上 下
6 / 24
第2章 二度目の青春

5.湊

しおりを挟む
 じゃあ歩いてみようか。
 そう言って、すいは僕の手を引いて歩きだした。
「湊くんはすぐ泳ごうとしちゃうから、ゆっくりと慣れたらいいんだよ」
 もちろん自分も引かれたままついていく。
 目指すのは25メートル先の向こう岸だ。
 あまり意識したことはなかったが、実際歩いてみると思ったより大変だった。
 水が重いという表現はたぶんはじめて使うだろう。自分の動きに合わせて生まれる水流が体に絡みついて、手足を動かしづらい。
 前を進むすいは、少しずつ歩いては止める動作を繰り返している。
 ゆっくりと歩を進めるのは、一気に行くと大変だろうからと気づくのは時間がかからなかった。
 小さな感謝が伝わったかどうか、すいは振り返って教えてくれた。
「こういう体にかかる力を、抵抗ていこうって言うんだって。
けっこう力を込めないといけないって分かればだいじょうぶ。
最初だから、足を滑らせないようにだけ気を付けてね」
 などといろいろ解説してくれる。
 
 まずは向こう岸まで歩けた。
 その感想といえば、なかなか疲れるということだった。
 腕も足も最初の頃と比べて重い気がする。
「よくがんばりました!」
 すいは微笑みながら、小さな拍手をして褒めてくれた。
 すると、えいやっと壁を蹴ると潜水して元の方に戻っていく。少し泳いで、数メートル先のところで顔を出した。
 こちらを向いて言うことは、
「今度はこっちまで歩いてみようか。
わたしの腕にタッチしてみてね」
 もし怖くなったら縁に手を付けてよいと付け足してくれる。
 さっきまで歩けていたからだいじょうぶ、そう自分に言い聞かせて歩き出してみた。
 せっかくだから、もう少しチャレンジ精神を取り入れてみよう。プールの縁には手を付けないで進んでみる。
 実際何事もなく歩くことができて、もうそろそろすいの手のひらにタッチできそうだった。
 でも、すいは形よく口角を上げるとまた泳いでしまった。
 ああー、ひどい。
 彼女はまたすぐに顔を出したが、ゴールは遠のいてしまった。
 にこにこと笑うすいは、こっちだよと手を鳴らしている。
 まるで子どもの遊びで誘導される鬼のよう。
 また少し歩いて、やっとのことで触れられそうだ。それなのに、すいはまた泳いでいってしまう。
 ああー、これではお笑いで出てくる天丼みたいだ。また同じことが繰り返されて、困ってしまう。
 少し休もう。足を止めてその場で膝に手をついた。
 すいはどこまで泳ぐんだろう、いつの間にか25メートルの半分近いところまで進んでいた。
 しばらく呼吸を整えて、また新しい一歩を踏み出す。
 こうなったら絶対に捕まえてやるんだ。
 だけど、その意気込みは空回りしてしまった。気持ちが先走ってしまい、足元には注意が及ばなかった。
 慌てて転びそうなところを、すいが駆けつけて支えてくれる。
「だいじょうぶ?」
 うん。足は立つし、呼吸が整うのを待てば問題はなさそうだった。
「じゃああと半分過ぎてるから、あとはふたりで行こうか」
 ゆっくりでいいからね。
 そう言ってすいはまた自分の手を引いて歩き出した。
 
 少し下がった日差しがふたりを照らし、空に浮かぶ雲が影を作っていた。
 すいはぽつりと話し出した。
「ごめんね、わたしつい楽しくなっちゃって」
 その声は少し湿っていて、それが謝罪だと気づくのには時間がかからなかった。
「いや、僕の方こそごめん」
「ううん、わたしの方が」
 もう水中での歩き方は慣れてきていた。
 でも、だからといってお互いに会話をする雰囲気ではなくて。ただスタートラインに戻るだけなのに、それはとてつもなく長い時間のような気がした。
 前を向いたまま、すいが語り掛けた。
「......ねえ。
前にもふたりで手をつないで歩いたことなかったっけ」
 こちらに振り返った表情は、なんだか痛いくらいに切なかった。
 あれはいつのことだっただろうか......。
 
 そんなことを考えていたら、思わずよろけてしまう。
「うわっ!」
「たいへん!!」
 急いで急停止したすいは自分の体を引き寄せるように手首を掴んだ。そして、姿勢が安定するようこちらの腰に手をまわした。
 気が付けば、ふたりプールの中に立ち止まったまま。
 お互いの体が近いのも忘れて、ずっとその体勢を維持していた。
「まあ、合格にしようか......」
 上目遣いのすいが告げる。
 お互いの鼓動が聞こえそうな距離に、ふたりは無言のままだった。

 ・・・

 水泳の練習では、こまめに休憩をしないといけない。
 屋外でも室内でもかかわらず、なかなか体力を消費するものだ。それに水の中にいると実感しづらいものだから、想像以上に水分を摂りたくなってくる。
 ふたりは足湯をするみたいに、プールの縁に座って足を水につけていた。
「気分悪くなってない? 顔色はいつも通りみたいだけど、なにかあればすぐ言ってね」
「うん、だいじょうぶだよ」
 僕はとなりに座っているすいの方に顔を向けてみる。
 よほど心配していたのだろう、弧を描いている眉がさらに丸まっているような気がした。
 空は夕日が差し込み、少し冷たい空気が流れていた。
 見上げるとハトが空を飛んでいた。平和の象徴が出現したことで、お互いに安堵の気持ちがこみ上げてくる。
「今日はここまでにしようか」
 すいはそう言いながらも、こちらに向けた視線を外さない。
「......ね、聞いちゃっていいのかな。
湊くんって、......どうしてなんだろう」
 どうしてなんだろう。こんな場所でその質問が意味するところはひとつしかなかった。
 すいの顔にピントを合わせてみると、彼女の表情はみるみる変わっていく。
 一瞬真顔になって。
 すぐに顔を赤くして。
 しまいには慌てながら身振り手振りで取り繕うようになった。
「ほら、湊くんここまで歩けるし水怖がらないし......。
......なんで、泳げないのかなって」
 どんどん小声になっていく。
 別に隠したい出来事ではないけれど、それは忘れられない経験だった。

 ◇◇◇

 まだ小学生に入る前の年、僕は家族でプールに来ていた。
「あんまり遠くに行かないでね」
 母親に言われて、すぐ近くを浮き輪で浮かんでいた。
 周りを見てみると、楽しそうに遊んでいる姿が目に映った。
 ボールを投げている子も、泳いでいる子も。みんな日常を忘れて精一杯遊んでいる。
 そんな彼らを太陽が照らしていて、キラキラときれいに思えた。
 
 そういえば、小学校からプールの授業があるんだっけ。
 あの子たちみたいに泳げたらいいなあ......。
 
 そんなことを考えているうちに、いつの間にか家族とはぐれてしまった。
 あたりは人ごみにあふれて、ずっと先を見通せない。
 おまけにこの辺りは足の届かない深いところだった。
 お母さんって呼び掛けてみても、はしゃいでいる声たちのせいですぐにかき消されてしまう。
 
 そうだ、泳いでみたら家族のところに戻れるのかもしれない。
 慌てて足を動かしてみる。
 どちらに行けば良いのだろうか、そんなことを考える余裕もなくただ見ている方向へ向けて泳ぎだしてみる。
 でも、身体ひとつで泳ぐのと訳が違うなんて分かるはずもない。
 浮き輪をつけたままだから、腕を伸ばしても泳ぐ姿勢になんてならないし、足を上下に動かしても前に進むことができなかった。
 しだいにひとり慌ててしまい、全身に力が入ってしまった。
 やがて、どんな姿勢になったのかにまったく気づけず、浮き輪が外れてしまう。
 
 これで身軽になれる......はずもなく、プールに沈んでいく。
 
 もうあっという間だった。
 うっすらと目を開けてみた。どの方角を見ても、薄暗い水色たち。その閉じ込められた世界に孤独を感じてしまう。
 楽しかった幼稚園も、待ちわびていた小学校も。
 水の中へ堕ちて、終わる。
 
 ある一角が光ったような気がした。
 こちらへ向かってやってくる、一筋の光。その姿は人間のようで、人間じゃないようで。
 まるでこの世のものとは思えないほどにきれいだった。
 ......人魚姫?
 だけども、僕の瞳はここで閉じられてしまった。
 
 意識を戻した僕の瞳に映るのは、見知らぬ女の子だった。
「......ここは?」
「水飲んでないみたいだね、よかった」
 同い年くらいの女の子がこちらをのぞき込んでいる。その表情は心配しているのが浮かんでいた。
 それから、溺れているところをお母さんと一緒に助けたと教えてくれた。
 体を起こすとまだ苦しい感じがする。
「まだじっとしててね。
今お母さんがタオル取りに行ってくれてるから」
 内向的な性格だったから、これから話を紡ぐことはできなかった。
 それでも、たったひとつ伝えるべき言葉がある。
「ありがとう」
「うん、どういたしまして!」
 女の子がにっこりと微笑むとともに、ショートカットが揺れた。
 もうちょっとしたら一緒に家族を探そうね。それは一日だけの冒険になるのだった。

 ◇◇◇

 すいは時折頷いて話を聞いてくれた。話の終わりに小さなため息をつく。
「そうなんだよね。
小さい頃のトラウマって克服できないものでさ。
それなのに泳がなきゃいけないのかわいそうだよね」
 それから、サラダに乗っかってくるキュウリを食べてくれないかな、などとつぶやいている。
 ただ苦手な食べ物なのでは? あまり聞かないであげようと決めた。
 すいはくすりと笑うと、体を滑らせるようにまたプールに入っていく。そして少しだけ潜水すると、立ち上がるように体を起こして語ってくれた。
「でもさ、授業とか関係なくただ泳ぐだけってのも楽しいけどね。
できないことができるようになると、楽しみが増えるから。
わたしはそのために教えてあげるんだ」
 そう言ってにっこりと笑った彼女に、自分も微笑みを返す。
 だけども、すいの姿を見て慌てて視線をそらした。
 彼女はいつの間にか人魚姫の姿になっていて、こともあろうことかワンピースが透けているのだ。
 すいはまったく気づいていなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

紗綾 拍手お礼&番外編

萌葱
青春
紗綾 ~君と歩く季節~と言う、完結済みの私の作品の過去の拍手用作品+番外編です 鈍感少女の周りでやきもき切ない思いをする男子達という小説となります。 過去拍手に加え、時折番外編が追加されます ※小説家になろう様で連載しています、他作品も外部リンクとして何作かアルファポリス様にも掲載させて頂いておりますが、直接投稿の形をこの作品でしてみようと思っております。 本編もなろう様へのリンクという形で置いてありますので興味を持って頂けたら覗いて下さると嬉しいです。 ※最大8話つながる話もありますが、基本1話で終わる本編の番外編ですので、短編としました。 ※いじめ表現から本編に念のためR15を付けているので、一応こちらにも付けておきますが、基本的にそのような表現は余り無いと思います。 基本的には本編の別視点や同じ流れに入れるには長くなりすぎるため泣く泣く弾いた小話部分など、関連はしていますが読まなくても本編には影響はありません。 ですが、本編が時期と共に変化していく話なので常に本編のネタバレの可能性をはらみます。 タイトル横の時期や前書きを参考にそこまで未読の方はご注意下さい

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

夏の抑揚

木緒竜胆
青春
 1学期最後のホームルームが終わると、夕陽旅路は担任の蓮樹先生から不登校のクラスメイト、朝日コモリへの届け物を頼まれる。  夕陽は朝日の自宅に訪問するが、そこで出会ったのは夕陽が知っている朝日ではなく、幻想的な雰囲気を纏う少女だった。聞くと、少女は朝日コモリ当人であるが、ストレスによって姿が変わってしまったらしい。  そんな朝日と夕陽は波長が合うのか、夏休みを二人で過ごすうちに仲を深めていくが。

からふるに彩れ

らら
青春
この世界や人に対して全く無関心な、主人公(私)は嫌々高校に入学する。 そこで、出会ったのは明るくてみんなに愛されるイケメン、藤田翔夜。 彼との出会いがきっかけでどんどんと、主人公の周りが変わっていくが… 藤田翔夜にはある秘密があった…。 少女漫画の主人公みたいに純粋で、天然とかじゃなくて、隠し事ばっかで腹黒な私でも恋をしてもいいんですか? ────これは1人の人生を変えた青春の物語──── ※恋愛系初めてなので、物語の進行が遅いかもしれませんが、頑張ります!宜しくお願いします!

Y/K Out Side Joker . コート上の海将

高嶋ソック
青春
ある年の全米オープン決勝戦の勝敗が決した。世界中の観戦者が、世界ランク3ケタ台の元日本人が起こした奇跡を目の当たりにし熱狂する。男の名前は影村義孝。ポーランドへ帰化した日本人のテニスプレーヤー。そんな彼の勝利を日本にある小さな中華料理屋でテレビ越しに杏露酒を飲みながら祝福する男がいた。彼が店主と昔の話をしていると、後ろの席から影村の母校の男子テニス部マネージャーと名乗る女子高生に声を掛けられる。影村が所属していた当初の男子テニス部の状況について教えてほしいと言われ、男は昔を語り始める。男子テニス部立直し直後に爆発的な進撃を見せた海生代高校。当時全国にいる天才の1人にして、現ATPプロ日本テニス連盟協会の主力筆頭である竹下と、全国の高校生プレーヤーから“海将”と呼ばれて恐れられた影村の話を...。

呪縛を解いて

青春
いつも夢に出てくる あいつの言葉。 何年経っても終わらない。 あいつの呪いから抜け出したい。 何年もある人に言われた言葉に縛られ続けている少女の出会いと成長の物語である。

いじめっ子を撃退する方法

らい
青春
いじめっ子とギャルのバトルです(?)

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

処理中です...