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第二章 破滅への階段
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「しかし、一造が職人としてやっていけていたのは、人間の評価があったからです。本人がどう思っていようと、その手によって作り出された諸々を手に取り、鑑賞するのは、人間に他ならないのですから」
僧侶は言う。
旅行者は頷く。
「どうにも異常ですね。一造という人だけではない。接する人達も、自分達への憎悪に塗れたものを見て、喜んでいるわけでしょう?」
「然様……世の中、不思議なもので、他人を喜ばせようと作ったものが、極端な批判にさらされることもあれば、こういうこともある。あるいは、強烈な憎悪の中に共感を生む要素があり、強い迫力となって他人の心を捉えたのかもしれません。ただ、それがよくなかった。職人として平凡な男であれば、命を縮めずに済んだでしょう」
「自殺でも?」
「いや、それについては後々、お話しいたします。流れがありますので」
回りくどいが、まだ、人形の『に』の字も出ていない段階である。事情を語るには、説明しておくべきことが多いのだろう。
旅行者は漠然と考えながら、隣の一間を見遣った。
人形の状態はさっきと同じであったが、じょじょに物騒な響きを帯びてくる僧侶の声に影響を受けたか、生ける者でなければ、木石でもない、何らかの意味を持った別の存在である……かのようで、あるいは今は亡き制作者の狂気が染み付き、命を与えたのかもしれない。
「悲劇の種をまいていたのは一造です。しかし、水をやり、花を咲かせたのは山沢保という男です。結果として一造の命はホウセンカのように爆ぜ、周囲に災いをもたらしたのでした」
山沢は地元の富豪であった。
名門の出でもあった。
山沢家は旧幕時代、数代に渡って代官を務めた一族であった。
維新の際、身分制度の改革によって士族となり、有利な立場を失ったが、当時の当主が経済に明るかったことで、破産の難を逃れた。
そればかりか地域の産業に投資した。
武士は食わねど高楊枝といった気風が根強く残っていた時代なので、周りから後ろ指を差されもしたが、山沢家の財は着実に増えていった。明治が終わる頃には県内における一角の資産家として、一目置かれるようになっていた。
終戦直後は旧来の権力を目の仇にするGHQとの折衝で、随分と煮え湯を飲んだが、そこで保の父親が活躍をした。
首尾よく立ち回り、財産を保持したのである。
「保という人も出来る人でした。若いだけに目の付けどころが新しかったんです。工業に力を入れていて、とりわけ新素材の研究への投資を惜しまなかった。それに関していくつか大きな特許を持ってもいました。会社の宣伝にも力を入れていました。だからこそ、一造に近付いたんです」
「えっ、それはどういう?」
「山沢家が資金と素材を提供し、一造がそれを元にカラクリ人形を作る。それを宣伝に使う。丁度、テレビの影響力が強くなってきた頃の話です。使える画が欲しかったのでしょう」
「訴求力ですか?」
「ええ、山沢は一造に破格の条件を提示し、とうとう契約を交わしました。人間嫌いの一造です。最初は渋っていましたが、職人としての欲はあったようで……金があれば、よりよいものを作れるのですからね。で、仕上がったのが、その人形です。春頃に完成したので、桜子という名がついています」
作っている間、一造は何を考えていたのだろう。
木を削り、組み合わせて歯車にする。
噛み合わせてカラクリにする。
それで人形の手足を動かせるようにするだけではない。完成までにはいくつもの実験があった。
山沢が提供する新素材を使うので、ふだん通りにはいかない。まず、特徴を掴み、活用方法を模索しないといけないからである。
朝、日が昇れば起き出して作業場に籠る。
夜、日が暮れては遅くまで手を動かす。
失敗の焦燥と成功の歓喜が波となって押し寄せ、一造を圧倒した。
「山沢が提供した素材の中には、人形の継ぎ目を目立たないように出来るものも含まれていました。随分と苦労したようですが、一造は使いこなしました。だからこそ、ほら……桜子はぱっと見、人間の娘に見えるのです」
僧侶はそこで一息入れた。
数秒の沈黙を鳥の羽音がかき乱す。おもてに野鳥がいて、何かの拍子に飛んだらしい。
旅行者は咄嗟に面を向けて影を追ったが、見付からなかった。
春の日差しが注ぎ、敷地の外に生える桜を目立たせているばかりであった。はらりはらりと、花びらが落ちてくる。
縁側を境界にして、不穏と平穏が区別されている……かのようで、美しくもゆるやかな散り方であったが、旅行者の関心は暗い狂気の世界にあった。
「で?」
「桜子は一造の最高傑作になりました。最後の作品にもなりました。人形として完成されていたからこそ、大きな事件を引き起こしたのです」
疲れもあっただろうが、一造はある衝動に囚われた。
人間への不信や疑念と、その社会から切り離しようがない自己の存在……相反する感情の炎に全身を焼かれながら、人形に命を吹き込んでいる内に、理想を発見した。歯車の動きによって、桜子にいくつものポーズをとらせている間に、自らの精神と向き合ってしまった。
桜子はあらゆる不満を取り除き、救済をもたらす願いの結晶なのではないか。
一造はその手を取り、幻想の世界に築き上げた楼閣に遊んだ。欄干越しに人界を眺めては、自分達の理想とは異なるとたしかめた。
充足と安らぎを得た。
とはいえ、わずかな間の出来事でしかない。
山沢との契約がある。
本心がどうであったとしても、注文を受け、資金と素材の提供を受けた以上、引き渡さなくてはいけない。
何分、一造は一介の職人である。
違約金を支払う程の余裕がなければ、弁護士に仲介を頼める程の人脈もない。それが現実であった。
鬱屈のマグマがたぎり、刻一刻と熱を高めていく。
細かく観察すれば、噴火の兆しはいくつもあっただろうが、交渉相手の山沢は見抜けなかった。企業の長としては有能で、倫理に欠けた人間でもなかったが、観点が常識的であり過ぎた。
強烈な衝動を持つ者の心を知らなかった。
一造に対しても社員をねぎらうような物腰で臨んだ。
「もしや疲れているのでは? まぁ、こちらも少しばかり無茶を言いましたからね。申し訳ないところです」
直接、桜子を引き取りに来た山沢は、堂々と振る舞った。
狭い、西辺家の座敷で座布団を使い、一造の兄嫁が出した緑茶に口を付ける姿が、巨岩のようであった。
恰幅がよい。
布袋のような腹がワイシャツの生地を押し上げている。
ちゃぶ台にコトリと、空にした湯呑みを置いて片膝を立てた。のそりと立ち上がって一造を見下ろした。
「では、そろそろ……」
で、同行していた男達を呼び付けた。
山沢の会社で力仕事を担当している社員達である。彼らは作業場で白木の箱に手を掛けた。
どこか棺桶に似た箱で、中に桜子が入っている。
扉を開け放った作業場の外は細い路地であった。民家の軒が左右から突き出し、影を投げている。
左に行くといくらか広い道に出た。
辻の片側に小型のトラックが停めてあった。荷台を灰色の幌で覆った一台である。
社員達が白木の箱を運び込んでいる間に山沢が来て、後ろについていた外国車に乗り込んだ。
黒々とした車体の中、左ハンドルの席に白手袋の運転手がいて、指示を待っていた。
「乗せたぞ」
「おう」
と、トラックの荷台と運転席の間でやりとりがあった。
発車すると山沢が乗った外国車が続いた。
風に乗って流れてくる桜の花びらが渦巻く。
そのひとひらが見送りに出ていた西辺家の人々の下に届く。
「一造?」
兄が横顔をうかがっても、一造は声を出さなかった。遠ざかる外国車の後部を睨み、肩で息をする姿が、天敵に追い詰められた鳥獣に似る。
僧侶は言う。
旅行者は頷く。
「どうにも異常ですね。一造という人だけではない。接する人達も、自分達への憎悪に塗れたものを見て、喜んでいるわけでしょう?」
「然様……世の中、不思議なもので、他人を喜ばせようと作ったものが、極端な批判にさらされることもあれば、こういうこともある。あるいは、強烈な憎悪の中に共感を生む要素があり、強い迫力となって他人の心を捉えたのかもしれません。ただ、それがよくなかった。職人として平凡な男であれば、命を縮めずに済んだでしょう」
「自殺でも?」
「いや、それについては後々、お話しいたします。流れがありますので」
回りくどいが、まだ、人形の『に』の字も出ていない段階である。事情を語るには、説明しておくべきことが多いのだろう。
旅行者は漠然と考えながら、隣の一間を見遣った。
人形の状態はさっきと同じであったが、じょじょに物騒な響きを帯びてくる僧侶の声に影響を受けたか、生ける者でなければ、木石でもない、何らかの意味を持った別の存在である……かのようで、あるいは今は亡き制作者の狂気が染み付き、命を与えたのかもしれない。
「悲劇の種をまいていたのは一造です。しかし、水をやり、花を咲かせたのは山沢保という男です。結果として一造の命はホウセンカのように爆ぜ、周囲に災いをもたらしたのでした」
山沢は地元の富豪であった。
名門の出でもあった。
山沢家は旧幕時代、数代に渡って代官を務めた一族であった。
維新の際、身分制度の改革によって士族となり、有利な立場を失ったが、当時の当主が経済に明るかったことで、破産の難を逃れた。
そればかりか地域の産業に投資した。
武士は食わねど高楊枝といった気風が根強く残っていた時代なので、周りから後ろ指を差されもしたが、山沢家の財は着実に増えていった。明治が終わる頃には県内における一角の資産家として、一目置かれるようになっていた。
終戦直後は旧来の権力を目の仇にするGHQとの折衝で、随分と煮え湯を飲んだが、そこで保の父親が活躍をした。
首尾よく立ち回り、財産を保持したのである。
「保という人も出来る人でした。若いだけに目の付けどころが新しかったんです。工業に力を入れていて、とりわけ新素材の研究への投資を惜しまなかった。それに関していくつか大きな特許を持ってもいました。会社の宣伝にも力を入れていました。だからこそ、一造に近付いたんです」
「えっ、それはどういう?」
「山沢家が資金と素材を提供し、一造がそれを元にカラクリ人形を作る。それを宣伝に使う。丁度、テレビの影響力が強くなってきた頃の話です。使える画が欲しかったのでしょう」
「訴求力ですか?」
「ええ、山沢は一造に破格の条件を提示し、とうとう契約を交わしました。人間嫌いの一造です。最初は渋っていましたが、職人としての欲はあったようで……金があれば、よりよいものを作れるのですからね。で、仕上がったのが、その人形です。春頃に完成したので、桜子という名がついています」
作っている間、一造は何を考えていたのだろう。
木を削り、組み合わせて歯車にする。
噛み合わせてカラクリにする。
それで人形の手足を動かせるようにするだけではない。完成までにはいくつもの実験があった。
山沢が提供する新素材を使うので、ふだん通りにはいかない。まず、特徴を掴み、活用方法を模索しないといけないからである。
朝、日が昇れば起き出して作業場に籠る。
夜、日が暮れては遅くまで手を動かす。
失敗の焦燥と成功の歓喜が波となって押し寄せ、一造を圧倒した。
「山沢が提供した素材の中には、人形の継ぎ目を目立たないように出来るものも含まれていました。随分と苦労したようですが、一造は使いこなしました。だからこそ、ほら……桜子はぱっと見、人間の娘に見えるのです」
僧侶はそこで一息入れた。
数秒の沈黙を鳥の羽音がかき乱す。おもてに野鳥がいて、何かの拍子に飛んだらしい。
旅行者は咄嗟に面を向けて影を追ったが、見付からなかった。
春の日差しが注ぎ、敷地の外に生える桜を目立たせているばかりであった。はらりはらりと、花びらが落ちてくる。
縁側を境界にして、不穏と平穏が区別されている……かのようで、美しくもゆるやかな散り方であったが、旅行者の関心は暗い狂気の世界にあった。
「で?」
「桜子は一造の最高傑作になりました。最後の作品にもなりました。人形として完成されていたからこそ、大きな事件を引き起こしたのです」
疲れもあっただろうが、一造はある衝動に囚われた。
人間への不信や疑念と、その社会から切り離しようがない自己の存在……相反する感情の炎に全身を焼かれながら、人形に命を吹き込んでいる内に、理想を発見した。歯車の動きによって、桜子にいくつものポーズをとらせている間に、自らの精神と向き合ってしまった。
桜子はあらゆる不満を取り除き、救済をもたらす願いの結晶なのではないか。
一造はその手を取り、幻想の世界に築き上げた楼閣に遊んだ。欄干越しに人界を眺めては、自分達の理想とは異なるとたしかめた。
充足と安らぎを得た。
とはいえ、わずかな間の出来事でしかない。
山沢との契約がある。
本心がどうであったとしても、注文を受け、資金と素材の提供を受けた以上、引き渡さなくてはいけない。
何分、一造は一介の職人である。
違約金を支払う程の余裕がなければ、弁護士に仲介を頼める程の人脈もない。それが現実であった。
鬱屈のマグマがたぎり、刻一刻と熱を高めていく。
細かく観察すれば、噴火の兆しはいくつもあっただろうが、交渉相手の山沢は見抜けなかった。企業の長としては有能で、倫理に欠けた人間でもなかったが、観点が常識的であり過ぎた。
強烈な衝動を持つ者の心を知らなかった。
一造に対しても社員をねぎらうような物腰で臨んだ。
「もしや疲れているのでは? まぁ、こちらも少しばかり無茶を言いましたからね。申し訳ないところです」
直接、桜子を引き取りに来た山沢は、堂々と振る舞った。
狭い、西辺家の座敷で座布団を使い、一造の兄嫁が出した緑茶に口を付ける姿が、巨岩のようであった。
恰幅がよい。
布袋のような腹がワイシャツの生地を押し上げている。
ちゃぶ台にコトリと、空にした湯呑みを置いて片膝を立てた。のそりと立ち上がって一造を見下ろした。
「では、そろそろ……」
で、同行していた男達を呼び付けた。
山沢の会社で力仕事を担当している社員達である。彼らは作業場で白木の箱に手を掛けた。
どこか棺桶に似た箱で、中に桜子が入っている。
扉を開け放った作業場の外は細い路地であった。民家の軒が左右から突き出し、影を投げている。
左に行くといくらか広い道に出た。
辻の片側に小型のトラックが停めてあった。荷台を灰色の幌で覆った一台である。
社員達が白木の箱を運び込んでいる間に山沢が来て、後ろについていた外国車に乗り込んだ。
黒々とした車体の中、左ハンドルの席に白手袋の運転手がいて、指示を待っていた。
「乗せたぞ」
「おう」
と、トラックの荷台と運転席の間でやりとりがあった。
発車すると山沢が乗った外国車が続いた。
風に乗って流れてくる桜の花びらが渦巻く。
そのひとひらが見送りに出ていた西辺家の人々の下に届く。
「一造?」
兄が横顔をうかがっても、一造は声を出さなかった。遠ざかる外国車の後部を睨み、肩で息をする姿が、天敵に追い詰められた鳥獣に似る。
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