死の守り神は影に添う

星見守灯也

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死からのおかえり 上

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 コウは黒のなかにおりていった。闇は静かにそこに広がっている。コウが生まれる以前から、死んだ後までずっと同じようにそこにある。そんな気がした。

 いくつかの光が見えた。それはどんどん近づいてくる。夜を照らす街灯だ。公園の近くの路地を、男の子二人が歩いている。そのむこうに金色の毛の獣がいた。それは光の当たらないところから、男の子が笑いあっているのを見ていた。

 コウは獣の気持ちがわかる気がした。なんであいつらは笑っていられるのだろう。どうして「わたし」がこんなになにもないのに平気でいるのだろう。

 そんな気持ちが湧きあがるまま飛びだしていき、気がついたら爪に柔らかい肉を裂く感触があった。コウは思わず自分の手を握った。悲鳴があがる。押し倒された男の子の首に爪が触れた。コウはそれを止めたかった。けれども、体が動かなかった。

 その光景はコウなどいないもののように展開していく。これはコウの記憶だ。いや、記憶よりもっと深いところで覚えていることだった。いまさら変えようのない、もう終わってしまったことだった。

 笛が鳴って、獣は首をもたげた。その目はひどく怒っていて、目に入るものすべてが気にいらないと言っていた。とにかく彼らをずたずたにしてやらなければ気がすまない。「わたし」はそれを知らなかったから、そこにあってはいけなかった。

「よう。はじめまして、こんばんは。いい夜かな?」

 やってきたアオにうなる。近寄るなというように。その人形はとても怖かった。獣は逃げようと地面を蹴る。けれども矛のほうが早く伸びて、肩をえぐった。

 逃げられない。獣がアオに向きなおって飛びかかる。爪のついた手を伸ばし、引き裂こうとした。ただ嫌だった。獣は自分の気持ちを表す言葉を知らなかった。

 一本、ネックレスの紐が切れて青いビーズが散らばった。ビーズはばらばらと闇に落ちて見えなくなった。そこでその光景はとぎれ、暗がりに消えていく。コウは残ったネックレスを握りしめる。進まなければ。アオを助けなければならない。



 また光が揺らいだ。記憶はコウを迎え入れる。見たくないと思った。けれど、そうしなければここを通ることができないのもわかっていた。

 そのとき「わたし」はひとりきりで寂しくてほえた。赤い月が見ていた。おまえはおかあさんを見捨てて逃げた悪い子だと言われているようだった。怖くなって、いてもたってもいられなくて走った。おかあさんにいい子だよって言われたかった。

 トンネルを男がひとり歩いていた。コウはすぐにシガンだとわかった。シガンはうつむきぎみに歩いてきて、ふっと顔をあげた。目があった。見つかったと「わたし」は思った。シガンは気づいていなかっただろう。けれども「わたし」はそいつが悪いやつだと思った。おかあさんが言っていた、悪いやつだと。

 これを壊せば、おかあさんは帰ってきてくれる。闇夜から抜けて、通りすぎる背中に爪を食いこませた。悲鳴は出なかった。驚いたような声がもれただけだ。上にのしかかって深くえぐる。男はうめいてもがいた。早く動かなくしなければ。

 つんざくような音が鳴った。振り返ると棒を持った人形がいた。人形が「わたし」を見ていた。それは「わたし」が悪いと怒っていた。どうして。慌てて逃げる。暗い闇のなかにぽっかりと白い月だけが浮かんでいた。

 コウは「わたし」の逃げた暗がりをじっと見ていた。ネックレスの紐が切れた。青い陶器のビーズが散らばって闇に消えていく。コウはそっと息を吐いた。アオがいるのはもっと奥底、死に近い部分だ。そこでなにを見ることになるのだろうか。



 さらに深く沈んでいく。どこまで来たかなど、とうにわからなかった。ときどきアオを助けにいくことも、シガンとユエンが待っていることも忘れそうになり、必死で覚えていようとした。

 街の影に「わたし」はいた。ずっとさまよっていた気がする。おかあさんがいなくて、おかあさんが言っていた悪いやつだってどこにもいなかった。同じ顔をした人形がたくさん歩いているだけだった。人形は「わたし」に気づかず通り過ぎていく。

 そんなとき、おかあさんを見つけた。細い道をひとり歩いている。よかった、やっと会えた。もう大丈夫だよ。「わたし」を見たおかあさんは悲鳴をあげた。転がるように走って逃げようとする。「わたし」は思わずすがりついた。皮膚が破れて血がしたたった。おかあさんは這って離れていこうとする。どうして。

 その足を握りしめると、バキリと音がして中身が折れた。おかあさんは泣きじゃくって暴れる。それを上から押さえつける。なんでわかってくれないの。

「母さん!」

 声がした。クナドだとコウは知っていた。クナドはなにももっていないのに、駆けよってきてそれを追いはらおうとする。「わたし」は慌てて女から飛びのいた。おびえたようにクナドを見て後ずさり、陰へと消えていく。

 違う、「わたし」のおかあさんなのに。「わたし」だけの。なんで「わたし」から離れていくの。腹がかあっと熱くなる。おかあさんは「わたし」を嫌いになったんだろうか。わたしがおかあさんを見捨てて逃げた悪い子だからだろうか。

 コウの手からビーズがこぼれて黒色に隠れていく。そこでこの記憶は終わりだ。



 暗闇にきらきらと光る粒。夜の雨だった。子供が道路の端にしゃがんでいた。その子はどうしたらいいのかわからなかった。おかあさんは「外には悪いものがいっぱいいる」と言っていたから。

 男がひとり、通りすぎようとして、ぎょっとして戻ってきた。なんでこんなところにとでもいうように。とっさに自分のビニール傘を子供の上にかざす。ばらばらと雨粒の当たる音が響いた。子供はゆっくりと頭をあげてその男を見た。

「どうしたの? 大丈夫?」

 子供は答えない。初めてみたかのように目を丸くしている。

「ええと、おうちどこ? おうちの人いる?」

 答えない。じっと男を見あげている。

「うーんと、そうだ、警察呼んだほうがいいかな? もしかしてケガしてる?」

 けいさつ。警察は悪いもの。見つかったらどこかに連れていかれて、おかあさんと会えなくなっちゃう。子供は手を押しのける。「大丈夫だよ」。ちょっと驚いた後、また手が近づいてくる。子供はその手を振りはらった。ざっくりと肉を切った感触があった。暗がりに血が飛んで、水たまりに落ちてじわりと溶けていった。

 突然の痛みに男は思わず手をひっこめた。子供は思った。逃げるのか。むかむかとして壊してやりたくなった。勢いよく男に手を振りおろす。肉を裂く感触。血がべったりと手につく。心がざわついた。そうか、これが「気持ちいい」んだ。

 ……「わたし」は強い。おかあさんはもう「わたし」を守らなくてもいい。急に自分がすごいものになった気がした。なんでもできるようになった気がした。強くなって悪いものをやっつけたら、おかあさんはしあわせになれる。

 男は慌てふためいて逃げだした。子供の青い目に虹色が浮かぶ。距離感が狂う。男の足がもつれて転んだ。起きあがろうとする背を子供が蹴り、濡れたアスファルトに叩きつけた。男は這って必死で逃げようとしたが、足が進まなかった。

 子供は男の腕を引きよせ、顔を爪のついた手でつかんでぐしゃりと潰した。そのまま乱暴に首をねじり切って投げ捨てた。頭が赤の混じった水を跳ねあげる。

 金色の獣はにんまりと笑った。残された傘を地面に叩きつける。踏みつけにして、骨もシャフトも折り、大きくひしゃげるまで壊した。すごくいい気分だった。

 紐が切れて、コウはようやくこれが「今」ではないと思い出した。ビーズの青が水たまりだった黒色に沈んでいく。コウは一本だけ残ったネックレスを握った。喉がつかえて苦しいと思った。泣いて叫ぼうとしても声が出なかった。

 コウは暗がりでひとり、なにもないところを見ている。泣くことで元に戻るなら、なかったことになるのならそうしただろう。黒い闇はそれを受けいれなかった。誰も知らなくてもコウだけは知っていて、忘れても消えることはない。

 今は進まなければ。そこにあるとわかっているのだから、怖くはなかった。



 ぼんやりと薄暗い部屋。真ん中に子供がひとり座っていた。部屋には木のつみき、パズル、絵本、テーブルの上にはどろどろになったなにかの食べ物。おかあさんは「あなたのために、体にいいもので作ったのよ」と言っていた。

 その子が物心ついたころからカーテンが開けられたことはない。外には悪いものがいて、見つかると食われてしまうのだ。出てはいけない。見てもいけない。おかあさんがそう言っていた。

 でも、今、おかあさんはいない。ふと思いついたように手が動いた。さっきまでザアザアと怖い音がしていたけれど、今は聞こえない。カーテンをめくると、透明なガラスのむこうに青い空があった。本当に青いんだ。

 空にはうっすらと虹も見える。「わたし」はがっかりした。絵本のように鮮やかじゃなかった。ぼんやりとした虹は嫌な感じがした。なにか悪いことが起こりそうだった。おかあさんとの生活が変わってしまうんじゃないかと不安になった。

「なにしてるの!」

 さっとカーテンが閉められる。慌てて振り返るとおかあさんが立っていた。怒らせてしまった。「わたし」が悪い子だから。おかあさんは悪い子が嫌いだ。

「これだからオトコノコは……」

 苦々しい声が落ちる。「わたし」がオトコノコだから悲しませてしまう。

「もう、どうしたらいいの? こんなにだいじに守ってあげているのに。どうしてわかってくれないの……? やっぱり私が悪いのかしら?」

 それはしだいにすすり泣きに変わった。

「……ごめんなさい。わたしが悪いの。おかあさんは悪くないの」

 子供はおどおどと謝った。おかあさんはため息をつく。

「外には悪くて怖いものがいっぱい。警察が来たらさらわれちゃうの。もう会えなくなるのよ。だから勝手なことしたらダメ。おかあさんのジャマしないでね」
「うん。わかってるよ」

 おかあさんの言うとおりにすれば大丈夫。だけど、おかあさんは弱い「わたし」を守らなければいけなくて大変なんだ。強くなれば助けてあげられるのにと思った。外の悪いのをみんなやっつけてやる。そうしたらきっと喜ぶだろう。

「あなたはいい子だものね。おかあさんを置いていかないでね」

 そう、「わたし」はいい子だ。おかあさんのジャマをしない、いい子だから。

「さあ、祈りなさい。吸血鬼さまが来てくださるように」

 吸血鬼はオオカミみたいで、きれいな目で、金色に光る毛をしているそうだ。太い爪があって、とがった牙で悪いやつを食べちゃう。吸血鬼が外の悪いやつを全部食べてくれたら、みんな救われるのだと言っていた。

「私たちは選ばれるの。きっとしあわせになれるから」

 その子供は言われたとおり、手をあわせて祈った。吸血鬼が来てくれるように。
 歪んだ鏡に映る、おかあさんの背中がぐるりと揺らいでねじ曲がった。それは鏡から抜けだしてきて、いくつもある大きな目と口を開いてみせた。

 コウの手からするりとネックレスが落ち、最後のビーズが闇に溶けていった。後にはもう、なにも残らなかった。このどこまでも広がる暗闇で、コウはただの塵にすぎなかった。ここではどんなものもそうなのだ。

 でも、今のコウにはやることがあったから。どこまでも冷たく透きとおるような心のなかをおりていく。
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