六華 snow crystal 6

なごみ

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先生の失恋

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下心がまったくなかったと言ったら、それは嘘に違いないけれど、まだ純情だった俺は、肉体的な欲求以上に、プラトニックな恋愛を求める気持ちが強かった。


アパートで同じ空気を吸い、同じ時間を共有できていることに最高の幸せを感じた。


晩飯に出してくれたレトルトの冷凍炒飯が、やけに美味く感じたのも、気持ちの問題だろう。


「結局、お父様とお母様は離婚されるのかしら?」


炒飯を口にしながら、神妙な面持ちで美穂先生が尋ねた。


「さあね、別居が続いてるから、いずれはそうなるかもな」


親父は穏やかで心の広い持ち主だったから、あんな気性のお袋とでも、夫婦仲は良かった。


たとえ親父が浮気をしていたとしても、お袋は離婚などしないだろうな。



「児童相談所に連絡すれば、しばらくの間は保護してくれると思うんだけど……」


俺の顔色を伺うように、美穂先生は小声で呟いた。


「小学生じゃあるまいし、いい年してあんなところに行けるかよ。そんなところで寝泊まりするくらいなら、胸くそ悪いアイツと家にいるほうがまだマシだよ」


「でも、顔をこんなに腫れあがるまで殴るような人のところへは、恐ろしくて帰せないでしょう。取り返しのつかないことにでもなったら、悔やんでも悔やみきれないわ」


俺の嘘を本気で心配している先生に対して、少し罪悪感に苛まれた。


「……先生が迷惑なのはわかるよ。泊めてくれなくていいよ。もう少ししたら帰る。それから俺、絶対に先生を襲ったりはしないから。それだけは約束する」


「そんな心配はいらないわ。私は合気道二段の腕前よ。簡単にねじ伏せられたりはしません」


「はぁ? マジか、、つまんねぇの」


「フフフッ、だから泊まられても、そんな心配はしてないけど、なにかもっといい方法はないものかしらね」


考え込む美穂先生の、色っぽい横顔を見つめて、思わずため息がもれた。


襲うつもりはなくても、可能性くらいは残しておいて欲しかった。


なんだよ、合気道二段って、、


ーー強すぎだろう。
  





そういうわけで俺は、時々アパートへ遊びに行くことが許される間柄になれた。


絶対に、誰にも口外しないという約束で。



冬休みに入ってからも、ニット帽にマスクで変装し、何度かアパートを訪ねた。


初七日も過ぎたある日の夜、アパートのブザーを鳴らすとインターホンから、いつもと違った美穂先生の声がした。


「はーい、ああ、潤一くんねぇ~、今開けるわよ」


ドアを開けてくれた美穂先生は、ひどく酔っていた。


「はーい、いらっしゃーい! わたしの可愛い教え子ちゃ~ん」



「どうしたんだよ?  そんなに酔っぱらって、珍しいな」


「わたしにだって飲みたいときはあるわよ。これが飲まずにいられますかって、、何してんの、早く入りなさい!」


ボケっと立ちすくんでいた俺の手を、乱暴に引っ張った。



なにがあったのだろう。



こんなに荒れている美穂先生を見たの初めてだ。



すでに見慣れた八畳ほどのリビングに入り、フードのついたダウンを脱いで、ソファの背もたれに掛けた。


美穂先生はもう飲まないのか、ソファに倒れ込むと、グッタリと横になった。

 


「一体、何があったんだよ」


「なにも、な~んにも無いわよ。あったら大変だわ。なにも無いからよかったのよ」


「じゃあ、なんでそんなに荒れてるんだよ?  」


「あなたは人の心配なんかしている場合じゃないでしょう。可愛そうな、可愛そうな松田くん、、わたしは担任なのに何にもしてあげられないの。ごめんね」


さっきまでの威勢の良さはなくなって、今度は泣き上戸になっていた。


「本当にどうしたんだよ。俺なんかに相談しても仕方ないんだろうけどな」


自分が十七歳の少年であることが、ひどく恨めしかった。


「そんなことないわよ。来てくれて嬉しいの。わたしのほうがずっとあなたに助けられてるんだわ」


美穂先生は鼻をクズクズさせて泣いていた。


「もう寝たほうがいいな。寝るならベッドへ行けよ。そんなとこで寝てたら風邪引くだろう。俺は帰るから」


今日のところはそっとしておくに限ると思い、ソファに掛けておいたダウンを羽織った。


「待ってよ、ずいぶん冷たいのね。わたしがこんなに落ち込んでいるっていうのに」


「俺になにができるって言うんだよ」


「そばにいて欲しいだけよ。それだけ……」


ソファから起きあがり、潤んだ目で俺の手を握った。


美穂先生の顔が間近に迫って、俺の心臓が早鐘のように打ち始めた。



……み、美穂先生


「助けてよ。わたし、わたし、、本当にもう駄目だから」



先生の大きな切れ長の目から、涙が止めどもなく流れては落ちた。


先生をこんなに悲しませることって、一体なんだ?



「誰か亡くなったのか?」


「そうね、そう、、死んだわ、もう死んだ。あんな奴、本当に死んでしまえば良かったのよっ!」



「あんな奴って? あんな奴って誰だよ?」



もしかして失恋か?  



ウソだろ?





美穂先生がフラれたのか?


こんなにも美穂先生を泣かせている、“ あんな奴 ” に俺は激しく嫉妬した。


「こんな裏切り方をされるくらいなら、死んでもらったほうが、ずっと、ずっと良かったわよ!」


やり場のない苛立ちを、どこにぶつけていいのかわからないようだった。


「まさか、米山か?  米山にフラれたのか ⁉︎」


「わたしと米山先生はなんの関係もございません! 」


それを聞いて少しだけホッとした。


どんなにいい女でも、あんな奴にフラれたとあっては美穂株は大暴落だ。


恨みがましく据わった目で、美穂先生はまたグラスにビールを注いだ。


「もう、やめとけ、飲み過ぎだろ。とにかく、そんな男はさっさと忘れろよ。もっといい男が他にいくらでもいるだろう」



そうだよ、こんなそばに。


俺はまだ若いけど、多分そんな奴より百倍もいいはずだ。



「わたしたちはね、七年も付き合ってたの!高三の時からよ。彼が医大を卒業して、無事に国家試験に合格したら、今年中に結婚するはずだったのよ。だのに……」



ソファのクッションをつかむと、思いっきり壁に投げつけた。


泣いたり、怒ってみたりと、酒乱と泣き上戸を繰り返しては、やり場のない怒りをぶちまける。


そうか、やっぱり男がいたのか。少しも不思議ではないのに、なぜか俺はとても裏切られたような気持ちになった。



医大生だと?



会ったこともないその医者の卵が憎くてたまらなかった。

 
「フラれたのか? そいつに」


「フラれたなら諦めもつくわ。彼、わたしとは別れたくないって」


「なんだよ、そいつ。じゃあ、なんで別れなきゃいけないんだよ!」


優柔不断で未練がましい、最低の男だろ。




「浮気した女性との間に子供ができたって言うの……完全に嵌められたって。だけど、子供に罪はないから、父親のない子には出来ないって、泣いて謝るのよ。そんな言い訳ってある?   嫌いだから別れようって言われたほうがずっとスッキリするわ」


「そんな言い訳を信じているほうがどうかしてるよ。先生は捨てられたんだよ。ちゃんと現実を見ろ!」



どこまでもタチの悪い男だ。



善良ぶりやがって。



「違うわ。彼、こう言ったの。今もこれからもずっと美穂だけを愛するって。わたしには分かるの。彼の言葉に嘘はないわ。だから、こんなに苦しいのよ」



先生はまたソファに突っ伏して泣きじゃくった。



「完全にイカれてるな。どこまでバカなんだよ!」



こんなに惨めったらしい女だとは思わなかった。



「あなたに何が分かるのよ、わかったようなこと言わないで!」



「俺には分かるよ。同じ男だからな。美穂先生は飽きられたんだよ、そうに決まってる」



硬直して、能面のようになった美穂先生を見るのは辛かった。



「………出てって。もう帰りなさい!!」



最後の力を振り絞るかのように、美穂先生はヒステリックに叫んだ。



「だから帰るって言っただろう。引き止めたのは先生のほうだ」



さすがに俺の一言はキツかったのか、美穂先生は泣きやんでいた。



放心したように、壁の一点を見つめて。



ダウンジャケットを羽織り、アパートを出た。




少し言いすぎたかもしれない。



だけど、そんな言葉にいつまでも縋っている美穂先生など、見たくもなかった。



男をたぶらかす悪女のほうが、ずっと似合っているのに。



いつまでも引きずるな。



キッパリ忘れろ!



それしかないだろう。








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