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第三十二章 勇ましい小鳥と迷い星
しおりを挟むいつものように一人で空を見上げる。誰も入ってこないような路地裏の行き止まり。夜になると流石に治安も悪く、近づこうという気は起きないが、今のように明るい時間帯であれば通りかかるのが野良猫程度と言う非常に静かで落ち着く場所なのだ。
近くにある店のものであろう木箱に腰かけ、ふっと息を吐き出して蜂蜜色の瞳を細めている少年……アルフェラッツ。
彼が一人でこうして過ごすのは決して珍しいことではない。夜になれば、自分と同じ境遇の子供たちが集っている場所に戻る。しかしそれまでは自由行動していることが多かった。適当なタイミングでその時の住処を抜け出し、適当なタイミングで食料や日用品を"調達"して、戻る。しかしそんな日々の中で、他の子供たちと会話をすることは殆どなかった。それで良い、それが良い。そう思っているのは他でもないアルフェラッツで。
……今は特に、あの子供たちを構う人間が多く居る。自分があの場に居る理由は特段ない。盗みをする必要すら、そろそろなくなるだろうな、とアルフェラッツはぼんやり思った。
戦い方を覚えた子供たちはちょっとした用心棒でもすれば良いと思うし、治癒術を学べば街の医者の手伝いなどをすることが出来るかもしれない。信用勝負な部分はあるためすぐには上手くいかないだろうが、元々愛想が良い子供が多いことはアルフェラッツもよく知っている。きっと上手くいくだろう、"彼らは"……――
そんなことを考えていたその時、不意にそんな彼の視界に入り込んできたのは、短い銀髪にネモフィラ色の瞳の少年だった。
「よぉ」
「うわ?!」
思わず声を上げ、木箱から転げ落ちた。そのまま反射的に逃げの姿勢を取る。しかし、そんな彼に笑いかけながら、少年……勇者一行の仲間だというシュライクは言った。
「逃げても無駄だぞ、俺は足が速いからな!」
追いかけっこするか? と無邪気に笑うシュライク。その顔をまじまじと見つめたアルフェラッツは諦めたように溜息を吐き出して、木箱に座り直した。
「……何しにきたんだよ」
蜂蜜色の瞳に剣呑な光を灯して、少年はシュライクを睨み付ける。背も高く、体格も良い彼の一睨みはきっとシュライクと同い年の普通の少年少女なら怯むようなものなのだろう。しかしシュライクは普通の子供ではない。自分よりほんの少し背の高い少年に睨み付けられたところでどうということもない。
「そりゃ俺の台詞だよ」
拗ねたように唇を尖らせながら、シュライクは首を傾げた。
「何で他の奴らと一緒に居ないんだ?」
探したんだぞー、とシュライクは言う。それを聞いたアルフェラッツはふいとそっぽを向いた。
「別に良いだろ、どうでも。わざわざ何しに来たんだよ」
吐き捨てるように彼は言う。今この場に居る少年の行動理由がさっぱりわからない。そんな感情の乗った声は刺々しいものだった。それを聞いて、シュライクは眉を寄せた。
「良くねぇよ、寂しいだろ」
こんなところに一人で、とシュライクは言う。ぴくり、とアルフェラッツの肩が跳ねた。それを気にする様子もなく、シュライクは言葉を続けようとした、その刹那。
「煩い、ほっとけよ!」
そんな叫びと同時、アルフェラッツは近くの建物の壁を殴った。ガン、と鈍い打音が響く。
シュライクは驚き、大きく目を見開く。心配して、慌てて彼の手元を見たが、その目に映ったのは彼の手の形に凹んだ外壁。バラバラ、と壊れた壁の破片が落ちた。
「……あ」
大きく見開かれたアルフェラッツの瞳。それに色濃く灯るのは動揺と、絶望。……やってしまった、と言う感情が胸を埋める。脳内を巡るのは、幼い頃の記憶だった。
物心ついたときから彼は孤児院に居た。街の人々の寄付で運営されていた孤児院での生活はそれなりに充実していた。親の顔を知らずとも辛いとは思わず、与えられた仕事をこなしながら、アルフェラッツは成長していった。
アルフェラッツが好きだったのは孤児院を抜け出して、外の子供たちと遊ぶ時間だった。見つかると怒られたけれど、それでもアルフェラッツはしばしば孤児院を抜け出して、街の子供たちと遊んでいた。
孤児院の外の子供たちはたくさんのことを知っていた。アルフェラッツが持っていないような服やおもちゃも持っていた。アルフェラッツが行ったことのないような店の話や食べたことのないものの話を聞くのが彼は好きだった。子供たちも、自分たちの話を目を輝かせて聞くアルフェラッツのことを気に入っていたようで、彼が抜け出してくるといつも一緒に遊んでいた。
そんなある時、事件は起きた。その時のことは今でもはっきりと思い出せてしまう。
泣きじゃくる自分と同じくらいの年頃の子供。その子供の手首は赤黒く腫れている。先刻までその手首を掴んでいた自分の手を見つめ、アルフェラッツは茫然とした。
ただ、誘っただけなのだ。綺麗な花が咲いている場所があるから、そこに一緒に行こうと。親のない自分と親しくしてくれた大切な友人に綺麗な景色を見せたくて。友人が頷いてくれたのが嬉しくて、その手首を掴んで、手を引いて行こうとしただけなのだ。しかし、その刹那響いたのは、その子供の悲鳴だった。
傷つけようとした訳ではない。それは誓って本当だった。ただ手首を掴んだだけ。その力が他の人間……同じような子供からかけ離れたものであることは、アルフェラッツにもわからないことで。
しかしそんなこと、怪我をした子供にも、子供の悲鳴に駆け付けた大人たちにも伝わるはずがない。謝ろうと近づいたアルフェラッツに跳んできたのは、石と冷たい言葉だった。
―― 化け物! 近づくな!
そんな言葉に、アルフェラッツは逃げ出した。ぼろぼろと涙が零れ落ちたけれど、それを拭うことすらできないまま、彼は逃げて、逃げて……辿り着いたのが、この街だった。
平和ではあるものの他者への無関心が強い街。孤児が迫害されることもないが受け入れられることもない街だった。
行く先もない。帰る宛もない。途方に暮れたアルフェラッツに、小さな影が二つ近づいてきた。
―― お前も帰る家、ないのか?
そう声をかけてきたのは、ワイン色の瞳の少年(後々少女だったと知ったが)……シャウラだった。小さく頷くアルフェラッツを見て、"じゃあ仲間だな!" と笑ったのは、シャウラと一緒に街に出てきていたエニフだった。
その言葉が嬉しかった。嬉しいと同時に……怖くなった。自分は可笑しいのだ。普通の人間ではないのだ。普通に振舞おうとしても出来ないのだ。"あの時"のように、無意識のうちに誰かを、何かを壊してしまうかもしれない。……もう、あんな視線を向けられるのは嫌だ。
そう考えたアルフェラッツは仲間だ、と呼んでくれた彼らから距離を取った。話さない訳ではない。声をかけられれば応じる。食事の調達などは遠巻きに参加したり、自分だけ別行動でこなし、仲間達の元へそっと置いておいた。自分と同じ年頃、或いはもっと年下の孤児たちにアルフェラッツが自分から近づくようなことはしなかったし、何より触れることは絶対にしなかった。
彼と同じ孤児の仲間たちは不思議そうな顔をしてはいたが、あまり構われたくない性質なのだろう、とそっとしておいてくれた。それに安堵すると同時に酷く寂しかった。
どうしたら良いのかわからなかったのだ。自分を仲間と呼んでくれる優しい孤児たちに、どう振舞ったら良いのか。
だから……羨ましくて、妬ましかった。初めて会ったのにああして彼らと交流を深められる勇者たちが。勇者たちから様々なことを学ぶ仲間たちが。暖かな居場所を上手に作れる彼らが。
八つ当たりだとわかっている。わかっているからこそ、"寂しいだろう"と言うシュライクの言葉に激高してしまったのだ。
は、と息をする。どれくらい茫然としていただろう。ほんの一瞬であった気もするし、数分が経過したような気もする。
驚かせた? 否、怯えさせたかもしれない。そう考えながらアルフェラッツが恐る恐るシュライクを見れば、彼はネモフィラ色の瞳をまん丸く見開いていた。
「すげぇ!」
彼の口から紡がれたのは罵声でも恐怖の言葉でもなく、称賛。は? と声を漏らすアルフェラッツを見つめ、シュライクは無邪気に笑った。
「俺と同じだな!」
「お、同じ?」
予想もしていなかった彼の反応に目を白黒させながら、アルフェラッツは彼の言葉を繰り返す。シュライクはそれに頷いて見せると、ぽんぽんと自分の腕を叩いて、言った。
「俺も、力強いんだぞ!」
そう言いながらシュライクは得意げに笑う。それを聞いたアルフェラッツは蜂蜜色の瞳を大きく見開いて……
「……本当?」
思わずそう、問いかけた。それを聞いたシュライクは少し困ったように笑う。そして、手近にあった石を手に取って、アルフェラッツに見せた。
「見ててくれよ」
そういうと同時、彼は軽くその石を握りしめた。刹那、その石はまるで脆い砂細工か何かであったかのように砕け、ぱらぱらと足元に散らばる。わ、と声を上げるアルフェラッツを見つめ、シュライクは小さく肩を竦めた。
「これで証明したことになるかわかんねぇけど……本当だよ」
そう言った彼はがしがしと頭を掻く。
「他の人間よりずっと力強ぇの。ずっと昔、物心ついたときから、ってやつ? 多分これが原因で俺は捨てられたんだろうなあ。上手くいかないこともたくさんあったしさー」
そう言って、シュライクはけらけらと笑う。そんな彼をまじまじと見つめたアルフェラッツは掠れた声で問いかけた。
「……辛くないのか?」
確かに彼と自分の体質は"同じ"だ。普通の人間とは比べ物にならないような力を持っている。簡単に石を粉砕できるような強い強い力を。それを持っていたのが物心ついたときから、と言うのも同じである。上手くいかないこともあった、と彼自身も言った。しかし、それでは解せないことがある。……辛くはなかったのか、と言うことである。親に捨てられたのもそれが原因かもしれない、などとあっけらかんと言ってのける彼。その心は、傷ついていないのだろうか、と。
そんなアルフェラッツの問いかけにシュライクはぱちりと瞬く。それから、少し困ったように頬を引っ掻いて、言った。
「辛くないって言ったら嘘になるけど」
一度そこで言葉を切った彼はぱん、と自分の掌に反対の手で作った拳をぶつける。そして、にっと笑って見せながら、言い放つ。
「俺の力は誰かを傷つけるための力じゃない。守るための力だ。そのための力なら、強い方が良いだろ?」
「守るため……」
シュライクの言葉を繰り返し、アルフェラッツは目を伏せる。そんなに前向きに物事を捉えることは自分には出来ない。シュライクが特別なのだと、そう思えてしまって。
そんな彼の頭にシュライクは手を置く。そしてぐしゃぐしゃとその髪を撫でまわしながら、言った。
「俺も、お前たちと同じように生きてた。盗みをして、家族と分け合って生きてた。それで良いだろ、ってずっと思ってた。ずっとずっと、俺が用心棒として皆を守ってりゃ良いだろ、ってさ」
その言葉にアルフェラッツは顔を上げる。それは、その考えは、確かに自分がずっと抱いているものと同一だ。親しく話が出来ずとも、友として触れ合うことが出来ずとも、少し離れたところで彼らを守ることが出来ればそれで良いと思っていた。この生活を守るためならば盗みをすることも、それを咎められて殴られたり蹴られたりすることも致し方ないと、アルフェラッツはそう思っていた。
しかし、それでは駄目だったのだとシュライクは言った。
「それじゃあ守れないものもあるって、リオに教えてもらったんだ」
そう言って、彼は苦笑する。
身体が強ければ守れると思っていた。でもそれは違っていた。知識がないと守れないものがある。助けられるものが助けられない可能性があることを知った。だから、少しでも見分を広めたくて、シュライクは住み慣れた巣を旅立ったのだ。
大切な家族を、その居場所を、しっかりと守りたい。そんな思いで。
色々なものを見た。美しいものも楽しいものも、醜いものも辛いものも。その中で、彼は少しずつ学んでいった。様々なものを。
力だけでは敵わない敵がいることを知った。一人で頑張ったところで守れるものがごく僅かであることも知った。救いたいと闇雲に手を伸ばすだけでは救えないことがあることも知った。できないことがある時に仲間を頼ることが必要であることも知った。
「大切な場所を守るためには変わらないといけないこともある。俺は、そう諭されて今旅をしてるよ」
旅に出て良かったと思ってる。そう言って、シュライクは笑った。
「変わることは不安だけど、時には大事なことだと俺は思ってるぞ」
それを聞いたアルフェラッツは眉を寄せた。そして顔を伏せながら、ぽつりと呟く。
「……難しい」
どうしたら、シュライクのように明るく笑うことが出来るだろう。特別な、可笑しな力を持ってしまった自分を誇って笑うことは、自分には到底できない気がした。
大切な場所を守るために変わらないといけないこともある。そんなことは、わかり切っている。こんな風にうじうじしていたところで何も進展などしないということもよくよくわかっている。それでも……簡単に変わろう、と思えるような前向きさはアルフェラッツにはなくて。
泣き出しそうな顔をして唇を噛みしめている彼を見て、シュライクはふっと笑みを零した。そしてもう一度やや乱暴に彼の頭を撫でると、シュライクは言った。
「ま、そうだよな。気楽に考えれば良いよ」
俯くアルフェラッツに、幼い頃の自分の姿が重なる。否、正式に言えば自分はこんな風に大人しくはなくて、自分を拾ってくれたイーグルに叱られながら変わっていった訳なのだが。
遊ぼうとしただけの相手に怪我をさせたとき、癇癪を起こして周囲の物を壊したとき、イーグルは決まって彼を叱った。容赦なく拳骨を落としながら、何度も厳しい声で叱った。
―― 人様に迷惑をかけるような真似をするな、そうした振舞いはいずれお前の、"家族"の首を絞めるぞ。
そんな言葉が、今ならば理解できる。
乱暴者の孤児。その存在が他の孤児の……"家族"の生活を脅かすことになることは、十二分にありえたことだった。気性の荒い親のいない子供がうろついているのは危険だという理由であの住処を追われてしまう可能性もあった。
他者に迷惑をかけないで生きる方法を考えろ。イーグルは常にそう言い続けていた。それがきっとお前たちを守ることになるから、と。
……結局、そんなイーグルの教えを忘れて、盗みで生活を立てていた自分たちは、もしかしたらいずれ天国でイーグルに会ったら怒られるかもしれないな、とシュライクは思う。
その罪滅ぼしではないけれど……少しでも、恩返しになるように。そう思いながら、彼は前を向くのだ。
シュライクはアルフェラッツを見つめ、笑って見せた。
「とにかくアルフェも一緒に来いよ、皆と一緒に練習しようぜ! お前はきっと、強くなるよ! 仲間達をしっかり守れるくらい強くなれる!」
俺が保証するぜ、とシュライクはきっぱりと言い切った。何の根拠もない、言葉。しかしそれが温かくて、嬉しくて。
先に戻ってるぞ、と笑って去っていく勇者の仲間の背を見送りながら、アルフェラッツはそっと、自分の手を見つめていたのだった。
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