【完結】それでは、ひとつだけ頂戴いたします

楽歩

文字の大きさ
8 / 40

8.だからこそ

しおりを挟む
 sideクロエ


「次は、呼び出される前に、アルベルト様を呼ぼうかしら」



 そっとティーカップを唇に運び、ひと口含む。わずかに揺れた紅茶が、月明かりを受けて静かに光った。舌に広がるのは、馴染みのある優雅な香り。けれど、今の私にとって、それはただの習慣の一部に過ぎない。


 この国の茶葉は悪くないけれど、もう少し渋みがあってもいいわね――そんな取るに足らないことを考えながら、カップをそっと置く。

 カーテンの隙間から覗く夜の街は、静寂に包まれていた。遠くで馬車の車輪が石畳を叩く音が微かに響き、時折、風が木々を揺らし、葉擦れの音が低く囁く。冬の名残を残した冷気がカーテン越しに忍び込み、肌を撫でた。部屋の中の温もりが、かえってその冷たさを際立たせている。



「商会のことで、でしょうか?」

「次に言い出すとしたら、きっとそれですもの」



 グレゴリーの問いに、微笑む。新しい屋敷の準備も、そろそろ整う頃だ。そこでの暮らしが本格的に始まれば、過去とは決別しなくてはならない。



「新しいお屋敷へは、明日にでも移ることができます」


 グレゴリーの声を聞きながら、カーテンをわずかに引き、窓の外を見つめる。ぼんやりと滲む月光が指先を淡く照らした。



「使用人のみんなは困っていないかしら?」

「特に問題はありません。侍女長のメイベルも落ち着いております」



 そう――ならば、いい。

 けれど、胸の奥では小さな波紋が広がる。何かを得るということは、何かを切り捨てることでもある。新しい屋敷が完成すれば、すべてが整う。お義母様と過ごしたあの邸を手放すのは、決して容易いことではなかった。お義母様たちとの思い出も、あの邸に残されているのだから。



「それにしても、紹介状も持たせずに辞めさせるなんて……何を考えているのかしら」


 扇を手に取り、ゆるりと開く。思わず吐き出した言葉に、苦笑が滲んだ。何かあったら私を訪ねてくるように使用人たちには伝えていたが、こんなに早く。



「そうですね。こちらに雇用が決まっていたようなものだったからよかったものの……それに、アルベルト様は使用人たちへ、給料代わりに邸の物を一つ譲ったとか」

「それもどうかと思うわね……」



 私の目がわずかに細まるのを感じた。使用人たちはそれを手土産として私の元へとやってきた。



「……あの邸の物を手に入れるための策が、無駄になりましたな」

「ふふ、予想以上に簡単に手に入ったのだもの。よいことにしましょう」



 グレゴリーが小さくため息をついた。




「グレゴリー、使用人の皆には、きちんとした保証をしてちょうだい」

「皆、クロエ様のお役に立ちたいのです。喜んで差し出していましたよ」

「それでも、私は……礼を尽くしたいのよ」



 私はゆっくりと振り返る。

 張りつめた静寂の中、冷えた指先が湯飲みの縁をなぞる。まだぬくもりが残っているのに、私の喉は乾いたままだった。



「邸の物を簡単に一つ譲るなど……子どもの頃から浅はかなところは、少しも変わっておりません」


 グレゴリーの呆れた声は、夜気に紛れて冷たく響いた。私は視線を伏せる。



「だからこれまで、お義母様が尻拭いをしてきたのよ……」


 そこに滲むのは、哀れみではない。



「エレオノーラ様が爵位をクロエ様にお譲りになったのは、まことに賢明なご判断でした」

「それでも……もし最期の瞬間、アルベルト様が駆けつけ、お義母様の手を取り、涙を流し、悔いたのなら……お義母様は、きっと許したわ。跡も継がせたでしょうね」

「‥‥‥私も、そう思います」



 グレゴリーだって、亡きお義母様の傍らでアルベルト様が涙を流し、悔いたのなら……今までのことなど水に流して許しただろう。私はそっと机に手を添え、指先で木目をなぞる。過去の痛みをなぞるように。


「だからこそ、許せない」


 その一言の中に、長い年月をかけて積もった怒りと侮蔑が宿っていた。



「優しいお義母様に心労をかけ、何かあれば尻拭いさせて、それでいて自分は不満ばかり。……あの人が、お義母様の寿命を削ったのよ」



 吐き捨てるように、しかし静かに。確かな怒りだけが、声に芯を与えていた。



「……クロエ様も、同じような日々をお過ごしでした。私は、そう思っています」

「私のことは、いいの」



 そっと目を閉じる。心の底に沈んでいた思いが、じわじわと胸を満たしていく。



「妻ではなく、アルベルト様にとっては、ただの使用人だと割り切っていたもの」

 今は……夫ではなくお義兄様だけれど。



 グレゴリーが小さく、含みのある笑みをもらす。風がカーテンを揺らし、燭台の火がわずかに揺らめいた。



「クロエ様。明日は、この仮の宿を離れ、屋敷へ向かいましょう」



 私は静寂に包まれた夜の空気を、深く、静かに吸い込んだ。


「ええ。そうしましょう……一度に片をつけるつもりはないわ。お義母様が苦しんだだけ、あの人にも味わわせてあげる」


「……では、私の方でアルベルト様に使いを出します」

「お願い」


 夜の帳が、私たちの言葉をそっと、静かに包み込み、グレゴリーが席を立つ音が、床に沈んだ。

 扉が閉まり、再び部屋は私ひとりになった。



 窓の外では、夜の闇が深まり、遠くで梟が低く鳴いた。ひとしきり揺れたカーテンが落ち着くと、私の周囲もまた静けさを取り戻す。

 私は立ち上がり、棚の上に置かれた小箱を手に取った。古びた銀細工。蓋を開け短い手紙を取り出す。



『クロエへ――あなたの選ぶ未来を、誰も否定する権利はないわ。どうか、自分を大切に』



 その筆跡を見つめると涙がこぼれた。私の選んだ道は、復讐でも、報復でもない。ただ、正当な「けじめ」だった。奪われた時間。傷つけられた尊厳。踏みにじられた心。私ではなく、お義母様の。


 ――返してもらうだけ。 


 私は小箱を閉じると、しっかりと抱きしめた。

 そして、静かに呟く。


「お義母様……見ていて。私は、迷わない」



 夜はまだ明けない。

 けれどその暗闇の底で、確かな決意が静かに芽吹いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結160万pt】王太子妃に決定している公爵令嬢の婚約者はまだ決まっておりません。王位継承権放棄を狙う王子はついでに側近を叩き直したい

宇水涼麻
恋愛
 ピンク髪ピンク瞳の少女が王城の食堂で叫んだ。 「エーティル様っ! ラオルド様の自由にしてあげてくださいっ!」  呼び止められたエーティルは未来の王太子妃に決定している公爵令嬢である。  王太子と王太子妃となる令嬢の婚約は簡単に解消できるとは思えないが、エーティルはラオルドと婚姻しないことを軽く了承する。  その意味することとは?  慌てて現れたラオルド第一王子との関係は?  なぜこのような状況になったのだろうか?  ご指摘いただき一部変更いたしました。  みなさまのご指摘、誤字脱字修正で読みやすい小説になっていっております。 今後ともよろしくお願いします。 たくさんのお気に入り嬉しいです! 大変励みになります。 ありがとうございます。 おかげさまで160万pt達成! ↓これよりネタバレあらすじ 第一王子の婚約解消を高らかに願い出たピンクさんはムーガの部下であった。 親類から王太子になることを強要され辟易しているが非情になれないラオルドにエーティルとムーガが手を差し伸べて王太子権放棄をするために仕組んだのだ。 ただの作戦だと思っていたムーガであったがいつの間にかラオルドとピンクさんは心を通わせていた。

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

王命により、婚約破棄されました。

緋田鞠
恋愛
魔王誕生に対抗するため、異界から聖女が召喚された。アストリッドは結婚を翌月に控えていたが、婚約者のオリヴェルが、聖女の指名により独身男性のみが所属する魔王討伐隊の一員に選ばれてしまった。その結果、王命によって二人の婚約が破棄される。運命として受け入れ、世界の安寧を祈るため、修道院に身を寄せて二年。久しぶりに再会したオリヴェルは、以前と変わらず、アストリッドに微笑みかけた。「私は、長年の約束を違えるつもりはないよ」。

婚約破棄追放された公爵令嬢、前世は浪速のおばちゃんやった。 ―やかましい?知らんがな!飴ちゃん配って正義を粉もんにした結果―

ふわふわ
恋愛
公爵令嬢にして聖女―― そう呼ばれていたステラ・ダンクルは、 「聖女の資格に欠ける」という曖昧な理由で婚約破棄、そして追放される。 さらに何者かに階段から突き落とされ、意識を失ったその瞬間―― 彼女は思い出してしまった。 前世が、 こてこての浪速のおばちゃんだったことを。 「ステラ? うちが? えらいハイカラな名前やな! クッキーは売っとらんへんで?」 目を覚ました公爵令嬢の中身は、 ずけずけ物言い、歯に衣着せぬマシンガントーク、 懐から飴ちゃんが無限に出てくる“やかましいおばちゃん”。 静かなざまぁ? 上品な復讐? ――そんなもん、性に合いません。 正義を振りかざす教会、 数字と規定で人を裁く偽聖女、 声の大きい「正しさ」に潰される現場。 ステラが選んだのは、 聖女に戻ることでも、正義を叫ぶことでもなく―― 腹が減った人に、飯を出すこと。 粉もん焼いて、 飴ちゃん配って、 やかましく笑って。 正義が壊れ、 人がつながり、 気づけば「聖女」も「正義」も要らなくなっていた。 これは、 静かなざまぁができない浪速のおばちゃんが、 正義を粉もんにして焼き上げる物語。 最後に残るのは、 奇跡でも裁きでもなく―― 「ほな、食べていき」の一言だけ。

美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ 

さら
恋愛
 会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。  ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。  けれど、測定された“能力値”は最低。  「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。  そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。  優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。  彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。  人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。  やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。  不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

夫の告白に衝撃「家を出て行け!」幼馴染と再婚するから子供も置いて出ていけと言われた。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵家の長男レオナルド・フォックスと公爵令嬢の長女イリス・ミシュランは結婚した。 三人の子供に恵まれて平穏な生活を送っていた。 だがその日、夫のレオナルドの言葉で幸せな家庭は崩れてしまった。 レオナルドは幼馴染のエレナと再婚すると言い妻のイリスに家を出て行くように言う。 イリスは驚くべき告白に動揺したような表情になる。 「子供の親権も放棄しろ!」と言われてイリスは戸惑うことばかりで、どうすればいいのか分からなくて混乱した。

婚約破棄された令嬢は、選ばれる人生をやめました

ふわふわ
恋愛
王太子フィリオンとの婚約を、 「完璧すぎて可愛げがない」という理不尽な理由で破棄された令嬢・セラフィナ。 代わりに選ばれたのは、 庇護されるだけの“愛される女性”ノエリアだった。 失意の中で王国を去ったセラフィナが向かった先は、 冷徹と噂される公爵カルヴァスが治めるシュタインベルク公国。 そこで提示されたのは―― 愛も期待もしない「白い結婚」。 感情に振り回されず、 責任だけを共有する関係。 それは、誰かに選ばれる人生を終わらせ、 自分で立つための最適解だった。 一方、セラフィナを失った王国は次第に歪み始める。 彼女が支えていた外交、調整、均衡―― すべてが静かに崩れていく中、 元婚約者たちは“失ってから”その価値に気づいていく。 けれど、もう遅い。 セラフィナは、 騒がず、怒らず、振り返らない。 白い結婚の先で手に入れたのは、 溺愛でも復讐でもない、 何も起きない穏やかな日常。 これは、 婚約破棄から始まるざまぁの物語であり、 同時に―― 選ばれる人生をやめ、選び続ける人生を手に入れた女性の物語。 静かで、強くて、揺るがない幸福を、あなたへ。

処理中です...