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【第五章】日常恋愛編『きみがいるから』
第140話 ほーりゅう
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しばらくそのまま、眼下に広がる風景を展望台から眺めていた。
いままで空を覆っていた雲が流れるように動き、雲の隙間から光が射しはじめる。
良かった。
天気は悪くなるんじゃなくて、いまから晴れてくるんだ。
そう思って眺めていたら、ふいにジプシーが腕を解いて、わたしから離れた。
とたんに、温かかったぶんだけ、外気の冷たさが背中に感じられる。
ジプシーは黙ったまま、展望台の階段を降りはじめた。
「いまからどこへ行くの? 今度は山登り? ずっと外は寒いんだけれどなぁ」
「動けば温かくなる」
振り返らずに告げるジプシーのあとを、わたしは仕方なくついて降りる。
予想通り、次は頂上へと続くらしい小道に入っていった。
歩いてみると、土がむきだしで足場が悪く、かなりブーツは辛い。
さっさと前をいくジプシーに遅れまいと一生懸命歩くと、たしかに暑くなってきたんだけれど……。
なんだかなぁ。
かなり先のほうで頂上に辿り着いたらしいジプシーは、立ち止まって遠くの景色を眺めているようだ。
その後ろ姿を見ながら歩いていたわたしの足が、ふと止まった。
ジプシーの向こう側に広がる空は、雲の隙間から射しこむ光が増えていて、不思議なくらいに神々しい。
その空間の中で。
時によっては強烈な印象を与える奴なのに、いま目の前にある後ろ姿は、その不安定で崩れ落ちてきそうな空をひとり支えて、そのままその空に溶けこみ消えてしまいそうな儚さを持っているように感じられた。
なぜだかわたしには、いまのジプシーが、そこにいるという現実感を持てなかった。
急にわきあがる焦燥感に、思わずわたしはジプシーへ向かって、大きな声をかける。
「あんたの好きな食べ物って、なに?」
「は?」
唐突な質問に、ジプシーは振り返って、訝しげにわたしを見た。
でも、わたしには意味のある質問だ。
いま、ジプシーに対して現実感が持てないのは、きっとわたしが彼のことをあまり知らないせいだ。
現実に存在する人間だと確認したくなって訊いたのだ。
ジプシーのことをもっと知れば、彼の存在感が増すような気がするから。
「前にトラに訊ねられて思ったのよ。わたし、あんたのこと、あんまり知らないなって」
その言葉に納得したのかどうかわからないけれど、ジプシーは少し考えてから口を開いた。
「とくに嫌いなものはない」
わたしは、頂上までの残りの距離を歩きだしながら続けた。
「あんたにしちゃ、珍しく意味を取り違えてるよ。わたしは嫌いな食べ物を訊いたんじゃなくて、好きな食べ物を訊いたの!」
それを聞いたジプシーは目を見開いて、ちょっと驚いたような表情となる。
「わざわざ訊くってことは、なに? 俺の好きな物、おまえが作ってくれるわけ?」
「――ものによる」
わたしが不器用で料理が苦手なことを知っていて、わざと言ってる。
やっぱり、意地悪だ。
「――そうだね。ハンバーグが好きだね」
やっとわたしが頂上まで辿りついたとき、ジプシーがぽつりと告げた。
「へぇ。なんだか意外。子どもが一番にあげそうな料理が好きなんだ」
そう返したわたしへ、ジプシーはチラリと流し目を寄こしてから、無表情で続けた。
「母親が作ってくれた物の中で、一番記憶に残っているから」
その言葉に、一瞬ハッとなる。
そうだった。
ジプシーにとって、お母さんの記憶は六歳までだったっけ。
いまのジプシーに、この会話は良いのかなと思ったけれど。
考えたら事件そのものの話でもないから、続けても大丈夫なのかな。
「わたしがハンバーグを作ったら下手過ぎて、お母さんの思い出が壊れるかもよ」
笑顔でわたしが言うと、珍しくジプシーも、口もとへ少し笑みを浮かべた。
「おまえと同じくらい料理が苦手な人だったから、大丈夫だろ。ハンバーグも何度か生焼け黒焦げを繰り返したあげく、最後は煮込みにすることで一応作れるようになっていたから」
それを聞いたわたしは驚いた。
意外だなぁ。
この完璧主義のジプシーからは想像できないけれど、お母さんは意外と不器用な人だったんだ。
そして、ふたたび歩きだしたジプシーのあとに続いて、わたしも歩きだした。
いままで空を覆っていた雲が流れるように動き、雲の隙間から光が射しはじめる。
良かった。
天気は悪くなるんじゃなくて、いまから晴れてくるんだ。
そう思って眺めていたら、ふいにジプシーが腕を解いて、わたしから離れた。
とたんに、温かかったぶんだけ、外気の冷たさが背中に感じられる。
ジプシーは黙ったまま、展望台の階段を降りはじめた。
「いまからどこへ行くの? 今度は山登り? ずっと外は寒いんだけれどなぁ」
「動けば温かくなる」
振り返らずに告げるジプシーのあとを、わたしは仕方なくついて降りる。
予想通り、次は頂上へと続くらしい小道に入っていった。
歩いてみると、土がむきだしで足場が悪く、かなりブーツは辛い。
さっさと前をいくジプシーに遅れまいと一生懸命歩くと、たしかに暑くなってきたんだけれど……。
なんだかなぁ。
かなり先のほうで頂上に辿り着いたらしいジプシーは、立ち止まって遠くの景色を眺めているようだ。
その後ろ姿を見ながら歩いていたわたしの足が、ふと止まった。
ジプシーの向こう側に広がる空は、雲の隙間から射しこむ光が増えていて、不思議なくらいに神々しい。
その空間の中で。
時によっては強烈な印象を与える奴なのに、いま目の前にある後ろ姿は、その不安定で崩れ落ちてきそうな空をひとり支えて、そのままその空に溶けこみ消えてしまいそうな儚さを持っているように感じられた。
なぜだかわたしには、いまのジプシーが、そこにいるという現実感を持てなかった。
急にわきあがる焦燥感に、思わずわたしはジプシーへ向かって、大きな声をかける。
「あんたの好きな食べ物って、なに?」
「は?」
唐突な質問に、ジプシーは振り返って、訝しげにわたしを見た。
でも、わたしには意味のある質問だ。
いま、ジプシーに対して現実感が持てないのは、きっとわたしが彼のことをあまり知らないせいだ。
現実に存在する人間だと確認したくなって訊いたのだ。
ジプシーのことをもっと知れば、彼の存在感が増すような気がするから。
「前にトラに訊ねられて思ったのよ。わたし、あんたのこと、あんまり知らないなって」
その言葉に納得したのかどうかわからないけれど、ジプシーは少し考えてから口を開いた。
「とくに嫌いなものはない」
わたしは、頂上までの残りの距離を歩きだしながら続けた。
「あんたにしちゃ、珍しく意味を取り違えてるよ。わたしは嫌いな食べ物を訊いたんじゃなくて、好きな食べ物を訊いたの!」
それを聞いたジプシーは目を見開いて、ちょっと驚いたような表情となる。
「わざわざ訊くってことは、なに? 俺の好きな物、おまえが作ってくれるわけ?」
「――ものによる」
わたしが不器用で料理が苦手なことを知っていて、わざと言ってる。
やっぱり、意地悪だ。
「――そうだね。ハンバーグが好きだね」
やっとわたしが頂上まで辿りついたとき、ジプシーがぽつりと告げた。
「へぇ。なんだか意外。子どもが一番にあげそうな料理が好きなんだ」
そう返したわたしへ、ジプシーはチラリと流し目を寄こしてから、無表情で続けた。
「母親が作ってくれた物の中で、一番記憶に残っているから」
その言葉に、一瞬ハッとなる。
そうだった。
ジプシーにとって、お母さんの記憶は六歳までだったっけ。
いまのジプシーに、この会話は良いのかなと思ったけれど。
考えたら事件そのものの話でもないから、続けても大丈夫なのかな。
「わたしがハンバーグを作ったら下手過ぎて、お母さんの思い出が壊れるかもよ」
笑顔でわたしが言うと、珍しくジプシーも、口もとへ少し笑みを浮かべた。
「おまえと同じくらい料理が苦手な人だったから、大丈夫だろ。ハンバーグも何度か生焼け黒焦げを繰り返したあげく、最後は煮込みにすることで一応作れるようになっていたから」
それを聞いたわたしは驚いた。
意外だなぁ。
この完璧主義のジプシーからは想像できないけれど、お母さんは意外と不器用な人だったんだ。
そして、ふたたび歩きだしたジプシーのあとに続いて、わたしも歩きだした。
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