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第四十一章 勇者の選んだ道の先
しおりを挟む柔らかい風が、頬を撫でていく。冷たい空気が、肺に入ってくる。小さく咳き込んで、勇者は目を開けた。
夢だ、とまずは思った。
眠る……基、意識を失う寸前までの記憶は、はっきりとある。死力を尽くした戦いの後、満身創痍の身体を横たえたところまでは覚えているのだ。そこから先の記憶はないけれど……今の身体は、傷一つない。痛みも当然なく、疲労すらない。まるであの戦いなどなかったかのようなのだ。だから、夢だと思ったのだ。
そして何故かこの空間にはレナードが居た。目覚めて体を起こすリオニスの横で、空を見上げていた。その姿を見て、リオニスは幾度か瞬いた。
「……俺も死んだのかな」
空を見上げているレナードの姿を見て、リオニスは小さく呟いた。自分は確かに彼を倒したはずだ。其れなのに彼が此処に居て、ぴんぴんしている(ようにみえる)のは……彼を倒したその後で自分も死んでしまったからだろうか、と。
「さぁな」
そっけなく答えながら、ふんとレナードは鼻を鳴らした。攻撃してくる様子はない。敵意も殺意も感じない。その点からもやはり、眠った自分の、或いは死にかけている自分の見ている夢なのだろうな、とリオニスはそう判断した。
そして、どうせ夢ならばと、妙なところで大胆さを発揮した勇者は軽く唇を舐めて、口を開いた。
「……なぁ」
無視されるかもしれない、そう思ったが、魔王はちらと視線を投げてきた。言葉はない。煩わしげな視線ではある。けれどどうやら聴いてくれる意思はあるらしい、とそう判断したリオニスは、言葉を紡いだ。
「ごめん」
リオニスの口を衝いて出た言葉は、そんなもの。それを聞いたレナードは金緑の瞳を一瞬大きく見開いて……そこに色濃く不機嫌を灯した。
「は?」
地獄の底から響くような低い声に、リオニスは亀のように首を竦める。先刻までの勇ましさは何処へやら、困ったように眉を下げ、視線をあちらこちらへ逃がしながら、彼は言葉を続けた。
「……いや、うん、謝られても腹が立つだけなのは、わかってるんだけどさ、それでも、謝りたくて」
どうせ夢ならば、と彼は言葉を続ける。自己満足なのはわかっている。けれど、伝えずにはいられない。怪訝そうに、不機嫌そうに眉を寄せている、自分によく似た魔王の顔を見つめながら、リオニスは真剣な表情で言った。
「お前のやり方は、絶対間違ってた。それだけは、絶対に否定しないけれど」
魔王のやり方が間違っていたことは、絶対に否定しない。仕方ない、と流すことなどできない。そこはリオニスの中で固まっていることだ。
世界を呪い、強さを否定した自分を呪い、その果てに魔王として世界を滅ぼそうとするなど、何があっても赦されないことだ。その所為で酷い目に遭った人間は多く居たし、犠牲になった者も居た。その行動は絶対に間違っていたと、そこだけは確信している。
―― ……けれど。
「だけど、間違わせたのは俺だから」
リオニスはそう言って、そっと息を吐いた。相変わらず顔を顰めているレナードを見据えたまま、困ったように笑いながら、彼は言う。
「俺が、ちゃんと強ければ、本当の意味で強ければ……お前に、そんな思いを背負わせることはなかっただろうから、さ」
人々に愛されたい。そのためには強さを持っていてはいけないのだと思い違いをした自分が悪いのだ。何故自分は認められないのかと自分を顧みるのではなく、自分の中にある"間違っていると思うもの"を切り離して、棄てて、なかったことにしようとした。それが間違っていたのだとリオニスは言う。その所為で、負の感情を溜め込んだ強さは魔王としての器を得てしまった。勇者に憧れていたのに魔王として孤独に生きたレナードはきっと……辛かったはずだ。彼もまた自分自身なのだから、わかる。
「だから……ごめん」
謝って済むことではない、絶対に。そもそも、魔王に詫びるというのもおかしな話だということも、わかっている。それでも……詫びずにはいられなかったのだ。自分が勇者に選ばれたときに"何故自分が"と不貞腐れたのと同様に、きっと彼も"何故自分が棄てられたのか"と思っただろうから。何より……"彼の方が間違っていたのだから自分は赦される"などとは到底思えなかったのだ。
そんなリオニスの言葉にレナードは暫し呆けた顔をしていた。色違いの瞳が幾度も瞬き、やがて……彼は深々と溜息を吐き出した。
「……馬鹿だな」
吐き捨てるように、彼は言った。じとりとした視線をリオニスに向けながら、レナードは低い声で言う。
「自分自身に謝って楽しいか」
「……楽しくはない」
「魔王に謝る勇者というのも意味不明だ」
「そう、だな」
ぐうの音も出ない。溜息を吐き、項垂れるリオニス。
……彼の言う通りである。幾ら夢で、自己満足とは言っても……意味不明だ。魔王に謝る勇者など、正直前代未聞だろう。
「……でも」
ふ、と息を零すように、レナードは言った。
「でも、それが……きっと、俺の本質なんだな」
呟くように、レナードは言う。項垂れていたリオニスが顔を上げるのと同時、レナードが立ち上がった。そして、リオニスを見下ろしながら、彼は口を開く。
「……一つだけ訊くが」
影になっていて、彼の表情は、良く見えない。静かで、冷静な声で彼はリオニスに問いかけた。
「もし仮に、お前が死んでいなかったとして……目を覚ましたいと、お前は思うのか」
「え」
レナードの問いかけの意図を汲みかねて、リオニスは小さく声を漏らす。レナードはそんな彼を見下ろしたまま、静かな声で言葉を続けた。
「仲間は皆死んだ。他にも死んだ人間はたくさんいただろう。何故もっと早く動かなかったのかと言う者も居るだろう。死なせたお前の仲間の"家族"に恨まれるかもしれない。かつての俺のように、人に恐れられ、避けられるかもしれない。憧れた結末ではないかもしれない。……それでも、お前は目覚めたいと、そう思うのか」
絵本の世界ではない現実は、決して甘くない。それを誰より知っているレナードは、冷たく問いかける。魔王を倒した勇者のリオニスを受け入れる者ばかりではないかもしれない。彼を恨む者もいるかもしれない。彼を恐れる者も居るかもしれない。それでも良いのか、と。全てを受け入れる覚悟はあるのか、とレナードは問う。真っ直ぐにリオニスを見つめながら。冷たい声で告げられる、現実。案じるというのとは違う……ただただ、事実を伝え、問うている声音だ。
それを聞いたリオニスはゆっくりと瞬いた。そして、静かに立ち上がる。自分と全く同じ背丈のレナードの正面に立ち、ふっと息を吐き出して……頷いた。
「目覚めたいと、そう思うよ。
俺が此処で死んだら、仲間の……シュライクやユスティ、オズやロレンスのことを伝える人間が誰も居なくなる。
お前の言う通り、仲間の……特にシュライクの家族には恨まれるかもしれないし、それ以外にも色々あるかもしれないけど、それでも……」
ずっと共に旅をしてくれた仲間達のことを伝えたい。自分を信じてついてきてくれた仲間達のことを。……自分が守り抜けなかったもののことを伝えたい。リオニスはそう言った。
レナードが言う通り、きっと辛いこともたくさんあるだろう。魔王を倒した勇者であることは間違いないが、それと同時……かけがえのない仲間を守り抜けなかったのも自分なのだ。仕方のない犠牲だった、と言う人間が居るのなら、それは違うと否定したい。自分が弱かった所為だと。自分を信じて送り出してくれた人たちには謝らなければいけない。特に……シュライクの帰りを待っているあの小鳥たちには一生赦してなどもらえないかもしれない。……それでも、此処で終わりで逃げたくはないのだ、とリオニスはそう言った。
それを聞いてレナードはゆっくりと瞬く。それから一つ息を吐いて。
「そうか」
小さく呟くと同時、レナードは強く、リオニスの胸を押した。
「な……!?」
予想していなかったレナードの行動にふらつき、後ろに後ずさると同時、リオニスを襲ったのは浮遊感だった。
いつの間にか足元の地面が消え、リオニスの身体は落下する。何処へ? そんなものは、リオニスにもわからない。
「いけよ」
最後に聞こえたのは、レナードのそっけない声。
そんな声と同時に、リオニスの身体は闇に飲み込まれる。それを見下ろしていたレナードは小さく息を吐き出して、笑った。
「レグルス・リティング」
紡がれる、自分と同じ呪文。それと同時に迸る魔力。強い強い風が吹いて、大きく、レナードの髪が揺れる。
リオニスが落ちていった方を見つめながら、レナードはそっと言葉を紡いだ。
「……見せてみろ。お前たちの絆が、本物だというなら」
―― これが俺からの最後の魔法だ。
レナードはそう言いながら、そっと目を閉じた。
***
ぱち、と目が開いた。はっとしたリオニスは体を起こそうとして……
「っ、いってて……」
痛みに呻く。全身が痛い。疲労感も、酷い。
……どうやらこれは、現実だ。そう思い、顔を顰めると同時……ひょい、と視界に何かが映り込んだ。ぎょっとして、目を見開く。そんな彼を見下ろしているのは、梟の仮面をかぶった少年だった。中央都市(アレキシア)で出会い、別れた予言者の少年。
「フロスト、様?」
掠れた声で名を呼べば、彼は小さく頷いた。そして、静かな声で言う。
「おめでとう。君たちは、辿り着いたんだね」
おめでとう。そう言われて、リオニスは理解する。……嗚呼、自分は生きているのだ、と。
先程まで見ていた夢の中で、リオニスはレナードに"目を覚ます覚悟はできている"と答えた。その言葉に嘘はない。……けれど、やはり苦しいものは、苦しい。
目覚めても、傍には誰も居ない。自分の所為で、大切な仲間は皆……――
「……こんなことなら」
口を衝いて出たのは、そんな言葉。それを聞いたフロストは、ゆっくりと首を傾げた。
「仲間なんて要らなかった?」
こんなにつらい想いをするくらいならば一人の方が良かった? フロストのその言葉に、リオニスははっと息を呑んで……
「……いや」
ゆっくりと、首を振った。そして、そっと息を吐き出しながら、彼は言う。
「楽しかった。幸せだった。……だからこそ、くるしい」
何故自分が勇者などに選ばれたのか。そう思いながら一人で旅立った。仲間などいない、一人ぼっちの出発。一人で良い、それがいつものことだから。初めはそう思っていたけれど……そうではなかったのだと、すぐに気づいた。
一人ではこの旅は為しえなかった。きっと、途中で死んでいた。魔王のところへ辿り着くことすらできなかっただろう。
けれど、仲間はただ魔王を倒すために必要だったというだけではない。
旅の中で出会った仲間達とは、たくさんの思い出を作った。辛いことも、痛いことも、哀しいことも確かに沢山あったけれど……楽しくて、幸せだった。誰かとあんな風に笑い合って過ごしたのは初めてだった。誰かをあんなに大切だと思ったのは、あんな風に大切にされたのは初めてだった。
……楽しかった、幸せだった。だからこそ、つらく、哀しく、苦しいのだとリオニスはそう言った。
「俺が強ければ、皆は死なずに済んだんだ。
……皮肉なものだよな。彼奴が言った通りだ。実際俺は自分が切り捨てたものによって、やっと気づいた大切なものを失ったんだから」
誰にも愛されなかった、レナードと一つだったあの頃には理解できなかったものを、今は得ることが出来た。自分が切り捨てたモノを倒すために出た旅で、仲間を手に入れ、仲間と過ごす楽しさを知った。そしてその魔王によってその大切なものを喪った。皮肉なものだ、とリオニスは泣きそうに笑う。
そんな彼をじっと見つめていたフロストは、こてりと首を傾げた。
「失った、と思うのは早すぎるんじゃあないかな」
そう言うと同時に、フロストが手を伸ばして、リオニスの胸を押した。先程のレナードと同じように。
それと同時、また体を襲う浮遊感。
「っ、くそ」
思わず、毒づく。
なんでまた? 俺の扱いが雑過ぎやしないか、と大きく目を見開くリオニス。
それを見つめて、フロストは仮面の下、そっと笑ったようだった。
「いつも夢見てきた冒険譚がこんな終わりで良いはずがないだろう?」
そんなフロストの言葉と同時に、リオニスの視界が白く染まっていく。
眩しい。目を開けて、いられない。ぎゅっと目を閉じるリオニスの耳に聞こえたのは、フロストの優しい声だった。
「さぁ、目を開けて。君が選んだ道の先を見るんだ」
***
目を開ける。
―― 何度目だ、この状況。
恨みがましいような感情を抱き、そう思いながらリオニスは体を起こそうとして……
「っ……」
やはり、痛みに呻いた。先程のフロストとの会話も現実だと思っていたが、これこそが現実か? 或いは……いっそ、これも夢なのか? もはやわからなくなってきた。疑心暗鬼である。
「っ、う……」
身じろぎしようとして、また呻いた。
これが夢にしても現実にしても……どうしたものか。痛くて、怠くて、体を起こすことも叶いそうにない。
……それでもまぁ、良いかなとすら思う。もう急ぐ必要もないのだし。そんな投げやりな思考になった、その時だった。
はっと、誰かが息を呑んだような音。それに続いて。
「リオ?」
よく知った声が、聞こえた。もう聞こえるはずのない、最初の仲間の声が。
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