死の守り神は影に添う

出会い

始まりの駅 上

　その都市はいつもどおりの夜を迎えた。

　昼夜は一瞬で反転するものではない。空は橙の光を残しながら紅紫へと変わり、暗い紺に染まっていく。長く伸びていた影も陰へと溶け込んでいった。

　海と山の間の都市、東京。往く人の足が速いのは寒さが増してきたからだろうか。十一月の冷えた風が枝先を渡り、落ちる葉が近づく冬を知らしめる。

　ともかく眠らない都市は夜の入り口にあった。

　夜とはかつて闇そのもののことだった。己の手すら見えないそこは人間ではない「なにか」の世界であった。しかし現代においてその境は失われつつある。人間は夜さえ彼らの世界に取り込んでしまった。





　東京駅、地下通路の真ん中で少女は立ち止まって首をかしげる。

「おや」

　今、どこにいるのかわからない。迷路のような建物のなかを、ひっきりなしに人が行き交っていた。誰かについていったらとんでもないところに連れていかれそうで、彼女は案内を見あげて「うむむむ」とうなった。

　その大きな目は濃く長いまつげに囲まれている。赤褐色の肌はなめらかだ。豊かな黒髪を三つ編みにして左右に垂らしていた。この混雑した駅のなかで、誰にも気づかれることなくそこに立っている。

「地下もここまで人間の領域になったか。感慨深いな」

　つぶやいたそばで軽快な音が鳴った。学生らしき女の子がスマートフォンをとる。画面を見たところで呆れたように息を吐いた。「どうしたの？」「危ないから早く帰ってこいってさ」「あれは浅草のほうでしょ？」「こないだ六本木でもあったんだって」「へえ……でも大丈夫だよ、ここ、人いるし」「うん」。

　彼女たちは、そのままスマホをいじりながら話している。なにが面白かったのか、くすぐられたように笑い声をたてた。「しんぱいしょー」「まあね」。

　その無防備な笑いは突然にさえぎられた。突きあげられたように床が揺れ、ぐらぐらと激しく震える。バキバキメキメキとなにかが壊れる音。

「きゃあああぁあああー！」

　遠くからひきつった悲鳴、そして複数の怒声があがった。バチンとなにかが切れるような音がして、あちこちで電灯が点滅したきり消えてしまった。残った明かりでまだらに薄暗くなる。整然としていた人の流れが止まり、まごつきはじめる。

「なんだ、なにがあった？」
「知らない……」

　この国で地震はそう珍しいことではない。けれどもそこにいた人は思った。「なにか違う」と。起こった動揺が波のように伝わり、人々は音のした方向を見て信じられないというように足を止めた。雨の後の土のような匂い。改札とは逆の通路にそれはいた。

　化け物だった。人の背より大きく、痩せた獣のように両手を床につけている。

　灰褐色をした乾いた肉の塊。死後も腐らずにいる人間の死体。それにしてはずいぶん変形してクマやオオカミのようにも見える。目はくぼんでいるのに見えているかのように太く鋭い爪を伸ばした。爪は柱をえぐり、あちこちで悲鳴があがる。

　見ていたものは、ひとりが逃げだすとつられたようにいっせいに逃げはじめた。前の人を突き飛ばすようにして走る。

「なるほど、どうしたものか」

　彼女はつぶやくと、さっさと化け物に向かって歩き出した。





　それより少し前のこと、東海道新幹線をおりるなり男はせかせかと足を速めた。

「うわー、ヤバいヤバい」

　出る前に少々の仮眠をとったところ、まるっと十本は乗り遅れた。走っていけばまだ間に合うだろう。……たぶん。

　男は三十代後半といったところか。案内を見ながら、肩やカバンがぶつかりそうになるのをするりと抜けて階段をおりていった。そう背は高くなく、すんなりと隙間を見つけて人のむこうへと移動していく。

　都が出した、近日増えている吸血鬼害への注意喚起のポスターが貼られていた。そのデフォルメされた吸血鬼のイラストはどこか愛嬌がある。悪質な害獣とはとても思えないキャラクターに苦笑いをもらした。

　そのとき、ずんっと床が押し上げられたかと思えば横に揺れた。ついで耳をつんざくような叫び声が聞こえた。前へ前へと流れにのって歩いていた人たちが不意に足を止める。破壊音がしたとたん、頭上の電灯がちかちかとまたたいた。

　なにがあった？　男は肩に担いだ一メートル半ほどの細長い袋を握りなおし、そのなにかが起こった場所を把握しようとする。転げるように走ってくる駅員が避難を呼びかけてまわっていた。とまどいながらもわらわらと逃げていく人の動きに逆らうように、男は駅員に近づいた。

「いったい、なんです？」

　気やすい調子で道を聞かれた駅員は、一瞬、面食らったように叫ぶのを止めた。そしてスーツの男の左腕にある白い腕章に目をとめる。ネクタイのない首から提げた組合員証に、生松《いくまつ》アオという名と彼の顔写真が貼ってあった。右腰には黒の柄巻《つかまき》に銀装の短刀。鍔《つば》はない。駅員ははっと助けを求めるように奥を指す。

「はい。吸血鬼が、この地下の……その階段の下です」
「どーも」

　アオという男は持っていた大きなカバンを端に投げ出した。走りながら、細長い袋から得物を取りだす。矛だ。柄の短い矛を担いで階段に向かう。縛った後ろ髪がぴょこんと揺れた。

　地下への階段を慌てた人の波が這い上がってくる。その波を避けてアオは中央の手すりを駆けおりていった。これは化け物より圧死が怖いな。階段の途中で転びそうになった少年をひょいと抱えて上へと押しだしてやる。

「あっ……」
　少年はなにか言いたげに振り返ろうとしたが、後ろの人に押されるように階段をあがっていった。





　階段をおりきったアオはあたりをぐるりと見まわした。いつもはまぶしいほどの明かりはあちこち消えて薄暗い。駅の利用者の荷物が通路に散乱していた。土のような匂いが流れてくる。

　さて、どっちだ？　警戒しながら見た通路の先にそれがいた。

　通路と通路の交わるちょうど中心に、上半身を起こした化け物はいた。ひと目でそれを食人鬼に分類する。吸血鬼が人間の死体を変異させたものだ。人間と獣の乾いた死体をあちこちつなぎあわせたような姿、身長は二メートルを超している。

　アオはそちらに走りながら、ざっと周囲を確認した。柱や天井、床に大きな傷がつけられ、崩れかけているところが何ヶ所もある。配線や配管が剥き出しになっている。柱の影に身を縮めて隠れている車椅子の男と駅員はまだ見つかっていない。そのまま息をひそめていてくれと目くばせし、再びそれに目を移した。

　長い髪の少女がひとり、食人鬼とにらみあっていた。床にはまだ乾ききっていない血の跡がある。べったりと横に引きずられたような線を残して少女の後ろまで続いていた。ケガをしているのか？　しかし、その顔に恐怖や焦りはない。

　野生動物ならむこうから逃げてくれるかもしれないが、食人鬼は進んで人を襲う化け物だ。それが気おされたように動かなかった。なにがあったとアオが考える間に、食人鬼は弾かれたように鋭い爪を振りあげた。

「おりゃあ！」

　アオが少女との間に走りこんだ。つかむように襲いかかる爪を、矛で落として突き払った。重く硬い肉の感触が瞬時に消える。切られた食人鬼の右手首が飛ぶ。血は一滴も出なかった。切り離された手がぼとりと床に落ちて塵《ちり》へと変わる。それはすぐに破壊された天井や壁の破片にまぎれてわからなくなった。

　残った左腕が力ずくでえぐりにきたのを横に抜けて、その脇腹を突いた。踏みこんで薙ぎはらう。矛に裂かれた食人鬼の傷口がざらりと崩れて塵になる。舞った塵を残して食人鬼は後ろ跳びに逃げた。くるりと猫のように体勢を変え、二足で着地する。ぼこぼこと手首の切り口が盛り上がり、見る間に右手が再生された。脇腹の傷もすでに消えている。

「イイ男が来てやったんだ。こっち見な！」

　ゆっくりとアオのほうを見たその目は生きているものではない。食人鬼は毛を逆立てるような格好でグルルルル……とうなった。人間の言葉がわかるとは思えない。ガチガチと空噛みする牙の隙間からよだれがこぼれ落ち、塵になって床に散る。

　食人鬼と少女の間に入ることはできたが、さあ、ここからどうするか。