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先生の失恋
しおりを挟む下心がまったくなかったと言ったら、それは嘘に違いないけれど、まだ純情だった俺は、肉体的な欲求以上に、プラトニックな恋愛を求める気持ちが強かった。
アパートで同じ空気を吸い、同じ時間を共有できていることに最高の幸せを感じた。
晩飯に出してくれたレトルトの冷凍炒飯が、やけに美味く感じたのも、気持ちの問題だろう。
「結局、お父様とお母様は離婚されるのかしら?」
炒飯を口にしながら、神妙な面持ちで美穂先生が尋ねた。
「さあね、別居が続いてるから、いずれはそうなるかもな」
親父は穏やかで心の広い持ち主だったから、あんな気性のお袋とでも、夫婦仲は良かった。
たとえ親父が浮気をしていたとしても、お袋は離婚などしないだろうな。
「児童相談所に連絡すれば、しばらくの間は保護してくれると思うんだけど……」
俺の顔色を伺うように、美穂先生は小声で呟いた。
「小学生じゃあるまいし、いい年してあんなところに行けるかよ。そんなところで寝泊まりするくらいなら、胸くそ悪いアイツと家にいるほうがまだマシだよ」
「でも、顔をこんなに腫れあがるまで殴るような人のところへは、恐ろしくて帰せないでしょう。取り返しのつかないことにでもなったら、悔やんでも悔やみきれないわ」
俺の嘘を本気で心配している先生に対して、少し罪悪感に苛まれた。
「……先生が迷惑なのはわかるよ。泊めてくれなくていいよ。もう少ししたら帰る。それから俺、絶対に先生を襲ったりはしないから。それだけは約束する」
「そんな心配はいらないわ。私は合気道二段の腕前よ。簡単にねじ伏せられたりはしません」
「はぁ? マジか、、つまんねぇの」
「フフフッ、だから泊まられても、そんな心配はしてないけど、なにかもっといい方法はないものかしらね」
考え込む美穂先生の、色っぽい横顔を見つめて、思わずため息がもれた。
襲うつもりはなくても、可能性くらいは残しておいて欲しかった。
なんだよ、合気道二段って、、
ーー強すぎだろう。
そういうわけで俺は、時々アパートへ遊びに行くことが許される間柄になれた。
絶対に、誰にも口外しないという約束で。
冬休みに入ってからも、ニット帽にマスクで変装し、何度かアパートを訪ねた。
初七日も過ぎたある日の夜、アパートのブザーを鳴らすとインターホンから、いつもと違った美穂先生の声がした。
「はーい、ああ、潤一くんねぇ~、今開けるわよ」
ドアを開けてくれた美穂先生は、ひどく酔っていた。
「はーい、いらっしゃーい! わたしの可愛い教え子ちゃ~ん」
「どうしたんだよ? そんなに酔っぱらって、珍しいな」
「わたしにだって飲みたいときはあるわよ。これが飲まずにいられますかって、、何してんの、早く入りなさい!」
ボケっと立ちすくんでいた俺の手を、乱暴に引っ張った。
なにがあったのだろう。
こんなに荒れている美穂先生を見たの初めてだ。
すでに見慣れた八畳ほどのリビングに入り、フードのついたダウンを脱いで、ソファの背もたれに掛けた。
美穂先生はもう飲まないのか、ソファに倒れ込むと、グッタリと横になった。
「一体、何があったんだよ」
「なにも、な~んにも無いわよ。あったら大変だわ。なにも無いからよかったのよ」
「じゃあ、なんでそんなに荒れてるんだよ? 」
「あなたは人の心配なんかしている場合じゃないでしょう。可愛そうな、可愛そうな松田くん、、わたしは担任なのに何にもしてあげられないの。ごめんね」
さっきまでの威勢の良さはなくなって、今度は泣き上戸になっていた。
「本当にどうしたんだよ。俺なんかに相談しても仕方ないんだろうけどな」
自分が十七歳の少年であることが、ひどく恨めしかった。
「そんなことないわよ。来てくれて嬉しいの。わたしのほうがずっとあなたに助けられてるんだわ」
美穂先生は鼻をクズクズさせて泣いていた。
「もう寝たほうがいいな。寝るならベッドへ行けよ。そんなとこで寝てたら風邪引くだろう。俺は帰るから」
今日のところはそっとしておくに限ると思い、ソファに掛けておいたダウンを羽織った。
「待ってよ、ずいぶん冷たいのね。わたしがこんなに落ち込んでいるっていうのに」
「俺になにができるって言うんだよ」
「そばにいて欲しいだけよ。それだけ……」
ソファから起きあがり、潤んだ目で俺の手を握った。
美穂先生の顔が間近に迫って、俺の心臓が早鐘のように打ち始めた。
……み、美穂先生
「助けてよ。わたし、わたし、、本当にもう駄目だから」
先生の大きな切れ長の目から、涙が止めどもなく流れては落ちた。
先生をこんなに悲しませることって、一体なんだ?
「誰か亡くなったのか?」
「そうね、そう、、死んだわ、もう死んだ。あんな奴、本当に死んでしまえば良かったのよっ!」
「あんな奴って? あんな奴って誰だよ?」
もしかして失恋か?
ウソだろ?
美穂先生がフラれたのか?
こんなにも美穂先生を泣かせている、“ あんな奴 ” に俺は激しく嫉妬した。
「こんな裏切り方をされるくらいなら、死んでもらったほうが、ずっと、ずっと良かったわよ!」
やり場のない苛立ちを、どこにぶつけていいのかわからないようだった。
「まさか、米山か? 米山にフラれたのか ⁉︎」
「わたしと米山先生はなんの関係もございません! 」
それを聞いて少しだけホッとした。
どんなにいい女でも、あんな奴にフラれたとあっては美穂株は大暴落だ。
恨みがましく据わった目で、美穂先生はまたグラスにビールを注いだ。
「もう、やめとけ、飲み過ぎだろ。とにかく、そんな男はさっさと忘れろよ。もっといい男が他にいくらでもいるだろう」
そうだよ、こんなそばに。
俺はまだ若いけど、多分そんな奴より百倍もいいはずだ。
「わたしたちはね、七年も付き合ってたの!高三の時からよ。彼が医大を卒業して、無事に国家試験に合格したら、今年中に結婚するはずだったのよ。だのに……」
ソファのクッションをつかむと、思いっきり壁に投げつけた。
泣いたり、怒ってみたりと、酒乱と泣き上戸を繰り返しては、やり場のない怒りをぶちまける。
そうか、やっぱり男がいたのか。少しも不思議ではないのに、なぜか俺はとても裏切られたような気持ちになった。
医大生だと?
会ったこともないその医者の卵が憎くてたまらなかった。
「フラれたのか? そいつに」
「フラれたなら諦めもつくわ。彼、わたしとは別れたくないって」
「なんだよ、そいつ。じゃあ、なんで別れなきゃいけないんだよ!」
優柔不断で未練がましい、最低の男だろ。
「浮気した女性との間に子供ができたって言うの……完全に嵌められたって。だけど、子供に罪はないから、父親のない子には出来ないって、泣いて謝るのよ。そんな言い訳ってある? 嫌いだから別れようって言われたほうがずっとスッキリするわ」
「そんな言い訳を信じているほうがどうかしてるよ。先生は捨てられたんだよ。ちゃんと現実を見ろ!」
どこまでもタチの悪い男だ。
善良ぶりやがって。
「違うわ。彼、こう言ったの。今もこれからもずっと美穂だけを愛するって。わたしには分かるの。彼の言葉に嘘はないわ。だから、こんなに苦しいのよ」
先生はまたソファに突っ伏して泣きじゃくった。
「完全にイカれてるな。どこまでバカなんだよ!」
こんなに惨めったらしい女だとは思わなかった。
「あなたに何が分かるのよ、わかったようなこと言わないで!」
「俺には分かるよ。同じ男だからな。美穂先生は飽きられたんだよ、そうに決まってる」
硬直して、能面のようになった美穂先生を見るのは辛かった。
「………出てって。もう帰りなさい!!」
最後の力を振り絞るかのように、美穂先生はヒステリックに叫んだ。
「だから帰るって言っただろう。引き止めたのは先生のほうだ」
さすがに俺の一言はキツかったのか、美穂先生は泣きやんでいた。
放心したように、壁の一点を見つめて。
ダウンジャケットを羽織り、アパートを出た。
少し言いすぎたかもしれない。
だけど、そんな言葉にいつまでも縋っている美穂先生など、見たくもなかった。
男をたぶらかす悪女のほうが、ずっと似合っているのに。
いつまでも引きずるな。
キッパリ忘れろ!
それしかないだろう。
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