地獄0丁目

XCX

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44 コンパス

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 頭を撫でられる気持ちの良い感覚に、ヴィカの意識は浮上した。目を開ければツヴェーテが顔を覗き込んでくる。

「目が覚めたか」

 逞しい胸元に頭を預ける形で抱きしめられていて、温かい。とくりとくり、とツヴェーテの心音が聞こえてくる。
 おはよう、とヴィカは挨拶をしたのだが、口から出た声はガラガラで掠れていてほとんど音を成していなかった。あれ、と不思議に思い体を起こそうとするも、全く力が入らない。関節がギシギシと軋んで痛みすら感じる。戸惑いを隠せずツヴェーテを見上げれば、苦笑いを浮かべていた。

「無理をさせたな」

 ヴィカはゆっくりと頭を振って否定した。
 謝らなければならないのは、自分の方ではないかと思っていた。二回目の途中から記憶がぷつりと抜けているのだ。

「これを飲め。グスイが煎じた薬湯だ」

 銀の水差しを差し出されて、ヴィカは素直に細い飲み口を口に含んだ。容器が傾けられ、薬湯が舌の上に広がる。そのあまりの苦さに、少年は顔をしかめた。

「ヴィカ、吐き出すな。苦いだろうが、我慢して飲め。直ぐに良くなる」

 飲み口から顔を背けかけるが、王に宥められた少年は涙を堪えながらも薬を飲み干した。嚥下しても口内に残る苦味に呻き声が漏れる。今度は口直しにと果実の風味がついた水を飲まされると、だいぶ気分が楽になる。

「随分と楽になっただろう。もう喋れる筈だ」
「あ…本当だ」

 先程まで鉛のように重かった体が、嘘みたいに軽くなっている。声の掠れも全く無い。グスイの煎じ薬の即効性に驚きながらも、ヴィカはわずかに体を起こした。

「おはよう、ツヴェーテ」
「ああ、お早う」

 出来なかった挨拶を交わすと、後頭部に回された手に引き寄せられた。唇を啄ばまれる。
 ツヴェーテに離れる唇を撫でられて、少し気恥ずかしくなる。

「ヴィカ、お前にやりたい物がある」

 そう言ってツヴェーテが手を掲げると、次の瞬間には小さな箱が現れた。王に促され、少年が箱を開ける。
 中から出てきたのは、首飾りのようなものだった。金色の円盤状の飾りには精緻な彫刻が施され、そこかしこに色とりどりの宝石があしらわれている。光を受ける度に色を変えて輝きを放つその様は、思わず息を呑むほどの美しさだ。

「きれい…」

 ヴィカは体を起こすと、早速首から提げた。飾りの部分を目の高さまで掲げ、角度によって色が変わるのを楽しむ。
 言葉は少ないものの夢中になって見つめる王后の姿に、贈り物を喜んでいるのが手に取るようにわかった。王の口角が満足そうに吊り上がる。

「ヴィカ、それは只の首飾りではない」

 そう言って、ツヴェーテは飾りの部分を二枚貝のように上下に開いた。上側はただの蓋だが、下側は硝子が嵌め込まれている。硝子の中には、細かな目盛りが振られている。その盤上を矢印のような形をした金の針がぐるぐると回っている。盤面には砕いた宝石を混ぜ込んでいるのかと思う程に、光の粒子がきらきらと輝いている。
 見るからに手の込んだ、高価なものであることがわかる。

「俺の血を媒体に使ったコンパスだ」
「こんぱす?」

 王の言葉をオウム返しに呟き、ヴィカは首を傾げた。

「例えば、お前が図書室に行きたいとする」
「うん」

 ヴィカは莫大な数の蔵書が収容された、巨大な図書室を思い浮かべた。すると、今まで絶えず回っていた針がその動きを止めた。

「針の指し示す方向通りに行けば、図書室に着く。お前が一度も足を運んだことのない場所でも、頭に浮かべさえすれば、コンパスは反応するようになっている」

 少年は自分が知っている限りのありとあらゆる場所を思い浮かべた。その度に、針がぐるりと円を描きながら動いては、ぴたりと静止する。思わず感嘆の声が漏れた。

「コンパスが導くのは場所だけでは無い。人に対しても同様に作動する」
「じゃあ、おれがツヴェーテに会いたいと思ったら、ツヴェーテのいるところまで連れて行ってくれるってこと?」
「そうだ」
「へええ~…すごいや、早く使ってみたいな…」

 玩具を手に入れた子供さながら、興奮を抑えきれない様子の彼の頰が赤く染まる。

「わ、な、なんか光り出した!」

 突如、淡い青色の光に包まれた方位計に、王后は上擦った声を上げた。己が変なことをしでかしたのではないかと、焦っている。

「俺がお前に用がある際には、今みたく光る」
「あ、そうなんだ」
「媒体に俺の血を使用したことで、何時でもお前の位置を把握出来るようになっている。御守り代わりとして、肌身離さず身に着けていろ」

 ヴィカはこくりと大きく頷いた。

「ツヴェーテ、ありがとう。すごく嬉しい!大事にする!」

 方位計を胸に抱き、蕾が綻ぶように笑う王后に、王の心も喜びで満たされた。ヴィカの嘘のない反応がとても好ましかった。
 朝食までまだ時間はある、と彼を押し倒す。細い体を抱き寄せて腕の中に閉じ込めると、ツヴェーテは口付けの雨を降らせた。


 その日、コンパスを覗き込みながら、王宮内を散策する少年と黒狼の姿がそこかしこで目撃された。
 不思議に思った通りすがりの住人達が首飾りについて尋ねれば、ツヴェーテから貰ったのだと破顔して説明する。ヴィカは大層ご機嫌だった。普段から物腰は柔らかく笑みを絶やすことはないのだが、輪をかけて表情が明るい。嬉しくてたまらないと言わんばかりの王后の話に、第0階層の住人達は微笑ましく思いながら耳を傾けた。
 王は、己の近くに現れる少年の気配を頻繁に感じ取っていた。熱い視線は感じるが、決して声をかけては来ない。王には丸見えなのだが、ヴィカは視界に入らないように気を配っているらしかった。己の存在に気がついて欲しくて現れるのではなく、単に方位計を使って遊んでいるのだとツヴェーテは分かっていた。
 気づかれてないと思い、小動物さながらにちょろちょろと動き回り物陰から覗くヴィカの姿は、ツヴェーテの嗜虐心を擽るのに十分だった。そこらの部屋に連れ込んで、驚く顔を見たいと思うが、それだけでは済まないだろうとツヴェーテは思った。愛らしさのあまり、我慢出来ずに犯してしまいそうだ。泣かせたり怯えさせたりするのは本意ではないと言うのにも関わらずだ。
 欲望を抑えられない己を自嘲しつつ、ツヴェーテはヴィカから意識を逸らして執務に臨むのであった。

「陛下、ヴィカが拉致されたのはついこの間のことです。ルプスを伴っているとは言え、王宮内を自由に歩き回らせるのは如何なものかと…」

 唯一、オンデゥルウェイスだけは良い顔をしなかった。この間の拉致事件のような事が起こるのではないかと危惧していた。

「オンデゥルウェイス、お前の心配はもっともだったが、俺とて考えが及ばなかった訳ではない。方位計に血を仕込んだのは、ヴィカの位置を如何なる時も把握する為でもあるが、もう一つ重要な役割を担っている」
「役割とは…?」
「ヴィカの身に何か起これば、俺の血に含まれた魔力が働き、瞬時にヴィカを守る防膜を形成し、俺の元に転移されるよう仕掛けを施した」
「…差し出がましい真似を致しました」

 納得したらしいオンデゥルウェイスは、深く頭を下げた。

「いや、忌憚の無い意見は有難い。今後も宜しく頼む」

 宰相はもう一度礼をすると、執務室を後にした。
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