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哀しい後遺症
しおりを挟む*有紀*
このアパートへ引っ越して、早くも二ヶ月が過ぎた。
遼介も一人暮らしにもう馴れただろうか。あんなに離婚に反対するとは思わなかった。
もう、すっかり冷めていたのではなかったの?
潔癖な遼介が、私と谷さんの関係を許せなかった気持ちはよくわかっていた。
なのに谷さんの車で事故を起こすなんて……。
夫の立場からすれば、こんなに屈辱的なことはなかったのだろう。
だけど、あの時はそこまで理解してあげられなかった。
谷さんをあんな目に遭わせてしまい、麗奈さんには顔むけ出来ないことをしてしまった。
そのことがあまりに恐ろしくて、遼介を思いやる余裕なんてなかった。
ただ遼介に助けてもらいたかった。遼介だけを頼っていた。なのに少しもそうしてくれない遼介が許せなくて、もう私にはなんの愛もないのだと感じた。
だからもう、彩矢と子どもに返してあげる。彩矢と再婚して幸せになればいいって。
今、どうしてる?
ちゃんと食べている?
心配したところで、何かしてあげられるわけでもない。
いつか、うんと歳をとったら会えるだろうか? 遼介に。
短い間だったけど、私たち幸せだったよねって。
いつかそんな風に言える日が来ればいいけれど……。
ひとりぼっちのクリスマスなんて、はじめてだ。
子どもの頃は家族と一緒だったし、大きくなってからは、友達や職場の同僚と過ごしていた。
そして、去年までの三年間は遼介と一緒だった。
幸せだったあの頃を思い出す。
遼介も今頃、ひとりぼっちのクリスマスを過ごしているのかな?
私から離婚を申し出たからといって、なにも傷ついていないなどと思わないで。
悲しくないわけないじゃない。
アパートの住所を教えなかったのは、会えばまた、決心が揺らいでしまうと思ったから。
今だって、逢いたい気持ちはまだある。
未練がないわけじゃないけれど、離婚については、ずっと長いこと悩んでいた。
それがとうとう限界になってしまったということ。急に思いついて決めたわけではない。
離婚のことは時々話していたでしょう。遼介は本気にしていなかったんだね。
この寂しさと苦しみはまだ当分は続くと思うけど、モヤモヤしていた迷いからやっと解放された。
もう決めたのだから、後悔だけはしたくない。
今日の昼休み、食堂で谷さんの良くない噂を耳にする。
先週から谷さんが職場に復帰したことは知っていた。
院内で見かけて挨拶をした時は、特に異常は感じられなかった。
十月半ばに退院をして、約二ヶ月の間、自宅療養していたはずだけど。
同僚の看護師たちは気を遣って、私の前で谷さんの話はしない。
たまたま食堂で、後ろ向きに座って食事をしていた若い薬剤師の女性と事務員は、私の存在に気づかなかったのだと思う。
「本当に頭の中どうなっちゃってるの?って聞きたくなっちゃう。5分前に言ったことを忘れちゃうのよ! 物忘れだけならまだいいけど、患者への説明もまともに出来ないの。あ、あの、その、そうですね、これはええっとって」
ため息をつきながら、薬剤師さんが言う。
「あのインテリの谷さんがねぇ~、ショックだわぁ~」
三十を過ぎた、かなりぽっちゃり目の事務員が、あんかけ焼きそばをすすりながら悲しげに答えた。
「それでね、さっきとうとうブチ切れちゃったの! もうびっくりしちゃって、待合室の患者さんたちは一斉にこっちを見るし、どうなっちゃうのかと思ったわ」
「そりゃそうよね。あの、その、って説明されてもね。まともに薬の説明も出来ないんじゃ、患者だってキレるわよ」
「違うの、キレたのは谷さんの方! 突然怒鳴り散らして、もう八十を過ぎたお婆ちゃんによ」
「ブッ!」
あまりに驚いたのか、事務員の女性はあんかけ焼きそばを吹き出した。
「ええっ! マジで? どうして谷さんの方がキレちゃうわけ?」
「もどかしいのはわかるの。日常の会話でさえ、思い出せない言葉が多くてすぐに詰まっちゃうんだもん。見ていて本当にかわいそうよ。だけど、仕事は無理よぉ。間違えたら大変だもの。いくら、理事の息子だからってさ。でも、誰も言えないくて……」
「それ、ヤバイわ、マジ、ヤバイ!」
私と同じテーブルの同僚ナース達も、聞き耳を立てながら無言でご飯を食べていた。
あまりのショックで食べかけの天ぷらそばが、喉を通らなくなった。
谷さん、やっぱりまだ治ってなかったのね。
一体どうすればいいの……。
午後の仕事をなんとか終えて、憂鬱な気分で一階へ降り、更衣室へ向かった。
やっぱり、谷さんのことが気になり、引き返して恐る恐る薬局の中を覗いてみた。
「有紀ちゃん」
後ろから声をかけられ、驚く。
振り向くと谷さんのお母様だった。
待合室のロビーに女性がひとり座っていたのは見えていたけれど、サングラスをかけていたせいか気づかなかった。
「ご無沙汰しております。あ、あの…………。」
言葉が続かず、口ごもる。
「修二に会いに来てくれたの?」
お母様の顔をまともにみられず、うなだれる。
「今日は麗奈さんは、麗奈さんはお迎えにいらしてないんですか?」
「え、ええ、今日は私が迎えに来たの。まだ、修二に運転をさせるのは心配で」
お母様は知っているのだろうか? 谷さんの働きぶりがどんな状態なのかを。
「あ、あの、実は今日、谷さんの良くない噂を耳にしてしまって……」
加害者の私が言うのは間違っているような気もしたけれど、見過ごしにしていたら、もっと良くないことが起こりそうで、黙っていられなかった。
「よくない噂って、修二が何かした?」
サングラス越しのお母様の目に不安がひろがった。
「お昼休みに食堂で耳にしたんですけど、谷さん、仕事の方が大変みたいです。お薬の説明もうまく出来ないみたいで、今日はイライラして患者さんを怒鳴りつけたそうです」
「……そうなのね、多分そんなことになるとは思ってたの。わかったわ、有紀ちゃん、教えてくれてありがとう。明日からはなんとしても病院は休ませるわ」
ガックリと肩を落としたお母様が、なんだか随分と老け込んで見えた。
「ご実家で療養されていたんですか? 円山のマンションではなくて」
「……修二は今、麗奈さんとは別居中なの」
そう言ってお母様はサングラスをそっと外した。
「…………!!」
お母様の目の縁が赤黒く変色していた。
まさか、、そんな、まさか、谷さんが!
「そ、それって、まさか谷さんが? 修二さんが?」
あまりの衝撃に呆然と立ちすくむ。
「修二すっかり人格が変わってしまって、手がつけられない状態なの。家の中はもうメチャメチャよ。今、麗奈さんはどこかの賃貸マンションを借りて暮らしているわ。もういずれは離婚ね。修二のことをそれはもう恐ろしがっていて、、仕事も無理なことはわかってはいたの。でも、私と主人の力では止められなくて」
憔悴しきったようすで話すお母様に、かける言葉はみつからなかった。
「あれ? 有紀ちゃんじゃないか」
薬局から出て来た谷さんが優しく微笑んだ。
いま聞いた話が全くの嘘のように、穏やかな笑顔を見せて立っていた。
「谷さん、お、お疲れ様でした。今、ロビーでお母様をお見かけしたので、ご挨拶してたの」
「そうか、じゃあ、有紀ちゃんもついでに送って貰えばいいよ」
「い、いえ、大丈夫です。アパートは駅から近いので」
本当は遠いけれど、、、。
「有紀ちゃん、たまには一緒に夕ご飯でもどう?」
お母様から懇願するような目で見つめられ、戸惑う。
「……で、でも、、」
「そうだな、有紀ちゃんがいたら楽しいな。ねぇ、来てよ。たまにはいいだろう?」
私の前では猫を被っているのだろうか?
終始ニコニコしている谷さんからは、とても想像出来ないのだけれど。
この目で確かめてみたい気持ちと、関わりたくない恐怖で心が揺れた。
谷さんを全力でサポートするのではなかったか。
そうだった、逃げてはいけないんだ。
「じゃあ、お邪魔させていただきます」
お母様の運転する白のベンツに乗って、宮の森のご自宅へ向かった。
大理石が敷かれた広い玄関に入ると、バラの花のような高貴な香りに包まれる。
以前、谷さんのおうちを訪問した時と同じこの香りに記憶がタイムスリップし、なつかしさで胸がいっぱいになる。
谷さんの後に続いて、リビングへ通された。
以前とは何かが違って見えた。ひどく殺風景な気がする。
まず、花がない。
いつも窓際やテーブルに胡蝶蘭やアレンジされた生花が飾られていたけれど。
壁にかけられていた絵もない。
著名な画家の描いた風景画は片づけてしまったのだろうか。
東山魁夷という画家の描いた、青い馬の絵を見るのが好きだったのに。
60~70インチもありそうなテレビの画面が破壊されていることに気づき、背筋に冷たいものが流れた。
まるで7つのエラーでも探すかのように、かつてのリビングの記憶との相違が、次第に明らかになる。
ここにはバカラのグラスなどが収められたキャビネットだってあった。
テレビのように絵画もグラスもみんな破壊されてしまったのだろうか。
所々壁がへこんでいることにも気づき、鳥肌が立つ。
お母様がキッチンへ入って、冷蔵庫の扉を開けた。
「お腹すいたでしょう。出かける前に用意していたから、温めるだけなのよ」
「あ、お手伝いします」
夕ご飯は塩味ベースの海鮮ちゃんこ鍋。
食事中、谷さんが暴れ出さないかビクビクしていたけれど、いつもと変わりなく、楽しくお喋りしながら食事がすすんだ。
「わー、お腹いっぱい。こんな美味しいお鍋食べたのって、初めてです」
「私たちも久しぶりよ、こんなに楽しくお食事できたのは。有紀ちゃんに毎日来てもらいたいわ」
そう言ってお母様はうつむき、少し涙ぐんでいるように見えた。
なにかを思い出したかのように、谷さんが急に立ち上がった。
「ごちそうさま。有紀ちゃん、ゆっくりしていって。僕はそろそろ帰るよ。麗奈が待ってるから」
「修二! どこへ行くの?」
お母様が慌てて玄関へ向かった谷さんの後を追いかけた。
谷さんがクローゼットのハンガーにかけられたコートを外した。
「修二、何度も言ったでしょ。あのマンションに麗奈さんはもういないの」
「今日はきっと帰ってきてるよ。僕のこと待ってるはずだから」
コートを羽織った谷さんは玄関でブーツを履いている。
「あ、忘れた。車のキー、車のキー取ってよ」
キーをくれと手を伸ばす谷さん。
「だめよ、修二。あのマンションには今はもう誰も住んでいないの。麗奈さん引っ越してしまったわ。もう何度も行って見てるでしょう!」
さっきまで穏やかだった谷さんの顔つきが、ガラリと変わった。
「じゃあ、麗奈はどこへ行ったんだよ。どこに隠れた? 今すぐに麗奈をここへ連れてきてくれ!」
「麗奈さんは今、体調が良くないの。治ったら必ず会いに来てくれるわよ。お願いだから家でおとなしく待っていて」
「もう十分待ったよ! そんなに具合が悪いなら、今すぐ会いに行かなくちゃいけないだろう。僕は麗奈の夫なんだよ。なぜ会わせてくれないんだ、なぜなんだよっ、うわーっ、うわーっ!!」
谷さんは奇声をあげながら、傘立てから傘を抜き取って振りまわした。
「キャーッ!! 」
お母様は両手で頭をかばいながら、谷さんから離れた。
ガシャーン!!
振りまわした傘が玄関の鏡に当たって砕け散った。
「やめて、修二、お願いだから、やめて!」
「麗奈をここへ連れて来て。麗奈、麗奈はどこだ? 麗奈ーーーっ!!」
ガタガタと震えながら、目の前で繰り広げられている地獄の光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
ーENDー
長いこと稚拙にお付き合いくださり、ありがとうございました。
六華 snow crystal 4 に続きます。
引き続きよろしくお願いいたします。
なごみ
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