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生きることに疲れて
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***沙織***
ついてないときほど、不幸というものは何故か重なるものだ。
佐野さんから一方的にフラれてしまった一週間後、東京にいる兄から電話があった。
旭川に住む父がクモ膜下出血で倒れ、救急搬送されたという。
たまたま夜勤明けで家にいたので、すぐに旭川行きの電車に乗り、入院先の病院へ駆けつけた。
集中治療室で医療機器に囲まれた父は、意識不明の状態で横たわっていた。
人工呼吸器が装着され、全身あらゆるチューブで繋がれていた父は、すでに棺桶に片足を突っ込んでいた。
医師からの説明もとても危険な状況で、一命を取りとめたとしても、かなりの後遺症が残るとのこと。
一応は脳外科に勤めているナースなのだから、説明を受けなくても、あの父の姿を見ただけで、おおよその察しはつく……。
父が意識を取り戻すことなど、まずありえない。
厚みのある父の手を握った。
つねっても何をしても、なんの反応も見せない父は、多分一ヶ月も持たないだろう。
父はたった一人の身内だった。
母は私が三歳の時に交通事故で亡くなっており、その二年後に父は再婚した。
ニ歳年上の兄は再婚相手の連れ子だ。
四国の松山と山口県の下関に、両親の祖父母がいるが、遠方ということもあり、幼少の頃二、三度会っただけでほとんど記憶にはない。
私と継母との仲は最悪で、物心がついた頃から諍いが絶えなかった。
小さい頃のことはよく覚えていないけれど、あの継母から優しくされた思い出など一つもない。
私とは話もしたくないのだろう。父が倒れた連絡さえも、東京で仕事をしている兄にさせているくらいだ。
一日も早くあの家から出たくて仕方がなかった。
父に無理を言って、看護学校は地元ではない札幌を選んで受験した。
それからはずっと一人暮らしをしている。
お盆もお正月も実家へは帰らず、一人で過ごした。
心配をする父には申し訳なかったけれど、帰ったところで私と継母の板挟みになるだけだから。
父が年に何度か札幌まで訪ねてくれたことはあった。
その度にデパートへ連れて行っては、普段買えない洋服をねだって買ってもらった。
父は嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しそうだった。
継母からは偏屈なわがまま娘と言われていた私だったけれど、そんな娘を不憫に思ってか、父だけはよき理解者でいてくれた。
『おまえは死んだママに似て美人だから、男には気をつけろ』
少しもモテない娘に無駄な心配ばかりしていた。
その父はもう二度と札幌まで私を訪ねてくることはない。
待機室かデイルームにいるであろう継母と、顔と合わせることもなく、病院を後にした。
昼休み、居場所のない休憩室で昼食をとった。
食堂で佐野さんと橋本くんに顔を合わせたくなかったから。
売店で買った昆布のおにぎり一個とお茶だけの佗びしい昼食。食まったくない 。
狭い休憩室に私がいることで、同僚たちの話が弾んでないように感じるのは考えすぎだろうか。
休憩室には松田彩矢もいるからとっても不快なのだけれど、彼女は素知らぬ顔をしてお弁当を食べている。
小さな子供が二人もいるというのに手の込んだ美味しそうなお弁当。
「彩矢のお弁当はいつも美味しそうだよね~」
三十半ばで独身の矢野さんが、菓子パンを食べながら、松田彩矢の弁当を覗き込んだ。
「それってお母さんが作ってくれてるんですよね。いいなぁ、羨ましい」
この春看護師になったばかりの吉田結奈が、自分で作ったと思われる弁当を食べながら言った。
結奈の弁当は見るからに残り物を詰めた質素なものだった。
「よかったら食べてください。母のお弁当は量が多すぎて困るんです。残して帰ると機嫌が悪いし、好きなおかず取ってください」
松田彩矢がにこやかに弁当を差し出す。
人のご機嫌ばかり取ろうとする女だ。
「えー、マジでいいの?」
矢野さんと結奈が遠慮なく揚げ物や卵焼きなどをとった。
「うわっ、めっちゃ美味しい!」
「どうぞ~ もっと食べて」
「わ~い、ヤッター!」
離婚したとはいえ、二人の可愛い子供に恵まれ、優しい両親が揃って援助をしてくれる。
職場の人間関係にも恵まれ、そのうえ熱烈に愛してくれる恋人まで持っているのだ、松田彩矢は。
ーー不公平だ。
突然涙がこみ上げてきたので、椅子から立ち上がり休憩室を出た。
どこにも行くところなどないけれど、とにかく松田彩矢とは一緒にいたくなかった。
一階へ降りてロビーの椅子に座り、読み古しの雑誌を眺めていたら、CT室のほうから橋本くんが歩いてくるのがみえた。
雑誌に集中して、気づかないフリをした。
橋本くんも何も言わずに通りすぎていった。
声はかけないで欲しかったはずなのに、完全に無視されて、見放されたような寂しさを感じた。
今思えば父以外に、ありのままの自分を受け入れてくれた、たった一人の友人だった。
今の私にはもう誰もいない。
翌日、よく眠れないままボーッとした頭で夜勤に入った。
日勤者から申し送りを受け、夕方の点滴を指示簿と照らし合いながら確認をする。
ICUから一般病棟へ転出された患者の引き継ぎが、まだ終わってなかった。
早く聞きたいけれど、担当ナースは忙しそうで、それどころではなさそう。
先に経口から食事を摂れない患者の経管栄養を繋ぐため、各病室をまわった。
夕食前のBSチェックをする。血糖値が200を越えている患者には、指示された量のインシュリンを投与しなければいけない。
患者の指の腹に極細の針を刺し、絞ったわずかな血を採取して血糖値を調べる。
「うわっ、佐藤さん、なに食べたの? 血糖値300超えてるよ!」
前科23犯のヤクザだったと豪語する佐藤さんは、具合が悪くならない限り、食事制限などは守らない。
「そうか、大福一個食べただけなんだけどな」
「ダメじゃないの、そんなもの食べたら!」
「なんでだよ。そのために入院してんだろ。我慢ばっかりしてなにになるんだよ」
スキンヘッドの頭をなでながら、佐藤さんはヘラヘラと笑っている。
「また脳の血管が詰まるわよ。目だって見えなくなってしまうんだから」
「それは困るな。北村さんみたいな別嬪が見られなくなると楽しくねぇな。ワハハッ」
元ヤクザでも愛嬌があるせいか、憎めないタイプだ。
「目だけじゃないし、足だって腐って切断されちゃうわよ」
「かわいい顔して恐ろしいこと言うなよ」
「恐ろしいのは私じゃなくて、病気です! じゃあ、夕食の前にインシュリン打つから後でね」
まったくもう、佐藤さんは勝手なんだから。
入院中もめちゃくちゃな食生活だから、血糖値がまったく安定しない。
インシュリンを打った後、嫌いな晩飯だったからと食べなかったりもするので、低血糖を起こしたりするのだ。
本当に人騒がせな患者。
夜の点滴を落としながら、バイタルなど患者の状態を細かくチェックしてまわる。
点滴が終わっただの、トイレに連れていけだのと、頻繁にナースコールがなるので、落ち着いてバイタル測定などしていられないほど目まぐるしい。
「北村! 」
今日はICUを担当していた日勤帯ナースの田端さんが、苛立ったように私を呼び捨てした。
は?
ムスッとして顔を向けた。
もう八時だっていうのに、まだ残ってたんだ。
「どうして山本さんの時間注、全部落としてるのよ。あなた指示簿をちゃんと確認した? これは半分だけの指示のはずよ」
山本さんはICUから一般病棟へ移された患者だ。
ふん! あなたがバタバタしていつまでも申し送ってくれなかったんじゃないの。
点滴の確認していた時には指示簿にまだ、山本さんのオーダーは挟められていなかった。
「書いておいてくれたらいいのに……。送りだって遅いし……」
思わず言い訳をしてしまう。
「指示簿を確認してからするのが基本でしょ! 」
久々の大きなミスにかなりへこみ、ため息がもれた。
就寝前の投薬をすませ、消灯をして、やっと晩ご飯が食べられる。九時を過ぎているので、さすがに食欲がなくても空腹を感じた。
夜勤者には入院患者と同じメニューの夕食が用意される。
看護助手さんが持ってきてくれた夕食のトレイが休憩室のテーブルに並べられていた。
空腹ではあるけれど、彩りの悪い食事を見た途端に食欲がなくなった。
たらの切り身と厚揚げの煮物、インゲンの和え物にお味噌汁、嫌いなメニューというわけでもないけれど……。
ご飯にふりかけをかけ、ほんの少しだけ食べた。
同じ夜勤者たちの話の輪に加われず、孤立する。それはいつものことだから、特に気にもしないけれど。
ここの病院は二交代制なので、夕食後22時から、翌朝4時までの間に夜勤者は交代で仮眠をとる。
もちろん急患が来たり、入院患者の容態によってはまったく取れないこともある。
「北村と結奈、先に休んでいいわよ。一時までね」
「はーい、じゃあ、お願いしまーす」
まだ若い結奈は元気に返事をして、仮眠室へ向った。
どちらかというと、仮眠は遅くとったほうがよく寝れる。22時からだと普段でも起きてる時間帯なのであまり眠れない。
でも夜勤のリーダーが決めることなので文句は言えない。
案の定、一睡も仮眠できないまま、次の夜勤者たちと交代した。
受け持っている各病室をラウンドする。
特に変わった様子は見受けられなかったが、305号の佐藤さんのいびきがひどい。同室の患者さんが可哀想だった。
前科23犯の生活保護者でも、高度な医療が受けられる日本はやはり恵まれていると思う。
ガァーガァーといびきをかいて眠っている佐藤さんの姿に、なにか普通ではないものを感じた。
「佐藤さん?」
声をかけても反応がなく、肩をつかんで揺さぶった。
「佐藤さん! 佐藤さん起きて、目を開けて!」
ビシッとほおをひっぱたいてみたが、佐藤さんはピクリともせず、とてつもなく深い眠りに落ちていた。
低血糖かも?
ナースステーションに戻り、測定機で採取した血液を調べてみると、やはりlowだった。
夕食は完食と言っていたのにどうして、、
仮眠をしているリーダにも報告をし、当直医に電話をした。
ブスッと不機嫌な顔をした当直医が、ナースステーションへ入って来た。
「なんだよ、低血糖?」
バカバカしいことで呼ぶなよとでも言いたげに当直医は欠伸をした。
「夕食前のBSが326だったので、指示通りインシュリン6単位いったんですけど。今呼んでも反応がなくて、血糖値を調べたらlowで……」
「晩飯はちゃんと食べたの?」
「はい、完食って言ってました……」
「完食って、ちゃんとトレイを見て確認した? あの人はいつもいい加減な返事しかしないでしょう?」
リーダーの早瀬さんが咎めるような目で見つめた。
「………すみません、つい信じてしまって」
50%ブドウ糖を静注してとの指示に従い、一時間後に血を採って血糖値を測ると、127まで上がっていたのでホッとした。
「なんだよぉ~ 気持ちよく寝てんのに~」
指に針を刺された佐藤さんが、うつろな目を開けてブツクサ言ったので、猛烈に腹が立った。
「大福なんて食べてないで、出されたものだけちゃんと食べなさいよっ!」
激怒して病室を出たけれど、確かに私の不注意だった。
佐藤さんのいい加減さは有名なことなのに……。
同じミスをしても私の場合、人一倍叱られる。もちろんミスをしないのは患者のためではあるけれど、自分を守るためにも気をつけていた。
なのに今日は注意力が散漫だった。
ナースステーションへ戻り、看護記録などを書き込み、朝の点滴などの準備をした。
体位やオムツの交換などもしていると、長い夜も白々と明けてくる。
朝は5時から採血をし、時間注を落としてバイタルなどをみてまわる。投薬、食事の介助などをしていると、日勤者がぞろぞろと出勤して来た。
あとは申し送りして、長い夜勤はやっと終わりを告げる。
だけど、インシデントの報告書を二枚も書かなければならなくて気が重くなった。
申し送ってから、インシデントの報告書を書き、看護師長から長い時間をかけて注意を受けた。
それは仕方のないことだ。
ストレスと不眠が続き、昨夜も全く仮眠が取れなかったこともあり、ひどく疲れを感じた。
……早く楽になりたい。
パパと一緒に、こんな世の中からサッサとオサラバしたい。そんな気持ちが芽生えた。
………そうだ、もう十分頑張った。
なぜ今までそのことに気づかなかったのだろう。
私が死んだところで、困る人も悲しむ人もいないのだ。
タイムカードを押して一階に降りた。廊下の向こうのレントゲン室に目を向ける。
一目でいいから佐野さんに会いたい。
今ではそんな願いさえも叶わないのだった。
あんなに優しい目で私を見つめてくれたのに……。
思わず涙があふれて慌てて更衣室へと向った。
佐野さんがくれたスペアキー。
郵便受けに返そうと思い、アパートまでやって来たけれど、どうしてももう一度部屋をのぞいてみたい誘惑にかられた。
もう最後なんだから。
文句も言わずに一方的にフラれてあげたのだ。そのくらいの我儘は許されてもいいような気がした。
鍵を開けて中に入った。
シンクに洗われてないお皿とカップが置かれていた。
ついスポンジに洗剤をかけて洗ってしまったけれど、不愉快に思うだろうな。
リビングも寝室も以前とまったく変わりはなかった。
寝室のベッドに腰をおろした。
楽しかったな。
佐野さんと一緒にご飯を食べて、このベッドでふざけあって。
もしかしたら、今まで生きてきた中で一番幸せだったかもしれない。
涙がとめどもなく溢れる。
ねぇ、私ここで死んでもいい?
マンションで死んでも、誰にも発見されないかもしれないもの。
腐乱してから発見されるなんて悲しすぎるもの。
カーディガンを脱ぎ、ブラウスの袖をまくった。
バッグから糖尿病患者が使用するインシュリンのシリンジを取り出す。
インシュリンはいつでもナースステーションの冷蔵庫に保管されているから、簡単に手に入れられる。
シリンジを握る手が、さすがに少し震えた。
糖尿病の佐藤さんでさえ、たった6単位で低血糖になれるのだから、10単位も打てば十分な気がした。
佐野さん、ごめんなさい。
少しの間だったけど、愛してくれてありがとう。
橋本くん、優しくしてくれてありがとう。
ついてないときほど、不幸というものは何故か重なるものだ。
佐野さんから一方的にフラれてしまった一週間後、東京にいる兄から電話があった。
旭川に住む父がクモ膜下出血で倒れ、救急搬送されたという。
たまたま夜勤明けで家にいたので、すぐに旭川行きの電車に乗り、入院先の病院へ駆けつけた。
集中治療室で医療機器に囲まれた父は、意識不明の状態で横たわっていた。
人工呼吸器が装着され、全身あらゆるチューブで繋がれていた父は、すでに棺桶に片足を突っ込んでいた。
医師からの説明もとても危険な状況で、一命を取りとめたとしても、かなりの後遺症が残るとのこと。
一応は脳外科に勤めているナースなのだから、説明を受けなくても、あの父の姿を見ただけで、おおよその察しはつく……。
父が意識を取り戻すことなど、まずありえない。
厚みのある父の手を握った。
つねっても何をしても、なんの反応も見せない父は、多分一ヶ月も持たないだろう。
父はたった一人の身内だった。
母は私が三歳の時に交通事故で亡くなっており、その二年後に父は再婚した。
ニ歳年上の兄は再婚相手の連れ子だ。
四国の松山と山口県の下関に、両親の祖父母がいるが、遠方ということもあり、幼少の頃二、三度会っただけでほとんど記憶にはない。
私と継母との仲は最悪で、物心がついた頃から諍いが絶えなかった。
小さい頃のことはよく覚えていないけれど、あの継母から優しくされた思い出など一つもない。
私とは話もしたくないのだろう。父が倒れた連絡さえも、東京で仕事をしている兄にさせているくらいだ。
一日も早くあの家から出たくて仕方がなかった。
父に無理を言って、看護学校は地元ではない札幌を選んで受験した。
それからはずっと一人暮らしをしている。
お盆もお正月も実家へは帰らず、一人で過ごした。
心配をする父には申し訳なかったけれど、帰ったところで私と継母の板挟みになるだけだから。
父が年に何度か札幌まで訪ねてくれたことはあった。
その度にデパートへ連れて行っては、普段買えない洋服をねだって買ってもらった。
父は嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しそうだった。
継母からは偏屈なわがまま娘と言われていた私だったけれど、そんな娘を不憫に思ってか、父だけはよき理解者でいてくれた。
『おまえは死んだママに似て美人だから、男には気をつけろ』
少しもモテない娘に無駄な心配ばかりしていた。
その父はもう二度と札幌まで私を訪ねてくることはない。
待機室かデイルームにいるであろう継母と、顔と合わせることもなく、病院を後にした。
昼休み、居場所のない休憩室で昼食をとった。
食堂で佐野さんと橋本くんに顔を合わせたくなかったから。
売店で買った昆布のおにぎり一個とお茶だけの佗びしい昼食。食まったくない 。
狭い休憩室に私がいることで、同僚たちの話が弾んでないように感じるのは考えすぎだろうか。
休憩室には松田彩矢もいるからとっても不快なのだけれど、彼女は素知らぬ顔をしてお弁当を食べている。
小さな子供が二人もいるというのに手の込んだ美味しそうなお弁当。
「彩矢のお弁当はいつも美味しそうだよね~」
三十半ばで独身の矢野さんが、菓子パンを食べながら、松田彩矢の弁当を覗き込んだ。
「それってお母さんが作ってくれてるんですよね。いいなぁ、羨ましい」
この春看護師になったばかりの吉田結奈が、自分で作ったと思われる弁当を食べながら言った。
結奈の弁当は見るからに残り物を詰めた質素なものだった。
「よかったら食べてください。母のお弁当は量が多すぎて困るんです。残して帰ると機嫌が悪いし、好きなおかず取ってください」
松田彩矢がにこやかに弁当を差し出す。
人のご機嫌ばかり取ろうとする女だ。
「えー、マジでいいの?」
矢野さんと結奈が遠慮なく揚げ物や卵焼きなどをとった。
「うわっ、めっちゃ美味しい!」
「どうぞ~ もっと食べて」
「わ~い、ヤッター!」
離婚したとはいえ、二人の可愛い子供に恵まれ、優しい両親が揃って援助をしてくれる。
職場の人間関係にも恵まれ、そのうえ熱烈に愛してくれる恋人まで持っているのだ、松田彩矢は。
ーー不公平だ。
突然涙がこみ上げてきたので、椅子から立ち上がり休憩室を出た。
どこにも行くところなどないけれど、とにかく松田彩矢とは一緒にいたくなかった。
一階へ降りてロビーの椅子に座り、読み古しの雑誌を眺めていたら、CT室のほうから橋本くんが歩いてくるのがみえた。
雑誌に集中して、気づかないフリをした。
橋本くんも何も言わずに通りすぎていった。
声はかけないで欲しかったはずなのに、完全に無視されて、見放されたような寂しさを感じた。
今思えば父以外に、ありのままの自分を受け入れてくれた、たった一人の友人だった。
今の私にはもう誰もいない。
翌日、よく眠れないままボーッとした頭で夜勤に入った。
日勤者から申し送りを受け、夕方の点滴を指示簿と照らし合いながら確認をする。
ICUから一般病棟へ転出された患者の引き継ぎが、まだ終わってなかった。
早く聞きたいけれど、担当ナースは忙しそうで、それどころではなさそう。
先に経口から食事を摂れない患者の経管栄養を繋ぐため、各病室をまわった。
夕食前のBSチェックをする。血糖値が200を越えている患者には、指示された量のインシュリンを投与しなければいけない。
患者の指の腹に極細の針を刺し、絞ったわずかな血を採取して血糖値を調べる。
「うわっ、佐藤さん、なに食べたの? 血糖値300超えてるよ!」
前科23犯のヤクザだったと豪語する佐藤さんは、具合が悪くならない限り、食事制限などは守らない。
「そうか、大福一個食べただけなんだけどな」
「ダメじゃないの、そんなもの食べたら!」
「なんでだよ。そのために入院してんだろ。我慢ばっかりしてなにになるんだよ」
スキンヘッドの頭をなでながら、佐藤さんはヘラヘラと笑っている。
「また脳の血管が詰まるわよ。目だって見えなくなってしまうんだから」
「それは困るな。北村さんみたいな別嬪が見られなくなると楽しくねぇな。ワハハッ」
元ヤクザでも愛嬌があるせいか、憎めないタイプだ。
「目だけじゃないし、足だって腐って切断されちゃうわよ」
「かわいい顔して恐ろしいこと言うなよ」
「恐ろしいのは私じゃなくて、病気です! じゃあ、夕食の前にインシュリン打つから後でね」
まったくもう、佐藤さんは勝手なんだから。
入院中もめちゃくちゃな食生活だから、血糖値がまったく安定しない。
インシュリンを打った後、嫌いな晩飯だったからと食べなかったりもするので、低血糖を起こしたりするのだ。
本当に人騒がせな患者。
夜の点滴を落としながら、バイタルなど患者の状態を細かくチェックしてまわる。
点滴が終わっただの、トイレに連れていけだのと、頻繁にナースコールがなるので、落ち着いてバイタル測定などしていられないほど目まぐるしい。
「北村! 」
今日はICUを担当していた日勤帯ナースの田端さんが、苛立ったように私を呼び捨てした。
は?
ムスッとして顔を向けた。
もう八時だっていうのに、まだ残ってたんだ。
「どうして山本さんの時間注、全部落としてるのよ。あなた指示簿をちゃんと確認した? これは半分だけの指示のはずよ」
山本さんはICUから一般病棟へ移された患者だ。
ふん! あなたがバタバタしていつまでも申し送ってくれなかったんじゃないの。
点滴の確認していた時には指示簿にまだ、山本さんのオーダーは挟められていなかった。
「書いておいてくれたらいいのに……。送りだって遅いし……」
思わず言い訳をしてしまう。
「指示簿を確認してからするのが基本でしょ! 」
久々の大きなミスにかなりへこみ、ため息がもれた。
就寝前の投薬をすませ、消灯をして、やっと晩ご飯が食べられる。九時を過ぎているので、さすがに食欲がなくても空腹を感じた。
夜勤者には入院患者と同じメニューの夕食が用意される。
看護助手さんが持ってきてくれた夕食のトレイが休憩室のテーブルに並べられていた。
空腹ではあるけれど、彩りの悪い食事を見た途端に食欲がなくなった。
たらの切り身と厚揚げの煮物、インゲンの和え物にお味噌汁、嫌いなメニューというわけでもないけれど……。
ご飯にふりかけをかけ、ほんの少しだけ食べた。
同じ夜勤者たちの話の輪に加われず、孤立する。それはいつものことだから、特に気にもしないけれど。
ここの病院は二交代制なので、夕食後22時から、翌朝4時までの間に夜勤者は交代で仮眠をとる。
もちろん急患が来たり、入院患者の容態によってはまったく取れないこともある。
「北村と結奈、先に休んでいいわよ。一時までね」
「はーい、じゃあ、お願いしまーす」
まだ若い結奈は元気に返事をして、仮眠室へ向った。
どちらかというと、仮眠は遅くとったほうがよく寝れる。22時からだと普段でも起きてる時間帯なのであまり眠れない。
でも夜勤のリーダーが決めることなので文句は言えない。
案の定、一睡も仮眠できないまま、次の夜勤者たちと交代した。
受け持っている各病室をラウンドする。
特に変わった様子は見受けられなかったが、305号の佐藤さんのいびきがひどい。同室の患者さんが可哀想だった。
前科23犯の生活保護者でも、高度な医療が受けられる日本はやはり恵まれていると思う。
ガァーガァーといびきをかいて眠っている佐藤さんの姿に、なにか普通ではないものを感じた。
「佐藤さん?」
声をかけても反応がなく、肩をつかんで揺さぶった。
「佐藤さん! 佐藤さん起きて、目を開けて!」
ビシッとほおをひっぱたいてみたが、佐藤さんはピクリともせず、とてつもなく深い眠りに落ちていた。
低血糖かも?
ナースステーションに戻り、測定機で採取した血液を調べてみると、やはりlowだった。
夕食は完食と言っていたのにどうして、、
仮眠をしているリーダにも報告をし、当直医に電話をした。
ブスッと不機嫌な顔をした当直医が、ナースステーションへ入って来た。
「なんだよ、低血糖?」
バカバカしいことで呼ぶなよとでも言いたげに当直医は欠伸をした。
「夕食前のBSが326だったので、指示通りインシュリン6単位いったんですけど。今呼んでも反応がなくて、血糖値を調べたらlowで……」
「晩飯はちゃんと食べたの?」
「はい、完食って言ってました……」
「完食って、ちゃんとトレイを見て確認した? あの人はいつもいい加減な返事しかしないでしょう?」
リーダーの早瀬さんが咎めるような目で見つめた。
「………すみません、つい信じてしまって」
50%ブドウ糖を静注してとの指示に従い、一時間後に血を採って血糖値を測ると、127まで上がっていたのでホッとした。
「なんだよぉ~ 気持ちよく寝てんのに~」
指に針を刺された佐藤さんが、うつろな目を開けてブツクサ言ったので、猛烈に腹が立った。
「大福なんて食べてないで、出されたものだけちゃんと食べなさいよっ!」
激怒して病室を出たけれど、確かに私の不注意だった。
佐藤さんのいい加減さは有名なことなのに……。
同じミスをしても私の場合、人一倍叱られる。もちろんミスをしないのは患者のためではあるけれど、自分を守るためにも気をつけていた。
なのに今日は注意力が散漫だった。
ナースステーションへ戻り、看護記録などを書き込み、朝の点滴などの準備をした。
体位やオムツの交換などもしていると、長い夜も白々と明けてくる。
朝は5時から採血をし、時間注を落としてバイタルなどをみてまわる。投薬、食事の介助などをしていると、日勤者がぞろぞろと出勤して来た。
あとは申し送りして、長い夜勤はやっと終わりを告げる。
だけど、インシデントの報告書を二枚も書かなければならなくて気が重くなった。
申し送ってから、インシデントの報告書を書き、看護師長から長い時間をかけて注意を受けた。
それは仕方のないことだ。
ストレスと不眠が続き、昨夜も全く仮眠が取れなかったこともあり、ひどく疲れを感じた。
……早く楽になりたい。
パパと一緒に、こんな世の中からサッサとオサラバしたい。そんな気持ちが芽生えた。
………そうだ、もう十分頑張った。
なぜ今までそのことに気づかなかったのだろう。
私が死んだところで、困る人も悲しむ人もいないのだ。
タイムカードを押して一階に降りた。廊下の向こうのレントゲン室に目を向ける。
一目でいいから佐野さんに会いたい。
今ではそんな願いさえも叶わないのだった。
あんなに優しい目で私を見つめてくれたのに……。
思わず涙があふれて慌てて更衣室へと向った。
佐野さんがくれたスペアキー。
郵便受けに返そうと思い、アパートまでやって来たけれど、どうしてももう一度部屋をのぞいてみたい誘惑にかられた。
もう最後なんだから。
文句も言わずに一方的にフラれてあげたのだ。そのくらいの我儘は許されてもいいような気がした。
鍵を開けて中に入った。
シンクに洗われてないお皿とカップが置かれていた。
ついスポンジに洗剤をかけて洗ってしまったけれど、不愉快に思うだろうな。
リビングも寝室も以前とまったく変わりはなかった。
寝室のベッドに腰をおろした。
楽しかったな。
佐野さんと一緒にご飯を食べて、このベッドでふざけあって。
もしかしたら、今まで生きてきた中で一番幸せだったかもしれない。
涙がとめどもなく溢れる。
ねぇ、私ここで死んでもいい?
マンションで死んでも、誰にも発見されないかもしれないもの。
腐乱してから発見されるなんて悲しすぎるもの。
カーディガンを脱ぎ、ブラウスの袖をまくった。
バッグから糖尿病患者が使用するインシュリンのシリンジを取り出す。
インシュリンはいつでもナースステーションの冷蔵庫に保管されているから、簡単に手に入れられる。
シリンジを握る手が、さすがに少し震えた。
糖尿病の佐藤さんでさえ、たった6単位で低血糖になれるのだから、10単位も打てば十分な気がした。
佐野さん、ごめんなさい。
少しの間だったけど、愛してくれてありがとう。
橋本くん、優しくしてくれてありがとう。
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翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。
しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。
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●早瀬 果歩(はやせ かほ)
25歳、OL
元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。
●逢見 翔(おうみ しょう)
28歳、パイロット
世界を飛び回るエリートパイロット。
ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。
翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……?
●航(わたる)
1歳半
果歩と翔の息子。飛行機が好き。
※表記年齢は初登場です
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webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です!
完結しました!
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※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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