彼女は特殊清掃業

犬丸継見

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狸、山を降りて狗に往き逢う事

第九話 伊豫の狸、阿波の狸と往き交うこと

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 私も大学にだいぶん慣れてきて、サークルにこそ入らないものの麻由里とひかりと一緒に学生生活を楽しむようになっていた。もう新緑の季節、「人文学科飲み」なんかも企画されるようになった。同世代同士で飲み会を開き、酔って帰ることも多くなった。まだ18歳だけど、もうみんな年齢確認もスルーして
「これから飲みじゃい!」
 とかSNSに投稿してたりする。流石に私はそんなことしないけど、私も飲み会に参加するようになった。一応、家族には秘密にしている。お父さんもお母さんも、一番おじいちゃんが心配するだろうから。
 だから、私は今日参加する、人生初の「合コン」も家族には一切言っていない。一応私は山口霊神の狸様に仕える狸巫女の立場ではあるけど、逆に言えば私が神社の人だろうが普通の人だろうが旦那さんを取らないと跡継ぎが絶えて山口霊神も絶えてしまう。だから旦那さんは必要……というのは建前で、純粋に彼氏が欲しくなった。周りの女の子たちもサークルとか隣の私立大学とかいろんなつながりで彼氏を作り始めて、私もちょっと遊んでみたくなった。ひかりと麻由里の紹介で、思い切って文学部から正反対に離れた工学部とか理系の男子との合コンが組まれることになり、まあ大体ひかり目当てだろうなという男子たちと合コンすることになった。
 どんな人が来るかは、行ってみてのお楽しみ、とか言われたけどヤバい人に引っかからないといいなあ。前に「特殊清掃」したDVカップルのことを思い出す。あれも学生同士の痴情のもつれだったなあ。少なくとも私は、彼氏がいたことがない。年齢イコール彼氏いない歴。女子の多い高校だったのもあるし、何より親が厳しかったし。家は田舎だったし。夜遊びもできないし、他の学校に彼氏を作ることもできない。つまり、男を見る目も全然ない。変な男をまんまと釣り上げて、家の土地も何もかも失う……なんて怖いこともあり得る、えっちな仕事に売り飛ばされたりしたらどうしよう、なんて怖いことも考えてしまう。けど、服はちゃっかり選んでる。
「うーん、この服が限界かな……これよりいい服持ってない……今更買いに行けないし……」
 私は可愛いビッグカラーブラウスに短めのスカートで姿見の前でターンしてみた。そしてフリルの付いた短い靴下を履いてローファーを履いた。18でも痛くないよね?大丈夫だよね?私小柄だから大丈夫だよね?メイクもいつもより念入りにして、私は伝家の宝刀、卒業祝いに叔母さんに買ってもらったサマンサタバサのバッグを持って家を出ようとした。

 その時、スマホにLINE通話の着信。邪魔しないで欲しい。せっかく生まれて初めての合コンに命賭けてる……は言い過ぎだけど、期待してるのに。
 通話の相手はアコさんだった。夕方のこの時間帯にアコさんからの通話、かなり嫌な予感がする。無視してもいいけど、合コン中ずっと鳴らされたらたまらない。
「もしもし、アコさん?」
「ひな、今夜『特殊清掃』なんだけど来なよ」
 「来ない?」とかの問いかけじゃなく「来なよ」という断言。「答えは聞いてない」という圧。私は一瞬うっと詰まったが、何とか言い逃れしようかと言葉を重ねた。
「……えと、今日はレポートが大変で……」
「そんなもん、いつもみたいに私が代筆してやるよ」
「ちょっと体調悪くて」
「ええ?今朝元気そうだったじゃん」
「今朝会ってないじゃん」
「どうしてわざわざ自分から『今朝会ってない』とかゲロっちゃうの?」
 友達と遊ぶ、という嘘で逃げることもできたけど、私はもう嘘をつく気力もなかった。というか、アコさんの言葉には不思議と嘘をつかせない強さがあった。
「……ご、合コン行きます……」

「……」

 嫌な間が空く。「学生の本分は学問」「私より男が大事なのか」とか食って掛かられるのかと思った。「せっかく好意で誘ったのに反故にするのか」と逆切れされるかと思った。
「あ、アコさん……?」
 ふーっ、と大きく息を吐く声がスマホ越しに聞こえた。何度か深呼吸をして落ち着こうとしているのを感じる。やっぱり怒らせちゃったんだ。何かブツブツ言ってるけど、よく聞こえない。
「……おちつけ……おちつけおちつけ……この子はだめだ……」
「アコさん、どうしたの?」
「ぐうっ」
 アコさんは変な唸り声をあげてブツブツを止めた。がたんっ!と何かに物が衝突し、がらんがらんがらん……と遠くに転がる反響する音。そしてまたかなり間をあけて、
「何でもないよそれじゃあ今日は独りでやるから合コン楽しんでおいで」
 と、やたら早口の棒読みで言ってぶつ切りされた。
「……何なん」
 アコさんから解放された、お許しが出たのはよかったけど、アコさんはあからさまに様子がおかしかった。私がいないと仕事ができないとかいうわけでもないのに、どうしたんだろう。もしかして、やっぱり「合コン」っていうのが引っかかってるのかな。まさか、親にチクられたりしないかな。まあ後の祭りか。あれならまた後で謝ればいいや。
「やば、もうこんな時間か」
 私はアコさんのことを脳内の片隅に追いやって、ルンルンで合コンに出かけた。


 ひかりと麻由里と落ちあい、飲み屋さんまで歩く。今日のメンバーは麻由里が部活――テニス部のツテで呼んでくれた人だ。理系中心、と聞く。女側は私達3人、男側も同年代で3人。
「もー、人生初の合コンだよ。ドキドキする。ハツカレできるかな」
「ひなってば彼氏おらんかったん?何か意外。真面目そうな彼氏と勉強教え合っとるイメージあった」
「あたしもー。こんなにひな、小さくて可愛いのにねー!」
「んねー!」
 ボーイッシュな麻由里はともかく、ひかりの方が絶対私より可愛い。ホントに読モみたい。肩出しワンピースで美脚。この中で一番オトナに見えるかも。
「どこでやるの?場所は?」
「えーっとね、『居酒屋はなみ』っていうとこ。刺身系が美味しいんだって。この辺のはずなんだけどなー……」
 地図アプリと睨めっこするひかりの肩を、麻由里がバンバン叩いた。
「ああほら、男子来てるよ!あの店!居抜きで作ったちょっと小さめの居酒屋さんだから見つけづらいんだよ!おーい!コータこっちこっち!」
 私達と同い年くらいの男子3人が居酒屋の前でたむろしていた。たむろ、といっても嫌な感じはしない。みんなそれぞれ清潔感のある人で、体育会系のがっしりした短髪の人、さっぱり系の塩顔イケメン、コータ、と呼ばれたちょっとやんちゃそうな人。コータ、って言う人はもう既に麻由里と知り合いみたいだった。
「麻由里おっせーよ!俺ら学校から直で来たからかなり待ったんだけど!」
「悪いね。こっちは……オンナノコにはお洒落が必要なの!」
「おめーが女とか忘れとったわ。ひかりちゃんはマブやけど」
「はぁー!?コータおめー死ぬか?」
 麻由里とコータさんは良い感じみたいに見える。ひかりのことが可愛い、って言ったけど目の前で麻由里にアームロック掛けられてる方が何だか嬉しそうに見える。構ってもらえてうれしいんだろうなあ。
「おいおいコータ、さっさと中入ろうぜ。女の子2人に悪いよ。置いてくよ?」
「あ、あの、法学系の人ですよね?この前キャンパスで見ました……」
「あ、君人文なんだ。ひかりちゃん、っていうの?俺、中矢巧。よろしくね」
「西岡ひかりです……よろしく、お願いします……」
「同い年なんだから敬語やめようよ、何かこそばゆいわ」
 そう言って、ひかりと巧くんは店内に入って行っちゃった。その後を、麻由里とコータくんがじゃれあいながらついていく。
 私は自ずと、ガタイのいい体育会系の男子とぽつんと残された。部活上がりっぽくて、すぐ飛んで来たっぽくて全身ナイキのスポーツウェアで固めてる。とはいっても、シャツと短パンとスニーカーだけだけど。あ、リュックもナイキか。私とかなり身長差がある。
「……えと、君は入らないの?」
 話を切り出したのは、男の子の方だった。低い声。どきっとする。ちょっと怖い……かも。
「あ、入ります……ごめんなさい」
「あ、いや、謝らないで、別に責めたりとか急かしたりとかそう言うの無いから……やっぱ俺って、怖い?」
 男の子は、急に顔を赤らめてしどろもどろになった。黒髪の短髪をぼりぼりと掻き、「どうしよう」「どうしよう」っておろおろしている。
「ちょっと、怖い……けど、大丈夫です。ごめんなさい」
「だから、ごめんなさいって言わないで、って……でも怖いか、そーだよなー……俺、ラグビー部だから体だけはデカくてさあ……こっちこそ、怖がらせてごめん」
 思ったより好青年、いい人だった。確かにちょっと怖いのは事実だけど、よく見ると目はくりくりしてるしなんか可愛い……かも。可愛い系、私が山口霊神の巫女だから言うんじゃないけど、あの山口霊神の入り口にあるような、信楽焼のタヌキみたいなくりくり目のタヌキ系の顔。一緒に店内に入りながら、私はその男の子に聞いた。
「あの、お名前何て言うんで……何ていうの?」
「あ、まだ言ってなかったよな。俺、鹿ノ子茂。茂でいいよ」
「私、隠善陽菜乃。変わった苗字でしょ、隠善なんて。私も陽菜乃でいいよ」
「鹿ノ子だって変わった苗字だろ。あんま気にしない方が良いよ。ご先祖様とかが大事にしてる苗字かもだし」
 結構いい人なのかな、優しくフォローしてくれる。今まで隠善、って言ったら「インゲン豆?」とか馬鹿にしてくる男子もいたのに。なんだろう、この人の雰囲気、こうやって話すと柔らかくてあったかい。落ち着く……かも。
「こら、そこ入り口で立ち止まらない!入るならさっさと入ってよねー!」
 奥座敷から麻由里に急かされ、私と茂君は慌てて靴を脱ぎ捨て、お店に上がった。
 
 座敷じゃなくて掘りごたつだったけど、さっきそれぞれ話してた相手が正面に座ってた。なんというか、出来レース感を感じる。麻由里とコータくんはもう昔から出来上がってるからともかく、ひかりとタクミくんは完全にあらかじめ出来上がってる。お互いテレテレして、見てるこっちが羨ましくなる。韓ドル系塩顔イケメンと読モ顔負けの美人、それもお互い同じ学部なんて、これもう付き合うしかないでしょ。
「もー、ひかり何か喋りなよ!LINEの交換とかさあ!あんたがタクミくんと会いたいからチャンス欲しいって……」
「ちょっと!デカい声で言わないでよ!恥ずかしい!」
「いやー、正直俺らもコータが麻由里とカレカノになる切っ掛けが欲しいとか言うから組んだし、女の子側のこと言えないんだよなー、な、コータ!」
「お、おまっ、うっせえわ!」
 コータくんがタクミくんをどつく。麻由里もまんざらじゃないみたい。あれ?私は?私と茂君は?茂君はもじもじしながら、顔を真っ赤にして申し訳なさそうに私を見ている。
「……ごめん、ひなのちゃん。俺は頭数合わせ。こんな怖いのが来てごめん」
「ごめん、ってそっちこそ言わないでよ!私はそんなに思ってないから!」
 あんまり落ち込むから、私が必死でフォローした。茂くん、本当に見た目は厳ついけど優しそう。本当に、最初の怖かったイメージは完全払拭された。この人と一緒に、何か始まってもいいかな……と思った。それにもし、茂くんと最後まで行くなら、家の山口霊神も継いでもらって、あの辺の農林業にこの筋肉をフル活用してもらって、それよりなにより大きな体で優しくてカッコよくて……
「ひなのちゃん?」
「ひゃんっ!?」
 私は裏声で返事をした。何考えてるんだろ!LINEすら交換してないし、そもそも付き合っても無いのに!やばい、カップル2組に当てられて私、すっかり舞い上がってる!このままお酒が入ったら、私、どこまで行っちゃうの……
「ひなのちゃん。あの、もしよかったらLINE交換してくれない?」
「う、うん……フリフリで交換しよっか……あ、あと茂くん何飲む?」
「ビールで……」
 茂さんのLINEを登録する。アイコンはラグビーのユニフォーム姿、なんだけど、背景は渦潮を巻いてる海の背景。
「あ、もしかして茂くんって徳島の人?」
「やっぱりバレた?そうそう。俺徳島から来たの」
「そうそう、こいつだけ県外民なんだよなー!徳島大とか徳島文理もあるのに、何故かわざわざうちに来たんだよなー!」
 コータくんが茂くんの背中を叩いた。茂くんはうざったそうにその手を払う。
「いや、俺はやりたいことあったし、勉強して、成し遂げたいことがあるんだよ!だったらちょっとでも偏差値いいとこ行きたいだろ!」
「ほらほら、そこ喧嘩しない!飲み物揃ったんだから乾杯でしょ!」
 麻由里の音頭で、乾杯した。次々に頼まれてくるメニューをつつきながら、話に花を咲かせる。コータくんと麻由里はどうも幼馴染みたい、姉弟みたい。でもお似合い。ひかりちゃんとタクミくんは良い感じ。大人のカップル、って感じ。合コンなんてしなくてもこの2人はうまくいったんじゃない?
 それに比べて私は、ロリっぽい服装で、ガタイのいい茂くんの前で……いい感じにはなれたけど、何かちょっと犯罪臭というか……私がもっと身長あってナイスバディだったらつりあったのかもなー、アコさんとか、せめてひかりちゃんくらい……なんて思っちゃう。そんな気持ちが後ろめたくなって、私は言葉を継いだ。
「茂くん、やりたいことのために頑張るって、私は素晴らしいって言うかいいことって思うな……私なんて、地元だってだけで入ったけど……」
 やりたいこと、無いわけじゃない。妖怪について研究したい。でもそれは流石に言えないな。ドン引きされちゃうし、最悪「霊感少女」とか陰で笑われるかも。茂くんは優しそうだしそんなことしないと思うけど。でも「幽霊とか妖怪とか気のせいだって!」とか笑い飛ばすタイプではありそう。くすん。駄目もとで聞いてみよう。
「茂くんのやりたいこと、って何?」
 茂くんはしばらく迷う様な動作をした後、顔をあからめてお酒の勢いで話してくれた。
「俺、工学部で建築学専攻してるんだけど……家が神社の管理に関わってて、由緒ある神社じゃない、民間の建立した神社なんだけど……そこがあんまりぼろぼろだから、修復する工事をしたくって。クラウドファンディングでお金を集めてるし、あとは代々守っていく建築士が必要なだけだから……俺はそれになりたい」
 真面目な顔で語る茂くんは素敵だった。まつ毛が長い。本気で建築学を、その神社を守るために使いたいんだ。というか、あれ?民間でぼろぼろでクラファンやってる徳島の神社って……
「もしかして、それって金長狸様の金長神社?」
「そうそう!何で知ってんの!?やっぱ人文学科だから!?すげー!」
「違うよぉ!私の家も狸に縁があって、山口霊神っていう隠神刑部狸様をお祀りしてるから……ぴんときちゃった!」
 目の前の茂くんが目をくりくりさせて身を乗り出してくる。わあ、なんか伸び上がり狸みたいだな。大きい体が上に伸び上がって来て、相手にその気はないんだろうけどどきどきする。
「刑部狸って四国妖怪最強なんだろ!?伊予八百八狸!すげーな!最強狸様の巫女さんなんだ!」
「巫女さん、って……ただ管理してるだけだよ。茂くんも、金長神社の管理してるの?」
「ううん、管理ではないな。でも、何か刑部狸様と金長狸様か……狸様のお導きでこうして出会えたのかもなあ、何か運命……って、俺何言ってんだろ!ごめん!」
 乙女みたいに顔を真っ赤にして突っ伏す茂くん、体が大きい分逆に可愛い。何か、本当に狸様が引き合わせてくれたみたいで、茂くんの顔もなんだかタヌキっぽいし、彼の言う通り本当に運命なのかも……私もすごくドキドキした。その時、臥せっていた茂くんがすんすん、と鼻を蠢かす音がした。どしたんだろ、泣いてるの?
「どーしたの?茂くん。何かあった……」
「ひなのちゃん、何かいい匂いってか、懐かしい匂いするなー、て。何かキモイこと聞いてごめんけど、ポプリみたいなのとか持ってる?それか香水とかつけてる?」
 えー……ポプリ、香水……そう思い巡らせて、この前作った柏の葉っぱの栞を思い出した。でも、あれは押し花にしたから臭わないはずなのに……
「草花、っていうとこれしかないんだけど……もしかして、これ?おじいちゃんにもらった刑部様の柏の葉っぱなんだけど……」
 がばっ、と茂くんは起き上がって、栞を摘まみ上げてすんすん臭いを嗅いだ。そして私に栞を返して、自分のリュックからポプリの小袋を取り出す。嗅いだことのある、少し生臭い、でも五月の春の風物詩の臭い。
「やっぱり、柏の臭いだ。おたぬきさまが化ける時の臭いだ。俺も、ばあちゃんに『いい御縁がありますように』って作ってもらったんだ。でもひなのちゃんのは押し花なんだな。なんでわかったんだろ」
「んねー。不思議だね、こんなに密封してるのに。どっか破れてるのかなー」
 言いながら、くすくすと額を突き合わす。残りの4人が不思議な顔で見てるけど気にしない。柏の臭いなんて普通の人には何のことかわからないだろうけど、私達にとっては大事なことなんだ。
 おたぬきさまが結んでくれたかもしれない、縁なんだ。


 飲み会も進み、時間も経って21時になった。その時、居酒屋のスタッフさんが座敷を覗き込んだ。
「あのー、申し訳ございません、本日は通常より1時間早く閉店させていただくこと
 となっておりまして……」
「あ、そうでしたね!すみません、10時までだと思ってた!」
「麻由里ってばホンマあほー!」
「うるせー!」
 そのまま、私達は追い出されるように居酒屋から出て行った。支払いは麻由里とコータくんは割り勘、ひかりとタクミくんはタクミくんのおごりだった。茂くんは自分から財布を出して
「こ、ここは俺が持つよ。色々変なこと語っちゃったし」
 と言ってお金を出してくれようとするのを、必死に私は押しとどめた。
「大丈夫、気にしないで。私も色々言ったし、茂くんのこと知れて嬉しかったから」
「あ、ありがと……」
 照れくさそうに鼻面を掻く茂君の隣で、私も財布を開く。結局割り勘になった。

 居酒屋はもう誰もいないみたいだった。スタッフさん以外、誰もいない。その時、私の目の前によく見知った人物が歩いて来た。黒いパーカーに、黒いソフトレギンス、黒いシューズ。
「あ、アコさん……」
 アコさんが、無表情にこちらに近寄ってきていた。仕事に行くのかな。私が合コンで仕事に行かなかったことでピリピリしてるのかな。だったら申し訳ない、でも滅多にできる経験じゃないし、ちょっとくらい個人的なことしたって——思っても、アコさんに謝らずにはいられなかった。こちらに歩いてくるアコさんの顔は無表情で、三白眼で、ぞっとするくらい凶悪に見える。暗闇に目が光っているように見えた、気がした。

「あ、アコさん、今日ごめんなさ……」
「今話しかけないで、その人と交尾でも楽しんだら?」
 
 アコさんの声は、ゾッとするほどに低く、地を這うようだった。怨嗟の声、というものが具体的にあるならさっきの声のようなものを言うのだと思った。アコさんは明確な敵意を、害意をむき出しにして、私を突き放した。せいぜい性的に奔放に楽しんでこい、という「らしくない」嫌味が罪悪感で私の心を締め付ける。振り返ると、居酒屋の扉がばんっ、と乱暴に閉められるところだった。
「あの人、知り合い?大丈夫?てか怖い人だなあ……」
「……うん。うちの大家さん。普段は優しい、人、なんだけど……」
「そう?交尾とかいきなり言うなんてフツーじゃねーと思うけどな」
 茂くんが鼻面に皺を寄せて牙を剥くように怒った。でも、私は呆然と居酒屋の方を見つめることしかできなかった。
「そういえば、さっきの居酒屋って何か店閉めたら幽霊出るって噂あるんだってー」
「そういうこと先言えよ!コータサイテー!!」
 麻由里とコータくんのじゃれる声と同時に、犬の遠吠えが聞こえた気がした。
 その後二次会もなく、私はおとなしく自室に帰った。布団に横になって、LINEを茂くんと改めてする。簡単なスタンプの挨拶から、地元の話、履修の話とか。そして茂くんは、私に送って来た。
「あのさ、会っていきなりでほんと申し訳ないんだけど、また会ってくれる?また遊んでくれる?社交辞令とかじゃなくさ、時間とか場所とか決めて。俺、時間割表とバイトのシフトと部活の時間割教えるから」
 思わず、笑みがこぼれる。やった、人生初カレだ。「いいよ」と答えて、タヌキのかわいいスタンプで「OK」と♡を飛ばす。ぎゅっとスマホを抱き締める。茂くんの大きな体を抱き締めるつもりで。その時

「うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 という、悲鳴とも怒声ともつかない声が頭上から聞こえた。アコさんの遠吠えだ、と咄嗟に思った。外に出てはいけない。反応してはいけない。でも、今日は満月じゃないのに、どうしたんだろう。

「うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおおお」
「うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおおお」
「うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおおお」

 咒がざわざわと蠢き、高まる。嫉妬や憎しみが渦巻いている。アコさんの声はやがて掠れ、喉も切れよ血も吐けよといわんばかりの痛々しい嘆きの声になっていた。
 そういえば、アコさんから異性関係のことを聞いたことがあっただろうか。
 アコさんに「そう言う人」がいる様子があっただろうか。
 アコさんは誰かと結ばれたことがあったのだろうか。
 自分と茂くんを見た時の、アコさんの流し目。血走り、三白眼になり、うっかり気を抜くとそのまま首が抜けて自分と茂くんを食い殺してしまいそうな目。そこまで憎しみを、嫉妬をたたえていても、今にも泣きそうに潤んだ目。アコさんはあの後、きっと独りで「居酒屋はなみ」の「特殊清掃」をしたんだろう。孤独で。
『犬神はムラハチが定番なんだよ』
 アコさんの自嘲的な言葉。前の依頼者のご夫婦に対する敵愾心。
 孤独なアコさん。嫉妬と恨みを糧にする犬神のアコさん。私を呪いそうになって、アコさんはすんでのところで自分を落ち着けて、制して、堪えてくれたのだ。

「うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 急に悲しくなって、私はスマホを抱いたまま目を潤ませた。
 頭上の遠吠えには、涙声が混じっていた。
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