彼女は特殊清掃業

犬丸継見

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狸、山を降りて狗に往き逢う事

第七話 特殊清掃E大医学部医事課

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 私はひとり深夜残業をして、大学附属病院の医事課でレセプトチェックをしていた。やっぱりこの医事課はブラックで、色々あったけど何も変わらなくて——辞めた人は何人もいたけど、何とかギリギリ回るようにしてる。前にここで大きな事件があって……今思い出してもうっ、となるようなグロテスクで悲惨な事件だったけど、あれは私も悪かった。だから、いじめの主犯格だった■■さんが辞めたのも■■■さんが辞めたのも仕方がない。
 そう、この病院の医事課は、というか大病院の医事課あるあるなんだけど、新人いびり?いじめ?そしてパワハラ、が常態化していた。私は死んだ■■さんのことを可哀想に思うけど、きっと彼女からしたらあの非道ないじめの中で見て見ぬふりをしたり、軽挙妄動して主犯の■■さんに賛同したんだから同罪だ。死んでも恨まれてたりしても仕方がない。
 トップと準トップは責任を取らされて減俸にはなったけど、もうあの歳の独身で行く先がないから流石に辞めなかった。まだ若い方だった■■さんと■■■さんはあっさり辞めた。ていうか、どっちも衝撃的なものを見たから頭がおかしくなっちゃったというか、PTSD?的なのになってしまってなんでも入院したとか、自殺したとか。少なくとも、あんなものを見たらまともじゃいられないよね。■■さんなんて頭から返り血を——うわ、私も気持ち悪くなってきた。もうやめよ。
 お陰様の大量退職で、医事課は大混乱になった。標榜科を持つ人が足りない。人手が足りない。医療事務は万年人手不足とは言えども、ここまで急激に進むと由々しき事態なんだよね。私も元々担当してた泌尿器科と眼科の他に産婦人科と耳鼻科を持つようになった。トップは内科123と整形外科と形成外科、準トップは救急科と皮膚科、歯科とかそれ以外はもう外注して派遣さんにやってもらってる。あの自殺のニュースは結構大々的になったから、入りたがる人もいないし派遣さんも委縮しちゃってるし、諸悪の根源の主犯はもういないのにみんな怯えてる。元々のいびり役だった準トップさんも忙殺されてるのと厄介事を嫌がって、というか多分自殺がトラウマになって、もう何も言わない。
 今の医事課にはいじめがない。もうみんな、お互いを恐れ合ってピリピリして、監視し合って、そしてあの自殺が、被害者の■■さんがみんなを縛りつけていじめをさせない。それは、私もそう。ずっと■■さんに縛られている。だってあの人は、私の目の前で■■さんは、主犯の■■さんと■■■さんの目の前であの人は……

 みし、と嫌な音がした。ほんの小さな音。何かがきしむ音とか、なんというか人工的なものがきしむ音じゃない。この病院は新しいし、医事課の消耗品が立てた音かも知れないけど、なんだか嫌な音だった。

 みし、みし、みしっ

 やっぱり嫌な音がする。何だろう。私は照明を落として薄暗くなった医事課の中をぐるりと見まわした。私以外誰もいない、今日は私が残業、施錠当番だから。査定関係も残っちゃってるし。全部私が悪いんだけど……

 みしみしみし、「みちっ」

 ぞわあっ、とした。そう、ずっと感じてた違和感。無機質な音じゃないんだ、このみしみしと言う音は。何だか有機的な音で、何か、例えばものがみっちり集まって、蠢いてるような。気持ち悪い光景だから、想像したくないけど。それなのに、ずっと変な音はひどくなって

 みち、みち、みち、みち

 と生々しくなってくる。何が溢れてるの。何がいっぱいいるの。怖いよ。気持ち悪いよ。改めて医事課を見回しても、何もいない。医事課は一応病院内だから、食料品とか生ゴミとかは貯めておかないようにこまめに捨てられてる。だから、虫が湧くようなことはことは無いはずだし、あり得るなら紙類に虫が湧くくらいだけど、そんなこと今までなかった。なんだろう、ゴキブリ?でもゴキブリならカサコソとか

 ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ

 何、何なの。何かが煮えたぎるような音。ぐつぐつしたような、生々しい音。ここに炊事場はないよ。はっきり聞こえるのに、音源がわからない……ううん、何か固まってる。あちらこちらで、この狭い医事課の中で。

 みち、みち、みち、みち、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ

 部屋の片隅から、■■さんの机の下から、受付の方から、パソコンの後ろから。
 ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ

 私の、机の下のバッグの中から。
(だめ、見ちゃだめ)
 私はそう思いながらも、バッグを引っ張り出す。生暖かい、何だか今朝より膨らんでる。医事コンの画面は、いつの間にか誰も死んでないのに「エンゼルケア」の入力画面になっている。電子カルテに表示されてるのは、死んだはずの■■さんの名前。■■さんは入院なんてしてないし、きっと見間違い。■■なんて名前、大勢いるだろうし、きっと、きっと見間違い。

 だから、私のバッグの中でみっちりと蠢くウジ虫も、きっと見間違い。

 ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ
 部屋中でウジ虫が蠢く音がする。ひしめき合って、何かを食べている。私のバッグの中では、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、■■さんの頭に米粒みたいなウジ虫が群がって目の中に入ったり鼻腔に入ったり耳穴に入ったりぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、素肌が見えない、目だけがじっとウジ虫の中から私を見てる、ごめんなさい■■さんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいだってああするしかなかったの私は弱い立場で弱い人間で弱い弱い弱いいじめられたくないいじめられたくないこわいこわいこわいだからごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい■■さん■■さん■■さんそんなに睨まないでウジだらけの顔で!

 ああ、部屋中がウジ虫だらけ、部屋の隅から沸いてる、全部の机の下、机の引き出しの中、パソコンの裏、カウンターの下、あちこち、あちこち真っ白、米粒みたいな、蠢いて、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、許してください許して許して許して許してそんなに部屋中で■■さんの体を食べないで!!
「きゃあああああああああああああああ!」
 ごめんなさい、■■さん。もう許してください――


「ていうのが、医学部に広まってる『怖い話』。なーんか、医療事務っていじめの多い職場らしいじゃん?女社会っていうか。うち、そんなの嫌いなんだけど。んで、だから陰湿なのに耐えられなくて死んじゃった人が、毎晩ウジが沸いた姿で現れるとか。ウジってうち、ホンモノ見たことないからわかんないけど」
「えーっ、こわいー!でもその話違くない?あたしが聞いたのはぁ、医学部の献体の扱いが酷いからウジが沸いちゃって、献体が祟ってそれをあちこちに出してる、っていう噂。解剖した後も処理とかせずに、そのまんま、って」
 麻由里ちゃんとひかりちゃんの話を、私は学食のジュースを啜りながら聞いていた。食事中、2人はラーメンとパスタ食べてるからいいけど、私白ご飯なんだけどなあ。米粒みたいなウジ虫がみっちり、とか食事中ってだけでもやめてくれないかな。
「医学部って山の方だっけ。結構離れてるよね。でもそういう噂はこっちの方にも伝わってくるんだ?」
「そりゃあね。医学部1年はうちらと共通の必修科目もあるし。わざわざ行ったりきたりごくろうさま、って感じー」
「どこの学校もそんな感じよね。大学と大学病院は別、的な?」
 なるほど、その医学部1年が噂を広めてるんだ。でも、それって正直その医療事務の人が疲れすぎて幻覚見たってセンもないかなあ。夜中だったって話だし、うつらうつらしてたんじゃないかな。仮に自殺?が本当だとしても、それはその医療事務さんが良心の呵責に耐え兼ねてそういう夢を見た、っていうんじゃないのかな。何でも妖怪とか霊のせいにされちゃたまらない。
 だって自殺ってよっぽどじゃん。亡くなった人が友だちじゃなくても、例えいじめる側、傍観者の側でもトラウマになる人はいっぱいいるんじゃない。むしろ「自分のせいで人が死んでも何も感じない人」なんて、妖怪より怖い。そんな人間、居て欲しくない。
「ところで、そのウジ虫見たって女の人はどうなったの?何か霊にやられた、とかそういう話あったの?取り憑かれたとか」
「それは知らん。気絶して、次の日早出だった人に起こされた、って聞いた」
「何それ、当たり障りないね。おもしろくなーい」
「ちょ、人が死んでんねんで!おもんないとかひかり、えぐいて!あんたも家に幽霊出たじゃん!」
「んー、でもあれからもう何もないし、あれは何かあたしが参ってたんじゃない?あの頃下宿初めで精神的にホントは結構余裕なかったし、履修とか悩んでたし」
「悩んでんなら言えばよかったんじゃん!うちら友達だろー!」
 その、医事課で死んだ■■さんって人も、悩みを打ち明ける先があったならそんなことにならずに済んだだろうな。そもそも、本当の事件なら、だけど。
「ねぇ、本当にその自殺ってあったの」
 「ええー、ひなってば知ってると思って話進めてたわ!マジよ、マジ。ほら、新聞にも一応載ってる!」 
 麻由里ちゃんはそう言って、ニュースサイトの画面を見せてくれた。そこには
『医学部附属病院の医療事務女性、当時(28)が8月、上司2人からの度重なる叱責等パワーハラスメント等を理由に、医事課で自殺していたことが明らかとなった』
 麻由里ちゃんはいつもの警察パパ経由を、大仰に声を潜めて言った。
「何か親父から聞いた感じだと、ひっどい現場だったらしいよ?ベテランの刑事さんでもゲロっちゃうくらい。何でも、いや、話半分に聞いて欲しいんだけど……」
 麻由里ちゃんは声をひときわ潜めて、体をこっちに寄せてきて囁いた。
「その医療事務さん、もうギリギリまで追いつめられてておかしいことやってさ。自分の髪剃って、自分の爪剥がして、自分の耳と鼻そぎ落として、それから自分の首かっ切って死んだんだって。緊急手術?とかしても無理だったって」
 想像するだけで痛い。坊主になるならまだしも、それ以降は想像することさえおぞましい。一体どんないじめをされたらそんなことになるんだろう。そもそも、そこまで狂うくらい医療事務って壮絶な世界なのかな。病院の事務員さん、ってイメージなんだけどな。
「一応噂だけど、親父から聞いたことだからケーサツ情報ってことで秘密ね」
「わかってるって。言いたくないよ、あたしだって。痛々しすぎ」
「私も言わないよ。怖いよ。まだ献体にウジが沸いてるていうほうがマシ」
 くくく、と麻由里ちゃんは怪談を楽しむようなテンションで付け足した。秘密秘密って言いながら、麻由里ちゃんって一番楽しんでない?警察官とかなったら情報漏洩しそう。
「その人、亡くなったのが8月じゃん?だからあちこちに血が飛び散って、なかなか掃除も進まなくて、そしたらそこにウジが沸いて今も……って、感じ?」
 炎天下、狭い事務所の中がウジだらけになってるのを想像して、私は吐きそうになった。その時、カバンの中から「ぽわん」と間抜けな音がする。LINEだ。
『今日、学校終わりいい?特殊清掃の仕事なんだけど』
 アコさんからだった。ちょっと嫌な予感がした。


「ああ、お疲れ様。まあ座って座って」
 アコさんは前のガストの同じボックス席で私を待っていた。その前に、おとなし気な服装をしたボブカットの痩せた女の人がいる。女の人は体を縮めるようにして、せわしなくきょろきょろと見ていた。ちょっと春香さんを思い出した。今度はアコさんはコーヒーを飲んでるだけで、何も食い散らかしてなかった。この人は私怨のない「普通のお客さん」みたい。
「私の隣においで。こちらは助手の隠善陽菜乃と言います。ほら、こちらは今回のお客様。E大医学部付属の医療事務……だった、川尻さん」
「どうも……川尻由美子といいます」
「こんにちは、隠善陽菜乃です」
 女の人は、正面から見るともっとやつれて見えた。髪の毛はぱさぱさになってるし、目の下は青い隈が濃いし、なにより頬がこけて血色が全体的に悪い。アコさんは机の上に黒手帳を広げてもう聞き取りを終えてるみたい。
「えと、川尻さんが今回のお客様なんだけど、この人とは別口であんたの大学からも依頼を貰ってるんだよね。ひなちゃん、もしかして医学部の」
「『ウジ虫が湧く噂』のこと?」
 目の前の川尻さんが、びくっ、と体を震わせた。目をぎょろぎょろさせて、ちらちら自分のバッグの中を伺っている。やっぱりバッグの中にいたのかな。女の人の首。
「ああ、城北キャンパスのひなのちゃんが知ってるってことは、結構あちこち広まっちゃったんだね——まあ、医事課だけじゃなくて医学部の方にも出張ってるらしいし、もうあの病院の中を徘徊してるんだろうね。生きてた頃みたいに」
 死んでるのがわからんのかねえ、とアコさんはフンと鼻を鳴らした。アイスコーヒーを一気飲みする。
「『医療事務さんの霊にウジが沸く』『献体にウジが沸く』って2通り聞くけど、どっちなの?どっちも医学部の子が言ってるみたいだけど」
「いや、献体の処理はちゃんとしてるって大学の人から聞いた。献体の処理は敬意をこめてちゃんとやってる、って。まあ腐っても国立大だし、献体からウジが出てるってのはそれこそ言いがかり、悪評でしょ。そうじゃなくて、多分医療事務で自殺した——■■さんがあちこち徘徊してるから、敏感な人にはウジが見えるんだろう……ああ、失礼」
 アコさんは急に体を伸ばして、川尻さんの肩口をぴん、とデコピンの要領で払った。川尻さんがびくっと体を竦める。
「やだ、何ですか!?」
「いや、何でもないですよ。ただのハエです。気にしないでくださいね」
 それは嘘。私の目には、川尻さんの肩にウジが一匹張り付いていて、それをアコさんがデコピンで「ジュッ」と焼いたのを見た。多分、ついてきちゃったんだろうな。
「まあ、お代は大学の方からたっぷり頂くとして、ですから川尻さんからはそこそこいただくだけにしておきます。大学の半額か。おつらいでしょう、医療事務と言うのは。薄給で、過酷な環境と聞きます」
 川尻さんは顔を伏せて、バッグの中を見ながら紐をぐじぐじ弄りながら言った。
「医療事務は、もうやめようかな、って……やるとしても個人病院か、調剤の資格とって薬剤の方いこうかなって……それか、もう普通の事務やるか……医療事務続けてる限り、あの人が、■■さんが付いて来て来る気がして」
「■■さんの受けた仕打ちはおおかたお伺いしましたが、彼女がやったことも仕方がないでしょう。また、あなたが傍観者になってしまったのも雰囲気として仕方がない。許されはしないことだけど。いえ、何なら本人に聞いてみましょう。あなたは嫌でしょうが、彼女を呼ぶには触媒がいる。川尻さん、あなたがいい」
 がたん、と川尻さんは立ち上がった。目を見開いて、アコさんを睨んでいる。
「私はもう嫌であなたを頼ったんですよ!?有名なお祓い屋さんだって!『特殊清掃屋さん』だから、って!だから、根本的な解決してもらおうってお願いしようと思ったのに……私を現場に連れて行くって、正気ですか!?」
「正気、ですよ……あなたは■■さんの敵でも味方でもなかった、相対的に敵になってしまっただけで。多分、リーダー副リーダー相手だと、■■さんは委縮して隠れるか逆上して大暴れするだけでしょうね。そうなると、全員が死にますよ。あなたが一番見逃されてて、一番安全なんです。大丈夫、私が守りますから」
 アコさんの目はまっすぐだった。川尻さんは迷ってるみたいだったけど、とりあえず椅子に座った。そこにアコさんは畳みかけた。
「あなたも、良心の呵責があるのでしょう。なら、■■さんに詫びて、許してもらえばいいじゃないですか。それでも尚彼女があなたを襲うなら、それはもう私が終わらせますので。ですから、よろしくお願いします」
 アコさんの手帳には相変わらず汚い文字で色々縦横無尽に書き殴られてるけど、ただ真ん中に大きな文字で
「無駄」
 と書かれて、ぐるぐる丸で囲まれていた。


 その日の夜、私はアコさんと一緒に川尻さんの車ではるばる医学部附属病院まで行った。特別に借りた鍵で医事課に入り、前回の状況を再現しようと照明を落として静かにする。
「……時間はこれくらい?」
「はい、そうです……たぶん、うろ覚えなんですけど」
「医事課にはあなた一人?」
「はい。独りで残業してました。カギ閉め係だったんで」
 アコさんはふむ、と唸った。この部屋には私たち以外、なんの気配もしない。医学部も一応中を通ってみたけど、献体の処理はちゃんとしてるみたいで本当に何もいなかった。献体とかご遺体を雑に扱ってる病院とかは、正直たまに「いる」ことがあるんだけど、やっぱり相手が献体だし、大学病院だからちゃんとしてるんだ。
 川尻さんが、自分のものだったパソコンを点けた。机の上のものは全部なくなってて、ああ、本当に川尻さんは辞めちゃったんだな、って感じ。手帳を見ながらパソコンに何かを入力して、川尻さんは電子カルテの画面を開いた。
「こうして、電子カルテの画面を開いてたんです。誰のカルテを見てたのでもないんですけど、ウジが出始めた頃から、■■さんの『エンゼルケア』の画面が出てきて……」
「エンゼルケア、って何ですか?」私は思わず聞いた。聞き慣れない、でも不穏な響きの言葉。
「ご遺体の処理だよ。医療機器の取り外しとか、冷却とか、ご家族への死亡宣告、説明とか色々。そこを雑にやってる病院は高確率で『出る』ね。それにそういうのが面倒で『いっぱい殺した』看護師とかいたでしょ。厄介なパートなんだよ、死者の扱いの中では」
 アコさんは私を見ずに、周りを見回しながらそう言った。そして、ひとつの机の前に真っすぐに歩いて行く。ひぃーっ、と、川尻さんが悲鳴を上げた。アコさんはその椅子の前に座り込み、ふんふんと臭いを嗅いだ。
「■■さんはここで亡くなりましたね?」
「どうしてわかるんですか!」
 アコさんの問いと、川尻さんの悲鳴が同時に重なった。私が見てもそこには灰色のマット床しかないんだけど、試しに1枚持ってきた柏の葉っぱのしおりを握り締めてじぃっと目を凝らすと、段々赤いイチゴジャムみたいな血がにじみ出てくる。
「アコさん、血が見えるよ。出てきたんじゃない?」
「ううん、まだだよ。■■さん、よっぽど怖いんだろうね。隠れてる。逃げ隠れしてる。怯えを感じる。きっと前は、川尻さんだけだったから出てきたんだ。川尻さんにだけ、きっと気を許してたから」
 ぐずっ、と川尻さんが鼻を鳴らした。アコさんは床に触りながら畳みかける。
「あなたに甘えたかったんだと思いますよ。主犯の人やリーダー格の人には『本当に怖くて』出てこられない。でも、あなたの前なら素直に出てこられる。『わかってほしい』と言える。だから、そんなに自分を責めて怯えないで」
 川尻さんは泣いてた。■■さんは、川尻さんに縋りたかったんだろうな。わかってほしかったんだろうな。怖い姿になっても。
「あの、川尻さん。いいですか。ここはお祓いはしましたか」
「ううっ……しまし、た。ちゃんと、神社の人が来て、お坊さんも来て、ちゃんとやりました。お酒とか色々……」
「それでも残ってしまった。つまり、もう彼女は戻れない。可哀想だけど、もう無理やり引きずり出すしかないね。ごめんね、■■さん」
 そこでアコさんは、ううん、と咳払いをした。あ、あ、と声色を調整して、そして

「『無駄なことはやめてくれない?』」

 ――どおおおしてそんなことばっかり言うんですかあああ片山さああああああん!!――

 その途端、声と共にぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、という何かを煮つけるような音があちこちから響く。
「嫌あああ!」
「落ち着いてください、川尻さん。こうして出てきたとしても、この姿は実在しない。夢幻と同じです。怖ければ目を閉じて。ひなちゃん、手を握ってあげて」
 私には、医事課のあちこちの隙間からあふれるウジ虫が見えた。本当に、明日から白ご飯が食べられなくなりそう。その中を、女の人が四つん這いで走って逃げ回っている。逃げ隠れしようと、怖がりながら、ウジ虫をばらまいて囮にして逃げてる。まだ、いじめられるって思ってるんだ。きっと自殺したのだって、怖くて逃げだしたかったんだ。恨みをわからせるとか、狂ったとかそんなんじゃなく、いや、狂ってたのかもしれない。怖くて、あんまりにもつらくて、狂ってしまった。這いずりまわってる女の人の髪は丸坊主で、爪は剥がれて、耳も鼻も無い。
 ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ。
「どんなに囮を撒いても無駄だよ。私はあなたの臭いでよくわかるから」

 うううううああああああああああああああおおおおおおおお!

 アコさんが吠えた。でも、今度は首を飛ばさなかった。ひゅーんっ、と人間の姿のまま跳躍して、湧き出るウジ虫の中から、カウンターの下で女の人の幽霊を、■■さんを捕らえた。首根っこを押さえるようにして、アコさんはのしかかる。
「あなたをいじめた主犯は発狂して入院した。腰ぎんちゃくも似たようになって廃人だ。リーダーも副リーダーも辞めるか辞めないかの瀬戸際だ。ここはもうじき下請け自体が総入れ替えになる。あなたが憎むべき人はもういない」
 アコさんの声は優しかった。
「でももう、自分でも怖くて怖くてどうしたらいいかわからないんでしょう。攻撃することしかできないんでしょう。だから、私が食べてあげる。あなたを供養することはできないけど、少なくとももう、こんなおぞましい姿にならずに済むようにしてあげる。あなたの魂、いただきます!」

 うぉんっ!とアコさんは吠えて、今度こそ犬の姿に変わった。四国犬の姿。そのまま、押さえつけていた女性をウジ虫の中に鼻面をつっこんで食べ始める。ばりばり、めきゃめきゃ、ぐちゃぐちゃと音がするたびに、血しぶきが飛び散るたびに、ウジ虫の数は減って、あの何かを煮込むような音も小さくなっていった。川尻さんは泣いていた。どれほど経っただろう、アコさんの咀嚼音が小さくなって、人間の姿に戻って机の下から出てきた。

「けふっ」
 と軽くげっぷをする。ああ、食べられてしまったんだね、■■さん。
 これがどうか、救いになりますように。
「ごめんなさい」
 川尻さんは泣いていた。もうどこにも、ウジ虫はいない。何の音もしない。パソコンの画面も、もう電源が落ちた真っ暗な画面になっている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 川尻さんは涙を流している。目の前で死なれて、死んで尚縋られても救うことが出来なくて。
「ごめんなさい、西浦さん」
 川尻さんは、新人のまま死んだ西浦晴美さんのために泣いた。
「ごちそうさまでした」
 と、アコさんが呟いた。

【参考文献】
・「グッグッ」と腐肉を食むウジの音が蠢く洞窟すら天国…第二次大戦下の沖縄で起きていた信じられないほど悲惨な“現実” https://bunshun.jp/articles/-/50328
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