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本編 雌花の章

第十二話 裏切りと期待

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 男が去ったあと、椎奈はおぼつかない動きで浴衣を着、離れを出た。本宅に灯りがついている。裏の勝手口のノブを回すと、施錠されていなかった。
 まずやってきたのはどどいつだった。彼は尾を振って椎奈を迎えてくれたが、椎奈は彼に視線をやらず、どどいつの後を追ってきた母を見上げた。
「どうしたの、何かあったの?」
 髪は乱れ、体も洗っていない。暗闇で着た浴衣は着崩れている。いましがた、男に抱かれたばかりと丸わかりの体裁のうえ、泣いたせいで瞼も赤く腫れている。そんな格好で、椎奈は郁を睨み上げた。
「どうして、あの人を私に選んだの?」
 母は眉根を寄せた。
「……椎奈?」
「お母さんは、お父さんが殉職してあんなになったのに、私を同じ目に遭わせたいの?」
 母から表情が消えた。
「何を言っているの」
「私の相手の人、警察官だわ、どうして?」
 母は何かに気がついたようにはっとした顔をした。
「椎奈」
 郁は何かを言おうとしたが、椎奈は激高していた。
 ──裏切りだ


 母は父の通夜の夜、参列者がいなくなったあと、泣いた。気丈な母が初めて見せた、弱り切った姿だった。あんな、悲鳴のような鳴き声を、椎奈はあのとき以来、母に限らず誰からも聞いたことがない。
 頽れ、泣いて、父の名を呼んでいた。
 そのあいだ、椎奈は、ずっと郁の手を取っていた。


 母の気持ちは、痛いほどよくわかった。最愛のひとを亡くしたのだ。唯一のひとを。
 嘆くのは当然だと椎奈は汲んだ。泣きたいだけ泣かせて、吐き出させる方がいい。勝明伯父にも、郁さんを支えてやれと言われた。


 それなのに。
 このひとは、娘を同じ目に遭わせようとしている。

 怒りにまかせ、脳裏に浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。
「うらぎりもの」

 母の顔がさあっと白くなったのを目の当たりにした。それで椎奈の頭が冷えた。
 私は今、母に何を言った?
 どどいつがクンと、切なそうに一声鳴いた。椎奈はその小さな声に肩を震わせた。どどいつに責められた気がした。
 ──お前は、母親に対してなんということを。
 椎奈はそのまま郁の隣を通り過ぎ、風呂場まできた。幸いに誰もいなかった。浴衣を脱ごうとして、体と浴衣に残っている、男との交わりの残滓に気付き、浴衣のまま風呂場に入った。シャワー用の蛇口をひねり、頭からぬるい水を浴びた。
 伏せた顔の、髪から流れる雫を見ていた。
 いくつもの流れ落ちる水滴を数えているうち、嗚咽が漏れた。
 そこから止めることができなかった。膝を突いて、声を殺し、椎奈は泣いた。

 消えてしまいたい。


 ずっとこうしているわけにはいかない。椎奈はシャワーを止め、ずぶ濡れの浴衣を脱ぎ、軽く絞った。洗い場は乾燥室にもなっている。浴衣を物干し竿に掛け、出た。体を拭いたのはいいが、換えの浴衣がない。
 いい加減、自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしたころ、郁が戸の向こうから声をかけてきた。
「浴衣を持ってきたわ」
「……ありがとう」
 三寸程度、開けられた引き戸の向こうから、椎奈の寝間着用の浴衣と帯が差し入れられた。着てから戸を開けると、母は戸の向こうで待っていた。
「お母さん、さっきはごめんなさい」
 母の顔を正面から見ることはできなかった。
「椎奈、何の言い訳にもならないのは分かっているけど、あなたの相手を選んだのは勝明さんよ。……いいえ、相談されて、私も同意したから、私が悪かったわね」
 椎奈は首を左右に振った。
 確かにそうだ。母は、ここの出身ではない。相手を探すツテがあまりないうえ、そもそもこの地の特殊な見合いの習慣に疎いのだ。伯父に相談するのは当たり前だ。伯父側から母に提案した可能性もある。
「明日、伯父さんに話す」
 母は眉根を寄せていた。
「何を?」
「伯父さんのツテなら、伯父さんから相手先に、私はお見合いを続けないことを伝えてもらう必要があるから。あの人は、私には無理だってことと」
 郁はさらに顔をしかめた。
「警察官とは結婚はしないってこと?」
「うん。警察官の伴侶になるのは嫌なの」
 椎奈は母からのさらなる追求から逃れたく、自室へ向かった。

 翌朝早く、椎奈は伯父宅へ向かった。彼らの朝が早いのは知っている。突然の訪問だったが、蕗子は身支度を調えた格好で平然と出てきたし、勝明も出勤前の格好をしていた。
「おはようございます。伯父さん」
「おはよう。手短に頼む」
「今回のお見合い、断ります。鍵を返してもらってください」
 蕗子は口をあんぐりと開けていた。勝明はそんな顔はしなかったが、眉間に大きな皺を作った。
「四日も会い続け、今になってか」
「その点も申し訳ないです。先に言っておくべきでした。私は、警察官の妻にはなれません」
 勝明はむっつりとした顔をしたままだ。
「何故だ」
「伯父さんに分からないなら、言っても無駄です。分かってもらえると思えません。……私が悪いんです。申し訳ありません」
「対話するつもりもないのか……いや今はいい。お前は頭に血が昇っているし、儂にも時間がない。いずれ近いうち、話はしてもらう……ただし、今後、お前には見合いの話はこない可能性もあるぞ。儂は知人から話をもちかけられたとしても、お前が、四日も過ぎて決断できなかった過去があることを、包み隠さず言う」
「構いません」
 どのみち、椎奈は彼を一生、引きずる確信さえある。
「……残念だ」
 何がだ。椎奈には伯父の考えていることが分からない。
「ご期待に添えず申し訳ありません」
 椎奈の拗ねた物言いに対し、伯父は怪訝そうな顔をした。
「お前に期待はしていない」

 息が詰まった。

「……あなた!」
 一番に沈黙を破り、声を荒げたのは蕗子だった。それで呪縛が解け、椎奈は一礼した。
「失礼します」
 立ち上がり部屋を出た。後方から蕗子の「待って」という声が聞こえたが、無視した。きっと椎奈の気を安らげようと、何か言ってくれるだろう。けれども、何を言われても、今の自分では素直に聞き入れられそうにはない。
 警察官にもなれない私。
 警察官の妻にもなれない私。
 母と伯父の諦め。薄々感づいていたが、今はっきりと言われた。椎奈は彼らの身内として、期待などみじんもされていなかった。

 馬鹿みたいだ。とっさに思い浮かんだのは、見合い相手の腕に抱きしめられた感触だった。この期に及んで、彼に慰められたいのだ。彼なら分かってくれると。
 自分から、突き放したくせに。

 椎奈の仕事は土日が休みで、今日は土曜日だ。伯父宅から戻ったあと、椎奈は朝食を作り郁と双子たちに食べさせ、洗濯をした。朝の天気予報では、夕方からは雨になると言っている。だから早いうちに洗濯をした。洗濯機が動いているあいだに布団を干し、家の掃除にかまけていた。何も考えたくないからだ。
 離れにも入った。布団を干して片付けた。掃除もして、空気の入れ換えを終えたあと、戸を閉めた。鍵をかけて、それを持って本宅に戻った。
 ──私はこの離れを、二度と使わないかもしれない。
 あの彼を、吹っ切ることなどできまい。次の男性を受け入れられるとも思えない。
 夕刊が届き、椎奈は一面に目を通した。読み終えてから目を閉じ、項垂れた。
 少年を殺した犯人が捕まったという記事だった。
 夕方六時のニュースの冒頭は、それについてだった。映像で、犯人は暴れることなく連行されていた。
 画面に、見知った顔はなかった。
 椎奈は、いつの間にか怒らせていた肩の力を抜いた。

 夕食はどんぶりに汁物、小鉢に野菜のごま和えを出した。母は戻っていない。奈月と香月はテレビを見、しゃべりながら夕食をかっこんでいる。
 雨が降り始めた。椎奈はしばらく窓の外を眺めていた。
「どどいつと散歩いってくる」
 香月が立ち上がった。それまで静かに伏していたどどいつは、香月の言葉を聞きつけ、キッチンの端に敷いてあるどどいつ用のラグの上で立ち、盛大に尾を振り始めた。
「はあ?」
 椎奈も驚いたが、馬鹿じゃないの?と言いたげに聞き返したのは奈月だ。
「雨降ってんのよ?」
「夏だし大丈夫だろ。それにどどいつ、雨好きじゃん」
「そうだけど……えええ?」
 弟と妹のやりとりのあと、出かけようとしている香月の背に、椎奈は声をかけた。
「泥だらけになったどどいつ、香月が責任持って洗ってあげなさいよ」
「えー泥だらけになるような場所には行かないけど?」
 香月は鼻で笑っている。椎奈は、弟に対し、雨中の犬の散歩の、真の恐ろしさを分かってない、と心の中で思った。
 一時間半ほどで香月は戻ってきた。どどいつ自身はご満悦のようだ。ただ、案の定、どどいつの脚から腹はどろっどろになっている。香月は疲れ切った顔をしていた。彼も泥だらけだ。
「外である程度、どどいつの泥を落としてくるから、香月は先にお風呂場に行って体を洗ってきて」
「……ういす」
 香月は椎奈の言うことを素直に聞いた。香月はどどいつを洗うのがヘタだ。
「香月、お風呂を出たら呼んで。私がどどいつを洗うから」
「ごめん」
 椎奈は古い浴衣に着替え、香月が使ったあと、どどいつを連れ風呂場に入った。
 香月に対し、さも、どどいつの世話をやってあげるという顔をしていたが、本当はお見合いのことを考えたくないだけだ。
 どどいつを洗い、体毛の水を振り落としてもらい、バスタオルでどどいつを拭いていた。どどいつは、椎奈に体を拭かれながら、耳をピンと立てた。首を傾げて椎奈を見あげてくる。
 ──いいのかい?
 そう言われている気がする。自分の後ろめたさが、そんな気分にさせるだけだ。
 どどいつからも目を逸らせ、ドライヤーを出そうとしたとき、お風呂の脱衣場の向こうで、香月と奈月がやってきている足音がした。
「おねえ、時間きてるよ。離れに行かなきゃ。どどいつは私たちが乾かすよ」
 脱射場の時計を見ると、なるほどその時間になっていた。郁は香月と奈月にはことの顛末を話していないのだ。
 説明をするのが億劫だ。どうごまかすかと考え倦ねていると、今度は香月が話しかけてきた。
「相手のひと、来てるよ」
 椎奈は体を硬直させた。雨の音がよく聞こえる。本降りになっている。
「香月、離れに行ったの?」
「行ってねえよ」
「じゃあどうしてそんなことが分かるのよ」
 弟からは返事がなかった。
「おねえ、香月は離れに繋がってる、……」
「やめろ、言うな」
「裏門にセンサー着けたのよ。今回、こっそり。だから人の出入りがあったら香月は分かるの」
「……はあ?」
 椎奈は自分の格好がどうなっているかも気に留めず、脱衣所を開けた。
「あ! おねえ、その格好はやばい」
 奈月の言葉も聞かず、椎奈は濡れた格好のままで本宅を出た。

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