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第九章 勇者と聖なる魔法使い
しおりを挟む「教主様……」
鎖の鳴る音に振り向けば、そこにはプラチナブロンドの青年が立っていた。茫然とした顔は蒼白で、橄欖石の瞳は大きく見開かれている。その瞳が捉えているのは、部屋の中の惨状。部屋の隅で蹲り震えている自分が慕ってきた教主。倒れている自分が親しくなった格闘家の少年。剣を抜いている勇者の青年。そしてそれに対峙しているのは漆黒の翼を持った……――
「それは、そこに居るのは……悪魔では、在りませんか、何故悪魔が、この神聖な場所に……?」
戸惑いと恐怖が滲んだ声で呟くユスティニア。その言葉に高らかに笑った悪魔は、嘲るように大きく手を広げ、叫んだ。
「はははっ、ナイスタイミングだ!」
「ユスティ、なんで!?」
リオニスも思わずそう叫ぶ。ユスティニアは地下牢に幽閉されていたはずだ。事実、彼の裸足の足首には相変わらず足枷が付いていて、その鎖がじゃらじゃらと音を立てている。しかし、彼が此処に来るためにはあの牢を破らなければならない。それを彼がしたとは到底思えない。どうして、と呟く彼を見て、悪魔は笑いながらその理由を語った。
「俺が呼んだのさ。此処に来い、って教主サマのフリをしてな。鍵を遠隔で開けるぐらい、訳もない」
そう。ユスティニアはこの悪魔に、この場所へ誘い出されたのだ。教主の声で、罰を受けるために自らのその足で歩いてこの部屋まで来るように、と。教主のことを信じ切っていた少年はその声が、言葉が、教主のそれであると信じて疑わず、不自由な足のまま、此処まで歩いてきたようだった。そしてその果てに目にしたのは、この光景。揺らぐ橄欖石が彼が受けた衝撃の大きさを物語っていた。
「勇者様達と絡んだ所為でちょっと穢れたのはいただけないが、それでも十分喰える。その前に最高の見世物は見ておかねぇとなぁ」
そう言いながら、彼は一度リオニスに向かって強い魔力を放った。リオニスはなんとかそれを剣で弾くが、体勢を崩す。それと同時、彼は一跳びでユスティニアに近づいた。驚き、後ずさる彼の顔を覗き込みながら、悪魔は歌うような声音で言った。
「そうさ、俺は悪魔だぜ、可愛くて哀れなポラリス。そこに居る教主様に呼び出された悪魔。だからこの部屋に居るのさ」
長い爪の指先がユスティニアの頬をなぞる。ユスティニアは蒼白の顔のまま完全に硬直してしまっている。瞳だけが揺らぎ、いつも自分を導いてくれていた、今はただ部屋の隅で震えるだけの教主を見つめていた。その様を見て、悪魔は狂気の笑い声を上げた。
「良いなぁその顔! 信じてた全てが裏切られた顔!」
そう言った彼はユスティニアの顎を掴み、視線を自分に合わせさせながら、言った。
「清廉な教徒サン、教えてやるよ! そこに居る教主サマがお前たちを大事にしていたのは俺への生贄にするため! 自分の幸福のためにそいつはお前たちを俺に売っていたんだ、驚きだろう?」
一層大きく見開かれる、ユスティニアの瞳。そこに映る絶望を恍惚とした表情で見つめながら、悪魔は残酷な言の葉を紡いだ。
「そして今回の贄はお前だ! そこの勇者サマたちはおまけだな」
どうだ、と悪魔は笑う。リオニスは強く唇を噛みしめた。教主(ラース)の所業はいずれ露見することだとは思っていたが、この形でユスティニアが知るのは確かに最大の絶望を与えたことだろう。此処まで全て、悪魔の思い通りになってしまっている。事実、ユスティニアは茫然とした顔のまま、小さく呟いた。
「そん、な……」
掠れた声。彼はその場にへたり込む。浅く息をしながら、彼は胸元のロザリオを震える手で握り締め、呟いた。
「ポラリスが、贄? 悪魔の、贄? ならば、父様は、母様は……っ」
その呟きに悪魔は眉を寄せた。すん、と軽く鼻を鳴らした後、ぽんと手を打って、言った。
「あ? あぁ、お前何年か前に喰らった奴の子供か、やっぱり魔力ってのは遺伝するのかねぇ」
美味そうだ、と舌なめずりをしながら、彼は座り込んでしまっているユスティニアに再び顔を近づけ、甘い声で囁くように、言った。
―― お前の両親も、贄として俺が喰らった。
「な、ぁ……あぁ……!」
声を上げたユスティニアはそのまま、蹲ってしまった。長いプラチナブロンドの髪が彼の表情を隠すが、その肩が、体が震えていることはリオニスにもわかって……
「ははははっ、良い、良い絶望だ!」
悪魔は満足気にそう言うと、また一跳びでリオニスの元へ戻った。いつの間にかその手にはその悪魔の武器と思しき鎌が握られていて。
「目の前で勇者サマが俺に殺されるのを見届けて、更に絶望したところで喰らってやるよ!」
そんな言葉と同時、振るわれる悪魔の鎌。リオニスはそれを剣で受け止める。ガキンと鈍い金属がぶつかり合う音が響いた。ぎりぎりと、鋼が擦れる音が耳障りだ。唇を噛みしめたまま、リオニスはその力を押し留めるために、足に力を込めた。悪魔は鮮やかな金色の瞳を細めながら、リオニスに言った。
「そのためには、早いところお前を殺さないと、なぁ!」
「させるか……っ!」
絶対に、殺される訳にはいかない。根本的な、魔王を倒すという使命のためにも、悪魔の魔力に侵食されて苦しむシュライクのためにも、そして……今、恐らく深い深い絶望の底に叩き落とされた"友人"のためにも。絶対に、殺されてやる訳にはいかないのだ。そう思いながら、リオニスは強く、剣を払った。
悪魔が実在していると知ったのはついさっきだ。無論戦い方など知らない。しかし、体の作りは恐らく人間と同じだろう。人間と戦うように戦えば良い。後は、悪魔が持つ強大な魔力に打たれることだけは避けなければ……――そう思いながら、リオニスは必死に立ち回った。
「なかなかやるな、勇者サマ? すぐに終わらないのは楽しくて好きだぜ。でもダラダラ戦ってて良いのかねえ?」
そう言いながら、悪魔はちらと視線を部屋の隅に投げる。そこに居るのは、未だ地面に倒れたままのシュライクで。彼の顔色はユスティアに負けない程、悪くなっている。呼吸は浅く、彼の体を取り巻く黒い悪魔の魔力は目に見えて強くなっているようだった。それを見て、悪魔の攻撃を防ぎながらリオニスは思わず叫んだ。
「ッ、シュライク、おい、シュライク!」
「ふ、……うる、せ……」
薄く目を開けたシュライクはそれだけ言って、薄く笑う。しかしその表情も力ないもの。……このまま放っておけば死んでしまうであろうことは、簡単に推測が付いた。
「おっと、まだ喋れたか。ま、時間の問題だろうがな」
くつくつと喉の奥で笑う悪魔は全てを楽しんでいるようだ。教主の恐怖も、ユスティニアの絶望も、シュライクの苦痛も、リオニスの焦りも。楽しみながら、リオニスへの攻撃を続ける。
「さぁ、続けようぜ勇者様! 俺ぐらいあっさり倒せないと"あの方"を倒すなんて到底無理だぜ!」
言われずとも、わかっている。こんな所で手こずっている場合ではないのだ。しかし、リオニスには何もない。何故勇者に選ばれたのかも分からない、ごく普通の人間。それが自分だ。強い魔力も、人並み外れた怪力も、ないのだ。そんな自分が一人で、どうやって……――
そこで、はっとリオニスは息を呑んだ。そして、何度目になるかわからない悪魔の鎌での一撃を防ぎながら、精一杯の声で、叫んだ。
「っ、ユスティ!」
必死の声で叫んだのは、ドアの前で蹲り、震えている友人の名。彼はびくりと肩を揺らし、顔を上げた。戸惑いに揺れる橄欖石の瞳を見据え、リオニスは言った。
「お願いだ、助けてくれ、ユスティ!」
「え……」
一層戸惑う顔をするユスティニア。リオニスは顔を歪め、それでも諦めず言葉を続けた。
「残酷なこと言ってるのはわかってる。混乱してるのもわかってる。でも、今頼れるのはお前だけなんだ!」
リオニスの言葉を、ユスティニアの困惑を楽しんでいる様子の悪魔の攻撃は緩まない。今も、振り下ろされる鎌を剣で押し留めるので精一杯だ。倒れこんだままのシュライクの様子を見ることすらできない。このまま防ぎ続けるだけでは悪魔には勝てず、皆殺しにされる未来しかない。それを打開する鍵がユスティニアなのだ、と彼は叫んだ。
ユスティニアはその言葉に困惑した表情を浮かべる。ふるふると首を振りながら、彼は掠れた声で返す。
「な、ぜ……だって僕は、もう魔法を……」
「違う!」
その言葉を、リオニスは否定する。必死に、訴えるように、叫ぶ。
「お前は魔法を使えるんだ、外の世界に触れたら穢れるなんて、穢れたら魔法が使えないなんて嘘だ!」
「で、も……」
事実、教主様の前では使えなかった。あの牢の中でも、魔法を使うことが出来なかった。もう誰の役に立つこともできない。星に見放されてしまった自分に出来るのは祈ることと他の星読みたちのためにこの身を捧げることだけだとそう思っていたのだ。だから、大人しくあの牢の中に居た。あの中で、最期の祈りを捧げていた。どうか他の星読み達が力を失わないように、と。それしか自分には、外の世界に触れて穢れてしまった自分には出来ないと思っていた。
しかし、眼前の勇者はそうではないと叫ぶのだ。
「そう信じ込まされただけだ! お前の魔力はお前のものだ、俺たちがずっと見てきた聖なる魔力は、お前が生まれついて持ったものだったんだ! だから……ッ」
それを彼が認めるのはきっと苦痛だ。今まで自分が信じてきたものが全て虚構であるということを飲み込み、その上で魔法を使えというのはあまりに残酷で身勝手であることはわかっている。わかっているけれど、彼しか頼りには出来ないのだ。この場に居る全てを守るためには。
一度強く、悪魔の鎌を払ったリオニスは真っ直ぐにユスティニアを見つめて、叫んだ。
「助けてくれユスティニア!」
リオニスの叫びに、ユスティニアは大きく目を見開いた。
「余所見は禁物だぜ勇者様!」
楽しげに嗤った悪魔の一撃が、リオニスの剣を払った。弾き飛ばされたそれはリオニスが拾えない場所に飛び、地面に突き刺さる。次の一撃を防ぐ術は、彼にない。勝利を悟った悪魔が醜く笑って、鎌を振り上げた……――
殺される。目の前で、自分に世界を教えてくれた友人が。このままでは床に蹲ったまま悪魔の魔力に侵食されている友人も死ぬ。自分が何もできないから。自分が、無力だから。
―― 嫌だ!
そう思った瞬間体の中を一陣の風が吹き抜けていくのを感じた。
「スティラ・ポラリス!」
口を衝いて出たのは、紡ぎ慣れた魔法の呪文。必死で伸ばした手の先から放たれた魔力は、眩い光。狙いを過たず悪魔の手を貫いていた。
「が、ぁああ……ッ!」
武器を取り落とし、苦悶の声を上げる悪魔。その手は焼き払われたようにシュウシュウと音を立てている。先刻までの余裕の笑みは消え、憎しみの灯った瞳でユスティニアを睨みつけ、唸るような、吠えるような声で悪魔は言った。
「あぁ、クソ、だから喰っておきたかったんだ、お前のような聖なる魔力を持った存在は!」
そう、悪魔が贄として欲したのは自分にとって脅威となる聖なる存在だった。聖なる魔力を持った存在は一定数生まれ育つが、その大半が強力な力を有する。特に強力な力を選ぶものを贄としろ、と命じれば必然、聖なる魔力を持った存在を喰らうことが出来る、と言うのが悪魔の策だった。その例に漏れず、ユスティニアも悪魔が最も厭い、恐れる、聖なる魔力の持ち主だったのである。
そうは言ってもまだユスティニアは未熟だ。混乱もしている。今ならばまだ、喰らえる。そう悪魔は読み、ユスティニアの方へ向かおうとした。しかしそれを鋭い銀の斬撃が、阻む。
「相手は俺だって言ってるだろ!」
吹きとばされた剣を拾ったリオニスがユスティニアの前に立ち塞がった。悪魔は低く唸り、異形の獣の形に姿を変える。
「邪魔だクソガキ!」
鋭い爪で斬りかかってくる悪魔。リオニスはその爪を剣でとどめ、払う。激しく散る火花。リオニスは顔を歪める。それでも、戦うしかないのだ。今この場で戦えるのは、自分だけなのだから。
「お前は此処で倒す!」
それが、自分の役目だ。出来るかわからないだとか、自信がないだとか、言っていられない。覚悟を決めた勇者の目に灯るのは強い意志の光だった。
それを見てユスティニアはぐっと拳を握る。そして鎖を鳴らしながら倒れたままのシュライクに駆け寄った。そのまま、その体に触れて、呟く。
「どうか、これで……スティラ・ポラリス!」
祈りを込めて、魔力を込めて、シュライクを撫でる。刹那、彼の体を強い光が包んだ。シュライクを蝕んでいた黒い靄が霧散していく。どうか、どうかと祈るユスティニアの目の前で、シュライクがぱちりと目を開ける。そして、立ち上がる。何事もなかったかのように。
「あぁ、痛かった……でも、もう万全だ、二度と同じ手は食わねぇ!」
そう言って笑った彼は、ユスティニアを見た。そして、座り込んだままのユスティニアの傍に膝をつくと、彼の両足を繋いでいる鎖を掴むと、そのまま力を込め……引きちぎった。ばきっと派手な音が響いて、ユスティニアは目を見開く。
「わ……」
「此処からは、俺に任せろ!」
ぐしゃっと乱暴にユスティニアの頭を撫でたシュライクは強く地面を蹴り、剣と爪とをぶつけ合うリオニスと悪魔の方へと跳んだ。
「あぁ、どいつもこいつも!」
忌々し気に叫ぶ悪魔は再び魔法をシュライクに放とうとする。しかし、それは薄く透明な、しかし強靭な障壁に阻まれ、彼に届かない。無論、その清浄なる障壁を張ったのは……
「リオニス、シュライク、僕が貴方たちを守ります、だから……!」
覚悟を決めた瞳で、ユスティニアは叫ぶ。自分たちを欺き、喰らい続けた悪魔を倒してくれ、と。それを聞いたリオニスとシュライクは笑みを浮かべる。そして、同時に叫んだ。
「任せろ!」
守りがあるのとないのとでは戦いやすさが違う。それは、魔獣の討伐の時から思っていたこと。しかし相手が強力であればあるほど、それは強く感じる。躱し切れない、と思った攻撃を、剣で受けることが難しい魔法を、ユスティニアは確実に弾いてくれる。それだけの信頼関係が、彼らの間には出来ていた。
一瞬の隙を見逃さず、シュライクが背後から悪魔に組み付く。魔獣の首を容易くへし折るだけの膂力をもって悪魔を拘束したシュライクは、叫んだ。
「今だリオ!」
その声に応えるように大きく頷いたリオニスは月明りに鈍く煌めく剣を振るった。その刃は狙いを誤ることなく、悪魔の胸を切り裂いていた。
真っ赤な鮮血が神聖なはずの教主の部屋に散る。シュライクに組み付かれままの悪魔の体がどうと床に倒れる。倒れたまま、顔だけを上げた悪魔は歪んだ笑みを浮かべ、掠れた声で言った。
「は、は、勇者様……俺で、終わりと思うなよ……あの方は、世界の秩序を歪めるだけの力を……――」
最後まで言葉を吐くことはなく、悪魔は事切れる。その体はまるで夜の闇に溶けるように、消えていった。
しん、と耳に痛いほどの静寂が部屋に満ちる。悪魔の消えた部屋に残されたのは悪魔の血痕と戦闘で疲弊した三人、そして無様に震える教主"だった"男だけだ。荒く息を吐き、リオニスは剣を軽く拭って鞘に納める。それから、悪魔に組み付いていたために血が付いた服を見て顔を顰めているシュライクに問いかける。
「シュライク、お前はもう大丈夫なのか?」
悪魔の魔力と言うのは強力なはずだ。何か異常が残っているのではないか、と心配そうに問いかけるリオニスに、シュライクはにっと笑って見せた。
「何ともないぜ! ユスティのお蔭だな!」
「いえ、僕は、その、出来る限りのことを、と思っただけで……っ」
そう言ったユスティニアは顔を赤くしている。本当に、必死なだけだった。目の前で大切だと思った友人たちが死ぬのが許せなかった。何もできない自分は嫌だと必死になっただけだ、と彼は言う。
リオニスはそれを聞くとふっと笑って、言った。
「でも、ユスティが俺の言葉に応えてくれたから勝てたんだ。本当に、ありがとう」
ユスティニアには相当な無茶を言ったと自覚している。聖なる存在であるはずの教主と悪魔の契約、自分の両親や仲間の死の真相、これまで信じてきたもの全てが崩れ去ったばかりの、悪魔の言葉を借りるなら絶望に沈んでいる人間に強いることではなかった、と。
正直、賭けではあった。あのまま、彼が魔法を使わないでいたならば、きっと今頃此処に転がっているのは自分たちの骸だっただろう。しかし、彼はリオニスの叫びに応えてくれた。リオニスを、シュライクを守るために、使えないと思い込んでいた自身の心の殻を破って、魔法を使ってくれたのだ。そのお陰で、今があるのは間違いない。
真っ直ぐな感謝の言葉。それを聞いて、ユスティニアはゆっくりと瞬く。それから、花が綻ぶような穏やかな笑みを浮かべた。
「力になれて本当に良かった」
そう言って微笑むユスティニアは少し照れているようだった。
「で、此奴はどうする?」
一頻り互いの無事を確かめた後、シュライクが示したのは部屋の隅で相変わらず縮こまったままの愚かな男。契約した悪魔が消滅した以上、この男は本当にただの男だ。教主でもなんでもない。自分の願いのために悪魔と契約を交わし、何も知らない信徒を悪魔に贄として捧げ続けていた愚かで恐ろしい人間だ。
シュライクの言葉にびくりと肩を跳ねさせた彼は、リオニス達の方を見る。弁解の言葉の一つも思い浮かばないのだろう。そんな愚かな男を一瞥したリオニスは一つ息を吐き出して、ユスティニアの方を向く。
「ユスティニアが決めてくれ。余所者である俺たちがどうこう言うべきじゃない」
この男を"処分"するのも一つだ。悪魔のような男であるのは間違いないし、また同じことをしないとも限らない。しかし彼を処分するということは星読教が悪魔とこの男によって創り上げられた虚構だということを信者たち全てに伝えるということになり、この街の混乱を招くのは間違いないだろう。どうするかを決めるべきなのは当事者であり、この街のことを、この街の人々のことを、そしてラースと言う教主のことを誰より知っているはずのユスティニアだと、リオニスは判断したのだった。
ユスティニアはその言葉に小さく頷く。それから、ゆっくりと教主の元へ歩み寄った。
「教主様」
蹲ったままの彼と視線を合わせるように、ユスティニアは屈む。シュライクとリオニスは万が一にもユスティニアが危害を加えられることがないようにと戦闘の構えを取りながら、それを見守る。
怯えたように、教主は信徒を見る。美しく澄んだ橄欖石色の瞳に灯るのは怒りでも憎しみでもなく……
「貴方は、そのままこの館を維持して下さい」
凪いだ海のように静かな声で紡がれた言葉に、教主の男は大きく目を見開いた。
「な……」
彼の口から紡がれたのは恨み言ではなく、怒りの言葉でもなく、紡がれたのはこれまで通りに過ごしてくれと言う言葉。驚き、目を見開いている男(ラース)を見つめ、ユスティニアは眉を寄せた。
「勘違いはしないでください。貴方のことを赦した訳ではありません。僕たちを裏切り、優秀な力を持つ信徒を悪魔への贄として捧げていた貴方への怒りや憎しみがないと言えば嘘になります。僕の父や母もその犠牲になったのですから」
敬虔な信徒であるとはいっても、彼は人間だ。怒りや憎しみをおぼえない訳ではない。全てを知ってしまった今となっては、眼前の男のことを赦せないという感情も、ないと言えば嘘になる。それはどうしても、知っておいてほしかった。それでも、その上で……――
ふ、と一つ息を入れたユスティニアは何処までも真っ直ぐな表情でラースを見つめ、言葉を続けた。
「貴方を信じている人たち皆に僕と同じ絶望を、混乱を与えたくはない。
だから、貴方を信じている人たちを裏切らず、これまで通りの"教主様"として過ごしてください。贄を捧げる必要はないのですから、ポラリスの制度はなくしてしまっても良いでしょう。
規則正しい生活を送ることで魔力が高まるのは事実です。全てが嘘ではなかったでしょう。始まりは嘘だったとしても、そこから積み上げられた信仰全てが偽りであったとは、僕は思いません」
ラースの所業が露見すれば混乱どころでは済まない。この街全体の秩序が揺らいでしまう。そうなることはユスティニアも望まない。今の秩序を維持する方法……それが、ラースを赦し、今まで通りに振舞わせること、だった。始まりはどうあれ信じ続ける何かがあるということは確かに人々の支えになるのだということは、ユスティニアもよくよく知っている。これが妥当な落としどころだと彼は判断したようだった。
そう言った彼は立ち上がる。そして、自分を守ろうと構えていた二人の方を見て、ふっと笑った。それから、朗々と、宣言するように言う。
「僕は、リオニス達と行きます」
ふわり、と開いた窓から吹き込んだ風が彼の長いプラチナブロンドを揺らす。鮮やかな橄欖石の瞳を煌めかせ、言葉を紡ぐ。
「悪魔と貴方が僕たちに見せまいとしてきた世界を見て、帰ってきます。外の世界を知り、星読みの皆がより正しく生きられる道を見つけて、帰ってきます。
ですからどうか、それまでは教主として、この街を守ってください。それが信者たちを裏切り続け、私欲で多くの信徒を犠牲にした貴方にできる唯一の償いです。
あの悪魔が居なければできない、などと情けのないことを言うようであれば、この場でリオニスに斬り捨てていただく他ありませんが……そんな情けない方ではないと、私はまだ貴方を信じています」
―― 頷いてくださいますか。
そんなユスティニアの問いに、男は頷いた。その頬を伝い落ちていく涙は、助かったという安堵の涙か、はたまた……――
暫しそんなラースを見つめていたユスティニアはリオニスとシュライクとの方を見た。そして、ふわりと微笑んで、緩く首を傾げる。月と星の明かりに照らされ微笑むその様はまるで、美しい宗教画のようだった。
「リオニス、シュライク、偽りの信仰の中で育った歪んだ魔法使いの僕を、連れて行ってくださいますか?」
差し出されたユスティニアの手は、微かに震えていた。リオニスは笑みを浮かべると、その手を強く握りしめた。
「俺の方こそ。頼りない勇者だけど……仲間として来てくれるか、ユスティニア」
「やったぜ!」
握手をする二人をシュライクは抱きしめる。強いそれにリオニスは呻き、ユスティニアは息を詰める。しかし三人とも、すぐに朗らかに笑う。そんな三人を見守るかのように美しい星々は天鵞絨の空で煌めいていた。
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