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第十八章 今すべきこと
しおりを挟むフィアが知ったのは、凄惨なシストの過去。普段笑顔でいるシストに、そんな過去があったとは、誰が想像できただろう。彼の同期生であり、恐らく当時もセラであったはずのルカは知っていただろう。しかし、ルカもそんな話は一度もしなかった。
シストは自らの過去をそこまで話すとベッドに寝転がった。左手で自分の顔を覆う。はぁあ、と息を吐き出した彼は、言葉を紡ぐ。
「俺が、悪かったんだ」
話し続ける声は、微かに震えていた。弱弱しく、今にも消えてしまいそうなその声を聞き逃さないように、フィアは神経を集中させる。
「俺のミスだ。全部、全部……俺がちゃんとトドメを刺していれば、余所見をしなければ、エルドは死ななかった。戦いの鉄則を忘れて、魔獣に背を向けた。騎士として、一番してはいけないことをした。俺は、あの時死んで当然だったはずだったんだ」
油断していた、なんて言葉で片付けて良いことではないけれど。そうシストは言った。自分の油断で、慢心で、不注意で、大切な仲間を、かけがえのない相棒を、明るい未来を歩むはずだった友人を死なせてしまった。そう語るシストの声は、掠れている。フィアはそんな彼に何を言うでもなく、じっと彼を見つめながら、彼の声に耳を傾け続けていた。
「俺は、生かされたんだ。エルドに。エルドは、そんな俺を庇った所為で……」
シストは唇を噛み締める。色の白い肌に一筋、赤い血が伝い落ちていく。シストは一つ震える息を吐き出すと、ぽつりと言った。
「俺さえ、俺さえいなければ、エルドは死なずに済んだんだ。俺を、騎士の鉄則を忘れた馬鹿な俺を庇った所為で、エルドは死んだ。エルドの未来を奪ったのは、俺だ」
俺が、殺したようなものだ。自嘲するようにそういって、シストは口元を歪める。笑っているような、泣いているような、何とも言えない表情だった。
「……お前が一人でいることが多かった理由は、それか」
一見すれば社交的なシスト。しかし、思い返せば彼が誰かと一緒にいる姿をあまり見なかった。誰かと一緒に任務に赴く姿も見たことがなかった。そう思いながらフィアが問えば、シストは小さく頷いた。
「あの日から、エルドが死んだあの日から、俺は一人で仕事をするって決めた。もう、失うのは嫌だった。それが自分の所為だなんて、絶対に嫌だったんだ。
だから、もう二度と、パートナーなんて作らない、多少大変でも、全ての任務を俺一人でこなしてみせるって、そう決めて……」
シストは掠れた声で、訥々と語る。また誰かをパートナーにしたら、また自分の所為でその人間を酷い目に遭わせてしまうのではないかと不安で、誰かと一緒にいることを避け続けていた。また自分の所為で仲間を失うくらいなら、一人でやった方がマシだと思っていたのだ。
そこまで語ったシストはふと、表情を綻ばせた。
「でも、フィアがきて、ルカにフィアの護衛として一緒に行けって言われた時、こういったらアレだけど……良いリハビリになるかなって思った。
また、誰かと一緒に任務に行けるのも、楽しみだった」
それはシストの、素直な思いだった。誰かと一緒に任務に赴く。それは不安であると同時に、確かに楽しみだったのだと、シストは少し微笑んで、言った。元々人が嫌いな訳ではないのだ、誰かと一緒に過ごすことは好きで、だからこそ、フィアとの任務が楽しみだったのだ、と。
「実際、お前と一緒に仕事できて楽しかったよ。俺は、お前から離れたところでパーティの見張りをしてただけだけどさ、それでも、レナ嬢と楽しそうに笑ってるお前を見てるのも、楽しかった。
正直、ずっと一人で任務に向かうのはつまらなかったし、大変だった。だからこそ、久しぶりにお前と臨んだ任務は、充実していた。もう一度、パートナーを組んでもいいかなとも思ったよ」
一緒に過ごしていて、よくわかった。フィアは強く、しっかり者で、彼と一緒に居たら、強くなれるのではないかと感じた。一緒に強くなりたいとも、思った。……かつて、エルドとそうしたように、一緒に戦いたい、と確かにそう思ったのだとシストは語った。その言葉には嘘も世辞もない。それは、フィアにも痛い程伝わってくる。
けれど、とシストは言葉を続けた。
「それなのに、俺は、また同じ過ちを繰り返すところだった」
あれだけ後悔したはずなのにな、と自嘲するように言ってシストは顔を歪めた。
「フィア、お前がずっと苦しいのを我慢してんのに気付かなかった。お前が怪我をしたことに気づいていたのに、そのまま働かせたのは、俺だ。
お前が言うこと聞かなかろうが、強引にでも城に送り返せたのは、俺だけだったのに。俺は、お前を気遣うこともせず、標的の追跡を続けた」
判断を誤った。そう理解したのは、フィアが倒れた後だった。後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。あの時ああしていれば、なんて考えは抱いた所で何の意味もないものだと、改めて思い知らされた。
「会場に戻って、お前が倒れて、その手に触れたとき、エルドのことを思い出した。冷たい手に触れるのは、初めてじゃなかったから」
冷え切った手。それに触れるのは、初めてではなかった。熱を、力を失った手。意識を失ったフィアのそれは、あの時……最期の息を吐き出した後のエルドの手に、よく似ていたのだ、と掠れた声でシストは語る。
「お前が、死ぬんじゃないかと思ったら、怖かった。アルや、ジェイド様に大丈夫だって幾ら言われても、全然安心なんかできなかった。
また目の前で、自分の所為で、仲間を失うんじゃないか、って……情けねぇよな」
そう自嘲気味にそう呟くと、シストは顔を完全に手で覆ってしまった。微かに、その手が震えている。泣いているのかもしれない。そう思いつつも、フィアは何も言わなかった。無論、シストも何も言わない。二人の間に暫し沈黙が流れた。
やがて。黙っていることに飽きたかのように、フィアがそっと息を吐き出した。そして。
「あぁ。情けない奴だな」
沈黙を破ったフィアは、そのまま椅子から立ち上がり、ベッドに寝転んでいて顔が見えないシストの前に立つ。必然、シストを見下ろすような体勢になりつつ、やや強い口調で問うた。
「それで? 俺はどういう反応をすれば良い? お前は、俺のどういうリアクションを求めているんだ?
大変だったな、とお前を慰めればいいのか? それとも、ろくでなしだと罵ればいいのか? ……そうしたらお前は満足か?」
動かないシストを見ながら言葉を続ける。慰めるでもなく、怒るでもない。いつも通りの、少し無表情な声で。
「お前が慰めてほしいというなら、俺はそうしてやる。お前が罵られたいなら、そうしてやる。俺は自分から進んで安っぽい慰めの言葉をお前に与える気もないし、弱いことが悪いとも言わない。 ……否、言えないな。俺自身が弱いから。でも」
そこで一度、フィアは言葉を切る。そして、真っ直ぐにシストを見つめながら、彼はいった。
「ただ一つ、言わせてもらうなら……シスト、お前は一体何をしているんだ?」
彼の言葉に、シストがぴくりと動いた。フィアはふう、と息を吐いて、静かに言葉を紡ぐ。
「此処でうじうじと悩むより、無力だった過去の自分を悔やむより先にやるべきことがあるんじゃないか?
今此処で悩んでいたところで、昔のパートナーは帰ってこない。お前のミスが払拭されることはない。過去は変わらないのだから」
そこで、一度フィアは言葉を切った。軽く頬を掻いて息を吐いた彼は少し声音を柔らかくして、言葉を紡ぐ。
「……少しきつい言い方をしたが、俺は本気でそう思っている。
現に、俺は今までそうやって生きてきた。人生、いくらでも悪い方へ落ちていくものだ。俺は、そのことを、身をもって知っている。これ以上酷いことは起きないと思っていたって、それ以上の悪夢に襲われることもある。
何度も何度も死にたいと思った。もう立ち上がれない、立ちあがりたくないと何度も思ったよ。
でも、俺は今も此処にいる。此処で、お前の横で生きている。……起きてしまった過去は消せないけれど、未来は今からだって変えていける。作っていける。そうだろう?」
途中からは、自分にも言い聞かせるような口調だった。フィア自身が、その言葉の重みを、一番よく理解している。起きてしまった過去は、変えられない。死んでしまった人間は、帰ってこない。わかりきったことだった。わかりきっているけれど、認めたくないことだった。だからこそ。今、こうしてシストに言っているのだ。”過去よりも今を、未来を、大切にしろ”と。
フィアの言葉を聞いてシストは顔を覆っていた手をどけた。どうやら少し涙を流したようで、その瞳は僅かに潤んでいるようだった。
しかし、その表情をフィアは見ていない。何故ならフィアははすでにシストに背を向けていたからで。
「シスト、俺の訓練に付き合ってくれ。明日の任務のために少し体をほぐしておきたい。さすがに三日も寝ていたとなると感覚が狂っているからな」
「え?」
フィアはまるで何事もなかったかのようにそういう。まるで、今まで普通に訓練をしていたかのように。シストは予想外の言葉に何度も瞬きをした。そんな彼の方へ歩み寄り、グイッと腕を引いて立たせるフィア。ちらりとシストの顔を見て、フィアは言った。
「嫌なら構わない。ルカに付き合ってもらう。そこでうじうじと寝ていたらどうだ?それで現状がどう変わるという訳でもないがな」
挑発的なその口調。いつも通りに、自分を見つめるフィアの瞳。シストは苦笑気味に言った。
「ったく。本当に可愛くねぇな」
「それはどうも。褒め言葉として受け取ってやる。……やっぱり、拒否権はなしだ。来い」
そう言うと、フィアはやや強引にシストの腕を引いた。
「うわ! な、何だよ」
困惑した声をあげるシストの手を引っ張り、フィアは無言で訓練場に向かっていった。
***
実践訓練用の部屋に入ると、フィアは剣を構えた。真剣な瞳でシストを見つめながら、口を開く。
「本気でかかってこい。俺がこの剣でやる以上、本気で来ないとお前の命はないと思え」
氷のように冷たい瞳が、シストを射抜いていた。その表情は、確かに本気で、まるで敵と睨みあっているかのようだ。今までに見たことのないフィアのそんな雰囲気に、シストは思わず表情を引き攣らせた。
「おいおい、マジかよ……」
フィアが握っているのは実戦用の剣。普段使っている、彼の大切な魔術剣だ。以前喧嘩を売ってきたドットと決闘した時にはフルーレで戦っていた。しかし今は違う。本気、という言葉は真実らしく、剣を握る手に躊躇いは感じられない。おそらく、フィアの言葉通り、シストが中途半端な戦い方をすれば、怪我では済まないだろう。
どうやら、彼は退くつもりなどないらしい。自分が逃げることを赦すこともしないだろう。そう思いながら一つ溜息を吐くと、シストも自分の魔術剣を抜いた。その表情にも、フィアと同じ真剣な光が宿る。
「わかったよ。お手柔らかに!」
二人は同時に動いた。フィアが先に攻撃を仕掛ける。得意の氷属性の魔力をシストに向けて放った。冷たい魔力が、一直線にシストに向かう。一瞬で、室内の空気が冷たく凍りついていくようだった。
しかし、シストも雪狼のヴァーチェ。そう簡単には当たらない。あっさり躱されると、フィアはふっと笑った。さすがに、一筋縄ではいかないか、と思う。嗚呼、わかりきっていた。これくらいの魔術を躱せなければ騎士は務まらない、と。
魔術で駄目なら、とフィアは剣を振るった。シストも真正面からそれを受け止める。ギッとぶつかり合う剣。微かに散る火花。力が拮抗する。チリチリと鋼が擦れる音が、二人の荒い息遣いが、静かな室内に響く。
フィアはシストを見つめた。シストのアメジスト色の瞳を捕らえ、フィアは目をすっと細めた。
「……力、抜いているだろう」
怒気を含んだフィアの声。そんな彼の言葉と同時に揺らぐ、シストの瞳。答える言葉はなく、そっと視線を外された。それは、肯定しているも同然だ。
シストが手加減しているのはすぐにわかった。彼は、フィアより一つ年上の男性だ。それも、決して力がない方ではあるまい。雪狼の騎士をしているくらいなのだから、女であるフィアより力が弱いはずがないのだ。それなのに、さっきからシストはフィアの剣を防ぐばかりで、攻撃を仕掛けようとしない。弾き返そうとする様子すらない。まるで、何か迷っているかのように、ただ攻撃を防ぎ、躱すばかりで。
シストは暫し返答に迷ってから、ぎゅっと唇をかんで、呟いた。
「だって……」
「言い訳は要らない」
言い訳をしようとしたシストの言葉を遮り、強く、シストの剣を払った。そして、冷たい声音で言い放った。
「俺に怪我をさせるかもしれないからか? それとも、俺が弱いから力を抜いているのか? ……その油断が命取りになると言っている。お前はまだわかっていないのか、その油断が、かつてのパートナーが死んだ原因だと」
凪いだ海のように静かな瞳でシストを見据えたまま、フィアはそう告げる。ひゅっと、シストが息を呑んだ音が聞こえた。
冷たい言葉だった。ある意味、シストにとっては残酷な言葉ですらあったかもしれない。それを容赦なく放ったフィアは緩く口をあげた。
「ほら、またそうして油断する」
静かにそういいながら、フィアが一瞬動揺したシストの剣をもう一度、強く弾く。普通なら、此処で勝負ありだ。剣を弾かれ、そのまま地面に落とすのが普通である。しかし、シストは違った。
一瞬、シストの瞳が違う光り方をした。仲間ではなく、敵に向かう、騎士の瞳の光り方を。彼は剣を離さず、素早くフィアから離れ、フィアに向けて魔力の弾を放つ。それがフィアの頬を掠めた。彼の白い頬に、赤い筋が走る。ツッと一筋、血が伝った。
シストはそれを見てはっとしたように、目を見開く。フィアは何でもないように切れた頬を手の甲で拭い、言った。
「出来るじゃないか」
そういって、緩く笑みを浮かべる。まるで、挑発するように。彼の魔力に同調して、ふわりとフィアの亜麻色の髪が揺れた。今のはシストの騎士としての反射だろう。実戦経験を積んでいるシストは自らの危険を察知して、とっさに行動した。その判断力と行動こそが、騎士として必要不可欠なものなのだ。
しかし、シストは動揺していた。仲間であるフィアに傷を負わせたから、だろう。彼の、剣を握る手の力が緩む。
「ごめん、フィア、俺……ッ?!」
次の瞬間、フィアが何か言いかけたシストの剣を弾き飛ばし、彼を床に組み伏せていた。ドス、と鈍い音とシストの剣が遥か後方に転がった鈍い金属音が響く。その一方で、フィアの剣は、シストの首すれすれの床に刺さっていた。
「いちいち狼狽えるな!」
室内に響く怒鳴り声は、フィアのものだった。組み伏せたシストを睨むように見下ろし、握った剣に力を込めながら、彼は荒く息を吐いている。フィアがこんなに声を荒げたことは今までなかった。少なくとも、シストは今まで一度も、この冷静な騎士がこうして怒鳴るところを見たことがなかった。
シストは驚きながら、自分を睨んでいるフィアを見つめる。彼の眼は真剣そのものだった。
と、フィアが剣を握る手から力を抜いた。シストを見下ろす瞳には、先刻の鋭さとは違う、優しい光が点っていて。
「……お前が仲間思いであることは、十分よく知っている。まだそんなに長い間一緒にいた訳ではないが、お前のそうした基質は、良くわかっているつもりだ。
だがな、シスト。お前のその優しさが仇になることもあるんだ」
そこでフィアは一度言葉を切った。ゆっくりと瞬く、シストの瞳。仇になる、とまるで子供のように繰り返す彼を見て頷いて見せながら、フィアは言葉を続けた。
「もしも敵が幻術使いの生き物だったらどうする? 敵が俺やアル、ルカや他の仲間の姿をしていたら、偽物だとわかっていてもお前は斬るのを躊躇うだろう?
或いは、俺が操られてお前や他の仲間を攻撃したらどうする? お前は俺を止めないだろう。例え、俺がお前や、他の仲間を殺すとしても。
俺は……操られて、自分の仲間を殺めてしまうくらいなら、お前に殺されたい」
静かな、けれども確かな意思を持った声で、フィアはシストに言う。自分の力で仲間を殺めてしまうなら、そうなってしまうくらいならば、いっそ殺してほしい、と。その言葉は、フィアの切実な思いだった。自分自身の計り知れない魔力を暴走させて、仲間を傷つけるかもしれない。場合によっては、人を殺めてしまうかもしれない。それが一番恐ろしかった。そうなるくらいなら、仲間の手で殺されたいと、本気でそう思っていた。
残酷な願いなのかもしれない。特に、一度自身の過失で仲間を失っているシストにとっては。けれども、彼の優しさは、場合によっては相手にとって残酷なものになりうるのだと、フィアは告げる。
シストは答えずに、目を伏せた。フィアは、シストを見つめながら、言葉を続けた。
「俺は、お前のその優しさが嫌いじゃない。悪いだけのものとも思わない。だがな、その所為でお前が傷ついたり、命を落としたりするのは嫌だ。
……なぁ、シスト。お前はもうパートナーは要らないといったな? けれど、一度だけ……たった一度だけ、俺を信じてくれないか?」
フィアはそう言いながら、床に突き刺さった剣を引き抜き、鞘に納めた。そのまま、シストの横に腰を下ろす。シストは困惑した表情を浮かべたまま起き上がり、首を傾げる。
「どういう、意味だ?」
いつもならば要件を短く纏めて口にする彼にしては珍しい、まどろっこしい言葉選びだ。そう思いながら首を傾げるシストをフィアは真剣な顔をして見つめながら、言葉を紡いだ。
「俺を、シストのパートナーにしてくれ」
一瞬、時が止まったような気がした。シストは目を見開く。
「な、何言ってるんだよ、俺、さっき言っただろ! 俺は……もう、パートナーは持たないって」
動揺した声音で、シストは拒絶の言葉を吐いた。二度と失わないためにと、シストが立てた誓い。フィアもそれは確かに聞いていた。しかし、フィアはきっぱりと言い放つ。
「命を捨てる覚悟なら、騎士になる時からしていたさ。それに、俺は死なないよ。死んだら、もう何も守れない」
フィアは立ちあがると優しく微笑み、床に座り込んだままのシストに手を差し伸べた。
「俺は弱い。でも、強くなるために騎士になった。シストは、俺にとって大切な仲間だ。守りたい相手なんだ。だから……俺が、お前を守ってやるよ」
守ってやると、そういって、フィアは手を差し出した。この手を取れというように。
しん、と静まり返った訓練場の中、シストは差し出されたその手を見つめ……いつものように、笑みを浮かべた。そしてそっと、フィアの手を握る。
「本当に可愛くない奴。お前は守るより守られる方が適役だ。鎧よりも軽いくせに。……俺がお前の背中を守ってやるよ!」
笑顔のままにそう言ったシストは何処か吹っ切れたような顔をしていた。それを見て、フィアは安堵の表情を浮かべる。
正直、賭けではあった。かつて相棒を喪った彼への対処がこんな調子で良いのかはさっぱりわからなかったし、騎士を辞めるとシストが言い出すことだって、十二分に考えられた。
放っておけば良いと、言われるかもしれない。人の心に深く踏み込むことは多かれ少なかれ、リスクを伴う。特に、フィアは口が上手い方ではない。余計にシストを傷つけて終わることだって、ありえた。いっそのこと、適当な励ましの言葉でもかけて終わりにすることが無難であったことは間違いないだろう。
しかしそうしなかったのは、自分に似ていると思ったからだった。過去に囚われ悩む彼が、過去の自分に重なって見えたのだ。そしてその迷いが少なからず剣を鈍らせることをフィアは知っている。ともすれば、彼は任務の中で死ぬことを望んでさえいるのではないかと思われた。だから放っておけないと思ったのだ。新しい相棒という形で。
軽くフィアの手を握り返した後、その手を放し、シストは言った。
「……ありがとな。やっぱり、お前に話してよかった」
何処か照れ臭そうに、シストは笑む。自身の過去を話すか否かは、大分迷ったのだ。それを聞いた彼がどういう反応をするか読めなかったし、自分がどうしてほしいのかも良くわからないままだったから。……結果的に、彼に話て良かったと、心の底から思っているのだけれど。
「そうか。俺は大したことをしてはいないがな」
大して気にも留めていないかのようにそっけなく言うフィア。そんな調子の彼を見て、いつも通りだなとシストは苦笑いを浮かべた。しかし、その”いつも通り”が、今は酷く嬉しくて……どちらともなく、笑みを交わしてから、二人は訓練所を出たのだった。
***
その後。訓練所を出て、休憩室に向かったフィアとシストの元に、アルが駆け寄ってきた。
「フィア、何処に行ってたの? そろそろ傷の具合見ておきたいなぁと思って、ずっと探してたんだよ? ……って、何、その怪我?!」
アルはフィアの頬についた傷を見て目を見開いた。色白なフィアの顔についた傷は、痛々しく目立つ。
「あー……訓練中に少し」
フィアはそういって、心配性の友人から視線を逸らす。大したことない、と返すも、どうやらそれは彼……アルにとっては逆鱗だったらしい。いつもは人懐こい金色の瞳をくわっと見開いて、声をあげた。
「少し、じゃないよ! もう! 何やってるの?!」
アルは怒った顔をしながら、そっとフィアの頬に触れる。確かに深い傷ではないし、血ももう止まっているらしい。大した怪我ではないというのは事実だろうが、そう言う問題ではない、とアルは声を荒げる。フィアはそんな彼の様子を見て、苦笑まじりに言った。
「大したことない。平気だって……」
「駄目! 顔に怪我なんて、フィアは……」
女の子なんだから、といいかけたアルは、慌てて口を噤んだ。慌てて視線をシストに向けるのは、余計
にまずいと思うがフィアは黙ったままで苦笑する。そんな彼の様子にシストはきょとんとしている。
「と、とにかく、怪我治すよっ! 傷が残ったら大変なんだから!」
アルの慌てっぷりと、フィアの困惑顔に、シストは声を立てて笑った。
「何を笑っているんだシスト、お前からも何か言ってくれ」
「逆にシストさんからも何か言ってやってください!」
「俺にどうしろっていうんだよ!?」
そういいながら、シストはまた笑う。こんな距離感で誰かと接するのは随分と久し振りな気がして……尚且つその空間が、雰囲気が心地よいと、そう思いながらシストは言い合いをしている二人の様子を見ていたのだった。
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