忌花

こ★め

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二章 青藍の夢

漆黒の揺り籠

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 覚えている事はあまりなかった。すべてを思い出すのに、随分と時を要した。

 ────なまえ。そう、名前。

 名前はすべての鍵だと…誰かが…そう、彼が。私に言った。


 部屋を覆う氷は強固で、思いの外行く手を阻まれた。アレッシオはあまり冬の経験がない。生まれた島は常春だったし、流れ着いた地は季節が移り変わったような記憶はない。───そもそも、時の概念が無い時点で季節の移ろいなどという風情はなさそうだが。故に、冬山の行軍など経験があろう筈はなく、足を取られてなかなかに苦戦している。

 あの男が拒絶した想いに呼応したのであろうが、面倒な事この上ない。脛を何度打っただろうか、と恨み言を心中に呟き歩を進め、地表に咲く水晶柱のような一際大きな氷に辿り着いた。少女を抱えて佇む姿は、さながら棺のようにも見える。
 瞳を閉したネーヴェのその胸元を、氷ごと持たされた短剣で貫く。覆う氷が僅かな抵抗を見せたが、不承不承飲み込んでいく。

 それは、ほんの一滴の黒に過ぎなかったはずだった。小振りの短刀。それが解けるように形を失い、やがて氷を黒く染め上げた。光を飲み干すような闇色は、氷を染めるのみならず、空間そのものを喰い荒していく。自分が立っているのか座っているのか、起きているのか寝ているのかもわからなくなった頃、ざらりとしたものが記憶の縁を撫で上げる感じを覚えた。

(俺の名前は…

 ネーヴェ達はそもそも勝手に呼んでいるだけの呼称だが、自分の名前はアレッシオではなかったのだと、唐突に感じた。けれども、それ以上はわからない。────元の名前が何なのか。
 それを思い出せなくとも、記憶の底を引っ掻くものに心を委ねれば、傷口から滲み出るように蘇るものがあった。

 あれはいつの事だろうか?王都の外れにあった鈴蘭の群生地。白い可憐な花ではあるが、その実根や葉、茎…花の後に成る愛らしい赤い実にさえ毒を持つ。花瓶に挿したその水さえも毒となる為、王都内への持ち込みが禁じられていた。この場所は、王族によって管理された直轄地だった。出入りするにも制限を掛けられていたのを憶えている。
 そこに、一組の男女の姿があった。雪のように白く、紅玉のような瞳が印象的な美しい少女。年の頃は、17、8といったところだろうか。半歩下がった位置に立つ、少女より10程年上の男だ。肌は白いが髪は射干玉ぬばたまの黒で、やや怜悧で精悍な顔立ちの美丈夫。淡い藍緑色の瞳には、常と違って甘さを含んで少女を見下ろしていた。

 アレッシオは、こんなふうに穏やかに過ごしている二人を見るのがとても好きだった。近年国が乱れ、剣を取り転戦する事が増えていたから尚の事だ。
 この日も、翌日から遠征する事が決まっていた気がする。故にこそ、穏やかな時間を好ましく思うのだろう。見た目を裏切り当代随一の猛将だった少女と、少女の副官であり参謀であり…婚約者でもあった男にとって、この遠征は行くべきでなかった戦場だった。

 国を護りたいと願い、剣を手に戦地を駆けた恋人達。彼らは在りし日のネーヴェとセルペンテであった。
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