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佐野さんの苦悩
しおりを挟む人間関係の良くない職場での一週間は、異様に長く感じられる。
やっと日曜が来て、悠李と家のそばの小さな公園で遊ぶ。
季節も十一月になり、かなり肌寒くなってきた。
白い綿毛のついた小さな羽虫が飛んでいた。
北海道に生息している虫で、雪虫という。寒い今ごろの時期になると出現する。
土曜に来ても、日曜に来ても、公園で子どもが遊んでいるところをあまり見たことがない。
土日はみんな家族でどこかへ出かけるのだろうか。
誰もいない公園はよけいに寒く感じられた。
平日は仕事をしているので、子どものサークルなどにも行けない。
ママ友も相談できる友もなく孤独を感じる。
まだ一歳の悠李だって、そろそろお友達が欲しいだろうなと思う。
早く保育園に入れられるといいのだけれど。
そうしたら今の医院を辞めよう。
母の日中の負担が減れば、週に一~二回夜勤をしても許されるだろう。
悠李はもうブランコにだってつかまって乗れるし、滑り台をすべり降りることもできる。
今はお砂場でシャベルを使って遊んでいる。
「悠李、お山を作ろうか?」
下の方から湿り気のある砂を掘り返して山を作る。
一生懸命に砂をペタペタと盛りつけている、悠李の小さな手が可愛い。
潤一は今日も仕事に行っているのだろうなと、ふと思い出す。
重篤患者や術後の患者が気になるのだろう。
休日でも家でのんびりしている潤一の姿を、あまり見たことがなかった。
仕事熱心なのはいいけれど、ああいう夫を持つ妻はかなり寂しい。
潤一は特に趣味もなく、パチンコなどのギャンブルはやらない。
やるのは酒と時々ゴルフ、そして浮気だ。
仕事やゴルフへ行っているふりをして、実は浮気相手と会っていたかも知れない。
莉子ちゃんは今、あのマンションで一緒に暮らしているのだろう。
砂を盛りつけながら、莉子ちゃんの出産予定日はいつだろうと考える。
八月の頃に一・二ヶ月だったとすれば、来年の三月か四月には産まれる。
潤一さんは楽しみだろうな。
今度はちゃんと自分の子どもが生まれるのだから。
莉子ちゃんは、潤一の脱ぎ散らかした衣服を片付けて洗濯したり、お料理や掃除を楽しめているのだろうか。
長年の夢が叶ったのだから、さぞかし幸せなことだろう。
それに莉子ちゃんはひとり暮らしをしていたから、彩矢よりはずっとお料理が上手だ。
ふたりが仲良く食事しているシーンを想像して、また悲しくなる。
悠李がお山作りに飽きたのか、シャベルを放り出してヨタヨタとブランコのほうへ歩き出した。
中腰の姿勢から、よっこらしょ! と中年のおばちゃんのように立ち上がり、ブランコのほうへ向かう。
公園の入り口に長身の男性が立って、こっちを見ていた。
ーーー佐野さんだった。
悠李がまたブランコに座らせるようにと、ブランコの椅子をたたいて訴えている。
「マンマ、ぶんぶん」
抱き上げて座らせ、小さな背中をそっと押した。
佐野さんがこっちに向かって歩いてくるのが、視界の端に見えた。
悠李の背中をかるく押している私の隣に立った。
「……実家にはまだしばらくいるのかい?」
遠慮がちに佐野さんが聞いた。
離婚のことは言いたくなかったけれど、今さら円満夫婦を演じてみても信じてはもらえないだろう。
「八月に離婚したの。今、実家のそばの内科医院で働いてる。有紀、今日は仕事?」
感情を入れずに淡々と語った。
「……うん。彩矢ちゃん、今ごろ言ってもしょうがないけど、本当にごめん。あの時は俺、自分のことしか考えられなくて。一番困っている彩矢ちゃんを見放すようなことしか言えなかった」
「突然、あんなこと言われたら誰だって逃げ出すよ。彩矢が悪いの。いつも軽はずみなことばっかりして、まわりの人たちみんな傷つけて……」
悠李が飽きたようで、ブランコから降りた。
そして、またお砂場へトボトボと歩いて行った。
さっき作った砂の山を踏みつぶしている。
佐野さんと、ふたつ空いているブランコに並んで座った。
他の人が見たら、仲のいい若い親子連れに見えるかも知れない。
正真正銘の親子連れなのだけれど。
「俺の子だって、どうして早く言ってくれなかったんだい?」
佐野さんが痛々しいまなざしで見つめた。
「シングルマザーだったら言えたけど、シングルマザーになる勇気が持てなかったから……。 潤一さん、どっちの子が産まれるかわからないのに結婚してくれた。どっちの子かわからなくしちゃったのは潤一さんのせいだけど、でも結婚してくれなかったら悠李は産めなかったかも知れない。一周忌も迎えてないのに、無理に結婚してもらって肩身の狭い思いさせて……なのに産まれてみたら佐野さんの子だったからって、すぐにさよならなんて言えない」
結婚する前は、そこまで先を予測することが出来なかった。
「……松田先生は別れたいって言わなかったのかい? 産まれたのが俺の子だったのに」
「つらそうだったから離婚してくださいって言ったの。そしたらすごく怒って、佐野のところへ行くつもりだろうって、絶対に離婚しないって」
そう、まさか潤一さんが怒るなんて思わなかったのだ。
「じゃあ、なぜ離婚したんだい?」
「莉子ちゃんに、、潤一さんの赤ちゃんができたの。だから……」
佐野さんが両手で頭を抱え込みながら、苦悩の表情でうつむいた。
悠李はひとりで公園の中をトボトボと歩きまわっている。
佐野さんがうつむいたまま力なく呟いた。
「ごめん。彩矢ちゃん、俺、すごく後悔している。ずっと、ずっと後悔してきたよ。だけど……だけど俺、有紀のことは裏切れない」
悲痛に顔を歪めて言った佐野さんに、ひどく失望した。
今まで散々傷つけてきた佐野さんだけれど、もっと傷つけてやりたい衝動にかられた。
「……なにそれ? わざわざそれを言いにきたの? 私だって有紀を裏切るつもりなんてないよ!」
あまりの悲しさと悔しさで顔が引きつった。
「養育費くらいは出したいって思ってるんだ」
「いらない! 安心して。はじめから佐野さんなんて全然あてにしてないから」
「………」
佐野さんのプライドをコテンパンに打ちのめしてやりたかった。
結婚してしまった佐野さんに、何かを期待していたわけではない。
それでも佐野さんの言葉には、ひどくプライドを傷つけ、失望させる何かがあった。
悠李がまたこっちへ向かって歩いてきた。
「悠李、お腹すいたね。 もうお昼だからそろそろ帰ろっか?」
ブランコに座って地面ばかり見ていた佐野さんが、顔をあげて悠李を見つめた。
ーー泣いている佐野さんをはじめて見た。
佐野さんは前に立っていた悠李をなにも言わずに抱きしめた。
知らない男の人に突然抱きしめられた悠李が驚いて泣き出した。
「うわぁーーん!」
泣いているふたりを見て、強がりばかり言っていた自分の涙腺も危なくなってきた。
「佐野さん、もう会いに来ないで。この子は戸籍上もそうだけど、これからもずっと松田の子だから。私も佐野さんと有紀の幸せの邪魔なんてしない」
せりあがる涙をこらえて、やっと言った。
大泣きしている悠李を佐野さんから引き離して抱き上げた。
「じゃあ、さよなら」
ブランコに座ってうつむき、地面に涙を落としている佐野さんを残して歩き出す。
傷つけてごめんなさい。
だけど、わかって欲しい。
佐野さんと一緒に、悠李の成長を喜び合うことなど出来ないのだから。
せめて、せめて、悲しみくらいは一緒に共有してください。
せりあがっていた涙が次々と溢れて頬を伝った。
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