた。
「あなたは、あまり匂いがしない。ここに来る前に、着替えもシャワーも済ませてしまうのね」
犬のように鼻を動かし、女は残念そうに囁いた。
「俺の匂いを知りたいのか?」
「うん。どどいつが羨ましい」
殺し文句だな。
俊はとうとう我慢できず、相手の女を上に向かせ、唇を重ねた。
女性のからだの中でも特に柔らかい場所だ。もう一つ、粘膜に包まれた柔らかいところがある。そこも知りたくなって、俊のからだの一部が固くなった。
離れ、目を開けると、女は幸福に満たされた息を吐いた。
「嬉しい。慰めてくれてるみたい」
その気持ちはないわけではない。俊の中にはもっと激しい思いがある。だが、何より優先したいのが、女が何を想い欲しているかだ。
「今日、何があった?」
昨日のようにはぐらかされるかもしれない。
俊は、彼女に許されるなら、すでに七日全て通うつもりでいる。そのあいだに、彼女の苦悩の理由を、彼女の口から聞きたかった。
聞いて、完全に解放してやれなくとも、立ち向かうなら一人ではないということを、知ってほしかった。
女は黙っていた。昨日今日では無理もない。何か、きっかけがあれば、教えてくれるかもしれない。それまで待つしかない。有効期間は本日も合わせて六日。一日に費やせる時間は……
俊が計算し始めた矢先、女は、四分の一刻前の雨のように、ぽつぽつと話しはじめた。
「私は臆病なの……。大きな音が好きじゃない。びくっとしてしまう。音だけじゃなくて、大きな声で話をしているひとも怖い。自分が怒られていなくても、大声で怒られている人を見たり聞いたりしただけで心音が早くなる。困っている人を見ても、助けてあげないといけないって思うのに、相手が男の人だと足が竦むの。何も見なかったフリをしてその場を後にしてしまう」
数年前、俊が現在配属されている署に、ある警察官がいた。現在の俊の相棒の泊内は、初めて組んだ相手だったと話してくれた。
相手の小さな動きから、動揺や怒りを察し、取り調べをするのが上手い人物だったそうだ。その分、相手の感情に同調し過ぎてしまい、よく疲弊していたとも。
すでに亡くなっている方だ。俊は何故かその話を思い出した。
おそらく彼女もそういう性質を持っている。困っている人を放置できず、だからと言って警戒も疑いもせず声をかけるには、この世ではあまりにも恐ろしい行為だ。相手が本当に困っているのか、それとも罠であるのか、素人には分からない。
だからやむなく、見なかったことにしてしまう。後々悔いることになるのだ。あの行動は、人間としてどうだったのかと。
自らのそういった性質を、仕方がないと折り合いを付けるには、腕の中の女は繊細過ぎる。
俊は、彼女には、危険なことに近寄ってほしくはなかった。
それが俊個人のエゴであると認めつつ、俺が肩代わりをすると──今、言えることができればいいのに。
「俺はその方が安心する」
彼女に、伝わってほしいと、俊は祈った。
今日も、何がきっかけだったのか、俊には分からなかった。一通り話し終えたあと、女は首を伸ばし、俊の顎に口付けてきた。闇の中で目測を誤ったのか、俊の顎に彼女の歯が触れた。痛みはなかった。恐らく相手は意図していないだろう。それはまるで甘噛みのようだ。
抱いてくれと、意思を示された如く。
昨晩に自分がやらかした粗相の後始末で、懐紙を出したときに落ちたのだろう。彼女なら上手く処理してくれていると思うが、念の為、俊は本日も避妊具を懐へ忍ばせた。
見合い二日目の夜、俊を追いかけているかのように、雨がパラついてきた。雷の音もしている。俊は足早に見合いの場へ向かった。早い到着になってしまったが、相手はすでに離れの中で待っていた。
大雨になりそうだと伝えると、彼女はうなずきながら、細々と世話をやいてくれた。麦茶の入ったグラスを渡され、半分ほど飲み、置き場所がないかと左右を見ていると、彼女は手を出してくる。
何も言っていないのに、相手が何を欲しているかが分かるらしい。長年添った夫婦みたいじゃないか、とニヤついてしまった。
おそらく、彼女にとっては、こうした先読みは日常茶飯事なのだろう。
俊はニヤニヤ笑いを苦笑に変えた。
本日も、見合い相手の女は緊張していた。
昨晩、自分の大失態がよかった……とは流石に言わないが、あのあと、かなり打ち解けてくれた。帰る前には抱きついてくれるほどに。
だがまた、初日の固い空気に戻ってしまっている。
「昨日、俺はここに避妊具を置いて帰ってなかったか?」
俊は、話題としてはどうかと思いつつ、なるべく気負わせないような内容を話しかけた。
「ええ、そう」
女は、クスクスと笑いながら俊の会話に乗ってくれた。
なんだ、緊張しているように感じたのは俺の気のせいだったのか。相手が楽しそうに話をしているのを聞きながら、俊は暗闇で安堵し口角を上げた。
その後も、彼女はずっと笑いながら話を続けた。
笑い上戸だったのか、とも思ったが、違う。笑い声は段々とぎこちなくなっていく。素人が自分本位の漫才をやり、大衆に全く受けていないような気まずい空気が流れている。とうとう、彼女は完全に笑うのを止めた。
「ごめんなさい。親馬鹿……というか、飼い主馬鹿でしたか」
「そうじゃない。今日、何かあったのか?」
女は、膝の上に置いていた手を握った。やっぱり、緊張している。
「灯りが点いていたら、俺も分からなかったかもしれん。あなたの姿が今、見えないからこそ違和感がある。今日のあなたは変にテンションが高い。無理をしているように感じる」
正直なところ、少々面倒な相手だと思った。もちろん、いきなり全て打ち解けてくれとは言わないが、気遣われ明るく振る舞われているのは痛々しい。結婚をして、その先もずっと、感情を殺したような──相手の腹を探りながら、彼女は俺と生活をするつもりなのか。
そんな生活はもちろんごめんだ。
向こうは黙って俊を見ている。俊も、彼女が次に何を言うか待っていたところ、いきなり雷鳴が轟いた。
来たなと俊が思ったのと同時に、対峙の女が悲鳴を上げた。
俊の目の前で、女は自らの両腕を胸の中で囲むように身を伏せた。俊は思わず傍に寄り、有無を言わせず彼女を抱えて抱きしめた。背に添えた手から伝わる、彼女の心音の速さに俊は眉をひそめた。
「大丈夫か?」
再度、雷が落ちた。またも近くだったようで、天窓から電気の流れが確認できた。俊の腕の中の彼女は、再び短い怯えの声を漏らした。
俊は彼女の耳に手を添え、自分の胸に押しつけるように力を入れ抱き直した。すぐさま、彼女も俊の背に手を回し、くたりと、俊に完全に体を預けてきた。相変わらず心音が早いが、精神に多少なりとも余裕が戻ったようだ。
雷を追いかけるように、雨雲もやってきた。大粒の雨の音が重なり、やがて本降りの空に変わっていった。
「あなた、かさ、持って、る?」
俊は瞬き、失笑してしまった。
「俺のことが心配なのか。この雨だったら、すぐに雷と一緒に移動するだろう」
彼女も、声は出さなかったがこくりとうなずいた。俊に抱きしめられたまま抵抗せず寄り添っている。
話をした方が、彼女の気が紛れるかもしれない。
「あなたこそ、雷が苦手なのか?」
「大きな音だったからびっくりした……」
女の声の調子が戻ってきたようだ。
「そうか。車のクラクションも苦手なほうか?」
え?という疑問の声と共に、女は俊の腕の中でもそもそと動き始めた。手を緩めると、俊から離れず、俊の顔をまじまじと見ている。
「……ええ。間近でいきなり鳴らされるとびっくりしてしまう」
なるほど。
俊は女の膝裏に手を差し入れ、抱えて布団の上に寝かせた。すぐ隣に俊も横になり、彼女を抱きしめた。彼女の首筋に指を添えたが、相手は嫌がらず、俊のしたいようにさせている。
「だいたいあなたのことが分かった」
俊の腕の中で、女は肩を丸めて小さくなった。まるで、何かに怯え、消えたがっているような仕草だ。俊が何を言うのか、聞きたくないような。
どうして。
どうしてここまで、彼女は自分を責め続けているのだろう。長子長女にありがちな、責任感の強さからくる自己肯定感の低さだけではなさそうだ。
俊は、扱いにくい女だと思いながらも、ここを去って見合いを終えようという気にもなれない。
俊は見合い相手の、自責の理由を知りたくてしかたがなかった。こんなにも、一人の女性に執着しつつある己に戸惑いながらも、知るために先へ進むことに躊躇いはない。
「穏やかな話し方をするし、動作もゆっくりで、せかせかともしていない。声も可愛らしくて、そういう人は顔立ちもあどけない」
俊は敢えて、自分の予想と違ったことを言った。自信満々に間抜けなことを言って、笑ってもらおうと画策した。思惑通り、腕の中で彼女は笑っているようだ。だんだんと柔らかくなっていく。いい感じになってきたかもしれない。
彼女の手が伸ばされ、俊の後頭部を撫でた。子供に対するそれではない。女が、男の体を探り、心を虜にするような動きだ。
「ここ。手触りが好きです」
「そうなのか。なんだろうな。俺もあなたのここが好きだ」
昨日も我が物のように手を差し入れた、しなやかな女のうなじは、今日も俊の劣情を湧かせた。
肌の感触に引き寄せられ、俊は椎奈の首筋に鼻を寄せた。爽やかな柑橘の香りが今日もする。
「やっぱり、あなた、どどいつと行動が一緒だわ」
女は笑い、俊にぴたりと体を添えてくる。彼女の鼻先が、俊の首に触れた。
「あなたは、あまり匂いがしない。ここに来る前に、着替えもシャワーも済ませてしまうのね」
犬のように鼻を動かし、女は残念そうに囁いた。
「俺の匂いを知りたいのか?」
「うん。どどいつが羨ましい」
殺し文句だな。
俊はとうとう我慢できず、相手の女を上に向かせ、唇を重ねた。
女性のからだの中でも特に柔らかい場所だ。もう一つ、粘膜に包まれた柔らかいところがある。そこも知りたくなって、俊のからだの一部が固くなった。
離れ、目を開けると、女は幸福に満たされた息を吐いた。
「嬉しい。慰めてくれてるみたい」
その気持ちはないわけではない。俊の中にはもっと激しい思いがある。だが、何より優先したいのが、女が何を想い欲しているかだ。
「今日、何があった?」
昨日のようにはぐらかされるかもしれない。
俊は、彼女に許されるなら、すでに七日全て通うつもりでいる。そのあいだに、彼女の苦悩の理由を、彼女の口から聞きたかった。
聞いて、完全に解放してやれなくとも、立ち向かうなら一人ではないということを、知ってほしかった。
女は黙っていた。昨日今日では無理もない。何か、きっかけがあれば、教えてくれるかもしれない。それまで待つしかない。有効期間は本日も合わせて六日。一日に費やせる時間は……
俊が計算し始めた矢先、女は、四分の一刻前の雨のように、ぽつぽつと話しはじめた。
「私は臆病なの……。大きな音が好きじゃない。びくっとしてしまう。音だけじゃなくて、大きな声で話をしているひとも怖い。自分が怒られていなくても、大声で怒られている人を見たり聞いたりしただけで心音が早くなる。困っている人を見ても、助けてあげないといけないって思うのに、相手が男の人だと足が竦むの。何も見なかったフリをしてその場を後にしてしまう」
数年前、俊が現在配属されている署に、ある警察官がいた。現在の俊の相棒の泊内は、初めて組んだ相手だったと話してくれた。
相手の小さな動きから、動揺や怒りを察し、取り調べをするのが上手い人物だったそうだ。その分、相手の感情に同調し過ぎてしまい、よく疲弊していたとも。
すでに亡くなっている方だ。俊は何故かその話を思い出した。
おそらく彼女もそういう性質を持っている。困っている人を放置できず、だからと言って警戒も疑いもせず声をかけるには、この世ではあまりにも恐ろしい行為だ。相手が本当に困っているのか、それとも罠であるのか、素人には分からない。
だからやむなく、見なかったことにしてしまう。後々悔いることになるのだ。あの行動は、人間としてどうだったのかと。
自らのそういった性質を、仕方がないと折り合いを付けるには、腕の中の女は繊細過ぎる。
俊は、彼女には、危険なことに近寄ってほしくはなかった。
それが俊個人のエゴであると認めつつ、俺が肩代わりをすると──今、言えることができればいいのに。
「俺はその方が安心する」
彼女に、伝わってほしいと、俊は祈った。
今日も、何がきっかけだったのか、俊には分からなかった。一通り話し終えたあと、女は首を伸ばし、俊の顎に口付けてきた。闇の中で目測を誤ったのか、俊の顎に彼女の歯が触れた。痛みはなかった。恐らく相手は意図していないだろう。それはまるで甘噛みのようだ。
抱いてくれと、意思を示された如く。
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