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噂
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栞が、神園に対して言いよどんだ噂は、ただの噂だ。
なのに、七奈美の評判を著しく落とした。
その一件を思いだすだけで、栞は、胸が締め付けられるように苦しくなる。
高校一年の秋。
急に生徒のあいだで、七奈美が高校の教師と交際をしていると、まことしやかに噂されるようになったのだ。教師とは誰だ、噂は本当か。クラスメイトは、七奈美を特別な目で見るようになった。
「七奈美、変な噂が流れているけど、大丈夫?」
栞が心配して訊ねると、七奈美は、いつものクシャリとした笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫やって。だって栞、わたしに付き合っている相手がいると思う? 心配せんでも大丈夫。ほら、人の噂も七十五日やから」
栞は気にしながらも、普段通りに振る舞う七奈美とともに過ごした。一緒にいても、七奈美に、そんな相手がいるようにも思えなかったから、心のどこかで安心していた。
大丈夫だ。七奈美の言うとおり、人の噂なんて、すぐに消える。
そんなある日の放課後に、事件が起きた。
ことあるごとに気をひくように、七奈美にからかいの言葉を投げかけていた力也だったが、その日は無言で、帰ろうとしていた七奈美の前に立ちはだかった。
「えっと? なんやのん?」
訝しげに見あげた七奈美の髪をつかんで、力也は一気に引き倒した。教室のあちらこちらから、一斉に悲鳴があがる。
一瞬の出来事で呆然とした栞だが、すぐに我に返ると、教室の床に倒れた七奈美のところへ駆け寄った。七奈美を支え起こす。幸い怪我はしていないらしく、ふらりとした目で、七奈美は仁王立つ力也へ、顔を向けた。
「――なにすんのん?」
「おい、おまえ! 自分が教師と付き合っていることを隠すために、鈴音が学校の教師と付き合っているって言いふらしているらしいな? 卑怯な真似をするんじゃねぇよ!」
顔を真っ赤に染めて、力也が吼えた。
しんと静まり返った教室の隅々まで、その声が響き渡る。
「な、なんのことやのん? わたしには、さっぱりわからへん……」
「まだとぼける気か?」
力也が右腕を振りあげる。
七奈美とともに、彼女にしがみついていた栞も、びくっと身をすくませた。
「力也、もういいから」
鈴音がそういいながら、力也の右腕にしがみついた。瞳を潤ませて悲劇のヒロインを気取りながら、いかにも情状酌量の余地があるようにささやきかける。
「あたしは大丈夫。力也さえ信じてくれたら、流された噂なんて耐えられるわ。七奈美を許してあげて。ね、お願い」
「ったく。鈴音がそういうんだったら仕方がねぇな」
力也は、振りあげた右腕をあっさりとおろす。そして、七奈美を睨みつけた。
「もうこんな舐めた真似をするんじゃねぇぞ!」
そう言い残して、力也と鈴音は教室から出ていく。
ふたりのあとを、忠太と英二が慌ててついていった。
「――七奈美、大丈夫?」
「うん……。なんや、誤解されてたみたいやな」
苦笑いを浮かべて、七奈美はゆっくりと立ちあがる。
支えていた栞は、黙って制服のホコリを払うように軽く叩いた。
ただの誤解。ただの噂。それなのに、七奈美からクラスメイトは遠ざかった。
これまでのような七奈美の気をひくためではなく、いじめの対象として、力也が目をつけたことに気づいたからだ。力也の暴力に巻きこまれたくないと、皆は考えていた。
「七奈美が言いふらしているって、どこからでた噂なのかな」
「そうやな……。誰も疑いたくないんやけど……」
打開策を求めて、栞が一生懸命考える。
だが、七奈美は苦笑いのような笑みを浮かべて、栞に告げた。
「大丈夫。わたしは大丈夫や。栞は友だちやから、こんなことに巻きこみたくないやん? だから栞は、いまはわたしと一緒におらんほうがええよ」
「でも」
「ほとぼりが冷める、その少しのあいだやん。よけいな反応をしたら、もっと長引くかもしれへんし。ね?」
そうだ。苦笑とはいえ、七奈美は栞へ笑ってみせた。
きっと大丈夫。大丈夫であるはずだ。だって七奈美は、嘘はつかない。
その一週間後に、七奈美は校舎の屋上から身を投げた。
噂が立って立てて立てられて。
その非難の目に耐えられなくなった七奈美は、学校の屋上から投身自殺をしたのだと、一度だけ、当時の週刊誌に書きたてられた。
結局、相手の教師が誰だったのか特定できず、学校側も、そのような事実はないと噂を打ち消した。クラスメイトから距離を置かれた状況も、いじめと決定づけられなかった。
世間は、すぐに次の事件を追いかける。
高校も生きている人間も、現実に追われて、いつしか口にしなくなる。
心に傷痕を抱えたまま、栞も、定期考査や学校行事、慌ただしい毎日に向き合わなければならない。
詳しいことを、なにも話し合えなかった親友。
七奈美との想い出は、その時間を止めたまま、一年以上も経ってしまっていた。
それが、こんな形で浮上してくるとは、栞は考えてもいなかった。
放送で流された、追い詰めるという言葉は、なにを表しているのだろう。
言葉通り、七奈美は誰かに、精神的に追い詰められたのだろうか。
それとも、肉体的に追い詰められたのだろうか。
誰に?
放送で名指ししていた、佐々木力也に?
栞の知らないなにかが、七奈美から離れていた一週間のあいだに起こったのだろうか。
なのに、七奈美の評判を著しく落とした。
その一件を思いだすだけで、栞は、胸が締め付けられるように苦しくなる。
高校一年の秋。
急に生徒のあいだで、七奈美が高校の教師と交際をしていると、まことしやかに噂されるようになったのだ。教師とは誰だ、噂は本当か。クラスメイトは、七奈美を特別な目で見るようになった。
「七奈美、変な噂が流れているけど、大丈夫?」
栞が心配して訊ねると、七奈美は、いつものクシャリとした笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫やって。だって栞、わたしに付き合っている相手がいると思う? 心配せんでも大丈夫。ほら、人の噂も七十五日やから」
栞は気にしながらも、普段通りに振る舞う七奈美とともに過ごした。一緒にいても、七奈美に、そんな相手がいるようにも思えなかったから、心のどこかで安心していた。
大丈夫だ。七奈美の言うとおり、人の噂なんて、すぐに消える。
そんなある日の放課後に、事件が起きた。
ことあるごとに気をひくように、七奈美にからかいの言葉を投げかけていた力也だったが、その日は無言で、帰ろうとしていた七奈美の前に立ちはだかった。
「えっと? なんやのん?」
訝しげに見あげた七奈美の髪をつかんで、力也は一気に引き倒した。教室のあちらこちらから、一斉に悲鳴があがる。
一瞬の出来事で呆然とした栞だが、すぐに我に返ると、教室の床に倒れた七奈美のところへ駆け寄った。七奈美を支え起こす。幸い怪我はしていないらしく、ふらりとした目で、七奈美は仁王立つ力也へ、顔を向けた。
「――なにすんのん?」
「おい、おまえ! 自分が教師と付き合っていることを隠すために、鈴音が学校の教師と付き合っているって言いふらしているらしいな? 卑怯な真似をするんじゃねぇよ!」
顔を真っ赤に染めて、力也が吼えた。
しんと静まり返った教室の隅々まで、その声が響き渡る。
「な、なんのことやのん? わたしには、さっぱりわからへん……」
「まだとぼける気か?」
力也が右腕を振りあげる。
七奈美とともに、彼女にしがみついていた栞も、びくっと身をすくませた。
「力也、もういいから」
鈴音がそういいながら、力也の右腕にしがみついた。瞳を潤ませて悲劇のヒロインを気取りながら、いかにも情状酌量の余地があるようにささやきかける。
「あたしは大丈夫。力也さえ信じてくれたら、流された噂なんて耐えられるわ。七奈美を許してあげて。ね、お願い」
「ったく。鈴音がそういうんだったら仕方がねぇな」
力也は、振りあげた右腕をあっさりとおろす。そして、七奈美を睨みつけた。
「もうこんな舐めた真似をするんじゃねぇぞ!」
そう言い残して、力也と鈴音は教室から出ていく。
ふたりのあとを、忠太と英二が慌ててついていった。
「――七奈美、大丈夫?」
「うん……。なんや、誤解されてたみたいやな」
苦笑いを浮かべて、七奈美はゆっくりと立ちあがる。
支えていた栞は、黙って制服のホコリを払うように軽く叩いた。
ただの誤解。ただの噂。それなのに、七奈美からクラスメイトは遠ざかった。
これまでのような七奈美の気をひくためではなく、いじめの対象として、力也が目をつけたことに気づいたからだ。力也の暴力に巻きこまれたくないと、皆は考えていた。
「七奈美が言いふらしているって、どこからでた噂なのかな」
「そうやな……。誰も疑いたくないんやけど……」
打開策を求めて、栞が一生懸命考える。
だが、七奈美は苦笑いのような笑みを浮かべて、栞に告げた。
「大丈夫。わたしは大丈夫や。栞は友だちやから、こんなことに巻きこみたくないやん? だから栞は、いまはわたしと一緒におらんほうがええよ」
「でも」
「ほとぼりが冷める、その少しのあいだやん。よけいな反応をしたら、もっと長引くかもしれへんし。ね?」
そうだ。苦笑とはいえ、七奈美は栞へ笑ってみせた。
きっと大丈夫。大丈夫であるはずだ。だって七奈美は、嘘はつかない。
その一週間後に、七奈美は校舎の屋上から身を投げた。
噂が立って立てて立てられて。
その非難の目に耐えられなくなった七奈美は、学校の屋上から投身自殺をしたのだと、一度だけ、当時の週刊誌に書きたてられた。
結局、相手の教師が誰だったのか特定できず、学校側も、そのような事実はないと噂を打ち消した。クラスメイトから距離を置かれた状況も、いじめと決定づけられなかった。
世間は、すぐに次の事件を追いかける。
高校も生きている人間も、現実に追われて、いつしか口にしなくなる。
心に傷痕を抱えたまま、栞も、定期考査や学校行事、慌ただしい毎日に向き合わなければならない。
詳しいことを、なにも話し合えなかった親友。
七奈美との想い出は、その時間を止めたまま、一年以上も経ってしまっていた。
それが、こんな形で浮上してくるとは、栞は考えてもいなかった。
放送で流された、追い詰めるという言葉は、なにを表しているのだろう。
言葉通り、七奈美は誰かに、精神的に追い詰められたのだろうか。
それとも、肉体的に追い詰められたのだろうか。
誰に?
放送で名指ししていた、佐々木力也に?
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