六華 snow crystal 6

なごみ

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懲りない人

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*彩矢*


離婚をしている私にはもう、潤一さんのすることに腹を立てたりする資格はないのだろう。


未だに嫉妬の感情が込み上げる。


今は佐野さんを愛しているはずなのに。


私の気持ちはともかく、二人の関係を見過ごすわけにはいかない。


それは嫉妬というよりも、正義感から来る感情のように思う。


潤一はジェニファーを裏切って、美穂先生を誘惑しようとしているに違いない。


あと10mほどの距離まで近づいたところで、悠李が私の存在に気がついた、


「あ、ママだ ‼︎ 」


唖然としたようすの潤一と、凍りついたように顔を伏せた美穂先生を前にして、いたたまれない気持ちになる。


「ママー、悠李ドローン飛ばせたよ。パパとサッカーもした!」


悠李が立ちあがって私のそばに駆けてきた。


「楽しく遊べてよかったね」


まだ興奮さめやらぬ悠李の満足げな様子に、不安がつのる。






「よくここだと分かったな」


落ち着き払った潤一が、何事もないかのように開きなおって言った。


「どうして電話に出てくれないの?  そんなんじゃ今後の面会はお断りさせていただきます!」


「今朝は悠李が急いで慌てさせたんだよ。なぁ悠李、今日は楽しかっただろう?」




「うん!  悠李もっと遊びたい!!」


「悠李、、今日はお昼までって約束でしょう。もう帰るよ」


潤一にうまく手なずけられている気がして、焦燥感にかられる。


「悠李、また、サッカー教えてやるよ。今度は雪花も一緒にな」


「今度っていつ?  パパは一緒に帰らないの?」


不安げに私を見上げた悠李の質問に、答える準備が出来ていなかった。



なんとも言えない重い空気が漂う。


「パパはまたアメリカに行っちゃうから、しばらく会えないのよ」


思わず苦しまぎれの出まかせを言ったら、あっさり否定された。


「子供に嘘なんかつくなよ。どうせバレるんだぞ。パパはアメリカには行かないよ。ママとは別れたんだ。離婚だよ、離婚!」



嘘はよくなかったかも知れない。だけど、なんの配慮もない潤一の無神経な言い方に腹が立つ。


「りこんってなぁに?  パパとママはケンカしちゃったの?」


なんて言ってあげたら良かったのだろう。


私は自分の立場を守りたくて嘘をついたわけじゃない。悠李を傷つけたくなかったからだ。


だけど、どんな言葉で説明しても、傷つけずに済ませることなど出来ないのだ。





「ちょうど美穂先生が偶然散歩に来ていてさ、一緒に遊んでくれて助かったよ。俺一人じゃもてあましていたな。ハハハッ」


うまく話をそらせてくれたのは良かったけれど、ついた嘘はあまりに見え透いている。


………そっちのほうがずっと嘘つきじゃない。


三段のお重箱を持ってお散歩に来たってわけ?


美穂先生はさっきからうつむいたままだ。


頰にかかったセミロングの髪がゆらゆらと風になびいていた。


潤一はすでに再婚していて、最近子供が生まれたばかりだと言うことは知らないのだろう。


それだけは美穂先生にきちんと知らせてあげなければいけない。



「あの、美穂先生、ちょっと、、」


呼ばれて美穂先生は視線をそらせたまま顔をあげた。



「悠李、ママは美穂先生と大事なお話があるから、ちょっとここで待っててね」




美穂先生と少し離れたベンチのある木陰へ向かった。




快晴の空がまぶしかった。


ポカポカと気持ちの良い日曜日。こんな日に親子でピクニックができたら、どんなに幸せだっただろう。


離婚して初めて悠李はこんな形でピクニックを経験することになったんだ。


美穂先生と歩きながら、潤一との寂しかった結婚生活を振り返り、感傷的な気持ちになる。



木陰のベンチに落ちていた枯葉をそっと払って、どちらともなく無言でベンチに腰をおろした。


「あの、誤解しないでください。悠くんのパパは初めての面会だから、失敗して嫌われたくないって、、それで今回だけでいいから助けて欲しいと言われまして、」


動揺したようすで弁解する美穂先生の話に、嘘はないと思った。



いかにも潤一の言いそうなことだ。


きっかけさえつかんで親しくなれば、その後は簡単に誘い込めるのだ。



「別に美穂先生を咎めるつもりはないんですよ。私にはもう、そんな資格もありませんし。でも松田はもう再婚しています。研修中に浮気をしてアメリカ人女性との間に子供が出来たんです。先月男の子が産まれてるわ。あと何日かしたら二人を日本に呼び寄せるつもりよ。美穂先生はそのこと知らないのではないかと思って」


美穂先生は特にショックを受けたようすもなく、うつむいて聞いていた。


「………私は悠李くんのパパに手伝って欲しいと言われただけです。おつき合いを申し込まれたわけじゃないですから」


「それがあの人の手口なんです。本当に女癖がわるくて、、美穂先生がだまされるのはお気の毒ですから」


美穂先生は本当に潤一を助けたいためだけにやって来たのだろうか?


あんなに手の込んだお弁当まで作って。



「………こんなこと言ったら呆れられるかもしれないんですけど、私は誘われて嬉しかったんです。毎日、アパートと職場の往復で、仕事にも行き詰まりを感じてましたし、今日はとってもいい気晴らしになりました」


美穂先生はなんのショックも受けてないのか、サバサバしたようすで語った。


「あの人はとっても飽きっぽい人で、これまで何人も女の人を泣かせているんです。そのことだけは知っていてもらいたくて」


「それは………なんとなくわかります。とても強引だし、誘い慣れてるから。松田さんはそのことを知らずに好きになられたんですか? 結婚されてから浮気症だってことに気づかれたんですか?」


美穂先生の思わぬ質問に言葉がつまる。


「………詳しいことまでは言えませんけど、、とにかくそういう人だってことは頭に入れておいてください」


なにも言えなくなってベンチを立った。



ーーすでに手遅れだったかも知れない。



だけど、私が出来ることはここまでだ。



あとは美穂先生が自分で決めること。






「悠李!  もう行くよ。美穂先生、お休みなのに遊んでくださってありがとうございました。さようなら」



潤一には目もくれず、悠李の手を握って二人から離れた。


「パパ、バイバイ、また遊んでね!  美穂先生、さようなら」


悠李は未練がましく、潤一を振り返っては手を振った。



「おう、悠李、またな!  元気でやれよ」


「悠ちゃん、また明日ね」


美穂先生も優しく微笑んで手を振った。



二人を残して立ち去るということに、離婚したという現実を突きつけられた気がした。



あんな人だったけれど、私は本当に潤一さんを愛していた。



あんな目にあわされても憎めないほどに。



ーーさようなら、潤一さん。



今度こそ、本当に。



思わず涙があふれ、悠李に気づかれないようにそっとぬぐった。







あの二人はこれからどうするのだろう。


美穂先生も昔の私と同じような気持ちで潤一を愛するのだろうか。


おしゃれには興味がない潤一だった。


だけど今日は、カルバンクラインのグレーのシャツに、黒のパンツを合わせて、以前よりずっとステキに見えた。


ジェニファーが選んだのだろうか。


美穂先生のワンピース姿を見たのも初めてだ。


モスグリーンのふんわりとしたワンピースは、華奢な美穂先生にとても似合っていた。


あんなに可愛らしいのに。


潤一なんかと付き合わなくたっていいのに。




ーーもう、やめよう。


あの二人のことを考えるのは。



今日はこれから佐野さんが来てくれるのだ。



佐野さんとの未来を考えよう。



こんな私を愛して、今までずっと待っていてくれた人のことを。








「はじめまして、佐野です。今日はお招きいただいて、ありがとうございます」


玄関に出迎えた母に、佐野さんが緊張した面持ちで挨拶をした。


「はじめまして。本当に悠ちゃんにそっくりなのね、驚いたわ。さぁ、どうぞ、お入りになって」


佐野さんには早く来てもらって、子供たちに慣れてもらいたかったけれど、初めての日に長居するのは気がすすまない言うので、夕食時に来てもらうことになった。



第一印象は良かったらしい。


母の態度ががいつになくご機嫌で、優しく感じられた。



そりゃあ、そうでしょうとも。



佐野さんを見てイヤな気分になる女性は、ほぼいないと思う。





リビングに入ると、隣の和室の座卓で公文の問題を解いていた悠李と、猫のぬいぐるみに話しかけていた雪花も顔をあげた。



「あー  宅配のおじちゃんだ!」


悠李が目を丸くして叫んだ。


「こんばんは。久しぶりだね、元気だった?」


きょとんとした悠李とやぶにらみの雪花に、佐野さんは少し困惑したようすで言葉をかけた。


「おじちゃん、どうしたの?  うちに遊びに来たの? お客様って、おじちゃんのことだったの?」


悠李が笑顔で佐野さんのそばにやって来た。


「うん、そうだな。悠李と雪花ちゃんともっと仲良くなりたいと思ってね」



「ふーん、いいよ。今ね、公文のお勉強をしてたの。終わったら一緒に遊ぼう」


「勉強かぁ、悠李は凄いんだな。雪花ちゃんもずいぶん見ない間に大きくなったんだね」


ひざを屈めて佐野さんは、隣に立っていた雪花にも話しかけた。



ジッと佐野さんを見つめていた雪花は、無愛想に拒絶するのだとばかり思っていたけど、意外にも表情を和らげて返事をした。


「この子ね、ルルちゃんって言うの。あとで貸してあげる」


めずらしく微笑んで、抱っこしていた猫のぬいぐるみを見せた。


やっぱり遼くんは子供からお年寄りまで、女性のハートを虜にするなにかを持っているのかも知れない。


「ありがとう、嬉しいな。雪花ちゃんは優しいんだな」


ソファで足を組んで座っていた父が、素知らぬふりをして、今朝読んでいた新聞をまた広げていた。



「あ、あの、こんばんは。佐野遼介です。はじめまして」



佐野さんの挨拶に、父はゆっくりと新聞をおろした。



「君とは以前、会ったことがあるな」


「はい、五年ほど前、彩矢さんを家まで送って来たときにお会いしています」


「そうだな、覚えてるよ。そうか、そうだった」


父は過去の記憶を手繰り寄せるように、視線を宙に浮かせた。



「さぁ、お食事にしましょう。お腹が空いたでしょう。悠ちゃんも雪ちゃんも座ってちょうだい」


母がテーブルにご馳走を並べながら、みんなを呼んだ。


出前のお寿司と、母が作ったエビフライやローストビーフ、スモークサーモンなどの定番オードブル。


簡単だと母が言うので、私は初めて茶碗蒸しに挑戦した。


母があれやこれやと注意深く助言してくれたので、特に失敗もなく、なかなか美味しい仕上がりになっていると思う。



それぞれのコップにビールやジュースなどを注ぎ、皆で乾杯をした。


「なんだかクリスマスみたいだね」


グレープ味のウェルチを飲みながら悠李が言った。


「サンタさんくる?」


雪花の質問にみんなが笑った。


「サンタさんはまだよ。でも、あと二ヶ月だからもうすぐね」


子供たちの何気ない会話というのは、なんて気高く美しいものだろう。



そう思っていたけれど………



「悠李と雪花ちゃんはサンタさんになにをお願いするつもりだい?」


お寿司を食べていた佐野さんが、悠李と雪花を交互に見つめて聞いた。



「うーんとね、悠李はね、パパがいい!  パパに早く帰って来てほしい! 」



「ゆ、悠李!!」


平和だった食卓で悠李が突然地雷を踏んだ。


「今日はね、パパとドローンを飛ばしたんだよ。それからサッカーもした。それでバイバイしてきたの。また今度会おうねって。ママ、今度っていつ? りこんってなあに?」



寂しげに悠李は私に目を向けた。



潤一が突然帰って来たことと、悠李を白石の実家に連れて行ったことは、昨夜佐野さんに話してはあったけれど。


重苦しい空気をはねのけるかのように、母が佐野さんに茶碗蒸しを勧めた。


「佐野さん、冷めないうちに茶碗蒸しを食べてちょうだい。彩矢がね、初めて作ったのよ」



「は、はい、、茶碗蒸しは大好きです」



佐野さんは早速フタを取って、スプーンですくって一口食べた。



「うん、すごく美味しい。ずいぶん腕をあげたんだね。茶碗蒸しが作れるくらいなら、もうなんでも作れるんだろう?」


「そんなことないわ。実はほとんど母がやってくれたようなものなの」


こんなのは自分一人じゃまだ作れそうにない。


「ハハハッ、彩矢ちゃんは相変わらず正直なんだな。でも、これ本当に美味しいな。また今度作ってくれよ」


「いいわよ。もっと定番のメニューを増やさないといけないの。レパートリーがなさ過ぎて悲しいわ」


茶碗蒸しのおかげか、澱んでいた重苦しい空気が少し晴れた、、と思ったのも、つかの間、


「美穂先生のお弁当も美味しかったよ。悠李、お昼にエビフライ二個も食べた」



「美穂先生って?  保育園の美穂先生のこと?」


母が訝しげな顔で私を見つめた。



再びダイニングはシーンとした空気に包まれた。


「どういうこと?  どうして悠ちゃん、美穂先生とお弁当を食べてたの?」


私が無言だったので、母は悠李に聞いた。


「美穂先生、お散歩に来ていたんだよ」


悠李の返事に母が納得できるわけなかった。



「お散歩するのにお弁当を持って来たの?」


「お願い、その話はあとでしましょう!  悠李もママが作った茶碗蒸し食べてごらん。私も食べてみようっと。茶碗蒸しって、味見ができないから不安だったの。遼くん、本当に美味しかった?」


「うん、美味しいよ。このローストビーフも手作りなんですか?  お母さん、お料理が上手なんですね」


「あら、ありがとう!  佐野さんに褒められたら、なんだか天にも登るような気分だわ。うふふっ」


母が珍しく冗談を言って笑ったけれど、父は不快な顔をした。


「いい年をしてなにを浮かれているんだ、みっともない」


「あら、いやね、もしかして妬いてるの?  お父さんったら可愛いわね。クスクスッ」



父と母のバカバカしいやりとりで、なんとかなごやかさを取り戻したけれど。



悠李の爆弾発言で、ご馳走を味あう余裕もなかった。


食事を終え、リビングで両親を交えて今後のことなども少し相談をした。



両家の顔合わせのことや、身内だけの簡単な挙式のことまで、母がお節介にアレコレと話を進めていたけれど、自分のこととは思えないほど夢心地な気分だった。


今までずいぶん両親には親不孝をしてきたのだから、母の要望はできるだけ叶えてあげたい。


悠李はもちろんのこと、雪花はすっかり佐野さんが気に入ったようだ。


ソファに座っている佐野さんのところへ頻繁にやって来ては、お気に入りのオモチャを見せ、つたない言葉で説明をしていた。


話し合いのあと、和室でしばらく子供たちとハリガリという早押しゲームなどをして遊んだ。


子供たちが、こんなに早く懐いてくれるとは思ってなかった。


父も母も誰もが笑顔で、幸福に満ちた時間だった。



これからは私たち、本当に幸せな家庭を築けるわね。







夜の九時半も過ぎて、雪花は眠くなったのかとろんとした目つきで欠伸をした。


「雪花、もうネンネの時間だね」


「そうか、もう、こんな時間だったんだな。そろそろ帰らないと」


佐野さんが時計を見て、慌てて立ち上がった。


「すみません、じゃあ、今日はこれで。本当にごちそうさまでした」


リビングのソファに座っていた両親に挨拶をした。


雪花以上に佐野さんが気に入ったようすの母が、立ちあがって微笑んだ。



「もう家族のようなものですもの、いつでも気軽に来てちょうだいね。泊まっていってもいいのよ」


珍しく父も見送りに玄関まで足を運んでくれた。




「お邪魔しました。すっかり長居をしてしまって。悠李と雪花ちゃんも眠かっただろう。じゃあ、またな!」



「おじちゃん、バイバイ」



悠李は手をふり、雪花は眠い目をこすって私に抱っこをせがんだ。


皆に見送られ、玄関のドアを開けると家の前で車が停まる音が聞こえた。



今頃、誰かしら?



車のドアがバタンと閉まる音が聞こえて、現れたのは、潤一さんだった。



「あっ、パパだぁ!!  パパ、帰って来た!」



悠李の歓喜の声に、大人たちは凍りついた。



嘘でしょう。



どうして?



一体、何をしに来たの?




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