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名医の条件、仁医の条件

流れ流れて

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光陰こういん矢のごとしとはよく言ったもので、あれからまたたく間に半年が過ぎた。

ブリスベン町では黒檀色の髪も目も象牙色の肌も童顔も目立たない。

桔梗はラルフの店を手伝いながら生活に必要な知識を吸収した。
読み書きは今も覚束無おぼつかないが。
翻訳機は会話しか使えず、イシリエン帝国には学校がない。
独学では限界がある。
十進法が通じたのは不幸中の幸いだ。
日付と大まかな時刻と季節は神殿に行けば分かるし、下流階級は文字を滅多に使わないし、曜日はない。
四則しそくと簡単な読み書きが出来れば、生活にも仕事にも困らなかった。
困ったのは服くらいだ。
ブカブカのロングワンピースの上にホエホエ(コルセットのような物)を付け、その紐を体型に合わせて締める。
これがイシリエン帝国の下流階級の女性の普段着だ。
仕事の時はエプロンを付け、外出の時は外套を羽織る。
桔梗にとって、いや、現代人にとって動き難い。

桔梗がブリスベン町に馴染んだ頃、彼女の頭の中に若い男性の声が響いた。
彼は平身低頭で謝り倒し、次いで私はクヴァル、セイスの兄神だと名乗った。
降魔大明神(右手に鞭、左手に蝋燭)が降臨した瞬間である。

桔梗はえらい形相で彼を責め立て、慰謝料(この星の植物の知識、地球の医学の知識、自分の視力の回復)をブン取った。
魔王も震え上がりそうな所業である。
神にここまでしたのは後にも先にも彼女だけだろう。

その後、桔梗はイシリエン帝国の医学を引っ繰り返そうと猪突猛進、いや、猛突猛進した。
傷病の見本市と化した下流階級に呆れていたからだ。
トイレがない家は排泄物を道のはしに捨てると聞いた時は目を丸くし、手を洗いも拭きもせずに料理をする人が多いと知った時は頭を抱え、疫病は数年毎に流行るもんだろ?と聞き返された時は卒倒した。
こんなトコで暮らせるかぁ!!!と叫びながら机に向かう桔梗の背中には根性という言葉がにじみ出ていた。

暫くして、桔梗はある老爺ろうやと出会う。
彼はイシリエン帝国の財界の一角を占める商家の当主だった。
長男が薔薇病を患(わずら)い、その静養に付き添って来たらしい。
桔梗は薔薇病と梅毒の症状が似ている事に気付き、同じ薬が効くのではないかと考えた。
梅毒の特効薬と言えばペニシリンだが、課題は原料である。
この星のアオカビと地球のアオカビが同種とは限らず、それを調べる時間はない。
その夜、桔梗はクヴァルから貰った(もぎ取ったとも言う)分厚い植物図鑑(全十冊)を読み漁った。
異世界ならではの植物に目を付けたのだ。
植物からペニシリンを作る。
アレクサンダー フレミングも仰天しそうな挑戦だが、桔梗はやすやすとやってのけ、その薬が老爺の長男を救う。
報酬の大半を注ぎ込んだ自宅兼診療所はブリスベン町の端をデンッ!と陣取り、老爺の後見と相俟あいまって順調なスタートを切った。

この星は医師が少ない。
医学より煉丹術れんたんじゅつが発達しているからだ。
煉丹術は不老長寿を目指す技術であり、薬を用いる外丹術がいたんじゅつと体内の気を用いる内丹術ないたんじゅつに分かれる。
約三百年前にモルドール王国で生まれ、形を変えながら大陸中に広まり、その過程で錬金術れんきんじゅつ、魔術、医学、薬学が派生した。
医学はまだ若く、新参者が軽んじられるのは世の常である。
女性医師の地位は更に低い。
男尊女卑の国は女に内助の功を押し付ける風潮があり、レディーとジェントルマンの国では弱者を護る男が持て囃(はや)される=従軍する仕事は女子供に相応しくないと言われており、女尊男卑の国では労働が男の特権になっているのだ。
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