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しおりを挟む打たれても美穂さんは冷静さを保ったまま静かに呟いた。
「……わたし、この子をひとりで育ててみたいの。同じ苦労をしてみないと母の気持ちが理解できないでしょ。わたしはどんなに貧しくたって子どもを見捨てたりしないわ」
「それは君とお母さんの問題だろう。子どもを犠牲するのは間違ってる」
「わたし、聡太くんと上手くやっていける自信もないわ。育った環境が違いすぎるのよ。これからだってどんなに失望させるか分かったものではないわ。その方がひとりぼっちの子育てよりずっと不安で怖いんだわ。貧しくてもひとりの方が気楽なの。わかって」
美穂さんの怯《おび》えの正体は、コンプレックスによるものだろう。それは美穂さんを根底から打ちのめすことなのかも知れない。
「美穂さん、頼むから僕を信じて。僕だってまだまだ未熟で頼りない男さ。多分これからも失望させるようなことを沢山してしまうよ。だけどそれはお互いにカバーしていこう」
「聡太くんはわたしに同情しているだけなの。愛とは違う。いつか目がさめるときが来るわ。あなたのご両親の判断は間違ってないのよ」
幼稚な僕に言い聞かせるように、まるで確信しているかのように言い放った。
「その自信たっぷりな考えはどこから来るんだい? そんなに自分の考えに自信があるなら、怖いものなどないはずだろう。君はくだらないプライドにしがみついて、それを必死に守ろうとしているだけじゃないか。そのためなら我が子の幸せさえ犠牲にしても構わないんだ。君のお母さんより、ずっとエゴイストなんだよっ!」
「………… 」
美穂さんはうなだれ、ヘナヘナとリビングの床にしゃがみ込むと、シクシク泣きはじめた。
「……言いすぎてごめん。だけどわかって欲しいんだ。僕の両親のことは心配しなくていい。親にとって子どもが幸せに暮らすことが何よりの親孝行だろう? そうじゃないなら親の考えが歪んでるんだ。それは僕たちの問題じゃない。頼むよ、三人で幸せに暮そう」
肩においた僕の手を振りきって、美穂さんはトイレに駆け込み、しばらくの間出てこなかった。
僕はソファに座ったまま呆然としているお母さんのことも心配になった。
「お母さん、大丈夫ですか?」
背後から声をかけられて、お母さんは少しビクッと肩を震わせた。
「美穂さんはあまりに突然だったから、心の準備が出来てなかったんだと思います」
見捨てた僕への恨みがまだ消えてないのだと思う。それほどの心痛を美穂さんに与えてしまったのだ。
「………私は大丈夫よ。美穂の苦しみに比べたらどうってことない。もっと苦しめられて当然よ」
美穂さんの自虐的思考は、お母さん譲りなのかも知れない。
「お母さんも幸せになってください。苦しんで当然だなんて思わないで。美穂さんだって本心ではお母さんの幸せを願ってるんです」
「美穂のこと、よろしくお願いします。あの子さえ幸せになってくれたら、もうなにも望むことはないわ。本当にいい人に出会ってくれて、あなたには感謝の気持ちで一杯よ」
お母さんは涙ぐみながら、僕の手を握った。
「僕もお母さんに感謝します。美穂さんをあんなにステキな女性に育ててくれてありがとうございます」
お母さんの手を握り返し、もらい泣きしそうになっていたら、赤く目を腫らした美穂さんがトイレから出て来た。
「……聡太くん、ごめんなさい。わたし、間違ってた。本当に自分のことしか考えてなくて。許して」
「美穂さん!」
あまりに嬉しくて美穂さんをきつく抱きしめた。
「ありがとう。本当に嬉しいよ。僕、明日には東京へ行ってしまうけど、近いうちに来てくれるだろ?」
「わたし、、東京へは行ったことがないの。飛行機にも乗ったことがなくて。聡太くんのアパートにたどり着けるかな?」
美穂さんは微笑むと少し恥ずかしげに首をかしげた。もういつもの僕の知っている美穂さんに戻っていた。
「ちゃんと空港まで迎えに行くよ。なんなら一緒に行く? あまりにも急かな?」
「えっ? 今日? 今すぐ?」
驚いている美穂さんに、ソファに座っていたお母さんが立ち上がって言った。
「美穂、一緒に行きなさい。荷物なら送ってあげるから」
美穂さんは少し悩んでいたけれど、結局一緒に行くことになった。
慌てて飛行機の手配をし、今夜泊まるホテルの部屋を変更した。
飛行機はとなりの座席というわけにはいかないけれど、同じ便のが取れて安心した。朝の早い便なので空いていたのだ。
美穂さんのまとめた荷物もダンボールひとつしかなかった。
必要なものは向こうで買えばいい。
アパートに着いてからの忙しささえ楽しく思われ、胸がはずむ。
夕食は美穂さんがスーパーで購入してきた食材で料理してくれた。
白菜のミルフィーユ鍋がメインだったけれど、残していくお母さんを思ってか、ひじきの煮物やナムル、野菜の揚げ浸しなど、美味しい常備菜をたくさん作っていた。
食卓は少ししんみりとしたムードが漂っていたけれど、三人とも満ち足りた穏やかな時間を共有できたと思う。
美穂さんと一緒に上京できるなんて、昨日まではまったく想像できないことだった。
本当に今も夢のような気分だ。
夕食後の後片付けはお母さんがしてくださった。
妊婦なのだから慌ただしくしないで、余裕を持って準備した方がいいと言われた。
そうだ、美穂さんは妊婦なのだ。精神的にも不安定なのだから、身体だけじゃなく色々と気遣ってケアしてあげなきゃいけないのだろう。
身支度を終えた美穂さんと、お母さんに別れの挨拶をした。
「お母さん、今までありがとう」
美穂さんの言葉が本心だったかどうかは知らない。
「美穂、幸せになって。島村さん、よろしくお願いします」
二人とも言葉は少なかったけれど、暖かい気持ちは僕にも伝わった。
美穂さんはまた少し涙して、お母さんの肩を抱きしめた。
「じゃあ、行くね。美穂、幸せになるから」
もう言葉を発することが出来ず、うんうんと涙ながらにうなずいているお母さんに別れを告げた。
19時43分発のJR新千歳空港行きの列車に乗り、到着したのは20時30分頃。
空港内にあるホテルに着き、やっと結婚にこぎつけられたような実感がわいた。
貧乏学生だったこともあり、美穂さんとホテルに宿泊するのは初めてのことだ。
ベッドをツインにすべきかダブルにすべきかかなり迷い、結局ダブルにしたけれど。
美穂さんはどう思っただろうかと少し心配になる。広いとはいえない部屋に、枕がふたつ並べられたダブルベッドを意識せずにいるのは難しかった。
妊娠中だから別にしなくて構わないけれど、なんとなくツインは寂しい気がしたのだ。せっかく仲直りもできたのだし、今夜は寄り添って眠りたい。
「美穂さん、疲れただろう。体調は大丈夫?」
「ええ、今日は悪阻もひどくなくて調子がいいの。やっぱり一緒について来てよかった」
気分の高まりを抑えきれず、美穂さんを抱き寄せてキスをした。
「一緒に来てくれて、ありがとう」
「ひどいこと言ってごめんなさい。なんだか信じられなくて、またどん底に落ちそうな気がして、、素直になれなかったの」
「よかったよ。美穂さんはすっかり冷めてしまったのかと思った」
「聡太くんが戻ってくれるなんて思わなかったもの。まだ夢みたいよ」
美穂さんの濡れた大きな瞳をみて胸が熱くなる。
「明日は8時15分の便だよ。今夜は早めに休もう」
お風呂からあがり、備えつけのルームウェアに着替えた。
カーテンを少し開けて外をみると、待機している飛行機が数機と、赤いナビゲーションランプを点滅させながら、はるか遠い空へ飛び立つ飛行機が見えた。
小学生の頃、パイロットに憧れていたときもあったなとふと思い出す。とにかく僕はメカを操縦することが憧れだった。
11月の中頃には子どもが生まれる。
僕は父親になるのだ。
否応なしに仕事への意欲が増す。未熟な僕たちだけど、そんな親をみずから選んで子どもたちは生まれてくるものだろうか。
とにかく忍耐と愛情を持って育ててあげよう。僕たちのところへ生まれて来てよかったと思えるような家庭を築きたい。
そんなことを考えていたら、美穂さんがバスルームから出て来た。
夜景を見ていた僕の隣に立ち、「あ、飛んでる!」と言って、遠く暗い空に飲み込まれていく飛行機を指さした。
美穂さんからシャーブーの香りがただよう。
備えつけの同じシャンプーを使っているはずなのに、なぜか甘く素敵な香りに感じられた。
切ない気持ちが込み上げ、抱きしめる。
「今さ、生まれてくる子どものことを考えてた。どんな子かな? 僕たちの子ども」
「聡太くんに似てたら嬉しい」
僕の胸に顔を押し当て、美穂さんがつぶやいた。
「僕は美穂さんにそっくりな女の子がいい」
「うまく育てられるといいな。明るくて自信満々な元気な子がいいわ」
美穂さんは自信がないのか不安げにつぶやく。
「明るくて自信がある子どもじゃなきゃダメなのかい? 」
「……ダメじゃないけど、その子にとってはその方が幸せだと思うから」
「美穂さんは今、幸せじゃないの?」
「あ、、そうね。わたし世界中で一番幸せなのにバカね」
美穂さんはおどけたようにゲンコツで自分の頭をコツンと叩いた。
照明を暗くして二人でベッドに潜り込んだけれど、もちろん僕は自制した。
「お母さんともケンカ別れじゃなくて良かったよ」
ムードが高まらないよう、そんな話を切り出す。
「母を許せたのは聡太くんのおかげだわ。今こんなに幸せだから許せたんだと思うの。不幸なままだったら母を一生恨んでいたかも知れないわ」
「お母さんは美穂さんが思っているより、素晴らしいものをたくさん与えてくれたと思うよ。家事能力があるって凄いことだからさ。囲碁サークルの女の子たちは勉強はよくできたけど、家事はすごく苦手って言ってた。たぶん親が偏差値ばかり気にして、家の手伝いをさせなかったんだろうな」
囲碁サークルでも何度か、民宿のようなところを借りて親睦会をしたことがあった。女の子たちの作った料理はなんとも言えない不思議な味付けのものが多かったし、どうみても手際がよいとは言えなかった。
「だって、家事ができても良いところへ就職なんか出来ないわ。偏差値を気にする親は子どもの将来を考えてそうしたのでしょう」
「どうかな? 案外見栄のためだけでしていたのかも知れないよ。とにかく僕は子どもは可愛がるけど、躾も厳しくする」
「わー、なんだか怖いね」
「美穂さんだけはメチャクチャに甘やかす」
そう言って美穂さんの手を握った。
「フフフッ、わたし調子に乗りやすいのよ。さっきみたいにビシッと叱ってね」
「わかったよ。じゃあ、おやすみ」
美穂さんの頰にキスをして仰向けになり目を閉じた。今日は手をつないで寝られるだけで十分だ。
「聡太くん……」
目を閉じて数分後、美穂さんが小声で僕の名を呼んだ。
「なんだい?」
「ごめんなさい。もう寝てた?」
「まだ寝てないよ。眠れないのかい? やっぱりツインのほうがよかったかな。ごめん」
つないでいた手を離し、身体をよじって少し間隔をあけた。
「そうじゃなくて」
「え?」
「抱いて欲しいって言ったら軽蔑する?」
「美穂さん。で、でも、いいの? お腹の子は大丈夫なの?」
「まだ臨月じゃないのに……」
少し恨めしげに囁いた美穂さんをねじ伏せた。
「それなら早く言ってくれよ。ずっと我慢してたのに」
「そんなことわたしから言わせないで…」
拗ねたように言う尖らせた唇に吸いつく。
スタンドライトの淡い灯りの中、久しぶりの美穂さんの甘い吐息に異常な高まりを覚えた。
互いに身につけていたルームウェアを脱ぎ捨てた。
「愛してる。もう一生離さないよ」
お腹の子どもの存在を忘れてしまうほどに、夢中で美穂さんの身体をむさぼった。
求めながら思った。
美穂さんがお母さんから与えられていたものの数々を。
愛らしい瞳と形のいいサクラ色のくちびる。華奢なのに豊満でもある素晴らしい肉体。
男を虜にさせる脆く儚げな美しいまなざし。
どれを取っても僕には芸術品としか思えないよ。
翌朝、六時過ぎには起きて、早めに身支度を済ませた。
七時に一階に降りてビュッフェで朝食を摂り、そのまま検査場へ向かった。
慣れない美穂さんを誘導しながら検査場を通り抜け、待合ロビーに向かった。
「あとは出発時間の20分前くらいになったらアナウンスが入るからそれに従って搭乗ゲートを通過するだけだよ。美穂さんは20列のCだから廊下側の席。僕とは座席が離れているから間違えないようにね」
「間違えたら怒られる?」
「乗客にもよるけど、そんなことで怒る人はいないよ。大丈夫、心配しすぎないで。あ、美穂さんに謝らないといけないことがあった」
「え? なに?」
「借りた東京のアパートなんだけど、とても古くて狭いんだ。どうせ一人暮らしだと思ってたから、適当に職場に近いところで決めてしまって」
「フフッ、そんなこと? 大丈夫、心配しすぎないで」
美穂さんは僕の言い方をマネて笑った。
「落ち着いたら、もう少し広めのところへ引っ越そう。都心は無理だと思うけど」
「古くて狭くてもわたしは平気よ。そんなことは慣れっこなの。聡太くんの職場に近いことの方が大事だわ」
今どきこんなことを言ってくれる女性は稀だと思う。僕はつくづく素晴らしい嫁さんをもらったのだな。
「ありがとう。僕、仕事を頑張るよ。いつか郊外に戸建てが持てるようにね」
「そういう夢って楽しいね」
手をつなぎ、甘い夢にひたっているうちにアナウンスが入り、二人で搭乗ゲートを通り抜けた。
僕より先に奥の座席に着いた美穂さんを見て安心する。
トランクを頭上の棚に入れ、座席に着いた。
僕の席も廊下側で外の景色は見えにくかったけれど、走り出した滑走路を横目で見ていたら、なぜだか急に涙がこみ上げた。
色々なことがあって、やっと美穂さんと一緒になれたけれど、これは終着点ではない。
僕たちはやっと今スタートラインに着いたのだ。
上昇していく飛行機の機体の傾きに身をゆだねた。
そうだ、向こうへ着いたら住民票をとって、婚姻届けを提出しなきゃ。
そして牧口と平田に、結婚の報告を兼ねた引越しの挨拶状を送ろう。
ーENDー
長い間、「六華 snow crystal 8」にお付き合いくださり、ありがとうございました。
読んでくださる皆様のおかげで、なんとか書き進めることが出来ました。
本当に感謝の気持ちで一杯です。
スターやスタンプなども、ありがとうございました。
個別にお礼を伝えられず、申し訳ありませんでした。
シリーズ完結編もスタートさせたいと思っています。
どうぞ、最後までよろしくお願いします。
なごみ
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