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本編 雌花の章
第十四話 消化するだけの日々
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「どうしてあなたは、私にそんなに優しいの」
どうして、この人は、椎奈では考えつけない言葉を、癒やしの言葉をくれるのだろう。
彼にはずっと警察官でいてほしい。こんなふうに、ひとに寄り添える人物は貴重だ。
「あなたは傷だらけじゃないか。あなたも、そんな人間にむち打つことはしないだろう? まして、好意を抱いている相手に」
顔を覆いたくなったのを我慢した。膝の上で手を握り、手のひらに爪を食い込ませて。
諦めなければいけない。会いたくない。見たくない。
見たくない。
自分は、なんと最低の人間なのだろう。
好きなくせに、そばにいたくないもうひとつの理由に気付いた。
嫉妬だ。
警察官になれないと身内に諦めを抱かせた、異端である椎奈には、優秀な彼は眩しすぎる。
彼が功績を挙げ、階級を上げていくたび、自分はそれを純粋に喜べるのか分からない。勝明の三男、椎奈より年下の従兄弟は身体能力が高い。椎奈が一般の大学へ入学した翌年、従兄弟は警察学校へ入学した。その従兄弟が機動隊への候補生として期待されていると聞いたとき、椎奈は本心から喜べなかった。
自分だけがどうしてという言葉ばかりが頭にあった。
何もかも嫌になった。全てなかったことにして、日常に戻りたい。
消えてしまいたい。
「私は最低の人間だから」
「……おい」
「優しいあなたには、私みたいに臆病な女より、もっと相応しいひとがきっといる」
大きな雨音がしている。止みそうにない。
彼が帰るなら、傘を用意しなければ、と思ったとき、彼は音も立てずにすっと立った。
「それを決めるのはあなたじゃない、俺だ」
初めて聞いた、我慢も優しさも一切が取り払われた、完全な憤怒の声だった。
「自分を卑下して断るのは、確かに楽だよなあ。自分に非があるからというフリをして、相手を勝手に持ち上げて、逃げるのに最適な捨て台詞だからな」
頭から血の気がひいた。
全くその通りだ。今、椎奈は逃げた。彼の為を思って、という言葉を吐き出し、自分を一時的に貶めることで許してもらおうとした。
「生理的に受け付けないから会いたくないと、正直に言われた方が誠実だ。そうか。それを言う勇気すらないってことか」
椎奈は反論もできない。言い訳も何も思いつかなかった。彼と顔を合わすこともできない。自分の膝を凝視しながら、嵐が過ぎるのを──彼が諦めてくれるのを、今も待っている。
逃げてばかりだ。
「あなたの言う通りだ。確かにあなたは臆病だ。臆病で卑怯だ。卑怯で最低な女だ」
男は椎奈の横を通り、足を進めた。向かったのは東側の洗面所で、椎奈も後を追うと、彼は自分の着物に着替えようとしていた。
「まだ乾いていない……」
「俺に話しかけるな。あなたの上っ面だけの親切を見せられるとイライラする」
鋭く刺されたようなショックが椎奈を襲った。
上っ面だけの親切。
そうだ。確かに自分は、誰かを助けたいと思いながらも、何もできず逃げて帰る。
警察官に向いていないどころではない。人間として大きな欠陥があるのだ。
それを、最も見せたくなかった相手から指摘された。
「鍵は明日の朝、親父に渡す」
椎奈の見合い相手は別れの挨拶すらせず、大雨の中を去っていった。
椎奈は、呆然としたまま、閉じた戸を眺めていた。
涙は出なかった。彼がいたときは泣くのを我慢していたのに。一人になったら、涙を堪えなくてもいいようだ。
まるで、パフォーマンスで泣きたかっただけみたいだ。狡い人間のやりそうなことだ。鼻で嗤ってしまった。
だいたい、泣く必要なんてある?
希望通りになったのだから、泣くわけがない。喜べばいい。そうでしょう。
椎奈は口を歪ませ、無理矢理な笑顔を作った。
希望通りになり、なにもかも空になった。
外で誰かが、戸を敲いている。椎奈はその音で目覚めた。椎奈が夜を過ごした離れでは、高い位置に設置されているガラス窓から明るい光が射している。窓の外が明るくなったのは覚えている。昨夜、見合い相手が去ったあと、部屋で横になり、ずっと寝返りを打っていた。自分という人間は厄介だ。夜中じゅう眠れなかったのに、起きる時間が近づくとうとうとしてくるなんて。
「椎奈、どうしたの?」
声の主は郁だ。椎奈は時計を見て、午前九時前であることに驚いた。
見合いを中止する、うらぎりもの、など母に言い放ったくせに、結局、見合いの相手と会っていたことが郁に知られた。そもそも、彼の為にと、着替えの浴衣を用意できるのは郁しかいない。
椎奈は応えて戸を開けた。戸口の真ん前で郁は立っていた。心配そうな顔をしている。
「おはよう」
「おはよう。椎奈、鍵が返ってきたそうよ。勝明さんから教えてもらった」
椎奈は目を伏せた。
「……そう」
「昨晩、あなたのお見合いの相手が来ているって、奈月から聞いたわ。相手にも、お見合いを終えたいと伝えたのね」
椎奈は肯定した。
「なかなか戻ってこなかったから、心配してたんだけど、大丈夫なの?」
椎奈は郁に頭を下げた。
「いろいろと、ごめんなさい。この部屋も、朝ご飯を食べたら掃除する」
郁は、そういうことを聞いているのではない、と言いたげな顔をしたが、無言で本宅へ向かった。椎奈も郁のあとに続いた。
朝食後、椎奈は今日も、離れの掃除をしていた。
椎奈が渡した彼の為の、着替えの浴衣はきっちりと畳まれていた。椎奈よりも畳むのが上手い。
そこにも、彼の痕跡はほとんどなかった。
自分が彼と会っていた五日間、それは夢だったのだ。
そう思い込めたら、今の泥沼のような感情の重荷から抜け出せるだろうか。
おかしな話だ。昨晩、彼と別れたときは空っぽに感じたのに、今、椎奈の体には汚泥が、体の隅々まで詰まっている感覚がある。
見合いの相手と会ってから、彼の職業を知るまでは、椎奈のなかには優しく、楽しく、美しいものでいっぱいだった。
今は重くて辛い、とてもいやなものしか、自分の中には残っていない。
掃除を終え、することがなくなっても、椎奈は離れにいた。何もせず、膝を抱いて部屋の端で座り込んでいた。
昼食後、時間を確認してから椎奈は新聞受けを確認した。
中は空だった。いつもならすでに夕刊が入っている時間だ。家に戻って探しても見当たらない。奈月が居間に入ってきたので、夕刊がどこにあるか、知っているかどうか聞いてみた。
「え、今日は日曜だし、夕刊ないでしょ」
失念していた。仕方がないので、椎奈は自室のパソコンでニュースを確認した。先日の中学生男子が殺害された事件の記事について、新情報が追加されていた。
椎奈はそれと、他に、身近に大きな事件はなかったかを、くまなく調べ続けた。
何度も何度も。
朝夕、布団から出ると羽織を着なければ寒く感じる季節になった。
暗いうちの早朝に目覚め、朝刊を取りにいき、新聞の一面、地域の記事、三面記事をそれぞれ確認していく。
眠れぬまま夜を明かし、もう一度新聞を確認してから出社する。帰宅し、夕刊を繰り返し確認する。時間があれば再度朝刊も。ウェブサイトの記事も閲覧している。確認するのは地元の事件欄だ。
一度だけ奈月に「おねえ狂ってる」と言われた。椎奈自身、そう思っている。奈月はそれ以降、何も言ってこなかった。
仕事場でも、皆が椎奈の心配をしているのが分かる。自らお見合いを中止したのが日曜。開けて月曜の朝、お昼ご飯を誘いに来た三人が全員、笑顔から一斉に無表情になったのを椎奈は目の当たりにした。人の顔って、こんなにも分かりやすく変化するときがあるのだと、他人事のように彼女等を眺めていた。
それからは皆、椎奈が話す、もしくは落ち着くのを待ってくれている。
椎奈はファイルを抱え、職場の企画室の戸を開けた。企画部の社員である大鷹真貴に用があったのだが、彼はいなかった。空いた席の向こうにいた北畑が椎奈を認め、手を挙げた。
「大鷹君に出す書類でしょ? 私が預かるわ」
「大鷹さん、出てるんですか?」
大鷹は北畑とペアで仕事をしていることが多い。大鷹単独で不在というのは珍しい。
「大鷹さん、大鷹君じゃなくて琴瑚さんの方ね。具合が悪くなっちゃって。大鷹君はいま彼女を連れて帰ってるの。ご実家の方に送るって言って、三十分くらい前に出たから、もうすぐ戻ると思うわ。大鷹君に渡しておくから」
椎奈は眉を寄せた。
「ことちゃ……琴瑚さん、何か……」
「今日は悪阻がひどいみたい。大鷹君たち、車通勤で出勤が一緒でしょ。琴瑚さんだけタクシーで帰すって選択肢は彼の中にはなくてね」
北畑はしかし、大鷹を責めているわけではなく、よくやったと言わんばかりのしたり顔でうなずいている。
「ということで、それ、私がもらっておくわ。大鷹君のことだし、今日中に戻せると思うわよ。万が一のときは私もできるから」
「お願いします」
椎奈は北畑の好意に甘え書類を渡し、北畑へ頭を下げた。頭を上げたとき、北畑は椎奈のことを、矯めつ眇めつ見ていた。
「菊野さんも、顔色悪いわよ。具合よくないの?」
不意を突かれしばらく口を開けたまま動けなかったが、椎奈はぎこちなく取り繕いの笑顔を作った。
「さ……くばん、晩酌して、飲み過ぎちゃったんですよ。美味しいお酒で、えっと、伯母がくれたもので、肴と合って……つい。ダメだな~って思いながら、結局いっぱい飲んじゃって……馬鹿ですよねえ~へへ」
「ここ最近ずっと顔色よくないなって思ってたけど、晩酌、毎日なんだ?」
北畑は椎奈の嘘を見抜いたようだ。椎奈は「そうなんですよ、私ってばのんべえですよね」と曖昧に笑いつつ、もう一度一礼し、北畑から逃げるように企画室を出た。
自分の部署へ戻るため、廊下を歩く傍ら、椎奈は自分のへそ辺りを手で覆った。
「悪阻……」
椎奈は廊下の途中にあった、お手洗いの表示に目をやり、また前を向いて足を進めた。
翌日、琴瑚は、フライドポテトを作ったと昼食時に持ってきていた。曰く、ちょくちょくそれを食べていると具合が悪くならないそうだ。琴瑚はフライドポテトを作ったついでと、田原と山崎、椎奈に食べてほしいとドーナツも持参していた。
「うわ、おいし!」
田原は絶賛し、琴瑚からレシピを聞いている。
「菊野さんも食べなよ。ほんと美味しいよ」
山崎から勧められ、椎奈も食べたが、味がしなかった。
日が経つにつれ、仕事への集中力も切れ、ミスが多くなった。上司に呼ばれ、体調について質問された。不眠かもしれないと答えると、カウンセリングを勧められた。
見合いを終え二月、椎奈はそうして過ごしていた。
どうして、この人は、椎奈では考えつけない言葉を、癒やしの言葉をくれるのだろう。
彼にはずっと警察官でいてほしい。こんなふうに、ひとに寄り添える人物は貴重だ。
「あなたは傷だらけじゃないか。あなたも、そんな人間にむち打つことはしないだろう? まして、好意を抱いている相手に」
顔を覆いたくなったのを我慢した。膝の上で手を握り、手のひらに爪を食い込ませて。
諦めなければいけない。会いたくない。見たくない。
見たくない。
自分は、なんと最低の人間なのだろう。
好きなくせに、そばにいたくないもうひとつの理由に気付いた。
嫉妬だ。
警察官になれないと身内に諦めを抱かせた、異端である椎奈には、優秀な彼は眩しすぎる。
彼が功績を挙げ、階級を上げていくたび、自分はそれを純粋に喜べるのか分からない。勝明の三男、椎奈より年下の従兄弟は身体能力が高い。椎奈が一般の大学へ入学した翌年、従兄弟は警察学校へ入学した。その従兄弟が機動隊への候補生として期待されていると聞いたとき、椎奈は本心から喜べなかった。
自分だけがどうしてという言葉ばかりが頭にあった。
何もかも嫌になった。全てなかったことにして、日常に戻りたい。
消えてしまいたい。
「私は最低の人間だから」
「……おい」
「優しいあなたには、私みたいに臆病な女より、もっと相応しいひとがきっといる」
大きな雨音がしている。止みそうにない。
彼が帰るなら、傘を用意しなければ、と思ったとき、彼は音も立てずにすっと立った。
「それを決めるのはあなたじゃない、俺だ」
初めて聞いた、我慢も優しさも一切が取り払われた、完全な憤怒の声だった。
「自分を卑下して断るのは、確かに楽だよなあ。自分に非があるからというフリをして、相手を勝手に持ち上げて、逃げるのに最適な捨て台詞だからな」
頭から血の気がひいた。
全くその通りだ。今、椎奈は逃げた。彼の為を思って、という言葉を吐き出し、自分を一時的に貶めることで許してもらおうとした。
「生理的に受け付けないから会いたくないと、正直に言われた方が誠実だ。そうか。それを言う勇気すらないってことか」
椎奈は反論もできない。言い訳も何も思いつかなかった。彼と顔を合わすこともできない。自分の膝を凝視しながら、嵐が過ぎるのを──彼が諦めてくれるのを、今も待っている。
逃げてばかりだ。
「あなたの言う通りだ。確かにあなたは臆病だ。臆病で卑怯だ。卑怯で最低な女だ」
男は椎奈の横を通り、足を進めた。向かったのは東側の洗面所で、椎奈も後を追うと、彼は自分の着物に着替えようとしていた。
「まだ乾いていない……」
「俺に話しかけるな。あなたの上っ面だけの親切を見せられるとイライラする」
鋭く刺されたようなショックが椎奈を襲った。
上っ面だけの親切。
そうだ。確かに自分は、誰かを助けたいと思いながらも、何もできず逃げて帰る。
警察官に向いていないどころではない。人間として大きな欠陥があるのだ。
それを、最も見せたくなかった相手から指摘された。
「鍵は明日の朝、親父に渡す」
椎奈の見合い相手は別れの挨拶すらせず、大雨の中を去っていった。
椎奈は、呆然としたまま、閉じた戸を眺めていた。
涙は出なかった。彼がいたときは泣くのを我慢していたのに。一人になったら、涙を堪えなくてもいいようだ。
まるで、パフォーマンスで泣きたかっただけみたいだ。狡い人間のやりそうなことだ。鼻で嗤ってしまった。
だいたい、泣く必要なんてある?
希望通りになったのだから、泣くわけがない。喜べばいい。そうでしょう。
椎奈は口を歪ませ、無理矢理な笑顔を作った。
希望通りになり、なにもかも空になった。
外で誰かが、戸を敲いている。椎奈はその音で目覚めた。椎奈が夜を過ごした離れでは、高い位置に設置されているガラス窓から明るい光が射している。窓の外が明るくなったのは覚えている。昨夜、見合い相手が去ったあと、部屋で横になり、ずっと寝返りを打っていた。自分という人間は厄介だ。夜中じゅう眠れなかったのに、起きる時間が近づくとうとうとしてくるなんて。
「椎奈、どうしたの?」
声の主は郁だ。椎奈は時計を見て、午前九時前であることに驚いた。
見合いを中止する、うらぎりもの、など母に言い放ったくせに、結局、見合いの相手と会っていたことが郁に知られた。そもそも、彼の為にと、着替えの浴衣を用意できるのは郁しかいない。
椎奈は応えて戸を開けた。戸口の真ん前で郁は立っていた。心配そうな顔をしている。
「おはよう」
「おはよう。椎奈、鍵が返ってきたそうよ。勝明さんから教えてもらった」
椎奈は目を伏せた。
「……そう」
「昨晩、あなたのお見合いの相手が来ているって、奈月から聞いたわ。相手にも、お見合いを終えたいと伝えたのね」
椎奈は肯定した。
「なかなか戻ってこなかったから、心配してたんだけど、大丈夫なの?」
椎奈は郁に頭を下げた。
「いろいろと、ごめんなさい。この部屋も、朝ご飯を食べたら掃除する」
郁は、そういうことを聞いているのではない、と言いたげな顔をしたが、無言で本宅へ向かった。椎奈も郁のあとに続いた。
朝食後、椎奈は今日も、離れの掃除をしていた。
椎奈が渡した彼の為の、着替えの浴衣はきっちりと畳まれていた。椎奈よりも畳むのが上手い。
そこにも、彼の痕跡はほとんどなかった。
自分が彼と会っていた五日間、それは夢だったのだ。
そう思い込めたら、今の泥沼のような感情の重荷から抜け出せるだろうか。
おかしな話だ。昨晩、彼と別れたときは空っぽに感じたのに、今、椎奈の体には汚泥が、体の隅々まで詰まっている感覚がある。
見合いの相手と会ってから、彼の職業を知るまでは、椎奈のなかには優しく、楽しく、美しいものでいっぱいだった。
今は重くて辛い、とてもいやなものしか、自分の中には残っていない。
掃除を終え、することがなくなっても、椎奈は離れにいた。何もせず、膝を抱いて部屋の端で座り込んでいた。
昼食後、時間を確認してから椎奈は新聞受けを確認した。
中は空だった。いつもならすでに夕刊が入っている時間だ。家に戻って探しても見当たらない。奈月が居間に入ってきたので、夕刊がどこにあるか、知っているかどうか聞いてみた。
「え、今日は日曜だし、夕刊ないでしょ」
失念していた。仕方がないので、椎奈は自室のパソコンでニュースを確認した。先日の中学生男子が殺害された事件の記事について、新情報が追加されていた。
椎奈はそれと、他に、身近に大きな事件はなかったかを、くまなく調べ続けた。
何度も何度も。
朝夕、布団から出ると羽織を着なければ寒く感じる季節になった。
暗いうちの早朝に目覚め、朝刊を取りにいき、新聞の一面、地域の記事、三面記事をそれぞれ確認していく。
眠れぬまま夜を明かし、もう一度新聞を確認してから出社する。帰宅し、夕刊を繰り返し確認する。時間があれば再度朝刊も。ウェブサイトの記事も閲覧している。確認するのは地元の事件欄だ。
一度だけ奈月に「おねえ狂ってる」と言われた。椎奈自身、そう思っている。奈月はそれ以降、何も言ってこなかった。
仕事場でも、皆が椎奈の心配をしているのが分かる。自らお見合いを中止したのが日曜。開けて月曜の朝、お昼ご飯を誘いに来た三人が全員、笑顔から一斉に無表情になったのを椎奈は目の当たりにした。人の顔って、こんなにも分かりやすく変化するときがあるのだと、他人事のように彼女等を眺めていた。
それからは皆、椎奈が話す、もしくは落ち着くのを待ってくれている。
椎奈はファイルを抱え、職場の企画室の戸を開けた。企画部の社員である大鷹真貴に用があったのだが、彼はいなかった。空いた席の向こうにいた北畑が椎奈を認め、手を挙げた。
「大鷹君に出す書類でしょ? 私が預かるわ」
「大鷹さん、出てるんですか?」
大鷹は北畑とペアで仕事をしていることが多い。大鷹単独で不在というのは珍しい。
「大鷹さん、大鷹君じゃなくて琴瑚さんの方ね。具合が悪くなっちゃって。大鷹君はいま彼女を連れて帰ってるの。ご実家の方に送るって言って、三十分くらい前に出たから、もうすぐ戻ると思うわ。大鷹君に渡しておくから」
椎奈は眉を寄せた。
「ことちゃ……琴瑚さん、何か……」
「今日は悪阻がひどいみたい。大鷹君たち、車通勤で出勤が一緒でしょ。琴瑚さんだけタクシーで帰すって選択肢は彼の中にはなくてね」
北畑はしかし、大鷹を責めているわけではなく、よくやったと言わんばかりのしたり顔でうなずいている。
「ということで、それ、私がもらっておくわ。大鷹君のことだし、今日中に戻せると思うわよ。万が一のときは私もできるから」
「お願いします」
椎奈は北畑の好意に甘え書類を渡し、北畑へ頭を下げた。頭を上げたとき、北畑は椎奈のことを、矯めつ眇めつ見ていた。
「菊野さんも、顔色悪いわよ。具合よくないの?」
不意を突かれしばらく口を開けたまま動けなかったが、椎奈はぎこちなく取り繕いの笑顔を作った。
「さ……くばん、晩酌して、飲み過ぎちゃったんですよ。美味しいお酒で、えっと、伯母がくれたもので、肴と合って……つい。ダメだな~って思いながら、結局いっぱい飲んじゃって……馬鹿ですよねえ~へへ」
「ここ最近ずっと顔色よくないなって思ってたけど、晩酌、毎日なんだ?」
北畑は椎奈の嘘を見抜いたようだ。椎奈は「そうなんですよ、私ってばのんべえですよね」と曖昧に笑いつつ、もう一度一礼し、北畑から逃げるように企画室を出た。
自分の部署へ戻るため、廊下を歩く傍ら、椎奈は自分のへそ辺りを手で覆った。
「悪阻……」
椎奈は廊下の途中にあった、お手洗いの表示に目をやり、また前を向いて足を進めた。
翌日、琴瑚は、フライドポテトを作ったと昼食時に持ってきていた。曰く、ちょくちょくそれを食べていると具合が悪くならないそうだ。琴瑚はフライドポテトを作ったついでと、田原と山崎、椎奈に食べてほしいとドーナツも持参していた。
「うわ、おいし!」
田原は絶賛し、琴瑚からレシピを聞いている。
「菊野さんも食べなよ。ほんと美味しいよ」
山崎から勧められ、椎奈も食べたが、味がしなかった。
日が経つにつれ、仕事への集中力も切れ、ミスが多くなった。上司に呼ばれ、体調について質問された。不眠かもしれないと答えると、カウンセリングを勧められた。
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