トロフィー・ワイフ

彩 sai

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秘密

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 キッチンに立った操はセロリやジャガイモなどに包丁を入れている。敬はソファにゆったり座ってクイズ番組を見ている。CMに入ったタイミングで声をかけた。
「敬ー。ごめん、スマホカバンの中に置いてきちゃった。ボルシチのレシピ見てくれない?」
「ボルシチね」
 立ち上がった敬はスマホを操作しながらレシピを告げる。
「チキンブイヨン、一リットル、ローリエ二枚……」
「オッケー。ありがと。またあとで聞くかも」
 カウンターキッチンの隅に無防備に置かれた、ロックがかかっている敬のスマホ。操は料理を続けながら皿を洗うフリして敬のスマホの下部に向かって軽く水飛沫を飛ばした。
「あっ。何度もごめんね、ワインビネガーの分量もう一回教えてくれる?」
「ワインビネガー、ワインビネガー……」
 敬が再びスマホを持ち上げロック解除のためにホームボタンに親指を置く。二回その動きをしたがうまく反応しなかったようで、しかたなしにパスコードを入力し始めた。
 ――きた……。
 陸曰く、スマホの指紋認証は指先の静電気を読み取り解除する仕様のため、濡れていたり乾燥しすぎたりしていると反応が鈍くなるのだそうだ。言われてみれば、お風呂上がりは指紋認証の反応が鈍い。
 操は手を忙しなく動かしながら視線だけをさりげなく敬の手元に向ける。スマホのパスコードは六ケタだ。一から〇が並ぶロック解除の画面を脳内に映し出し、指の動きと照らし合わせ懸命に記憶した。


 夜の行為を終えて敬は眠りに入った。一応、誘いは応えているが気持ちの問題なのだろう、少し痛みを感じるようになってしまった。操はゆっくり体を起こしなるべく音をたてないようにベッドから抜ける。敬の様子を注視しながらベッドボードに置かれた彼のスマホを掴んだ。手はぐっしょり汗をかいていて滑り落とさないように両手で抱くようにしてトイレへと向かった。内側から鍵をかけて便座に腰掛ける。夫のプライバシーを覗き見しようとしている罪悪感に、心臓が破裂しそうなくらい暴れている。気持ちを少し落ち着かせるのにも数分かかった。

 ――こんなこと、していいのか。夫婦間でもプライバシーの侵害は成立すると聞いたことがある。今、戻ればまだ間に合う。
 ――でも……。
 ホームボタンに指先を置くと指紋解除ができずにパスコードを求められた。三列四行の数字の画面。夕方に見た指の動きを思い出しながら入力してみるも、通らなかった。
 次失敗したら今日は諦めようと、開始位置をひとつずらして再度入力する。と、画面がさっと切り替わった。
 ――うそ、解除できた……。
 数字を確認するためもう一度ロックをかけて解除してやっと気づいた。
【122400】それはふたりの結婚記念日、婚姻届を提出した時間。壁紙もその時撮影したふたりのツーショットだった。

 罪悪感が激しくこみ上げ、操はしばし呆然としていた。
 三年前のクリスマスイブ、どうしても街で一番に提出したいと無理やり〇時に役所に行った。あの時の愛しい気持ちや、何があっても一生この人を愛し抜くという誓いが胸に蘇ってくる。
 ――私、何やってるんだろう。探偵を使おうとしたり、スマホを盗み見しようとしていたのが無性に恥ずかしくなってきた。
 よく使うアイコンが画面下部に固定されている。電話、ライン、Gメール、ブラウザ。この四つをくまなくチェックすれば先日ついた嘘の理由が突き止められるかもしれない。だが操の手はそれ以上タップすることなく止まった。心の中で燃えていた炎がふっと消えた。
 寝室に戻りそっと敬のスマホを元の位置に戻し横に寝転がった。妻の裏での行いも知らず無防備に眠っている敬の背中にそっと寄り添う。操自身、秘密がなにもないとは言えない。例えば桜樹を想っていた一年がそれに当たる。社会人になって初めての上司の彼をすぐに好きになった。
 一言でも話せるだけで嬉しくて、平日が楽しくて、彼の一挙手一投足を目で追っては恋い焦がれていた。自分から男性を好きになったのは初めてで浮き足立っていた。
 桜樹への恋は、陸はもちろん敬との恋とも種類が違った。燃えるような恋だった。敬はそれを知らない。言うつもりもない。知っていたら、一緒に遊び行こうだなんて決して言わないだろう。
 もしもそれを何かの拍子で知られてしまったら、敬にとっては裏切りに当たるかもしれない。何故言わなかったのかと怒るかもしれない。バカにされたと感じるかもしれない。
 今過去を問い詰められたら、なんと答えるだろうと自問する。冷静に答えられる自信はあるが、出来れば聞いて欲しくない。
 夫婦だからこそ、言えないこともあるだろう。
 夫婦だからこそ、知らなくていいこともあるだろう。
 相手の何かもを全て把握してるなんて夢物語だ。 
 分からないけど敬の嘘は、そういうものだったのかもしれない。
 決定的な物証が出てきたり妻として蔑ろにされているならまだしも、現時点ではこれといって何もない。周囲の皆も言うように、大切にされていると感じるのは間違いないのだ。

 秘密がない人間なんていやしない。
 嘘のことは、忘れよう。

 苦しいながら飲み込んだ。またすぐに煮湯飲まされるとも知らずに――。
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