彼女は特殊清掃業

犬丸継見

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狸、山を降りて狗に往き逢う事

第四話 特殊清掃Mマンション 下

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 前期が始まってはや数日、ひかりちゃんは段々見るからにやつれてきた。あんなに読モみたいに超絶あか抜け美人だったのに、コンシーラーでも隠れないクマ、げっそりやつれて小食、講義中に寝ちゃったり、学食でもうとうとしたり、らしくない。
「ねー、ひかりちゃん。どしたの?寝不足?」
「そぉだよ、ひかり寝てばっかじゃん。目の下のクマやばいよ。上の階とかうるさいの?不動産屋さんに相談した?」
 私と麻由里ちゃんはしきりに話を聞き出そうとしたけど、ひかりちゃんの口は重い。というか、ひかりちゃんの動作そのものが重い。のろのろして、覇気がない。ひかりちゃんは何か迷って、しばらくして蚊の鳴くような声で言った。
「上の階か、隣かわからないんだけど……喧嘩の声がうるさいの……」
 喧嘩。物騒だなあ、と思って麻由里ちゃんと顔を見合わせる。
「足音とか、叫び声とか……多分カップル……すごい喧嘩で、もう警察呼んだほうがいいんじゃないか、ってくらい……」
 「カップルの喧嘩」嫌な予感がした。まあ、もしかしたら本当に「生きてる」カップルが性懲りもなくどこかの部屋で喧嘩してるのかもしれないけど、ひかりちゃんは自分の部屋でカップルが無理心中したなんて、知らない。麻由里ちゃんいわく、経緯と死にざまは報道で伏せられているらしい。だから、単にひかりちゃんは「殺人」としか知らないはず。それなのに、「男女の喧嘩の声」と言い切っている。
—―もしかして、その声ひかりちゃんの部屋の中からじゃないの——
 その言葉を、私はぐっと飲み込んだ。無暗に怖がらせるのはよくない。でも、これ以上ひかりちゃんの体調が悪くなるようだったら、どうしよう。あ、そうか
『お友達に何かあったらすぐ言ってよ?「特殊清掃」するから。ね?』
 アコさんが何とかしてくれるかもしれない。特殊清掃の、犬神の力で。その代わり、除霊じゃないから霊はアコさんに食べられて咒の一部にされてしまうけれど。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。でも、いまのひかりちゃんにとって現状が悪いことということだけはわかる。
「まっ、大丈夫だよ!麻由里の言う通り、不動産屋さんにも相談してみるから!」
 ひかりちゃんはわざと明るい声を張り上げて、作り笑顔で言った。


 その週の週末、私は麻由里ちゃんのアパートに遊びに行っていた。ひかりちゃんは相変わらずやつれてるし、遊ぶ元気もないみたいで乗って来なかった。初めての徹夜、私は流石に飲み物はソフトドリンク、麻由里ちゃんはまだ18なのにお酒を飲んでる。夜もはや23時、私達はテキトーなバラエティー番組を流し見してた。
「テレ東映らんとかマジない」
「そうそう。ド田舎、って感じだよね」
 なーんて愚痴ってたら、その時、部屋のインターフォンが

 ピンポーン

 と鳴った。こんな時間、もちろん約束もない。思わず2人してしーん、と黙ってしまった。誰だろう。怖い。私達が動けずにいると、インターフォンが

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

 と連打される。どうしよう、不審者?酔っ払い?助けが必要な人?
「どうしよう麻由里ちゃん!怖いよ!」
「とりあえず見てみよう!変な奴だったら即通報な!スマホ準備しといて!」
 麻由里ちゃんは流石お巡りさんの娘さんというか、流れるような動きで私にスマホを押し付けて、インターフォンに出る。
「誰ですかっ!?こんな時間に迷惑なん「助けて!!麻由里!!お願いだから!!助けてええええええ!!」
 きぃん、と耳をつんざくほどの金切声。画面の外には、ジャージ姿ですっぴんの、涙ボロボロのひかりちゃん。こうなるともう全員パニック、とりあえずひかりちゃんを麻由里の家の中に引きずり込んで落ち着かせようとした。ひかりちゃんは多分部屋着のままで、すっぴんで、髪は走って来たのかぼさぼさで、そして裸足だった。スマホも財布も、何も持ってない。とりあえずタオルケットを掛けてあげると、ひかりちゃんは大声で泣きだした。麻由里ちゃんが慌てて「どしたん」と聞くと
「部屋がおかしい!寝ようとしたら、また喧嘩の音がして、それでなんかなまぐさいにおいして、気持ち悪い感じがして、電気つけたら、部屋中真っ赤の血まみれ、男の人が包丁もって、女の人追い回してて……どっちも血まみれ……」
 ひかりちゃんはそのまま麻由里ちゃんが準備した洗面器に吐いてしまった。
 ああ、見えちゃったか。私は元々見える方だけど、ひかりちゃんの場合は違うと思う。あんまりにも霊の力が強くて、普通の零感の人にも影響を及ぼすほどに強くなってる。男の怒り、恨み、憎しみ、嫉妬、と女の悲しみ、恨み、恐怖……混ざり合ったら、想像するだに恐ろしい。やだなーこわいなー、冗談じゃなく。
 それから朝まで、私たちはひかりちゃんと一緒にいた。時計が午前10時を回る頃、ようやく私達はひかりちゃんを連れてマンダリンマンションに戻ることが出来た。念のため、3人でひかりちゃんの部屋、515号室に向かう。マンダリンマンション515号室。鍵は開きっぱなしだった。そのまま逃げてきたんだろう。広い部屋は普段はお洒落だったんだろうけど、今は観葉植物が倒れ、布団がベッドから跳ね飛ばされ、雑誌や学校のレジュメが床に飛び散っている。脱ぎ散らかされたスリッパもめちゃくちゃ。
 でも、血しぶきなんてどこにもない。ただの、雑然とした部屋。遮光カーテンのせいで、朝10時でも薄暗いくらいかな。
「大丈夫?もういない?何もない?」
 ひかりちゃんが、麻由里ちゃんの後ろから部屋を覗く。麻由里ちゃんはやっぱり落ち着いてて、万が一泥棒とか変な人が入り込んでないか警戒して、ひかりちゃんを庇いながら部屋の中を見ていた。
「見た感じ何もないよ。ひかりこそ、何か盗まれたりしてない?鍵あけっぱだったんでしょ?ほら。スリッパ履いて」
「そうそう、ひかりちゃん落ち着いて履いて」
 ひかりちゃんに履かせようとポムポムプリンのスリッパを拾い上げ、私と麻由里ちゃんは絶叫した。

 スリッパの裏側に、べったりと鮮血が付いていた。

 生臭い臭いが鼻先をかすめる。これは本物?それとも……そう思ったとき、スリッパの血は瞬時に消えた。生臭い臭いも消えた。
 「まだいる」。つまり、「特殊清掃の出番」。
「ひかりちゃん、ちょっと待ってくれないかな。相談してみたい人がいるの」
 私はもう、アコさんのことしか考えられなかった。妖怪や幽霊が何かするのは大体夜。こんな、昼間に怪異を起こすような強い悪霊を倒せるのは、あの咒を持った更なる咒、犬神、アコさん以外考えられない。私はアコさんにLINEを送った。


 LINEは未読無視。通話も取ってくれない。私はもういらいらして、直接アコさんの家に向かった。助ける、って言いだしたのはアコさんなのに無責任すぎる。そういえば、最初の内見の時もアコさんは堂々と遅刻したんだっけ。
 アコさんの家は別棟、というか歩いて3分くらいの一軒家だった。これがまた古くて、このご時世に木造住宅。とにかく古式ゆかしき雨戸もあるし、屋根が瓦だし。周りには珍しくアパートも家もなく、空き地のまんなかにぽつーん、って感じだった。高いアスファルトの塀に囲まれて、そこに有刺鉄線があって、木は茂り放題。私は一瞬、刑務所を思い出した。
(何か悪いものを封じている)
 そんなものを連想した。
 ぎぃぃ、と錆びた鉄製の門を開く。郵便受けはもう溢れかえっていっぱい。私はそれを無視してアコさんの家のチャイムを鳴らした。木造住宅でもチャイムはある。やけに音が割れてるけど。すりガラスの玄関は、引き戸だった。私は根気強く、何回もチャイムを押した。アコさんは降りてこない。
 その時、パンツのポケットが振動した。アコさんからLINEが返って来てた。人がわざわざ家にまで来て、送ってから数時間経って、やっと。しかも内容は
「あいてるはいってにかいおく」
ピンポン鳴らされてやっと反応するとか、大人としてよくないなあ、と呆れちゃう。
 私はLINEの指示に従って、立て付けの悪い玄関を開けてアコさんの家に入った。やっぱり室内も一昔前の木造住宅、自分の実家ほどの威厳も風格も無い、町中にありがちな感じのおうちだった。最低限、床だけは掃除機をかけてるみたいでそれが救いだった。靴下が埃だらけになるのは嫌。
 「にかいおく」、狭い急こう配の木造階段が見つかった。上を見上げても、薄暗くて見えづらい。私は階段から落ちないように必死に手すりにしがみついて、二階に上がった。それにしても、アコさん独り暮らしなの?誰もいないみたい。
「うーん」
 アコさんの声がした。それを辿って、私は扉を開けて、ようやく大部屋に出る。うわあ、と思わず声が出た。足元に崩れた本の山、脱ぎ捨てられた服と下着の山。何のことなのかわからない紙束。郵便の山。よくわからない「森岡メンタルホスピタル」の印字がされた紙袋から覗く色とりどりの錠剤。ん、犬神筋は情緒不安定らしいけど、これは深堀りしない方が良いやつかな。ナンチャラゼパムとかわかんないもん。
 とりあえず、ここはアコさんの部屋だってなんとなくわかった。一番広いし、ベランダもあるし、私物っぽいものもいっぱいあるし。でもアコさんはどこ?

「 こ こ 」

 びくっ、とした。アコさんの声が、部屋の奥の扉から聞こえる。てっきり私は、そこをいわゆる. 納戸なんど、物置だと思ってた。だから開けちゃダメだって思ってたんだけど。恐る恐る、私はそこを開けた。
「おはよー」
 アコさんは、納戸の中にいた。ご丁寧に縦型の冷房まで持ち込んで、厚めのマットレスを敷いてその上に座ってる。そこにも古書や文庫本が、いっぱい散乱していた。
 そう言えば、犬神は納戸を住処にするんだっけ。wikiで見た。ホントなんだ……
アコさんはでろでろのスウェット上下を着ていて、髪はぼさぼさ、あからさまに寝起き。ただ、手にはスマホを持ってた。
「アコさん、納戸で寝てるの?」
「うん。落ち着くから」
 えー……まあ、ロフトで寝る人もいるし、納戸で寝る人がいてもいっか。アコさんはううーん、とまるっきり四つん這いの犬みたいな伸びをした。くああぁ、と口を大きく開けてあくびする。まるっきり犬だ。
「さてはお友達の、事故物件の話でしょう。マンダリンマンション515号室、痴情のもつれの地縛霊。大学生の本分は学問なのに嘆かわしい」
「何で、知ってるの……私まだ、何も言ってない」
「不動産屋さんからお話貰ってる、って言ったでしょ?」
 アコさんはそう言って、スマホの着信履歴を見せてくれた。マンダリンマンションを管理しているらしい「丸福不動産」からの着信と通話履歴が残っていた。ある意味、頼りにされてるお祓い屋さんだなあ。祓うんじゃなくて食べるんだけど。
「さーて、今回は2人かな。もう一般人に見えるまで悪化してるみたいだね。丸福さん、ちょっとお祓い代を渋ったこと今更後悔してるみたい」
 アコさんはにこぉーっ笑って私の顔を覗き込んできた。犬歯だけじゃなく、他の歯も鋭い。目は瞳が大きくなって、犬の目になってる。
「あんたも来る?ひなちゃん。悪霊、だよ。人間の悪意の極限、見たくない?」
 アコさんはへっへへへと舌を出して笑った。
「わ、私お祓いとかできないよ……」
 タジタジになってる私の腕をがっしと鷲掴みにして、アコさんは笑った。
「私が全部やる。『特殊清掃』は私の役目。犬神はそういうヨゴレ役だから」

 依頼を受けて、その日の晩に私とアコさんはマンダリンマンション515号室に向かった。ひかりちゃんは麻由里の家に避難して、鍵だけ渡してくれた。
「不動産屋さんはこれで大丈夫、って言ってくれたけど、大丈夫なのかなあ……」
 とかブツブツ言ってた。私も正直心配。悪霊、ってどんな感じなんだろう。夜20時、アコさんは前と同じ全身黒ずくめのアスリートウェアで現れた。途中のコンビニで、しこたまサラミとかサラダチキンとか魚の缶詰とかとにかくいわゆる肉魚、生臭物を買い占めてマンションに向かう。
 私は一応、スマホと財布とおじいちゃんにもらった数珠をトートバッグに入れて付いていった。霊峰、石鎚山の霊験あらたかな数珠。あと、本当に何の役に立つのかわからないけど柏の葉っぱ1枚。
「ふうん、いい物件じゃない。うちの物件とはえらい違い。チョー悔しい。でも悲しいかな事故物件なのよね。へへっ」
「アコさん、やめてよ。一応私の友達の部屋なんだから」
 オートロックをくぐり、エレベーターで5階まで上がる。アコさんは借りた鍵で515号室に躊躇いなく土足で踏み込んでいた。
「もしもし、犬上です。515号室到着しました。これより開始します」
「アコさん、ちょっと靴!」
「どうせ今日は意味なくなるよ」
 そう言って、アコさんはリビングの床にどっかり座り込んだ。そして照明を絞って薄暗くし、買ってきた生臭物を食べ始めた。
「アコさん、この前も思ったんだけど、こういう時はお神酒とかそういうのじゃないの?生臭物は霊を刺激するんじゃないの?」
 アコさんは犬のようにケンケンと笑った。口が耳まで裂けて見えた。
「違う違う、お神酒じゃ逃げちゃうじゃない。そうじゃなくて、釣り出さないと。だから血とか、生臭物が向いてる。これは私の筋のやり方だけど、ね?」
 へへへへっ、とアコさんは笑った。悪霊は2人なのに、わかってて呼び出そうとしてるんだ。私はパンケーキを食べながら、食事を続けるアコさんを見ていた。
 それからどれくらい経っただろう。ご飯を食べて、何をするでもなく、アコさんは床に座ったままくんくんと空中の何もないところの臭いを嗅いでいた。私は数珠を握ってうとうとしている。どれくらい、夢うつつをさまよっただろう。アコさんの
「みーつけたっ!」
 という不気味なほどに無邪気な吠え声で、私は目覚めた。

 アコさんはまっすぐにダイニングテーブルに向かった。女の人のか細い悲鳴。私にも見える、ダイニングテーブルの下に、女の人の血まみれの手足。
「この人……が……?」
 女の人のすすり泣き、震える血まみれの細い足。この人が、多分彼女さんの方が、本当にひかりちゃんを化かすくらいの悪霊……?この感じじゃ、とてもそうは見えない。まるでそのまま、DVの最中に机の下に逃げ込んだままみたいな……
「この人が悪霊なの?この人、被害者じゃないの?」
「まあ、見てなさいな」
 それと同時に、天井から血が降り注ぎ部屋の中がばしゃんっ、と血だらけになった。
「きゃああああああっ!」
 と、私は思わず叫んだ。だってこんな血の海、見たことない。何なの、あの肉片。ものすごい血の臭い。こびりついて取れない、洗って掃除しても取れない、今際の際の苦悶の念。2人が命絶えたその瞬間で部屋の時間が止まってる。アコさんはもっと嗅覚が鋭いはずなのに、静かにニヤニヤ笑いながら立っている。

 その時、机の向こう側に包丁を持った男の姿が現れた。こいつが加害者、こいつが机の下の女の人を殺した。机の下の足ががくがくと震え、ひぃーっ、という悲鳴が聞こえた。男が包丁を構えて机の方を見る。この男こそが悪霊の正体だ。DV加害者って、こんな鬼みたいな顔になるんだ。吊り上がって見開かれた目、血走ってるし、口は何かを怒鳴ってる。机の下に潜り込んで、女の人を殺しにかかる。女の人がもがいて、そのお腹に男が包丁を突き立てて何度も何度も血しぶきをあげて抉り掘り返す。内臓が、肉が、血が飛び出る。余りの惨劇に、パンケーキが喉をせり上がって来る。
 女の人は助けて、と叫びながら内臓と肉と血をばらまきながら机の下から逃げ出した。その後を男が追う。部屋中に血肉が巻き散らかされる。こうしてあの血の池地獄ができたんだね。女の人は血だまりに足を取られて転び、男がその上にのしかかってまたお腹を刺す。今度こそ女の人は動かなくなり、男の人は何かを叫んで自分のお腹を刺した。苦悶の顔で腹を抉っている。これから、内臓が出るくらい切り裂くんだ。
 事件の再現、事件そのまま。私は吐き気を堪えるのでぎりぎりだった。かろうじて呻く。
「事件そのままって感じ……時間が止まって、繰り返されてるみたい……」
「うん。時間を『止めてる奴』がいる。でも、『それは誰』だと思う?」
「どう見ても男じゃん!アコさん!早く食べてよ!」
 アコさんはさっ、と私の前に手を突き出して制した。そして、
「男の口を見なさい」
 と囁いた。血まみれの、さっきまで悪鬼のようだった男の口を見る。声は出してないけど、口は言葉を紡いでいた。

『ご め ん な さ い ゆ る し て く れ

 も う や め さ せ て く れ』

 その瞬間、男は自分の腹を切り裂いて、内臓を噴き出した。包丁が手を離れ、女の人の方に滑っていく。その女の人、倒れて動かなくなっている女の人、殺されたはずの、被害者であるはずの女の人の顔は、

男を見て笑っていた。

「DVの果ての共依存かしら?それとも、死して復讐を始めた?どっちでもいい。男はあなたに操られてるんだね?もう成仏したがってるのに。あなたがこの場に縫い留めて、何度も何度も惨劇を連続再生している。何も知らない住人に、見せつけて喜んでいる。この、被害者ヅラのメンヘラ女!」

――あんたの魂、いただきます!――

 うあああああああああおおおおおおおおおおおおおおお!

 アコさんの首が犬になって抜けるのと、女の悪霊が包丁を拾って起き上がるのは同時だった。女の顔は邪魔されたからか、あるいは侮辱されたからか鬼女さながらの怒りの顔になっている。女は包丁を振り上げて、アコさんの首を刺そうとした。霊の持ってる包丁、傷つけられたらどうなるんだろう。想像もつかない。だけど、アコさんの首は何のためらいもなく、よりにもよって包丁の刃に噛みつく。私はアコさんの首が、ばっさりと口から切り裂かれるのを想像した。
 けれど、そうはならなかった。包丁は見る見る間に刃こぼれ、どころか錆びて、ボロボロと崩れていく。あんな刃じゃ切るどころじゃない。ただの鉄、ただのサビの塊だ。私は犬神のwikiのページを思い出していた。

『さらには無生物にも憑き、鋸に憑くと使い物にならなくなるともいう』

 アコさんは包丁を食べた。使い物にならなくなる鋸。使い物にならなくなる包丁。
包丁を失った女の悪霊は、腕の先から食べられ始めた。腕を振るって、絶叫しながら犬の首を振り払おうとする。その間に、アコさんの体が跳躍して女の悪霊に飛び蹴りした。きれいな放物線を描いての飛び蹴り、見事に女の悪霊の頭を蹴り飛ばした。テンプル、脳震盪。悪霊でも脳震盪になるのか、女の悪霊はあからさまにふらついた。
「このまま地道に食べると朝になるな……ちゃっちゃとやるか!」
 アコさんの体は態勢を低くして、四つん這いになった。そこに犬の首が戻り、アコさんの体がめきめきと変っていく。獣の姿に、狼のようだけど、それは日本犬。四国犬、って言う種類。アコさんは、馬ほどの大きさの四国犬に変化していた。
 これが、「犬神筋の本性」。「犬の神」。

 うあああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおお!

 巨大な四国犬は、女の悪霊に飛び掛かり頭からかぶりつく。頭蓋骨の噛み砕かれる音。飛び散る脳漿。あっという間に女の頭はなくなる。首から下も、皮膚も骨も筋肉も何もかも、ただでさえ飛び散っていた内臓もバリバリ、むしゃむしゃと、散々にむごたらしく食い尽くされた。ただの血だまりになる程に。咒すら、跡形もなく。
 包丁の刃まで貪り食われ、体全てを、全ての咒の塊を食われ女の悪霊は完全に吸収され有無を言わせず消化された。奪い取った分の咒が、アコさんの中に溜まる。
 そして、ちら、とはらわたをさらけ出したまま呆然と膝立ちになっている男の方を見た。犬の姿のまま、アコさんは言う。
「つらかったでしょう。最初の咎はきっと全てあなたの暴力にあったのだろうけど、彼女は暴走し過ぎた。あなたの暴力が彼女の暴走を助長したのかもしれない、自業自得の1つの形かも知れないけれど。無限に自殺を強要され続け、延々と繰り返すのは本当に苦しかったでしょう。だから、楽にしてあげる。全て、忘れさせて、消してあげる。溶かしてあげる。痛いのは、一瞬だから勘弁してね——」

――あなたの魂、いただきます——

 犬の姿のアコさんが、男の人にのしかかって女の人にしたみたいに食い散らかし始める。グロテスクな光景だったけど、男の顔は安らかだった。加害者から、いつの間にか『被害者を引き立てるための加害者』にされた『被害者』。アコさんは食べることで、この人を救うんだ。散々利用され尽くした男の方にも咒が溜まってて、その分の咒をアコさんは吸収した。
 部屋には、2人分の血だまりが残った。犬の姿のアコさんが、ぺろりと口の周りを舐めた。
「ごちそうさま、でした」
 そう言って、アコさんの姿は人間に戻る。パーカーを拾って、スポブラだけの上半身を隠す。いつの間にか、部屋中の血の海は消えていた。臭いも、何もかも、何もなかったかのように。「特殊清掃」が完了した。「原状回復」されていた。
 遮光カーテンの隙間から朝の陽光が差し込む。アコさんは、食べかすをさっさと片付けて、不動産屋さんに電話をしていた。
「こちら犬上です。業務終わりました。まあ、あとは線香でも——2人分、立ててやってください」
 電話を切って、アコさんは私を見て笑った。

「ひなちゃん、全部見てても平気なんだね。強いね。吐かないなんて」
「アコさん、どうしてあの女の人が本体なんだ、男の人は操られてるだけだ、ってわかったの?私、全然わからなかった」
「これは私だからだよ。臭い。咒の臭い。咒の強い方をよく観察しただけ。女が本気で逃げたくて、かつ男より咒が強いなら簡単に逃げられてたはず。それなのに、いつまでも女は強い咒を持って惨劇を無限ループしてた。だから、長年のカン」
 アコさんはふふん、と笑った。長年のカン、「特殊清掃」のプロ。
 私とアコさんは、連れだってマンダリンマンションを後にした。 

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