2 / 34
はじまり
しおりを挟む
「いよいよ明日が卒業式ですか……」
神園日和は、机の上でプリントの束をそろえるように立てながら、少し感慨深くつぶやいた。彼女は、自身が通っていた母校で念願の教師になり、ようやく一年が経とうとしている。
顔立ちは地味で化粧っけがなく、肩口できっちりと切りそろえられた栗色の髪は、やや野暮ったいイメージがある。だが、地味とは慎ましさでもあり、聖職である高校教師として、他教職員や保護者に受けがよかった。
新任らしく覚えることや慣れないことばかりに気が向いてしまっており、元気で溌剌とした活きのいい生徒たちに向かって、まだまだ教師らしい振る舞いができているとは言えない。
低めのおっとり声で現代国語の授業を行っているが、それでも、いまのところ生徒から馬鹿にされることもなく、どうにか二年一組の副担任を終えようとしていた。
「そうですねぇ。でもまあ、ぼくらは二年の受け持ちなんで、明日も、それほど大変でもないですがね。やっぱり主役は、卒業学年の三年生と、その担任だ」
神園の言葉に、この高校では六年目となる曽我允史が、先輩らしく余裕の態度を見せた。神園へ、にっこりとした爽やかな笑みを向ける。
二十代後半の独身男性教師であり、すっきりと顔立ちが整っている曽我は、女子生徒に人気がある。アイロンのかかったYシャツに濃い色合いのベスト、グレーのスラックスという服装を好む、世界史が担当の教師だ。
そして、二年一組の担任である。
「神園先生は今年一年目でしたが、どんな感じでした? まあ、我々のクラスは四人ほど羽目を外す問題児がいて、少々てこずったかもしれませんが」
「そうですね……。緊張して、無我夢中の一年で」
うつむき加減になりながら、小さな声で神園は応える。神園のぼそぼそとした話し方は、少しも若々しさが感じられないなと、いつも曽我は心の中で思っていた。
そんな感情を顔にださず、曽我は、快活な笑い声をあげる。
「神園先生も、来年は担任を任されるかもしれないから、もっと自信を持って堂々としてもらわなきゃ」
「ええ、頑張ります」
ふたりは、受け持ちの生徒の成績表を作成するため、もう誰もいない職員室で、書類と情報を擦り合わせていた。
三学期の成績通知表は学年の総まとめであり、来年は進路を決定する最終学年となるため、評価する側も慎重になる。
そのような作業もあったが、もうひとつ、彼らには用事があった。
「そろそろ連中は、お祝い黒板アートを描き終わっているかな?」
曽我が、職員室の白い壁に掛けられている時計へ視線を走らせた。
連中とは、先ほど曽我が口にした問題児四人組のことだ。私語や居眠りなど授業態度が悪く、出席日数はぎりぎりで、定期試験の点数も芳しくない。
成績表に及第点を与えるために、曽我が四人組へ、行事に参加をして貢献しろと命じたのだ。
彼らに与えた行事内容は、明日の卒業式に向けて、卒業生を祝う黒板アートだった。
二年の各クラスから数名選出して、三年の教室の黒板にお祝いメッセージを書くという、この高校が代々伝えている行事だ。
曽我のクラスでは四人組のほかに、お目付け役としてクラス委員長も含め、三年一組の黒板に、放課後を使って仕上げることになっていた。
神園は、ふと心配そうに口を開く。
「やる気も画力も関係なく彼らを選んだけれど、その、うまくお祝いのメッセージや絵を描けたかしら……」
「まあ、安藤が真面目だから、うまくまとめて丁寧に仕上げてくれると思いますよ。クラス委員長だからって、四人組に付き合わせて可哀想だったかな」
楽天的な曽我の言葉に、神園は少し眉をひそめる。
その表情に気がついた曽我は、苦笑いを浮かべた。
「どれ、仕上がりを見にいこうか。それにいい加減、連中を追いださなきゃな。あまり遅くなっても問題になるし、我々が最後になるから、戸締りもしなきゃならないし」
そう言いながら、曽我は立ちあがった。
その言葉を聞いて、机の上に開いたファイルや書類を集めだした神園を、そっと曽我は見下ろす。
彼女の様子を眺めながら、曽我は、さりげなく言葉を続けた。
「神園先生。いつもよりは早いし、どうかな? このあとどこかへ食べにいきませんか?」
曽我の視線は、斜め上から神園の胸もとへ向けられていた。
清楚な印象を与える白いブラウスのVネックは、正面よりも上から見るに限ると、曽我は心の中で考える。
教師になって一年と若いが、成熟している女性が持つ丸みのあるラインだ。しっかりとブラウスのボタンを留めて包み隠しているが、豊かな胸もとの谷間は、悪戯にペンでも差し入れたくなる衝動を起こさせる。
五、六歳下の女子高生には、まだまだ手に入れられない代物だろう。
舐めるように視線をずらせると、長めの紺色のフレアースカートの下で、行儀よく膝頭をそろえた形のよい脚がうかがえた。
曽我の思惑など少しも気づいていないであろう神園は、ちょっと小首をかしげて、考えるそぶりをみせる。
「――食べにいくのは、でも、生徒に見られるのも……。曽我先生って、女子生徒におモテじゃないですか。よけいな噂をたてられたり、生徒に嫉妬されたりするのも……」
「いくら生徒にモテたところで、ぼくはそんなに嬉しくないなあ。教え子は対象外ですよ。高校生に手は出しませんし、そんなことでクビになりたくないですからね」
軽快に笑い飛ばした曽我は、爽やかな笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「神園先生は、心配し過ぎなんですよ。もっと気楽に堂々と」
「そうですね……」
この煮え切らない態度が原因で、この一年、曽我はうまく神園を食事に誘いだせていなかった。
ほかの職員は、もういない。早朝からいる用務員も、この時間は帰ってしまっている。時間も早めときている。
今日こそはと、曽我は有無を言わさず声を張りあげた。
「はい、決定! 近くに美味しいお店を知っているんですよ。そうと決まれば、早く生徒を帰さなきゃな」
そして、神園が口を開く前に、曽我はダッシュで職員室を飛びだした。
目指すは、この職員棟の向かいに建っている学生棟の一階にある、三年一組の教室だ。
神園日和は、机の上でプリントの束をそろえるように立てながら、少し感慨深くつぶやいた。彼女は、自身が通っていた母校で念願の教師になり、ようやく一年が経とうとしている。
顔立ちは地味で化粧っけがなく、肩口できっちりと切りそろえられた栗色の髪は、やや野暮ったいイメージがある。だが、地味とは慎ましさでもあり、聖職である高校教師として、他教職員や保護者に受けがよかった。
新任らしく覚えることや慣れないことばかりに気が向いてしまっており、元気で溌剌とした活きのいい生徒たちに向かって、まだまだ教師らしい振る舞いができているとは言えない。
低めのおっとり声で現代国語の授業を行っているが、それでも、いまのところ生徒から馬鹿にされることもなく、どうにか二年一組の副担任を終えようとしていた。
「そうですねぇ。でもまあ、ぼくらは二年の受け持ちなんで、明日も、それほど大変でもないですがね。やっぱり主役は、卒業学年の三年生と、その担任だ」
神園の言葉に、この高校では六年目となる曽我允史が、先輩らしく余裕の態度を見せた。神園へ、にっこりとした爽やかな笑みを向ける。
二十代後半の独身男性教師であり、すっきりと顔立ちが整っている曽我は、女子生徒に人気がある。アイロンのかかったYシャツに濃い色合いのベスト、グレーのスラックスという服装を好む、世界史が担当の教師だ。
そして、二年一組の担任である。
「神園先生は今年一年目でしたが、どんな感じでした? まあ、我々のクラスは四人ほど羽目を外す問題児がいて、少々てこずったかもしれませんが」
「そうですね……。緊張して、無我夢中の一年で」
うつむき加減になりながら、小さな声で神園は応える。神園のぼそぼそとした話し方は、少しも若々しさが感じられないなと、いつも曽我は心の中で思っていた。
そんな感情を顔にださず、曽我は、快活な笑い声をあげる。
「神園先生も、来年は担任を任されるかもしれないから、もっと自信を持って堂々としてもらわなきゃ」
「ええ、頑張ります」
ふたりは、受け持ちの生徒の成績表を作成するため、もう誰もいない職員室で、書類と情報を擦り合わせていた。
三学期の成績通知表は学年の総まとめであり、来年は進路を決定する最終学年となるため、評価する側も慎重になる。
そのような作業もあったが、もうひとつ、彼らには用事があった。
「そろそろ連中は、お祝い黒板アートを描き終わっているかな?」
曽我が、職員室の白い壁に掛けられている時計へ視線を走らせた。
連中とは、先ほど曽我が口にした問題児四人組のことだ。私語や居眠りなど授業態度が悪く、出席日数はぎりぎりで、定期試験の点数も芳しくない。
成績表に及第点を与えるために、曽我が四人組へ、行事に参加をして貢献しろと命じたのだ。
彼らに与えた行事内容は、明日の卒業式に向けて、卒業生を祝う黒板アートだった。
二年の各クラスから数名選出して、三年の教室の黒板にお祝いメッセージを書くという、この高校が代々伝えている行事だ。
曽我のクラスでは四人組のほかに、お目付け役としてクラス委員長も含め、三年一組の黒板に、放課後を使って仕上げることになっていた。
神園は、ふと心配そうに口を開く。
「やる気も画力も関係なく彼らを選んだけれど、その、うまくお祝いのメッセージや絵を描けたかしら……」
「まあ、安藤が真面目だから、うまくまとめて丁寧に仕上げてくれると思いますよ。クラス委員長だからって、四人組に付き合わせて可哀想だったかな」
楽天的な曽我の言葉に、神園は少し眉をひそめる。
その表情に気がついた曽我は、苦笑いを浮かべた。
「どれ、仕上がりを見にいこうか。それにいい加減、連中を追いださなきゃな。あまり遅くなっても問題になるし、我々が最後になるから、戸締りもしなきゃならないし」
そう言いながら、曽我は立ちあがった。
その言葉を聞いて、机の上に開いたファイルや書類を集めだした神園を、そっと曽我は見下ろす。
彼女の様子を眺めながら、曽我は、さりげなく言葉を続けた。
「神園先生。いつもよりは早いし、どうかな? このあとどこかへ食べにいきませんか?」
曽我の視線は、斜め上から神園の胸もとへ向けられていた。
清楚な印象を与える白いブラウスのVネックは、正面よりも上から見るに限ると、曽我は心の中で考える。
教師になって一年と若いが、成熟している女性が持つ丸みのあるラインだ。しっかりとブラウスのボタンを留めて包み隠しているが、豊かな胸もとの谷間は、悪戯にペンでも差し入れたくなる衝動を起こさせる。
五、六歳下の女子高生には、まだまだ手に入れられない代物だろう。
舐めるように視線をずらせると、長めの紺色のフレアースカートの下で、行儀よく膝頭をそろえた形のよい脚がうかがえた。
曽我の思惑など少しも気づいていないであろう神園は、ちょっと小首をかしげて、考えるそぶりをみせる。
「――食べにいくのは、でも、生徒に見られるのも……。曽我先生って、女子生徒におモテじゃないですか。よけいな噂をたてられたり、生徒に嫉妬されたりするのも……」
「いくら生徒にモテたところで、ぼくはそんなに嬉しくないなあ。教え子は対象外ですよ。高校生に手は出しませんし、そんなことでクビになりたくないですからね」
軽快に笑い飛ばした曽我は、爽やかな笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「神園先生は、心配し過ぎなんですよ。もっと気楽に堂々と」
「そうですね……」
この煮え切らない態度が原因で、この一年、曽我はうまく神園を食事に誘いだせていなかった。
ほかの職員は、もういない。早朝からいる用務員も、この時間は帰ってしまっている。時間も早めときている。
今日こそはと、曽我は有無を言わさず声を張りあげた。
「はい、決定! 近くに美味しいお店を知っているんですよ。そうと決まれば、早く生徒を帰さなきゃな」
そして、神園が口を開く前に、曽我はダッシュで職員室を飛びだした。
目指すは、この職員棟の向かいに建っている学生棟の一階にある、三年一組の教室だ。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
意識転移鏡像 ~ 歪む時間、崩壊する自我 ~
葉羽
ミステリー
「時間」を操り、人間の「意識」を弄ぶ、前代未聞の猟奇事件が発生。古びた洋館を改造した私設研究所で、昏睡状態の患者たちが次々と不審死を遂げる。死因は病死や事故死とされたが、その裏には恐るべき実験が隠されていた。被害者たちは、鏡像体と呼ばれる自身の複製へと意識を転移させられ、時間逆行による老化と若返りを繰り返していたのだ。歪む時間軸、変質する記憶、そして崩壊していく自我。天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に、この難解な謎に挑む。しかし、彼らの前に立ちはだかるのは、想像を絶する恐怖と真実への迷宮だった。果たして葉羽は、禁断の実験の真相を暴き、被害者たちの魂を救うことができるのか?そして、事件の背後に潜む驚愕のどんでん返しとは?究極の本格推理ミステリーが今、幕を開ける。
RoomNunmber「000」
誠奈
ミステリー
ある日突然届いた一通のメール。
そこには、報酬を与える代わりに、ある人物を誘拐するよう書かれていて……
丁度金に困っていた翔真は、訝しみつつも依頼を受け入れ、幼馴染の智樹を誘い、実行に移す……が、そこである事件に巻き込まれてしまう。
二人は密室となった部屋から出ることは出来るのだろうか?
※この作品は、以前別サイトにて公開していた物を、作者名及び、登場人物の名称等加筆修正を加えた上で公開しております。
※BL要素かなり薄いですが、匂わせ程度にはありますのでご注意を。
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
【完結】少女探偵・小林声と13の物理トリック
暗闇坂九死郞
ミステリー
私立探偵の鏑木俊はある事件をきっかけに、小学生男児のような外見の女子高生・小林声を助手に迎える。二人が遭遇する13の謎とトリック。
鏑木 俊 【かぶらき しゅん】……殺人事件が嫌いな私立探偵。
小林 声 【こばやし こえ】……探偵助手にして名探偵の少女。事件解決の為なら手段は選ばない。
オボロアカツキ。
ウキイヨ。
ミステリー
これまで数々の「夢」を叶えようとすれば、現実的問題に阻まれ、いつしか「夢」と言う言葉が嫌いなった洋平は、ある日を境に「夢」を叶えるチャンスを手に入れる。しかし1ヵ月と言う期間と叶える為のルールが存在する中、彼の「夢」を阻む存在や事態が彼に立ちはだかる。そしていつしかそれは、彼にとって人生史上とてつもない事件に巻き込まれていくのであった。
瞳に潜む村
山口テトラ
ミステリー
人口千五百人以下の三角村。
過去に様々な事故、事件が起きた村にはやはり何かしらの祟りという名の呪いは存在するのかも知れない。
この村で起きた奇妙な事件を記憶喪失の青年、桜は遭遇して自分の記憶と対峙するのだった。
時の呪縛
葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。
葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。
果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。
マクデブルクの半球
ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。
高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。
電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう───
「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」
自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる