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その言葉、信じてもいいですか?
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*美穂*
明後日の仮免を控えて臨んだ今日の講習は、縦列駐車もすんなりと決まって、ホッと胸をなでおろす。
今日の教官は中田さんではなく、五十代後半に見える藤井さん。
厳しいけれど、的確なアドバイスがわかりやすく、落ち着いて運転ができた。
父親ほども年の離れた藤井さんなら、無言の時間も気にならず、とてもリラックスできる。
やはり、わたしに歳の近い人は向いてないのかも知れない。
「慌てることはないから今日みたいに落ち着いてやれば大丈夫」
微笑んで励ましてくださった藤井教官の目尻の小皺に優しさを感じた。
「ありがとうございました。明後日の仮免、頑張ります」
頭頂部が薄くなっている藤井教官にお礼を言って教習車から降りた。
喉が渇いたのでお茶でも飲もうと自販機の前に行くと、先にいた若い男の子が缶コーヒーのボタンを連打していた。
「あれ? あ、、ヤバッ、マジか」
お気の毒にPASMOの残高が足りないよう。
後ろで待っていたわたしに気づいて、慌てて退いた。
「あ、すみません。どうぞ」
「……は、はい」
なんとなく気の毒に思えて、自分のための緑茶と、彼が連打していた缶コーヒーもついでに買った。
彼はこれから講習を受けるのだろう。ロビーの椅子に腰かけて、スマホを見ていた。
「あ、あの、、よかったらこれどうぞ」
突然話しかけ、缶コーヒーを差し出したわたしにかなり驚いたようだ。
「えっ、、いいんですか?」
無地の白Tシャツに黒のジャケット。
服装も髪型も飾り気のない地味な男の子だ。
今はこんなシンプルさがオシャレに見えなくもないけれど。
「差し出がましいみたいで、ごめんなさい」
「いえ、のど乾いてたので助かります。今朝お金を下ろしてくる時間がなくて。今度会ったとき、カネ返します」
「そんな、120円くらいなものですから気になさらないで」
こんなに気を遣われるとは思わなかった。
「今度来られる日はいつですか? お名前聞いてもいいですか?」
「いえ、本当に大丈夫ですから。大袈裟に取られると、余計なことした気になってしまうので……」
「あ、、じゃあ、遠慮なく。ありがとうございました」
まだなにか言いたげな彼に軽く頭を下げ、教習所を出た。
家の近くまで運転してくれる教習所の送迎バスに乗り込み、ペットボトルのお茶を飲む。
さっきの男の子、大学生だろうか?
ずいぶん律儀な青年。
とても澄んだ目をしていた。
こんな小さな事でも、人の役に立てたことが嬉しかった。
マンションに帰り、洗濯機の中から乾いた洗濯物を出してたたむ。
ドラム式洗濯機は干したり取り込んだりする手間がなくて、なんで楽チンなんだろう。
お天気に左右されることもない。
バスタオルなんかはとってもふんわり柔らかに乾く。
だけど、潤一さんの下着を畳んでいる自分がなんとなく不憫に思えた。
もし結婚していたら、これが夫の衣類だったら、パンツでも靴下でも畳むことに幸せを感じられただろうか。
将来どんな人がこの人のパンツを畳むのだろう。
まだ午後三時なので、晩ご飯の準備をするには早い。
お掃除は教習所へ行く前に済ませておいたので、他にすることがなかった。
随分とラクな家事代行サービス。
この家にはドラム式洗濯機の他に、キッチンには食洗機が付いていて、お掃除ロボのルンバまである。
家事代行サービスなど必要ないと思うのに…。
何もせずにいると不安で仕方がない。
来月介護士の資格試験に合格できたら、すぐに仕事を探そう。
失業保険などもらわなくていい。
さっさと働きたい。
いつもより少し遅く潤一さんが帰宅する。
皿に盛り付けた金目鯛の煮付けをレンジに入れると、ジャケットを脱ぎながら潤一さんが言った。
「あ、美穂、晩飯すませてきたんだ。悪いな。明日の朝食べるから」
「わかりました。おつまみなんかはどうしますか? 」
「ビールだけでいいよ。少し絞らないと腹が出てきてヤバいからな。それより美穂にちょっと話しがあるんだ。コップふたつ持って来いよ。一緒に飲もう」
え、話って、、なに?
家事代行サービスは要らないってこと?
もう、新しい恋人が出来たの?
ゴミ屋敷じゃなくなった今、わたしはすでに用済みなのかも知れない。
ふたつのグラスと缶ビールを持って、潤一さんが座っているソファに腰を下ろした。
ビールのプルタブを引き、ふたつのグラスに注ぐ。
「おまえ、晩飯はまだなんだろう? 俺が遅いときは先に食っててくれよな。定時に帰れないことのほうが多いから。気にしないで先に済ませておいてくれ」
「わかりました。それで? 話って、、なんですか?」
ーー今はまだ聞きたくない。
まだお別れする心の準備ができてない。
震える手でグラスを持ち、泡に口をつけた。
「ちょっと、、頼みがあるんだ」
いつもなら遠慮なくズケズケものを言う人が躊躇している。
やはり、早く別れて欲しいということなのか?
「な、なんでしょう?」
「図々しいんだけどな。嫌なら断ってくれていい」
「はぁ……」
「実は今日、お袋が急性胆嚢炎で入院したんだ」
「えっ! お母様が? 大丈夫なんですか?」
「入院して治療しているから大丈夫だ。そのうち胆石をとる手術をするかも知れないけど、腹腔内手術だから、さほど危険なこともないだろう。ただ、俺は忙しくて行ってやれないんだ。悪いけど必要な物なんかを持って行ってくれないかな?」
なんだ、そんなことだったのね。
家族にとっては重大なことに違いないけれど、正直ホッとした。
「それは心配ですね。わたしで出来ることなら、なんでもして差し上げますけど………」
「そうか、助かるな。下着を数枚と病衣の上に着るガウンみたいなのが欲しいそうなんだ。あとタオルとスリッパもだったかな? 絶食中だから食べ物はいらない」
「そんな事でしたか。頼みにくいとおっしゃるので、どんなことかと心配しました」
別れ話じゃなくてよかった。
「さすがに身内の世話まで頼むってのはな。俺は忙しくて行ってる暇はないし、女物の下着を買うってのもカッコ悪いだろ? はぁ、助かったな、美穂がいてくれて」
潤一さんは肩の荷を降ろしたかのようにリラックスして、ビールを飲みはじめた。
「わたしが行ってもおかしく思われないでしょうか?
面識のないお母様と会うことに少し不安を覚えた。
「俺が利用している家事代行サービスを頼んだって、お袋には伝えておくよ」
「はい、、わかりました」
……彼女ではなく、家事代行サービス。
頭ではわかっていても、ハッキリそう言われてひどく傷ついた。
いつも人から軽く扱われ、低く見られていた。
わたしの一体なにがそうさせるのだろう。
それは小学生の頃からずっとそうだった。
見た目も成績も性格さえも良くない、皆から鬱陶しく思われていたような子でさえ、わたしを軽く扱った。
なぜそうなってしまうのか、わたしには分からなかった。
大人しくて自己主張がなさ過ぎるから?
でも大人しかったのはわたしだけじゃない。春奈ちゃんも結衣ちゃんも静かで控えめな子だった。
だけど、あの二人は誰からも蔑まれたり、軽く扱われたりしていなかったように思う。
一体、わたしはみんなと何が違うの?
潤一さんがお風呂からあがったので、わたしも続いてバスルームへ向かう。
シャンプーだけは朝するようにしている。潤一さんは待つのが嫌いな人だから。
浴槽に浸かりながら両腕を背中にまわし、自分の身体を抱きしめた。
大好きな人と暮らせているのに………。
これから大好きな人に抱かれるのに、
こんなに寂しいのはなぜ?
わたしを抱くことも、家事代行サービスですか?
ゆずの香りがするライトグリーンの湯船に、涙がポタリと落ちた。
幸せなことは長く続かない。
マイナス思考は幼少の頃から身についた癖のようなもの。
それはわたしにとって失望に対する予防策だ。初めから期待などしなければ失望を味あうこともない。
世の中とは所詮そんなところで、不幸には慣れっこだった。
潤一さんと出会い、今まで感じたことのない痺れるような幸福感に酔いしれた。
味わってはいけなかった禁断の蜜の味。
麻薬患者のように、潤一さんなしでは生きていかれなくなった。
義父との関係がバレて潤一さんに見捨てられ、半狂乱のようになった。
そして、……あんな誘拐事件を起こした。
何故あのまま放っておいてくれなかったの?
もう少しで忘れられそうだったのに……。
お風呂から上がり寝室に入ると、潤一さんはデスクトップのパソコンに向かって仕事をしていた。
わたしがいると邪魔かな?
少し迷ってから寝室を出て、キッチンへ向った。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぐ。
冷たい水をゴクゴク飲んでいると、「美穂、何してんだよ! 早く来いよ」と、苛立ったような潤一さんの声がした。
「はーい!」
慌てて寝室に戻ると、潤一さんはパソコンをシャットダウンさせていた。
自分の時間は1分でも無駄にしたくない気の短さ。
ベッドに横たわっていたわたしを見下ろすと、つまらなそうに口を尖らせた。
「美穂! おまえはいつまでそんなくたびれたパジャマを着てるんだよ!」
と、いきなり怒鳴られた。
「え? これではダメですか?」
二年前、半額セールで買ったもので、確かに少しくたびれてはいるけれど、まだまだ着れると思っていた。
こんなことで文句を言われるなんて。
「色気も素っ気もないだろ! 金がたりないのか ⁉︎ 服もパジャマも買えないのか ⁉︎」
「あ、い、いえ。お金は十分ですが、まだ着られると思って……」
「あと何年着るつもりだ ⁉︎ もっと可愛らしいものがたくさん売ってるだろ。俺は貧乏くさい女は嫌いだ!」
「…す、すみません」
ーー貧乏くさい女。
そんなこと、わかってる。
わたしがドクターなんかと付き合っていること自体がおかしい。
もっと分相応の人と付き合うべきなんだ。
あまりに惨めで情けなくて涙が込み上げた。
「なに泣いてんだよ。美穂は美人なんだから、そんなくたびれたものは似合わないって言ってるんだぞ。俺のオンナにはいつも綺麗でいていてもらいたいんだよ。わかるだろう?」
優しく見つめられ、その言葉をどう受け取っていいのか分からなくなる。
ーー俺のオンナ。
その言葉に少し慰めを感じた。
潤一さんの手がパジャマのボタンを上から一つづつはずしていく。
「男には脱がせる楽しみだってあるんだからな。もっと可愛いのを着ろよ。美穂に似合うのは赤かな? 色白だから黒のレースとかも色っぽいかもしれないな?」
パジャマを脱がされ、唇を強く吸われる。
潤一さんの速い息遣いにわたしの気持ちも高まる。
「おまえ本当にいい身体してるよな。すごく可愛いよ、美穂」
うっとりするような囁きと激しい愛撫に、身体の芯から熱くなって溶けてしまいそう。
潤一さんがふれる全ての部分が敏感に反応して声がもれる。
ーー俺のオンナ。
その言葉、本当に信じてもいいですか?
いま幸せならそれでいい。
それで十分だわ。
だってわたしは今、こんなに愛されてるんだもの。
明後日の仮免を控えて臨んだ今日の講習は、縦列駐車もすんなりと決まって、ホッと胸をなでおろす。
今日の教官は中田さんではなく、五十代後半に見える藤井さん。
厳しいけれど、的確なアドバイスがわかりやすく、落ち着いて運転ができた。
父親ほども年の離れた藤井さんなら、無言の時間も気にならず、とてもリラックスできる。
やはり、わたしに歳の近い人は向いてないのかも知れない。
「慌てることはないから今日みたいに落ち着いてやれば大丈夫」
微笑んで励ましてくださった藤井教官の目尻の小皺に優しさを感じた。
「ありがとうございました。明後日の仮免、頑張ります」
頭頂部が薄くなっている藤井教官にお礼を言って教習車から降りた。
喉が渇いたのでお茶でも飲もうと自販機の前に行くと、先にいた若い男の子が缶コーヒーのボタンを連打していた。
「あれ? あ、、ヤバッ、マジか」
お気の毒にPASMOの残高が足りないよう。
後ろで待っていたわたしに気づいて、慌てて退いた。
「あ、すみません。どうぞ」
「……は、はい」
なんとなく気の毒に思えて、自分のための緑茶と、彼が連打していた缶コーヒーもついでに買った。
彼はこれから講習を受けるのだろう。ロビーの椅子に腰かけて、スマホを見ていた。
「あ、あの、、よかったらこれどうぞ」
突然話しかけ、缶コーヒーを差し出したわたしにかなり驚いたようだ。
「えっ、、いいんですか?」
無地の白Tシャツに黒のジャケット。
服装も髪型も飾り気のない地味な男の子だ。
今はこんなシンプルさがオシャレに見えなくもないけれど。
「差し出がましいみたいで、ごめんなさい」
「いえ、のど乾いてたので助かります。今朝お金を下ろしてくる時間がなくて。今度会ったとき、カネ返します」
「そんな、120円くらいなものですから気になさらないで」
こんなに気を遣われるとは思わなかった。
「今度来られる日はいつですか? お名前聞いてもいいですか?」
「いえ、本当に大丈夫ですから。大袈裟に取られると、余計なことした気になってしまうので……」
「あ、、じゃあ、遠慮なく。ありがとうございました」
まだなにか言いたげな彼に軽く頭を下げ、教習所を出た。
家の近くまで運転してくれる教習所の送迎バスに乗り込み、ペットボトルのお茶を飲む。
さっきの男の子、大学生だろうか?
ずいぶん律儀な青年。
とても澄んだ目をしていた。
こんな小さな事でも、人の役に立てたことが嬉しかった。
マンションに帰り、洗濯機の中から乾いた洗濯物を出してたたむ。
ドラム式洗濯機は干したり取り込んだりする手間がなくて、なんで楽チンなんだろう。
お天気に左右されることもない。
バスタオルなんかはとってもふんわり柔らかに乾く。
だけど、潤一さんの下着を畳んでいる自分がなんとなく不憫に思えた。
もし結婚していたら、これが夫の衣類だったら、パンツでも靴下でも畳むことに幸せを感じられただろうか。
将来どんな人がこの人のパンツを畳むのだろう。
まだ午後三時なので、晩ご飯の準備をするには早い。
お掃除は教習所へ行く前に済ませておいたので、他にすることがなかった。
随分とラクな家事代行サービス。
この家にはドラム式洗濯機の他に、キッチンには食洗機が付いていて、お掃除ロボのルンバまである。
家事代行サービスなど必要ないと思うのに…。
何もせずにいると不安で仕方がない。
来月介護士の資格試験に合格できたら、すぐに仕事を探そう。
失業保険などもらわなくていい。
さっさと働きたい。
いつもより少し遅く潤一さんが帰宅する。
皿に盛り付けた金目鯛の煮付けをレンジに入れると、ジャケットを脱ぎながら潤一さんが言った。
「あ、美穂、晩飯すませてきたんだ。悪いな。明日の朝食べるから」
「わかりました。おつまみなんかはどうしますか? 」
「ビールだけでいいよ。少し絞らないと腹が出てきてヤバいからな。それより美穂にちょっと話しがあるんだ。コップふたつ持って来いよ。一緒に飲もう」
え、話って、、なに?
家事代行サービスは要らないってこと?
もう、新しい恋人が出来たの?
ゴミ屋敷じゃなくなった今、わたしはすでに用済みなのかも知れない。
ふたつのグラスと缶ビールを持って、潤一さんが座っているソファに腰を下ろした。
ビールのプルタブを引き、ふたつのグラスに注ぐ。
「おまえ、晩飯はまだなんだろう? 俺が遅いときは先に食っててくれよな。定時に帰れないことのほうが多いから。気にしないで先に済ませておいてくれ」
「わかりました。それで? 話って、、なんですか?」
ーー今はまだ聞きたくない。
まだお別れする心の準備ができてない。
震える手でグラスを持ち、泡に口をつけた。
「ちょっと、、頼みがあるんだ」
いつもなら遠慮なくズケズケものを言う人が躊躇している。
やはり、早く別れて欲しいということなのか?
「な、なんでしょう?」
「図々しいんだけどな。嫌なら断ってくれていい」
「はぁ……」
「実は今日、お袋が急性胆嚢炎で入院したんだ」
「えっ! お母様が? 大丈夫なんですか?」
「入院して治療しているから大丈夫だ。そのうち胆石をとる手術をするかも知れないけど、腹腔内手術だから、さほど危険なこともないだろう。ただ、俺は忙しくて行ってやれないんだ。悪いけど必要な物なんかを持って行ってくれないかな?」
なんだ、そんなことだったのね。
家族にとっては重大なことに違いないけれど、正直ホッとした。
「それは心配ですね。わたしで出来ることなら、なんでもして差し上げますけど………」
「そうか、助かるな。下着を数枚と病衣の上に着るガウンみたいなのが欲しいそうなんだ。あとタオルとスリッパもだったかな? 絶食中だから食べ物はいらない」
「そんな事でしたか。頼みにくいとおっしゃるので、どんなことかと心配しました」
別れ話じゃなくてよかった。
「さすがに身内の世話まで頼むってのはな。俺は忙しくて行ってる暇はないし、女物の下着を買うってのもカッコ悪いだろ? はぁ、助かったな、美穂がいてくれて」
潤一さんは肩の荷を降ろしたかのようにリラックスして、ビールを飲みはじめた。
「わたしが行ってもおかしく思われないでしょうか?
面識のないお母様と会うことに少し不安を覚えた。
「俺が利用している家事代行サービスを頼んだって、お袋には伝えておくよ」
「はい、、わかりました」
……彼女ではなく、家事代行サービス。
頭ではわかっていても、ハッキリそう言われてひどく傷ついた。
いつも人から軽く扱われ、低く見られていた。
わたしの一体なにがそうさせるのだろう。
それは小学生の頃からずっとそうだった。
見た目も成績も性格さえも良くない、皆から鬱陶しく思われていたような子でさえ、わたしを軽く扱った。
なぜそうなってしまうのか、わたしには分からなかった。
大人しくて自己主張がなさ過ぎるから?
でも大人しかったのはわたしだけじゃない。春奈ちゃんも結衣ちゃんも静かで控えめな子だった。
だけど、あの二人は誰からも蔑まれたり、軽く扱われたりしていなかったように思う。
一体、わたしはみんなと何が違うの?
潤一さんがお風呂からあがったので、わたしも続いてバスルームへ向かう。
シャンプーだけは朝するようにしている。潤一さんは待つのが嫌いな人だから。
浴槽に浸かりながら両腕を背中にまわし、自分の身体を抱きしめた。
大好きな人と暮らせているのに………。
これから大好きな人に抱かれるのに、
こんなに寂しいのはなぜ?
わたしを抱くことも、家事代行サービスですか?
ゆずの香りがするライトグリーンの湯船に、涙がポタリと落ちた。
幸せなことは長く続かない。
マイナス思考は幼少の頃から身についた癖のようなもの。
それはわたしにとって失望に対する予防策だ。初めから期待などしなければ失望を味あうこともない。
世の中とは所詮そんなところで、不幸には慣れっこだった。
潤一さんと出会い、今まで感じたことのない痺れるような幸福感に酔いしれた。
味わってはいけなかった禁断の蜜の味。
麻薬患者のように、潤一さんなしでは生きていかれなくなった。
義父との関係がバレて潤一さんに見捨てられ、半狂乱のようになった。
そして、……あんな誘拐事件を起こした。
何故あのまま放っておいてくれなかったの?
もう少しで忘れられそうだったのに……。
お風呂から上がり寝室に入ると、潤一さんはデスクトップのパソコンに向かって仕事をしていた。
わたしがいると邪魔かな?
少し迷ってから寝室を出て、キッチンへ向った。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぐ。
冷たい水をゴクゴク飲んでいると、「美穂、何してんだよ! 早く来いよ」と、苛立ったような潤一さんの声がした。
「はーい!」
慌てて寝室に戻ると、潤一さんはパソコンをシャットダウンさせていた。
自分の時間は1分でも無駄にしたくない気の短さ。
ベッドに横たわっていたわたしを見下ろすと、つまらなそうに口を尖らせた。
「美穂! おまえはいつまでそんなくたびれたパジャマを着てるんだよ!」
と、いきなり怒鳴られた。
「え? これではダメですか?」
二年前、半額セールで買ったもので、確かに少しくたびれてはいるけれど、まだまだ着れると思っていた。
こんなことで文句を言われるなんて。
「色気も素っ気もないだろ! 金がたりないのか ⁉︎ 服もパジャマも買えないのか ⁉︎」
「あ、い、いえ。お金は十分ですが、まだ着られると思って……」
「あと何年着るつもりだ ⁉︎ もっと可愛らしいものがたくさん売ってるだろ。俺は貧乏くさい女は嫌いだ!」
「…す、すみません」
ーー貧乏くさい女。
そんなこと、わかってる。
わたしがドクターなんかと付き合っていること自体がおかしい。
もっと分相応の人と付き合うべきなんだ。
あまりに惨めで情けなくて涙が込み上げた。
「なに泣いてんだよ。美穂は美人なんだから、そんなくたびれたものは似合わないって言ってるんだぞ。俺のオンナにはいつも綺麗でいていてもらいたいんだよ。わかるだろう?」
優しく見つめられ、その言葉をどう受け取っていいのか分からなくなる。
ーー俺のオンナ。
その言葉に少し慰めを感じた。
潤一さんの手がパジャマのボタンを上から一つづつはずしていく。
「男には脱がせる楽しみだってあるんだからな。もっと可愛いのを着ろよ。美穂に似合うのは赤かな? 色白だから黒のレースとかも色っぽいかもしれないな?」
パジャマを脱がされ、唇を強く吸われる。
潤一さんの速い息遣いにわたしの気持ちも高まる。
「おまえ本当にいい身体してるよな。すごく可愛いよ、美穂」
うっとりするような囁きと激しい愛撫に、身体の芯から熱くなって溶けてしまいそう。
潤一さんがふれる全ての部分が敏感に反応して声がもれる。
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その言葉、本当に信じてもいいですか?
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だってわたしは今、こんなに愛されてるんだもの。
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