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第四十一章 交換条件
しおりを挟む「何が可笑しい?」
クオンが怪訝そうに訊ねる。それでも尚、ノアールは笑っている。その笑みは、諦めたような、自嘲的な笑みではない。ただただ、純粋に……自分たちの勝利を確信した、笑顔。どう考えても、彼らが不利だというのに。
ノアールは冷静な声で言った。
「自分たちの方が有利だと、確信しているようだな」
くつりと喉の奥で笑うノアール。そんな彼を見て眉を寄せたクオンは噛みつくように言う。
「お前らはフィアを殺せないらしいからな」
クオンたちも、ノアール達の目的はフィアとシストの危機を予知したアンバーから聞いていた。彼らの目的は、フィアを生かしたまま、連れて行くことだと。その目的は、今の状態……ディアロ城騎士団の部隊長たちに囲まれたこの状況で達成することが難しいだろう。それは、ノアール達もわかっているはずなのに……
ノアールは緩く首を振った。その顔に浮かぶのは、残忍な笑み。そして、その笑みを貼り付けたまま、言い放つ。
「殺せないことはないな。何なら今、目の前で殺してやろうか?」
静かに、未だ意識を失ったままのフィアの首筋に剣を突き立てる。ノアールの言葉に、行動に、ロシャが、騎士たちが、目を見開いた。
「ちょ、ちょっとノアール?!」
一番焦った声をあげたのは何故かロシャだった。刃をフィアの首に突き付けるノアールの腕を掴み、叫ぶ。
「駄目だよ! それを死なせたら御主人に……」
「ロシャ」
ロシャの言葉を遮る、ノアールの冷たい声。鋭い視線にロシャがびくり、と肩を跳ねさせる。彼が口を噤んだのを見て、ノアールは言葉を続けた。
「我らが影猫の目的は? 今回の任務は何だ」
答えてみろ、という低いノアールの声に怯えたように、ロシャはノアールの手を離す。
「天使の捕獲と、強制服従」
ロシャの返答を聞いてセラたちは表情を硬くした。
フィアを連れ去ることが目的ではない。”天使“を連れ去ることが目的なのだ。つまり、それは何を意味するかといえば……――
ノアールはロシャの返答に満足そうに頷いた。
「そう。影猫の、主の目的は天使を捕らえ、服従させること。我らが悪魔族と敵対する天使を手中に収めることが目的だ」
そこで一度言葉を切ったノアールは緩く口角を上げ、言った。
「……頭が良い貴様らは気付いたようだな。何も、我々にとって天使は此奴だけではない。あくまで、我らの任務内容は天使を捕えることであって、フィア・オ―フェスという天使を捕えることではない。此奴を殺してしまえば苦労はするだろうが、他の天使を探せば良い。別に此奴を殺しても、何ら我々の目的に支障はない」
ノアールの言葉に唇を噛む騎士たち。ルカは殊更悔し気に、剣を握りしめる。ノアールに当てたこの剣を動かせば、彼を殺すことは出来るかもしれない。しかしそれより早くフィアを殺される可能性もある。それでは、意味がない。
「なぁんだ、なるほどね」
ロシャは納得した様子で笑みを浮かべる。ノアールはそれに頷いて見せると、フィアを殺せるということをアピールしようとするかのように、彼の首に当てた刃をそのまま滑らせる。意識を失ったフィアは身動きしない。フィアの皮膚が僅かに斬れ、色の白い首に一筋、血が伝った。
その様子を見て、ルカが叫んだ。
「やめろ……っ!」
悲痛な声で、叫ぶ。
「フィアを、傷つけるな!」
心からの、叫びだった。
「ルカ!」
落ち着け、とクオンがルカを抑えた。肩で息をするルカを一瞥し、ノアールは言う。
「剣を下ろせ。状況は理解出来ただろう」
その脅しに唇を噛み、ルカは剣を下ろす。唇が切れて、血の味が口内に広がるのを感じた。そんな彼を宥めるように肩を叩き、クオンはノアールの方を見て、言う。
「脅しで済ませている、ということは何かあるんだろう。話を、聞こう」
そういって、クオンはノアールを見つめる。彼の銀灰色の瞳を見つめ返し、ノアールは小さく頷いて、口を開いた。
「そこの銀髪は賢いな。その通り、此処で貴様らに提案がある。貴様らにとっても悪くない提案のはずだ」
「なんだよ、さっさと言え」
今にも飛びかかりそうなのを堪えつつ、アレクが訊ねる。ノアールはにやりと笑って、軽く指を振った。
「このまま俺が此奴を殺して終わり、ということも出来なくはないが、そうすると俺たちにも不都合はあるのでな。交換条件、という奴だ。俺たちにも多少の不都合はあるが、貴様らはこの天使を殺されると何かと困るのだろう?
……なぁ、アンバー。お前に見えた未来、此奴がいなければ不戦敗になるものな」
そうだろうというようにノアールが問うと、アンバーが、目を見開いた。そして、上ずった声で問う。
「……なんで、知ってるの」
「僕が予知したに決まってるじゃん。馬鹿じゃないの?」
ロシャが鼻を鳴らして、言う。その言葉を聞いて、アンバーは掠れた声で、呟いた。
「そうか……やっぱり、君にも」
「あるよ。予知能力」
にっとロシャが笑った。悪戯な子供のような、しかし確かな悪意を湛えた瞳で。
―― あぁ、ハクはこんな笑い方をしなかったのに。
その笑顔を見て、アンバーは哀しそうな顔をする。そんな彼の顔をわざと覗き込みながら、ロシャは言葉を続けた。
「天使がいなければ、世界が救われる道はない……でしょう? 僕の予知、間違ってる?」
ねぇ? と媚びるようにいうロシャを見て、アンバーは俯く。これ以上そんな彼を見ていたくない、そう言うように。
「あはは……あははっ! 無様だね。そんな運命予知しても、未来は何も変わらないのに」
ロシャは愉快そうに笑った。狂ったように笑い続ける、ロシャ。アンバーは悲痛そうな顔をした。
暫くはその様子をただ見つめていたノアールだが、やがて溜息をついて、それを諌めた。
「煩いぞ、ロシャ」
「……はーい」
ロシャは軽く肩を竦め、黙る。彼がおとなしくなったのを確認してから、ノアールが言葉を続けた。
「本題だ。俺たちにとっても漸く見つけた天使を此処で殺すのは惜しい。天使というのは希少価値が高いんだ。挙句に、見つけにくい。それに……この天使のほうがよい理由も、ないことはない。だが、このまま天使を譲らず貴様らに真っ向から挑み、捕らえられるのは癪だ。貴様らが襲ってくるというのなら、この天使を殺す。俺は、そのことに何の躊躇いもない。寧ろ、生意気な騎士どもの悲痛な顔が見られるのなら、その方が良いくらいだ」
その言葉に嘘はない。今誰か一人でも可笑しな行動をとれば、ノアールの剣は迷いなくフィアの喉を掻き斬ることだろう。
黙ったまま自分の言葉を待つ騎士たちを一人一人見つめてから、ノアールは静かに言葉を続けた。
「……此処で一つ提案だ。もし貴様らが今この場で俺たちを見逃すというのなら、この天使をすぐに殺すことはしない」
ノアールの提案。それは、この場でフィアを殺さないというもの。
「フィアは……フィアは、返してくれるの?」
アルが不安げに問う。願うように、祈るように。ジェイドと共にシストの肩を支えながら問う彼の瞳は僅かに潤んでいた。
アルの問いに、ノアールは首を横に振った。
「それは出来ない。あくまでも今この場では殺さない、というだけだ。天使を含めた俺たちを見逃すことがこの取引の最低条件だ」
冷たい声でそう言うノアール。
「それじゃあ、何の意味もないじゃないか……ッ!」
苦しげに、シストが叫ぶ。ひゅう、と息が漏れて、彼は咳き込む。ジェイドが慌ててそれを止める。
「シスト! そんな大声を出しては傷に……」
「大丈夫だから! 俺は、平気だから……! 頼むよ、フィアを……」
―― 返してくれ。頼むから。
苦し気な、絞り出すような、シストの切ない声が響く。泣くのを必死に堪えているようなアメジストの瞳が、ノアールを真っ直ぐに見据える。しかし、ノアールは首を縦に振ろうとはしなかった。
「出来ない。最後まで取引内容を聞け」
冷たくノアールが言い放つ。シストは唇を噛み締める。唇が切れて、血が滲む。彼と戦うだけの力が残っていたならば、迷いなく斬りかかっていた。フィアが殺されるより早く彼を斬り、全てを終わらせたかった。しかし、そんな余力はなく、他のセラの騎士たちは真剣な表情で彼の話を聞いている。どうすることも、出来ないのだろう。それを悟り、シストは俯いたまま、浅く息を吐き出した。
ノアールはシストが黙ったのを見て、言葉を続けた。
「貴様らが俺の提案を飲むことによる利点はただ一つ。国を喪わずに済むことだ」
その言葉に、セラたちははっと息を飲む。誰からでもなく、視線がアンバーに注がれた。
「知っているのだろう。この国の未来を」
アンバーによって予知された、未来。争いによって、滅ぶこの国。その原因が目の前にいる彼ら……影猫であることはセラたちにも、理解出来ていた。まさか、彼が予知した内容を語ったすぐ後に、その未来が、危機が訪れるとは誰一人として、思ってはいなかったけれど。
悔し気に黙ったままの騎士たちを見つめ、ノアールは静かに目を細めた。
「貴様らは、我々に対抗など出来るはずがない。主が持つ力は強大だ。魔獣たちも、その力の一部だ。その力に魅入られた人間も多い。彼らや魔獣を率いて貴様らの国を、世界を滅ぼすことは難しくない。
貴様らの国は、騎士団は邪魔なのだ。これから先、主が目的を達成するために。少しでも貴様らが我等の邪魔をするようであれば、容赦なく貴様らの国を叩きのめす」
ノアールの非道な声が言葉を紡ぐ。
「つまり……貴様らがこの取引を拒むというのなら、俺たちは今この場でこの天使を殺す。そして、現在揃っている全勢力を用いて貴様らを、貴様らの国を滅ぼそう。主の目的はその後でも成し遂げられることだ」
「勿論他の国の人たちにも、協力してもらうよ。流石に僕たちだけでこの国全部を潰すのは難しいからね。でも、御主人の力があれば、否、なくたって僕が魔術をかければ、みぃんな忠実な駒になってくれる。僕の催眠魔法で、皆忠実に動いてくれるからね?」
無邪気な笑みを浮かべ、ロシャが言う。それを見て、アンバーはまた辛そうな顔をした。
「天使は最後の仕上げだ。今すぐに必要、というわけではない。だから、此奴を此処で殺すのも簡単なことだ。此奴を殺した後、代わりを探せばよい。一人天使がいれば、我々の……我が主の最終目標は達成される」
ノアールが持ちかけた取引の意味を理解し、騎士たちは俯いた。
「……つまり、国を取るか、フィアを取るか、ということか?」
静かな声で、ルカが訊ねる。彼に似合わない、静かな、静かな声で。そんな彼の声にノアールは満足げに頷いて見せた。
「そういうことだな。物分かりが良くてありがたい」
「ちっ……セコい取引だな」
アレクがノアールを睨みつけ、吐き捨てるように言った。取引、と彼は言ったがも元より此方は拒めない。挙句に、騎士団側(こちら)に利益は大してないじゃない。
「全く、フェアじゃねえ」
吐き捨てるようにアレクは言う。彼の言う通り、フィアを今この場で殺さない、というそれだけの条件。ディアロ城の騎士団へのメリットは、ごく僅かで……
「そんなの……取引じゃ、ねぇよ」
アレクの、怒ったような声が虚しく響いた。
静寂に包まれた、その空間で。
「……んな」
静かに、響いた微かな声。掠れた、声。ふらり、と動いたのは長い紫髪の、少年で。
「……! シストっ」
ジェイドが、焦った声をあげる。シストはそんな彼の制止を振り切り、叫んだ。
「ふざけんな!フィアを返せ! 今此処でお前らを倒せば国も、フィアも救え……」
「やれるものならやってみろ。貴様のその深手で戦えるものならな」
冷たい瞳でノアールはシストを見据えた。彼の言葉と気迫にシストは口を噤んだ。
どう考えても、不利なのはわかっている。人数は、確かに多い。しかしフィアはノアールの腕の中。彼が動くより早く彼を仕留めることが出来る人間が、この場にいるだろうか。それに、ノアールだけではなく、ロシャもいる。仮にノアールを仕留めても、ロシャにフィアを殺されたのでは、意味がない。
しかし。
「そうだな。シストの言う通りだ。シストが戦えなくても、俺たちは戦える」
クオンがそう言った。アレクも剣を構えながらニヒルに笑って、言う。
「いつでも準備万端だぜ?」
「戦闘は、得意ではないのですが……僕も、皆が戦うというのなら、力を貸しましょう」
ジェイドまでもが、そう言う。
彼らは、知っている。今黙ったまま話を聞いているルカが、誰よりフィアを心配していることを。この場で諦めることはしたくないはずだ、と。
セラたちの言葉に、シストは表情を綻ばせる。そしてルカの方を見て、言葉を紡いだ。
「ほら、ルカ、みんなもフィアを救いたいと思ってくれてる。此奴なんかの条件、呑むこと……」
呑むことなんてない、とシストは言おうとしていた。
しかし。
「わかった。お前らの条件を呑む」
シストの声を遮り、ルカが言った。
「ルカ?!」
驚いたように、彼のほうを見る仲間たち。一瞬、すべてが止まったような、気がした。
「ルカ、お前……」
驚いた顔でルカに声をかけるアレク。冗談だろう、と言いたげに、ルカを見つめるクオン。アルは絶句して大きく目を見開き、常に冷静なジェイドでさえも、驚きを隠せないままに、ルカを凝視していた。
ルカは顔を伏せていて、表情は窺えない。しかし、その握り拳が、微かに震えていた。
「……今、お前らにフィアを渡しておけば、国には攻めてこないんだな?」
静かな声でルカは問う。
「あぁ。国に攻め込むこともしないし、天使も殺さない。
三日。三日間の猶予をやろう。俺たちの住処を探して天使を取り返しに来るも、騎士団に戦闘準備をさせるも良いだろう。貴様らの好きにするが良い」
その後は、俺たちも好きに動かせてもらうがな。そういって、ノアールは笑う。
「……そうか」
ルカは俯いている。黒い髪が、影になって、表情を隠す。
「さぁ、どうする」
わざとらしく、優しい声色でノアールはルカに問う。
「交渉成立、だな」
ルカは静かに言った。それを聞いて、ノアールは口の端を吊り上げる。わかり切っていたからだ。ルカが、彼らがこの申し出を受けるということが。この取引に応じる他ないということが。
「……あぁ」
ノアールはフィアを抱えたまま頷く。ロシャがアンバーを見て、言った。
「ねえ、早く術を解いてよ。アンタに魔術かけられたままじゃ、空間移動できないんだけど?」
「……でも」
アンバーは戸惑ったように、ルカを見る。彼らにかけた術を解くことは簡単だ。しかしそうしてしまったら、もう取り返しがつかない。ある程度動きを制御出来ている今が、最後のチャンスといえば、そうなのだ。
そんな彼を見つめたロシャは迷惑そうに顔を顰めて言う。
「天使様の従兄から許可は出たでしょ? 早く解いてってば」
「でも……っ!」
「良いから、アンバー。解いてやってよ」
ルカがなお渋るアンバーに言う。アンバーは複雑そうな顔でルカを見つめる。本当に良いのか、というように。そんな彼を真っ直ぐに見つめ返したルカは微笑んで、頷いた。
「……わかった」
アンバーは渋々術を解いた。
自由に魔力を使えるようになったノアールとロシャは一瞬で姿を消した。フィアという、天使を連れて。
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