「piyo-piyo」~たまきさんとたまごのストーリー

卯月ゆう

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第3章 変わってゆくものばかり

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(たまきside)

 季節は梅雨入りを迎えていた。
 少し雲が多い天候に迎えられ、今日も「piyo-piyo」の開店準備をしている。
 表通りから外れたこの店は物静かで、店内のデッキから流れてくるピアノの楽曲が少しずつ聴こえていた。
 そこに、バイクの音が近づいてきた。郵便屋さんは私の前でバイクを止めて降りて、一通のはがきを出してきた。それは、古くからの知人だった。

 ・・・

 数日後、私はある家の玄関の前に立ち、呼び鈴を押した。
 はがきを送ってくれた人物に会いに来たのだ。古くから営んでいる喫茶店の店主で、私からすれば先輩のような方だ。お互いの店が休みの日に、こうして会う約束を取り付けた。
「こんにちは、たまきです。
ご無沙汰していますー」
 その声に反応して出てきたのは、少し白髪が混ざったご婦人だった。
 お互いに会釈をする。
「あら、たまきちゃん。
今日もお綺麗ね」
 彼女はほほ笑みながら言うと、
「おばさまには負けますよ」
と私は決まって微笑みを返す。これはいつものやり取りだ。
 この会話の後、私は彼女の家に入っていく。

 ゆっくりと歩く彼女の後をついて行って居間に入った。
 その空間には不思議な甘い香りが包んでいる。それはこの家で淹れたコーヒーの香りのおかげだろう。午後3時になるとコーヒーブレイクを楽しむ彼女を証明するように、レトロな電動式のコーヒーミルが置かれていた。
「年を取ると、楽しみがなくなっていって......。
でも、こうしてお茶の時間を迎えるのが好きなのよ」
「私もそうですよ。
コーヒーは心が落ち着きますから」
 たまきちゃん、分かってるわね。そう言う彼女には年齢を感じさせない微笑みが浮かんでいた。少し茶目っ気のある表情に私もなれるだろうか、正直なところ自信がないのだ。

 居間のテーブルにコーヒーと芋ようかんが並んでいる。コーヒーは彼女がお気に入りの京都の老舗のもので、よくおすそ分けを私も頂いている。芋ようかんは私が浅草で買ったお土産だ。
「おばさま、相変わらずお上手ですね」
 彼女はフォークを使って、芋ようかんを一口大に切って食べている。以前夕飯に招かれたときも、彼女は煮物を丁寧に食べていた。
 その上品さは全く失われていない。
 箸や食器の所作は子供の頃にできるようになるのが当然なんだけど、彼女の姿を見て私も、もっと綺麗な使い方をできるようにしようと、そう決めたのだ。
 だから、「piyo-piyo」で使っている箸は、しっかりと扱えるような先の細いものを浅草にある道具街の隅から隅まで探して決めた。
「お店はもうかっているのかな?」
「ぼちぼちってところですねえ。
やっと軌道に乗ってきたところで、新しいお客様もいらして......」
 良かったわね、と彼女はほほ笑んでくれた。
「あなたの決断、素晴らしいわよ」
「......ありがとうございます」
 私は頭を下げた。なんだかこの方には頭が上がらない。感謝してもしきれない、そんな人物だと思っているからだ。
「私のお店、閉めようと思ってるのよ。
どうも膝が悪くてねえ」
「ええ、はがきで読みました。
寂しいですね」
 彼女の店は先祖代々伝わっている、上野の近くにある喫茶店だ。
 厚切りトーストを看板メニューにしているお店で、顔なじみのお客様それぞれの焼き加減や付け合わせをすべて覚えているのだそうだ。たぶん、彼らの多くはトーストを食べるよりも、彼女に会いに行くのだろうと私は思っている。そしてマスターもお客様のために心を込めて出している。
 それを思うと、私の心に残っているわだかまりがこみ上げた。それはゆで卵を作るように、少しずつ温かくなって固まってくる。誰かのために作った味付け卵を思い出していた。
「ひよこさんも閉めるかどうか、悩んだ時がありましたものね」
 "ひよこさん"は「piyo-piyo」の事を指す、彼女なりのニックネームだ。
「そうですね。
私はあの時、だいぶ寝込んでしまって......」
 私は昔のことを思い出して、ため息をついた。それに、彼女が居なかったら「piyo-piyo」も今の私もなかっただろう。
「あなたの決断、素晴らしいわよ」
 えらいわね、そう言って彼女は私の手を取った。その温かみからは私も、みんなも、それを待っていたんだよ。という気持ちが伝わってくる。
「......あなたは悪くないんだよ」
 そう声をかけられて、私は頭を上げられなかった。涙ぐんで、一粒だけ彼女の手のひらに落とす。
「泣いてばかりだと、あの人も浮かばれませんよ」
 そうですね、とわずかばかりに答えた私はやっと頭を上げて涙をぬぐった。

 その後もだいぶ話をした。少しずつ夕方になっていくのは、まったく気づかなかった。
「......では、この辺で」
 お暇しようと立ち上がる私に、彼女はコーヒー豆を持たせてくれた。
 そして、私に聞き取れる声でしっかり告げたのだ。
「あなた、恋をしているわね」
 そう言われた私は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていた。まるで、自分でも分かるみたいに。

 ・・・

 外の空気はいつの間にか湿気を含んでいた。
 雨が降りそうだ、と考える前に私の髪を水滴が濡らしてしまった。私は急いで折りたたみ傘を広げたが間に合わなかった。
 ......あなたは悪くない。
 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、十字架を抱えている私には重い言葉だと思う。あの出来事には、私の行いが影響しているかもしれないから。
 変わってゆくものばかりな気がした。
 それでも良いのかもしれない。私たちが、ここに居るということが大切なのだから。
 梅雨の雨はしとしとしていても、やがて大きな粒になって傘に当たる。やがて、白んだ街並みが私を包み込んだ。
 信号待ちをしている間、少し目を閉じてみる。茶目っ気のある笑い方。大切な方の、その顔を思い出してみた。今日ばかりは、感傷に浸っていたい。
 大切なものは、消えないでほしいんだ......。
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