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孤独な子育て
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**彩矢**
役所に離婚届を提出してからニ週間が過ぎ、まだ終わっていない手続きはあるものの、潤一にもそろそろ知らせなければいけないという気になった。
つらく悲しい気分が消えたわけではないけれど、さすがにいつまでもメソメソしているわけにもいかない。
子供たちのためにも、少しでも明るいママにならないと……。
ジェニファーはまだ日本にいるのだろうか?
何日滞在しているのか聞かなかったけれど、もうロスへ帰って、潤一と暮らしているのかも知れない。
シングルマザーでかまわないと言っていたジェニファーも、離婚したことを知ったなら、やはり結婚したいだろうと思う。
私が悠李を産むときも潤一さんは、無理をして結婚してくれたのだから、この度もそうしてあげたらいい。
悔しい気持ちがまったくないとは言えない。だけど、自らの判断で離婚したのだ。
当てにしていた佐野さんを取られてしまったのは想定外ではあった。
でも、人の幸せの妨害などしても惨めな気持ちになるだけだ。
ジェニファーが安心して元気な子が産めるようにしてあげたいと思う。
自分がそうしてもらったように。
『この間、役所に離婚届を提出して来ました。ジェニファーと少し話しもしました。潤一さんの子であることに間違いはなさそうです。彼女と幸せになってください。諸々の急がない手続きなどは、帰国後で構いません。お元気でね。研修がんばってください。さようなら』
保留していた以前と変わらない文面を、そのまま送信した。
今は真夜中だから、朝起きてから目にすることになるだろう。
朝っぱらから、こんな暗いニュースを知らされて気分を悪くするだろうか。
それとも、ジェニファーにいい返事ができることを喜ぶのだろうか……。
いつもお世話になっている両親にも、いつまでも内緒にしているわけにもいかないと思い、子供たちが寝静まったあと、離婚したことを打ち明けた。
両親の、特に母のショックは相当なものだった。
「な、なんですって!! 離婚したってどういうことよ? これからするんじゃなくて、もうしてしまったってことなの?」
狼狽した母の顔を見ていられず、うつむいた。
「絶対に許しませんよっ! 二人も子供がいて一体なにを考えているのよ、まったくあなたたちは!」
わなわなと唇を震わせて叫んだ母に申し訳なくて、なにも言えない。
「………。」
「一体なにがあったの? むこうから別れたいって言ってきたの?」
母はうつむく私を不憫に思ってか、少し口調を和らげて聞いた。
「…………。」
「原因は潤一さんね。また向こうで浮気でもしたんでしょう。あの人はそういう人なの。あなたが許せない気持ちはわかるけど、子供のためだと思って我慢するしかないでしょ。そういう人を選んだのはあなたなんですからね。子供を犠牲にする権利なんてないのよ。あなたが我慢なさい!」
冷静に諭すように母は言う。
父は無言のまま表情も変えずにジッとしていた。
「……ごめんなさい。お世話になっているのに勝手なマネばかりして。でももう離婚はしてしまったことなの。もうすんでしまったの」
「彩矢っ、そんなこと許しませんよ! ひとりで子供を育てるってことがどれだけ大変か、あなたはなにもわかっていないでしょう!」
興奮してそう言った母の目に涙が浮かんでいた。
「彩矢、潤一君とはどんな話をしてるんだ? 慰謝料や養育費なんかはどうなんだ? 親権はおまえでいいことになってるのか?」
口を閉ざしていた父が沈痛な面持ちで聞いた。
「細々としたことは研修が終わって帰ってきてからにするわ。今は無理でしょう」
「離婚だって帰ってきてからにしたらよかったじゃないの! なぜ慌ててしなければいけなかったの? この間帰国したのはそのためだったのね。浮気相手とすぐに再婚でもするつもりなの? 」
涙ながらにそう訴えた母の憶測は、あながち間違ってはいない。だけど、実際はもっと複雑な感情が絡んでいる。
両親は悠李が潤一の子供ではないと言うことをまだ知らないから。
「彩矢、どうなんだ? 本当にそうなのか? この間の帰国はそう言う話をするためだったのか?」
「……潤一さんは離婚はしたくないって言ったの。だけど、浮気相手の女性は妊娠していて、産むと言っているから、認知だけはしてあげたいんですって」
仕方なく、ボゾボソとうつむきながら打ち明けた。
「妊娠ですって! まったく、なんて人なの! なんど失敗しても懲りない人なのね。だけど、どうしてあなたの方が離婚しなければいけないのよ。潤一さんは別れたくないと言ってるんでしょ。とにかく離婚なんて許さないわよ。我慢なさい。あなたには二人も子供がいるんだから」
母はどうしようもない婿に呆れながらも、離婚には断固反対の姿勢を崩さない。
「お母さん、私たち元々うまくいってなかったの。潤一さんはいつも忙しくて、家にはほとんどいない人で、母子家庭と変わらないの。だから、もういらない……」
「家にいてくれなくても、ちゃんと働いて家族を養ってくれてたじゃないの。子供にはこれからどんどんお金がかかるのよ。いい? 母子家庭なんかになって、まず困るのはお金よ。あなたはそういうことがなんにもわかってないのね。あなたと話していてもダメだわ。私が潤一さんと話すわよ」
母は食卓テーブルに置いてあった自分のスマホをつかんだ。
心配性の母は緊急時のために、ちゃんと潤一とLINEの交換をしていたのだ。
「お母さん、ロサンゼルスは真夜中よ。潤一さんは寝てるわ」
「あんな人、たたき起こしてやればいいんだわ!」
今なにを言ったところで、興奮しきった母を止められる人などいないだろう。
耳にスマホを当てて、潤一を呼び出している母の顔は般若を思わせた。
いつまでたっても深刻な心配ばかりかけている自分が情けなく、思わず涙ぐむ。
「あ、潤一さん、私よ。………わかってるわよ、夜中なのは。
あなたに非常識なんて言われる筋合いはないわ。あなた浮気相手がまたオメデタだそうねっ!
…………それで何故うちの娘と孫が犠牲にならないといけないのかしら。こっそりアメリカから帰って来て、私たちには挨拶もなしに離婚の手続きだけして帰るなんて。うちの娘は騙せても私は許しませんよっ!
…………だから、今すぐに帰ってらっしゃい!
彩矢ったら、すっかり弱気になってしまって、あなたに言われるままに離婚届を出してしまったらしいの。
だからすぐに婚姻届を出して欲しいのよ。うちの娘になんて言って納得させたか知らないけど、離婚なんてとんでもないわ。こっちには二人も子供がいるんですからね。あなたの好きなようにはさせませんよっ!
………えっ?
なに言ってるのよ、どこまでも失礼な人ね。じゃあ、うちの彩矢も浮気をしてたって言いたいの?
……本人から聞けってどう言うこと?
ちょっと、待って、話は終わってないのよ、潤一さん、潤一さん?
……あら、ひどい、切れちゃったわ」
母はまだ興奮冷めやらぬ勢いだったが、またしつこくかけ直そうとはしなかった。
「まったく、ひどい人ね! 反省なんか少しもしてないわよ、あの人は。あれじゃあ、別れたくなる気持ちもわかるわ。でもダメよ、離婚なんてしたら、損するだけなんだから。浮気をしていたのは俺だけじゃないなんて言うのよ、なんなのかしら、腹が立つったらありゃしないわ!」
いずれは、悠李が産まれた経緯まで親に説明をしなければいけなくなるのかと思い、うんざりする。
「お母さん、私、もう寝てもいい? 疲れてるの、明日も仕事だし」
子供たちの寝ている和室へ逃げようとしたところを、父に引きとめられた。
「疲れてるのはお互い様だろう! とにかく、離婚届はもう受理されてしまったんだろう。今さらジタバタところでどうにもならない。ただし、不貞の事実があるなら慰謝料は今からでも請求できる。養育費もちゃんと払ってもらうんだ」
冷めたようにそう言った父に、母は猛反対した。
「まぁ、じゃあ、離婚したままでいいって言うの? 悠ちゃんと雪ちゃんが可哀想とは思わないの? お金さえ貰えばいいって問題じゃないでしょう!」
「あの男は変わらない。彩矢を幸せにできるような男ではないっ!」
男親はまた思うところが違うのだろう。封じ込めた怒りを吐き捨てるように父は言った。
「あんな人でも母子家庭よりはマシだわ。父親のいない子なんて惨めすぎるわよ。今すぐに籍を元に戻すべきだわ!」
「彩矢が別れると決めたんだ。お前がとやかく言うことではない!」
「彩矢は母子家庭がどんなに大変なのかをまだ知らないのよ。たった一人で二人の子供を育てるなんて無理よ」
ひとり冷めた目でみている私をよそに、母は自分のことのように訴えた。
「お母さん、大丈夫。私ちゃんと働くから心配しないで」
「彩矢っ、あなたは妻なのよ! 遠慮なんてすることないでしょう。浮気相手を訴えることだってできるのよっ!」
まるで自分が妻でもあるかのような勢いで、母は叫んだ。
そんなこと出来るわけがない。ジェニファーはかつての自分なのだから。
「だ、大丈夫よ、ちゃんと出来るわ。だから心配しないで……」
「そう、そんなに一人でやれるならやりなさい。誰の協力もアテにはしないことね。バカバカしいったらないわ。もうみんな勝手になさい!」
母は涙ぐみながら、寝室へ行ってしまった。
母の協力が得られなくなるのは痛恨の極みではあった。だけど、またしても両親をこれほどがっかりさせ、心配させてしまったことに心が痛んだ。
一人で育てていけるなどと、偉そうなことを言ってしまった手前、母の援助を受けるわけにはいかなくなった。
仕事を終え、急いで保育所へ子供を迎えに行った後、実家へは寄らずに琴似のマンションへ帰った。
「ママ、おなかすいた。今日のご飯なに?」
いつも食の細い悠李がキッチンをのぞきに来た。
「悠李の好きなハムエッグよ。すぐに出来るから待っててね」
「えー、朝も卵焼きだったのに。悠李、お肉が食べたい」
「ハムだってウインナーだってお肉でしょ。明日は生姜焼きを作ってあげるから、今日は我慢しようね」
「明日はバァバの家で食べる。バァバのハンバーグが食べたい」
「バァバは今、具合いが悪いの。治るまで我慢しようね」
「…………」
不満げな悠李はリビングへ戻ると、えびせんを食べながらNHKの子供番組を見ていた雪花から、お菓子の袋を奪った。
「めっ! これ雪花の!」
雪花も袋をつかんで離そうとしなかったけれど、年上の悠李にかなうはずはなかった。
「うえーーん、ママーっ!! 」
泣き叫びながら雪花はキッチンへやって来た。
もうすぐハムエッグが焼けるというのに、タイミングが悪い。
「あらら、雪花ちゃん、ごはんすぐに出来るから。お菓子はもうやめようね。ほうら、もうすぐハムエッグができるよ」
「ぎゃあー!! うぎゃー!!」
えびせんが食べたいというよりも、無理やり奪われたことが悔しいのだろう。
早くご飯を作ってしまいたいのに悠李ったら!
雪花を抱っこしてイライラしながら悠李に助けを求めた。
「悠李はお兄ちゃんでしょ。こんなんじゃママご飯作れないわ。そのお菓子は雪花ちゃんに返しなさい!」
「やだっ、悠李はまだ食べてないもん。雪花が一人でたくさん食べちゃったもん」
「悠李にはまた買ってあげるから。それ雪花ちゃんにあげて」
「ママはいつも夕ご飯の前にお菓子を食べちゃダメって言うでしょ! どうして雪花は食べてもいいの!」
悠李の正当な批判に返す言葉が見つからない。
「………いいわよ。じゃあ、いつまでもご飯が食べられなくてもいいのね。ママもう知らないから!」
ぎゃあーぎゃあー泣きわめく雪花を抱っこしていたら、気が滅入って一緒に泣きたくなってくる。
泣きそうになっている私を見て、悠李は悪いことをしたと思ったのか、シュンとしたようにうつむいてキッチンへやってきた。
「……もういらない」
悠李はそう言ってえびせんの袋を泣いている雪花に渡した。
「悠李、……ありがとう」
お菓子を返してもらった雪花は、すぐに泣きやんだ。
ーー私は悠李に甘えてる。
こんな小さい悠李に我慢をさせて、気を遣わせているんだ。
朝ごはんのような簡単メニューで夕食をすませ、後片づけをしていると、スマホが鳴った。
ーーロサンゼルスにいる潤一からだった。
どうしよう、、なんて言えばいいの?
離婚届にサインをして、あとはおまえにまかせると言って、ロスへ帰った潤一だったけれど。
役所へ提出してしまったことを潤一はどう思ったのだろう?
怖くてスマホをつかんだ手が震えた。
今後のことを考えると、逃げているわけにはいかなかった。
深呼吸をひとつして、丸い緑色の応答をタッチした。
LINEビデオから、潤一のアップされた顔が映し出された。
いつもと変わらない仏頂面ではあったけれど、特に怒っているようには見えなかった。
『おう、彩矢。なんだよ、おまえ、しけた顔してんな。離婚なんかして本当に大丈夫なのか?』
意外なほど平然とした潤一のようすに寂しさを感じた。
「あ、う、うん。ごめんなさい、勝手に出しちゃって……」
『まぁ、出来れば離婚はしたくなかったけどな。原因を作ったのは俺だから仕方ないな。佐野とはうまくいってるのか?』
「………… 」
『別に言わなくていいけどな。悠李にとっては良かっただろう。雪花はもし邪魔なら俺が引き取ってもいいんだぞ』
「邪魔なわけないでしょう! 私が育てるのでご心配なく」
『わかってるよ。そう言うと思ってたよ。だけど、たまには俺のところで暮らさせるってのもいいかもしれないぞ。俺もしかしたらこのままロスでしばらく暮らすことになるかもしれないんだ。雪花は日本で暮らすより、アメリカの方がいいような気がするな。無理にとは言わないけど、考えておいてくれないか? 悠李も英語を覚えさせたかったら、一緒に来させてもいいんだぞ』
これが離婚したばかりの夫の態度なのだろうか。少しも傷ついているように見えない潤一にイライラが増した。
「そんなこと絶対にありえませんから。雪花も悠李も成人するまで私が育てます!」
ジェニファーと結婚できるのが嬉しいのだろう。どこまでも楽観的で幸せそうに語る潤一が許せなくて、涙があふれた。
「ママ、誰から電話? パパから?」
悠李は目を輝やかして飛んでくると、私からスマホを奪い取った。
「パパ、悠李ね、九九が言えるようになったよ!」
『おっ、悠李か。保育園は楽しいか?』
「うん、楽しいよ。じゃあ、パパ、聞いてね。九九をいうよ。ニニが四、二、三が六、二四が八、……………………………………………………………………九九、八十一 !!」
『よく頑張ったな、悠李。さすがは俺の息子だ。アメリカにはいい大学が沢山あるからな。こっちに来たかったらいつでも来い。パパがおまえと雪花を迎えにいってやるから』
九九など気の短い潤一にしてはよく我慢をして最後まで聞いてあげたとは思う。だけど迎えに行くなどと、また悠李に変な期待を持たせることには我慢ができない。
「本当? パパ、いつ? いつ迎えに来てくれるの?」
本気になっている悠李に焦りを感じて、慌ててスマホを取り上げた。
『いつだって来ていいぞ。ママがいいって言っ』
「やめて! どうしてそんなこと言うのよ! 悠李が本気にするじゃないの! あなたはいつだってそうやって、なにもかも自分の思いどおりにするんだわ!」
少しも落ち込んでいるように見えない明るい潤一が許せなくて、涙が止まらなくなる。
『無理やり取ろうなんて思ってないよ。おまえの方こそ俺には子供に会わせないつもりだろう!』
「当たり前だわ。あなたは前に悠李を隠したことだってあるんだから。何をされるかわかったものじゃないわ。絶対に会わせないから!」
『なに泣いてんだよ。大丈夫か? 雪花は今なにしてんだよ。雪花を見せろよ』
「ダメよ! 雪花も悠李もあなたなんかには一生あわせてやらないわよっ!!」
ボロボロに泣きながら電話を切った。
「ママ? どうして泣いてるの? ママ泣かないで」
悠李が心配して私の顔をのぞき込んだ。
「悠李、悠李……どこへも行かないで。ママをひとりぼっちにしないでよ。ママ、悠李と雪花がいなくなったらもう死んじゃうよ、、うっ、うっ、」
泣きながら悠李を力いっぱい抱きしめた。
「ママ、悠李どこへも行かないよ。ママと一緒にいるよ」
悠李もグスングスンしながら、大きな瞳に涙をうかべた。
ミニーマウスのレジスターでお買い物ごっこをしていた雪花も、バーコードを読み取るのをやめて歩いてきた。
「ママ、ミニーちゃんして」
プラスチックのバナナなど、食品のオモチャが入った買い物かごを手にさげていた。
「雪花ちゃん、パパに、、……パパに会わせてあげなくてごめんね」
意味がわからないようすで立っている雪花も抱きしめた。
最後の電話だったかもしれないのに。
雪花の本当のパパなのに、私は会わせてあげなかったんだ。
潤一にもっと落ち込んでいてもらいたかった。
なぜ離婚届を出したりしたのかと、叱ってもらいたかった。
少しのショックも受けずに潤一は、すっかり気持を切り替えて前向きな態度だった。
所詮、その程度にしか思われてはいなかったのだ。
潤一にとって私の代わりなど、いくらでもいるのだった。
佐野さんだって、いとも簡単に沙織さんと仲良くなってしまって。
佐野さんならいつまでも待ってくれているなどと、なぜ傲慢にもそんな風に思えていたのかが不思議だ。
誰も私のことなど深く愛してくれたりするわけがない。
私にはもう、この子たちしかいないんだ。
深い孤独と絶望を感じて、これからのひとりぼっちの子育てにひどい不安と恐怖を覚えた。
役所に離婚届を提出してからニ週間が過ぎ、まだ終わっていない手続きはあるものの、潤一にもそろそろ知らせなければいけないという気になった。
つらく悲しい気分が消えたわけではないけれど、さすがにいつまでもメソメソしているわけにもいかない。
子供たちのためにも、少しでも明るいママにならないと……。
ジェニファーはまだ日本にいるのだろうか?
何日滞在しているのか聞かなかったけれど、もうロスへ帰って、潤一と暮らしているのかも知れない。
シングルマザーでかまわないと言っていたジェニファーも、離婚したことを知ったなら、やはり結婚したいだろうと思う。
私が悠李を産むときも潤一さんは、無理をして結婚してくれたのだから、この度もそうしてあげたらいい。
悔しい気持ちがまったくないとは言えない。だけど、自らの判断で離婚したのだ。
当てにしていた佐野さんを取られてしまったのは想定外ではあった。
でも、人の幸せの妨害などしても惨めな気持ちになるだけだ。
ジェニファーが安心して元気な子が産めるようにしてあげたいと思う。
自分がそうしてもらったように。
『この間、役所に離婚届を提出して来ました。ジェニファーと少し話しもしました。潤一さんの子であることに間違いはなさそうです。彼女と幸せになってください。諸々の急がない手続きなどは、帰国後で構いません。お元気でね。研修がんばってください。さようなら』
保留していた以前と変わらない文面を、そのまま送信した。
今は真夜中だから、朝起きてから目にすることになるだろう。
朝っぱらから、こんな暗いニュースを知らされて気分を悪くするだろうか。
それとも、ジェニファーにいい返事ができることを喜ぶのだろうか……。
いつもお世話になっている両親にも、いつまでも内緒にしているわけにもいかないと思い、子供たちが寝静まったあと、離婚したことを打ち明けた。
両親の、特に母のショックは相当なものだった。
「な、なんですって!! 離婚したってどういうことよ? これからするんじゃなくて、もうしてしまったってことなの?」
狼狽した母の顔を見ていられず、うつむいた。
「絶対に許しませんよっ! 二人も子供がいて一体なにを考えているのよ、まったくあなたたちは!」
わなわなと唇を震わせて叫んだ母に申し訳なくて、なにも言えない。
「………。」
「一体なにがあったの? むこうから別れたいって言ってきたの?」
母はうつむく私を不憫に思ってか、少し口調を和らげて聞いた。
「…………。」
「原因は潤一さんね。また向こうで浮気でもしたんでしょう。あの人はそういう人なの。あなたが許せない気持ちはわかるけど、子供のためだと思って我慢するしかないでしょ。そういう人を選んだのはあなたなんですからね。子供を犠牲にする権利なんてないのよ。あなたが我慢なさい!」
冷静に諭すように母は言う。
父は無言のまま表情も変えずにジッとしていた。
「……ごめんなさい。お世話になっているのに勝手なマネばかりして。でももう離婚はしてしまったことなの。もうすんでしまったの」
「彩矢っ、そんなこと許しませんよ! ひとりで子供を育てるってことがどれだけ大変か、あなたはなにもわかっていないでしょう!」
興奮してそう言った母の目に涙が浮かんでいた。
「彩矢、潤一君とはどんな話をしてるんだ? 慰謝料や養育費なんかはどうなんだ? 親権はおまえでいいことになってるのか?」
口を閉ざしていた父が沈痛な面持ちで聞いた。
「細々としたことは研修が終わって帰ってきてからにするわ。今は無理でしょう」
「離婚だって帰ってきてからにしたらよかったじゃないの! なぜ慌ててしなければいけなかったの? この間帰国したのはそのためだったのね。浮気相手とすぐに再婚でもするつもりなの? 」
涙ながらにそう訴えた母の憶測は、あながち間違ってはいない。だけど、実際はもっと複雑な感情が絡んでいる。
両親は悠李が潤一の子供ではないと言うことをまだ知らないから。
「彩矢、どうなんだ? 本当にそうなのか? この間の帰国はそう言う話をするためだったのか?」
「……潤一さんは離婚はしたくないって言ったの。だけど、浮気相手の女性は妊娠していて、産むと言っているから、認知だけはしてあげたいんですって」
仕方なく、ボゾボソとうつむきながら打ち明けた。
「妊娠ですって! まったく、なんて人なの! なんど失敗しても懲りない人なのね。だけど、どうしてあなたの方が離婚しなければいけないのよ。潤一さんは別れたくないと言ってるんでしょ。とにかく離婚なんて許さないわよ。我慢なさい。あなたには二人も子供がいるんだから」
母はどうしようもない婿に呆れながらも、離婚には断固反対の姿勢を崩さない。
「お母さん、私たち元々うまくいってなかったの。潤一さんはいつも忙しくて、家にはほとんどいない人で、母子家庭と変わらないの。だから、もういらない……」
「家にいてくれなくても、ちゃんと働いて家族を養ってくれてたじゃないの。子供にはこれからどんどんお金がかかるのよ。いい? 母子家庭なんかになって、まず困るのはお金よ。あなたはそういうことがなんにもわかってないのね。あなたと話していてもダメだわ。私が潤一さんと話すわよ」
母は食卓テーブルに置いてあった自分のスマホをつかんだ。
心配性の母は緊急時のために、ちゃんと潤一とLINEの交換をしていたのだ。
「お母さん、ロサンゼルスは真夜中よ。潤一さんは寝てるわ」
「あんな人、たたき起こしてやればいいんだわ!」
今なにを言ったところで、興奮しきった母を止められる人などいないだろう。
耳にスマホを当てて、潤一を呼び出している母の顔は般若を思わせた。
いつまでたっても深刻な心配ばかりかけている自分が情けなく、思わず涙ぐむ。
「あ、潤一さん、私よ。………わかってるわよ、夜中なのは。
あなたに非常識なんて言われる筋合いはないわ。あなた浮気相手がまたオメデタだそうねっ!
…………それで何故うちの娘と孫が犠牲にならないといけないのかしら。こっそりアメリカから帰って来て、私たちには挨拶もなしに離婚の手続きだけして帰るなんて。うちの娘は騙せても私は許しませんよっ!
…………だから、今すぐに帰ってらっしゃい!
彩矢ったら、すっかり弱気になってしまって、あなたに言われるままに離婚届を出してしまったらしいの。
だからすぐに婚姻届を出して欲しいのよ。うちの娘になんて言って納得させたか知らないけど、離婚なんてとんでもないわ。こっちには二人も子供がいるんですからね。あなたの好きなようにはさせませんよっ!
………えっ?
なに言ってるのよ、どこまでも失礼な人ね。じゃあ、うちの彩矢も浮気をしてたって言いたいの?
……本人から聞けってどう言うこと?
ちょっと、待って、話は終わってないのよ、潤一さん、潤一さん?
……あら、ひどい、切れちゃったわ」
母はまだ興奮冷めやらぬ勢いだったが、またしつこくかけ直そうとはしなかった。
「まったく、ひどい人ね! 反省なんか少しもしてないわよ、あの人は。あれじゃあ、別れたくなる気持ちもわかるわ。でもダメよ、離婚なんてしたら、損するだけなんだから。浮気をしていたのは俺だけじゃないなんて言うのよ、なんなのかしら、腹が立つったらありゃしないわ!」
いずれは、悠李が産まれた経緯まで親に説明をしなければいけなくなるのかと思い、うんざりする。
「お母さん、私、もう寝てもいい? 疲れてるの、明日も仕事だし」
子供たちの寝ている和室へ逃げようとしたところを、父に引きとめられた。
「疲れてるのはお互い様だろう! とにかく、離婚届はもう受理されてしまったんだろう。今さらジタバタところでどうにもならない。ただし、不貞の事実があるなら慰謝料は今からでも請求できる。養育費もちゃんと払ってもらうんだ」
冷めたようにそう言った父に、母は猛反対した。
「まぁ、じゃあ、離婚したままでいいって言うの? 悠ちゃんと雪ちゃんが可哀想とは思わないの? お金さえ貰えばいいって問題じゃないでしょう!」
「あの男は変わらない。彩矢を幸せにできるような男ではないっ!」
男親はまた思うところが違うのだろう。封じ込めた怒りを吐き捨てるように父は言った。
「あんな人でも母子家庭よりはマシだわ。父親のいない子なんて惨めすぎるわよ。今すぐに籍を元に戻すべきだわ!」
「彩矢が別れると決めたんだ。お前がとやかく言うことではない!」
「彩矢は母子家庭がどんなに大変なのかをまだ知らないのよ。たった一人で二人の子供を育てるなんて無理よ」
ひとり冷めた目でみている私をよそに、母は自分のことのように訴えた。
「お母さん、大丈夫。私ちゃんと働くから心配しないで」
「彩矢っ、あなたは妻なのよ! 遠慮なんてすることないでしょう。浮気相手を訴えることだってできるのよっ!」
まるで自分が妻でもあるかのような勢いで、母は叫んだ。
そんなこと出来るわけがない。ジェニファーはかつての自分なのだから。
「だ、大丈夫よ、ちゃんと出来るわ。だから心配しないで……」
「そう、そんなに一人でやれるならやりなさい。誰の協力もアテにはしないことね。バカバカしいったらないわ。もうみんな勝手になさい!」
母は涙ぐみながら、寝室へ行ってしまった。
母の協力が得られなくなるのは痛恨の極みではあった。だけど、またしても両親をこれほどがっかりさせ、心配させてしまったことに心が痛んだ。
一人で育てていけるなどと、偉そうなことを言ってしまった手前、母の援助を受けるわけにはいかなくなった。
仕事を終え、急いで保育所へ子供を迎えに行った後、実家へは寄らずに琴似のマンションへ帰った。
「ママ、おなかすいた。今日のご飯なに?」
いつも食の細い悠李がキッチンをのぞきに来た。
「悠李の好きなハムエッグよ。すぐに出来るから待っててね」
「えー、朝も卵焼きだったのに。悠李、お肉が食べたい」
「ハムだってウインナーだってお肉でしょ。明日は生姜焼きを作ってあげるから、今日は我慢しようね」
「明日はバァバの家で食べる。バァバのハンバーグが食べたい」
「バァバは今、具合いが悪いの。治るまで我慢しようね」
「…………」
不満げな悠李はリビングへ戻ると、えびせんを食べながらNHKの子供番組を見ていた雪花から、お菓子の袋を奪った。
「めっ! これ雪花の!」
雪花も袋をつかんで離そうとしなかったけれど、年上の悠李にかなうはずはなかった。
「うえーーん、ママーっ!! 」
泣き叫びながら雪花はキッチンへやって来た。
もうすぐハムエッグが焼けるというのに、タイミングが悪い。
「あらら、雪花ちゃん、ごはんすぐに出来るから。お菓子はもうやめようね。ほうら、もうすぐハムエッグができるよ」
「ぎゃあー!! うぎゃー!!」
えびせんが食べたいというよりも、無理やり奪われたことが悔しいのだろう。
早くご飯を作ってしまいたいのに悠李ったら!
雪花を抱っこしてイライラしながら悠李に助けを求めた。
「悠李はお兄ちゃんでしょ。こんなんじゃママご飯作れないわ。そのお菓子は雪花ちゃんに返しなさい!」
「やだっ、悠李はまだ食べてないもん。雪花が一人でたくさん食べちゃったもん」
「悠李にはまた買ってあげるから。それ雪花ちゃんにあげて」
「ママはいつも夕ご飯の前にお菓子を食べちゃダメって言うでしょ! どうして雪花は食べてもいいの!」
悠李の正当な批判に返す言葉が見つからない。
「………いいわよ。じゃあ、いつまでもご飯が食べられなくてもいいのね。ママもう知らないから!」
ぎゃあーぎゃあー泣きわめく雪花を抱っこしていたら、気が滅入って一緒に泣きたくなってくる。
泣きそうになっている私を見て、悠李は悪いことをしたと思ったのか、シュンとしたようにうつむいてキッチンへやってきた。
「……もういらない」
悠李はそう言ってえびせんの袋を泣いている雪花に渡した。
「悠李、……ありがとう」
お菓子を返してもらった雪花は、すぐに泣きやんだ。
ーー私は悠李に甘えてる。
こんな小さい悠李に我慢をさせて、気を遣わせているんだ。
朝ごはんのような簡単メニューで夕食をすませ、後片づけをしていると、スマホが鳴った。
ーーロサンゼルスにいる潤一からだった。
どうしよう、、なんて言えばいいの?
離婚届にサインをして、あとはおまえにまかせると言って、ロスへ帰った潤一だったけれど。
役所へ提出してしまったことを潤一はどう思ったのだろう?
怖くてスマホをつかんだ手が震えた。
今後のことを考えると、逃げているわけにはいかなかった。
深呼吸をひとつして、丸い緑色の応答をタッチした。
LINEビデオから、潤一のアップされた顔が映し出された。
いつもと変わらない仏頂面ではあったけれど、特に怒っているようには見えなかった。
『おう、彩矢。なんだよ、おまえ、しけた顔してんな。離婚なんかして本当に大丈夫なのか?』
意外なほど平然とした潤一のようすに寂しさを感じた。
「あ、う、うん。ごめんなさい、勝手に出しちゃって……」
『まぁ、出来れば離婚はしたくなかったけどな。原因を作ったのは俺だから仕方ないな。佐野とはうまくいってるのか?』
「………… 」
『別に言わなくていいけどな。悠李にとっては良かっただろう。雪花はもし邪魔なら俺が引き取ってもいいんだぞ』
「邪魔なわけないでしょう! 私が育てるのでご心配なく」
『わかってるよ。そう言うと思ってたよ。だけど、たまには俺のところで暮らさせるってのもいいかもしれないぞ。俺もしかしたらこのままロスでしばらく暮らすことになるかもしれないんだ。雪花は日本で暮らすより、アメリカの方がいいような気がするな。無理にとは言わないけど、考えておいてくれないか? 悠李も英語を覚えさせたかったら、一緒に来させてもいいんだぞ』
これが離婚したばかりの夫の態度なのだろうか。少しも傷ついているように見えない潤一にイライラが増した。
「そんなこと絶対にありえませんから。雪花も悠李も成人するまで私が育てます!」
ジェニファーと結婚できるのが嬉しいのだろう。どこまでも楽観的で幸せそうに語る潤一が許せなくて、涙があふれた。
「ママ、誰から電話? パパから?」
悠李は目を輝やかして飛んでくると、私からスマホを奪い取った。
「パパ、悠李ね、九九が言えるようになったよ!」
『おっ、悠李か。保育園は楽しいか?』
「うん、楽しいよ。じゃあ、パパ、聞いてね。九九をいうよ。ニニが四、二、三が六、二四が八、……………………………………………………………………九九、八十一 !!」
『よく頑張ったな、悠李。さすがは俺の息子だ。アメリカにはいい大学が沢山あるからな。こっちに来たかったらいつでも来い。パパがおまえと雪花を迎えにいってやるから』
九九など気の短い潤一にしてはよく我慢をして最後まで聞いてあげたとは思う。だけど迎えに行くなどと、また悠李に変な期待を持たせることには我慢ができない。
「本当? パパ、いつ? いつ迎えに来てくれるの?」
本気になっている悠李に焦りを感じて、慌ててスマホを取り上げた。
『いつだって来ていいぞ。ママがいいって言っ』
「やめて! どうしてそんなこと言うのよ! 悠李が本気にするじゃないの! あなたはいつだってそうやって、なにもかも自分の思いどおりにするんだわ!」
少しも落ち込んでいるように見えない明るい潤一が許せなくて、涙が止まらなくなる。
『無理やり取ろうなんて思ってないよ。おまえの方こそ俺には子供に会わせないつもりだろう!』
「当たり前だわ。あなたは前に悠李を隠したことだってあるんだから。何をされるかわかったものじゃないわ。絶対に会わせないから!」
『なに泣いてんだよ。大丈夫か? 雪花は今なにしてんだよ。雪花を見せろよ』
「ダメよ! 雪花も悠李もあなたなんかには一生あわせてやらないわよっ!!」
ボロボロに泣きながら電話を切った。
「ママ? どうして泣いてるの? ママ泣かないで」
悠李が心配して私の顔をのぞき込んだ。
「悠李、悠李……どこへも行かないで。ママをひとりぼっちにしないでよ。ママ、悠李と雪花がいなくなったらもう死んじゃうよ、、うっ、うっ、」
泣きながら悠李を力いっぱい抱きしめた。
「ママ、悠李どこへも行かないよ。ママと一緒にいるよ」
悠李もグスングスンしながら、大きな瞳に涙をうかべた。
ミニーマウスのレジスターでお買い物ごっこをしていた雪花も、バーコードを読み取るのをやめて歩いてきた。
「ママ、ミニーちゃんして」
プラスチックのバナナなど、食品のオモチャが入った買い物かごを手にさげていた。
「雪花ちゃん、パパに、、……パパに会わせてあげなくてごめんね」
意味がわからないようすで立っている雪花も抱きしめた。
最後の電話だったかもしれないのに。
雪花の本当のパパなのに、私は会わせてあげなかったんだ。
潤一にもっと落ち込んでいてもらいたかった。
なぜ離婚届を出したりしたのかと、叱ってもらいたかった。
少しのショックも受けずに潤一は、すっかり気持を切り替えて前向きな態度だった。
所詮、その程度にしか思われてはいなかったのだ。
潤一にとって私の代わりなど、いくらでもいるのだった。
佐野さんだって、いとも簡単に沙織さんと仲良くなってしまって。
佐野さんならいつまでも待ってくれているなどと、なぜ傲慢にもそんな風に思えていたのかが不思議だ。
誰も私のことなど深く愛してくれたりするわけがない。
私にはもう、この子たちしかいないんだ。
深い孤独と絶望を感じて、これからのひとりぼっちの子育てにひどい不安と恐怖を覚えた。
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