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4.ようやく自己紹介

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目が覚めても、夢は覚めなかった。
 俺はまた、あの巨大なベッドの上にいた。汗や体液にまみれた体はきれいにされ、白い服を着せられている。捲らないと手が出ない程に袖は長く、首元も肩がはだけてしまう。あの男の服だろうか。
 上半身はどうにか起こせたが、下半身には全く力が入らなかった。腰から尻にかけても重だるい。まるで足だけクラゲになってしまったかのようだった。仕方なく、ベッドの上に寝転がる。寝返りを打つくらいならできた。
 室内を観察するも、昨日と同様の部屋にいるのがわかった。窓からは柔らかな陽光が差しこんでいる。良いのか悪いのか、昨日の男はおらず、自分一人だった。
 手のひらを見ると、擦りむいた箇所がかさぶたになっていた。夢であってほしいと思ったが、今の状況は現実で間違いないようだった。

「あ、おはよう」

 男が入ってきた。昨日散々犯された記憶がよみがえって、ぎくりと体がこわばる。俺の警戒が見て取れたのか、彼は苦笑いをしながら、ベッド傍のナイトテーブルに盆を置いた。その上には温かそうな料理が載っている。

「大丈夫。もう、酷いことしないよ」

 男は勉強机から椅子を運び、近くに腰かけた。

「まずは、食べて。お腹、すいてるでしょ?ベッドの上でも食べやすそうなのにしたんだ」

 料理を一瞥した後、男に視線を戻す。シーツを口元まで覆って、目を細めて睨みつける。変な物でも入っているんじゃないだろうな。そう思った瞬間、腹が持ち主を裏切って空腹の音を鳴らした。
 ぐごごご、とまるで地響きのような豪快な音に途端に羞恥に見舞われる。冷めないうちにどうぞ、男は垂れた目尻を更に下げた。
 意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなって、上半身を起こす。すると男が膝の上に盆を置いてくれた。料理は、サンドイッチのようなものだった。ナンのような平べったく長いパンを半分に折りたたみ、野菜や肉をみっちりと挟んでいる。両手に持ち、ひとくちかぶりつく。あまりのおいしさに、声が出た。ひとくち目を飲みこみ、そのままふたくち、みくち、と口いっぱいに頬張る。パンは外がカリっとして、中はモチモチ、野菜はシャキシャキで肉はほろほろと口の中でほぐれていく。豆のペーストのようなソースで味付けされていて、あっさりとしているのにコクがあった。
 おいしい?と問われて、何度も頷く。良かったあ、と嬉しそうに破顔する男を尻目に夢中でサンドイッチを食べた。皿の上にこぼれてしまったソースもパンの欠片で掬って完食して、俺はごちそうさまでしたと両手を合わせた。
 おいしい料理で腹を満たされて幸せな気分だったが、はっと我に返る。この後は、どうすればいいんだろう。自分はどうなるんだろうか。

「あ、の…」
「ごめんっ!」

 俺の声は、男の謝罪でかき消された。膝の上に手を突き、床につきそうなくらいに深く頭を下げている。彼の声の大きさと行動に、目を丸くする。

「あの…僕、てっきり君のことを、男娼だと思ってて。ちょうど一人派遣してもらうよう頼んでたし、僕の部屋にいるし…否定もしないし、中から精液出てくるし…。その、君が意識を失った後に、本当の男娼の子が道に迷ったって遅れてきて…」

 大きな体を丸めて、男は今にも泣きだしそうに目に涙を浮かべていた。また、彼の頭の上に垂れた耳と、元気のない尻尾が見えるような気がした。真摯に反省しているのも伝わってきて、自分の方が被害者なのに、彼のことを可哀想と思ってしまう。
 確かにそういう事情なら、間違われても仕方がないだろうと思った。逆の立場なら自分も部屋にいた人物を男娼だと勘違いしていたかもしれない。

「でも、どうして僕の部屋にいたの?君、騎士団員じゃないよね?」
「騎士団…?あの、ここって日本、ですよね…?」
「ニホン?」

 まるで初めて耳にした、とでも言わんばかりに首を傾げる男に、今度はこちらが驚く番だった。
 彼の話によると、ここはイェルクという国で、騎士団宿舎の中らしい。そんな国、聞いたこともない。騎士団だって、世界史かファンタジーの世界でしか聞いたことがない。聞けば、スマホや飛行機なんてものはないし、優太が挙げた国名も知らないし、暦も違っていた。

「うーん…となると、君は違う世界から来たのかなあ」

 顎を撫でる男は、天井を見上げながらそう言った。そこまで驚いている様子はうかがえない。
 男の発言を否定したかったが、ぎゅっと唇を引き結んだ。自分もまさに同じことを考えていたからだ。タイムスリップで過去に来たわけでもなく、未来に来たわけでもない。漫画や小説などの創作物でよく見る、異世界トリップをしたと思われた。
 はいそうですかって受け入れられるはずがない。そんな、物語の主人公みたいな出来事がまさか自分に降りかかるなんて。けれどもどう考えても異世界に迷い込んでしまったとしか、考えられないのも事実だった。
 そこではっとする。自分は確か上から落ちてベッドの上に着地した。天井が元の世界と通じているかもしれない。そう話すと、男はベッドの上に乗り上げ、腰に提げていた剣の柄で天井を突いた。ゴツンゴツンと音がするだけで何の変化も起らなかった。期待していたわけではないが、それだけが唯一の希望だった。もう他に何も思い浮かばない。

「自分で言うのもなんだけど、僕わりと顔が広いんだ。でも、異世界から人がやってきたなんて聞いたことないなあ」
「そんな…」
「酷なことを言うようだけど、君が異世界人だと知られない方がいいよ。知られたら最後、宮廷魔術師に捕まって、研究されると思う。話を聞かれるだけならいいけど、軟禁状態で尋問されて、最悪頭の中を好き勝手に弄くられるかも」

 絶句する俺は、シーツの上で拳を握り締めた。男の口から出る数々の恐ろしい言葉に、血の気が引いて、生きた心地がしなかった。ただの平凡な学生だったのに。頭は真っ白で指先から温度が失われていくのが分かる。冷えた拳を、大きな手が覆う。

「あの、話は変わるけど、どうしてお尻の中から精液が出てきたの、かな…?もしかして、ここに来てから誰かに乱暴された…?」

 男は俺の顔を覗きこむ。話題が話題だけに、躊躇いがちに聞いてくる。突っ込まれたくない部分ではあったけれど、彼の心情は理解できる。自分が逆の立場でも、疑問に思うはずだ。
 正直話したくはないが、有耶無耶にするのも嫌だった。このままだと俺、本当に男娼だと思われたままじゃないか?異世界の男娼なんて、滑稽だ。

「…ここに落ちてくる前、彼氏と一緒にいて…。あ、彼氏じゃないや、セフレだ。セフレって知ってる?セックスフレンド」

 男に問いかけるも、顔は見れなかった。俺の手を覆う、大きな手をじっと見つめる。声が震えるのを必死でこらえた。

「俺は、付き合ってると思ってたんだけど、向こうは違ってたみたいでさ…。都合のいい存在でしかなかったみたい。…ははっ、笑えるよな。片鱗はいっぱいあったのに、気づかないフリしててさ。見ないフリして、浮かれて、何でもしてあげたんだ。…けど、遠くに引っ越すからもう会わないって言われて。俺を散々抱いた後にだよ?最低じゃね?しかも記念にもう一回する?って言われて思わず殴って飛び出して、そしたら…ここにいた」

 強くあろうと、何でもないことのように話そうとすればするほど、その思いとは裏腹に涙があふれてしまう。視界は涙で覆われて、いびつに歪み、シーツの上へとこぼれていく。強がって笑う口角がピクピクと震える。話を終えると、その形も保てなくなって下唇を噛んだ。代わりに口から出たのは嗚咽だった。改めて状況を自分の口で説明したことで、心臓を抉られているような気がした。
 ベッドが沈んだかと思うと、そっと抱き寄せられた。太く逞しい腕が体に巻きつき、筋肉で盛り上がった胸に顔が埋まる。

「ごめん。辛いこと、話させちゃったね」

 頭を撫でられる。男の体は温かくて、全身を包まれて心地が良かった。また涙があふれてきて、俺は男の腕の中で声を殺して泣いた。すると、我慢しなくていい、好きなだけ泣いていいよと優しい声で囁かれて、号泣した。
 俺、本当に先輩のこと好きだったんだ。本当に、先輩の為ならなんだってしてあげられたのに。彼が終わらせてくれなかったら、盲目のまま関係を続けても構わなかったのに。
 思うままに泣いて落ち着いてくると、男は俺の頬を両手で包みこんだ。親指でそっと頬を流れる涙を拭われる。

「そんな辛い思いをしたばかりだったのに、男娼と間違えて、君に酷いことをしてしまった。僕、最低だ。謝っても取り返しがつかないことをしてしまった。…本当に、ごめん」
「…あんたの、せいじゃないよ」

 頭を振って男の言葉を否定する。鼻をすすりながら目を閉じ、彼の好きにさせた。沈黙が流れるも、嫌なそれではなかった。

「君の元彼、本当に酷いやつだね。こんなに魅力的な君を、そんな風に傷つけるなんて。許せないよ」

 魅力的、と言われて思わず笑ってしまう。自分が凡庸な見た目をしているのは嫌でも分かっていたからだ。魅力的、というのは目の前のような男にこそ使われるべきだ。

「僕だったら、君を不安にさせるようなことはしないし、絶対に手離したりしない。一生、君だけを愛すのに」

 至近距離で、凄絶に整った顔で、吸い込まれてしまいそうな程に澄んだ緑の目。真っ直ぐに見据えられ、勘違いしそうになる。
 失恋で傷心の俺に何てことを言うんだ、この男は!状況が状況なだけに、勘違いされるぞ!
 実際に俺自身も、ドキリとした。けれど、相手の言葉を真に受けて痛い目を見たばかりだ。鵜呑みにするほど馬鹿じゃない。

「はは…。ありがとう」

 お世辞なのは丸わかりだったが、男の気遣いが嬉しかった。

「提案なんだけど、正体を隠して騎士団内で働くのはどうかな?」
「え…?」
「僕は大歓迎だけど、ずっとこの部屋に隠れてるわけにもいかないでしょ?僕がいない間に他の団員が入ってくる可能性もあるし。元の世界に戻る方法を模索するにしても、まずはこの世界で生きなきゃ。この世界の住人に紛れてね。騎士団内なら僕の目も届いて、何かあれば助けてあげられるし」

 男は、名案だと言わんばかりににっこりと穏やかな笑みを浮かべている。ありがたい申し出だったが、優太は即座に頷けなかった。

「初対面で酷いことをしてしまった責任を取らせてほしいんだ。お願い!」
「…でも、俺、騎士団なんて…闘ったことなんて…。筋力だってないし、剣なんて見たことも触ったことも…」
「騎士団って言っても、皆が戦闘員ってわけじゃないよ。色んな仕事をしている人で構成されているんだ。鍛冶師、治療師、馬の世話係、会計係…とかね。君にもできる仕事が絶対にあるよ!」

 励ましてくれるが、ちっとも希望を持てなかった。男の挙げた職にはどれも就けそうになかったからだ。どうしよう、と唇を噛んで俯く。
 優太、料理の腕は確かだったし。飯はうまいし。
 突如、孝輔の言葉を思い出す。そうだ、彼は自分の料理をおいしいと絶賛して、いつも完食してくれた。彼の喜ぶ顔見たさに、手間暇かけて料理を作るのが楽しかったし、好きだった。

「…あの、料理を作る仕事もあり、ますか?」
「あるよ!食堂と一緒に厨房も併設されてるからね」
「料理なら、たぶんできるかもしれないです…」
「じゃあ決まり!」

 男は俺の手を両手で握り、嬉しそうに頬を紅潮させた。大型犬が尻尾をぶんぶん振っているように見えた。男の手は熱いくらいで、緊張で冷えた指先をじんわりと温めていく。

「僕は、ライナス。ライナス・ボーデントッド。君は?」
「樫木 優太です」
「カシキユウタ?異世界人だけあって、やっぱり変わった名前なんだね。よろしく、カシキ」
「あ、樫木は苗字で…!優太が名前です」
「姓名の順番まで反対なんだ。何から何まで違うなあ。じゃあ改めてよろしくね、ユウタ」

 握手の形で手を握られ、上下に振られる。その大きな手を握り返しながら、俺はこくりと頷いた。
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