盗みから始まる異類婚姻譚

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54. 一転、絶望

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 蘇芳が口から血を吐く。その血を顔面に浴びながら、琥珀はニタリと笑った。

「何で?何で親父を、一族を裏切ったかって?」

 黄鬼は、咳き込みながら血を吐く赤鬼の頬を優しく包みこむ。

「俺さあ、蘇芳のこと好きだったんだぜ?誰よりも強く、戦場では圧倒的な力を持って敵味方関係なくねじ伏せる。驕り高ぶって、傍若無人。自由気ままな蘇芳に憧れると同時に、手に入れたくなったんだ。気がついてただろ?俺の好意に。あからさまに態度に出してたんだからさ。なのに蘇芳は気づいてないフリをして、どうでもいい奴等とのらりくらり遊んでやんの。それでも俺はお前のこと一途に想い続けてさ、長期戦覚悟してたんだぜ?」

 泣きそうにくしゃりと顔を歪める琥珀の顔は穏やかだった。なのに、と紡いだ彼の顔が一瞬にして憎悪に満ちる。瞳孔は爛々と開いている。

「蘇芳は、下等生物の人間を連れてきた。あまつさえ、嫁だと皆の前で堂々と宣言した。最初は戯れかと思った。きっとすぐに飽きて捨てるんだろうな、って。けど、俺の予想に反してお前はあの塵を大事に扱った。あれだけ頻繁だった娼館通いを止め、俺が人間の名を聞いても教えちゃくれない。家が襲撃を受けたと聞けば戦場を顧みず、取って返した。…なあ、俺の気持ちが分かるか?」

 赤鬼がどんどん弱っていくのが分かる。貫かれた箇所からは血が流れ出し、地面に血だまりを作っていた。もはや立っているのでさえしんどいのか、膝がかくりと曲がっている。
 倒れるのはまだ許さないとばかりに、琥珀は蘇芳の顔を上げさせ、話を続けた。

「愛情が憎しみに変わった瞬間、何もかもどうでもよくなってさあ。親父が蘇芳を目にかけてることも、境遇に罪悪感を抱いているのも気に入らなくなったんだよ。もう、全てぶっ壊れちまえってさあ」

 黄鬼の笑みは狂気に満ちていた。神聖な何かの儀式のように、青白くなっていく蘇芳の唇に口づける。それを合図にバトーが偃月刀を引き抜いた。支えを失った巨躯は、膝から崩れ落ちていく。
 一連の出来事を全て目の当たりにしながら、リュカはショック状態で動くことが出来なかった。目に映る光景を信じられなかった。
 倒れた蘇芳と目が合う。小さな声で名前を呼ばれて、瞼がゆっくりと閉じていく。その瞬間、言葉にできない奔流が体内にあふれ出した。

「いや、嫌だ、嫌だ嫌だっ!蘇芳、蘇芳、すおう…!」

 先程までの心身消耗が嘘のように、声が出て、体が動いた。蘇芳の傍に膝をつき、必死で声をかける。

「うそ、嘘嘘嘘嘘。目…開けてよ…。なあ、寝ちゃ、駄目だ…。起きて、起きろよ…。セキシのとこ、…帰るんだろ?なあ、なあってば…!」

 体を揺さぶるも反応はない。大量の涙が顔に落ちていくのに、ぴくりとも動かない。頬に手を添えれば、温もりがどんどん消えていくのが分かって、リュカは慟哭した。
 蘇芳の頭を抱きしめるように、その体に覆いかぶさる。こんなにも悲しいのは初めてだった。自分が母親に愛されていなくて名前もないと知った時よりも、自分が人間で無力でどうすることもできないと思い知らされた時よりも、胸が張り裂けそうに苦しかった。

「呆気ねェもんだな。戦場の鬼神とも謳われた奴が、稚児にのめりこんで身を滅ぼすなんてよ」
「誰だってそんなもんだよ。最期はあっさり逝くもんさ」
「それもそうか。…で、どうする。羅刹は殺せた」
「好きにしていいよ。用済みだし。…ああもう、うるっさいな!」

 赤鬼の亡骸の傍で喚き続けるリュカに我慢ならなくなった琥珀は、バトーの懐から電流の起動装置をひったくり、ボタンを押した。出力は最大。並の異形でも根を上げる電流の強さだ。人間であれば即、死に至るだろう。
 しかし、リュカは依然として泣き続けている。
 琥珀は我が目を疑った。装置の不具合かと思い、何度もスイッチを押してみるが変化はない。
 慟哭はやがて、咆哮へと変わっていった。少年の身体の自由を奪っていた、手足首と首につけられていた枷が塵となって消えていく。
 何が起こっているのかわからず、呆然とする。だが、バトーは偃月刀を手に飛び出した。明確な理由はない。潰せ、殺せ。今すぐに。防衛本能がそう告げて、反射的に体が動いたのだった。
 跳躍しながら、腕を振りかぶる。刀を振り抜くが、手ごたえはなかった。それどころか、バトーの体は後方に吹っ飛ばされていた。上手く受け身を取れずに、地面を滑り、壁に当たってようやく止まった。

「なンだ…っ!?」

 少年の顔は琥珀とバトーに向いていた。獣のように歯を剥き出しに唸り、恐ろしい形相で二人を睨みつけている。猫のように背中を丸め、蘇芳をかき抱いている。その瞳は、まばゆい銀色に輝いていた。
 得体の知れない何かに、琥珀の肌は粟立った。石化の術でもかけられているかのように、足が動かない。足どころか、指ひとつ、呼吸さえ許されないのではないかと錯覚するほどだった。
 その瞬間、大きな衝撃が建物を襲った。何か巨大なものが回廊めがけてぶつかってきたのだ。轟音を立て、回廊の一部が崩れる。天井にもひびが入り、パラパラと小さな瓦礫がリュカ達に降りかかる。

「は…?竜…っ!?」

 いち早く声を上げたのは琥珀だった。彼らの目の前には、巨大な竜がいた。壁に鋭い鉤爪を食い込ませ、こちらをじっと見つめている。
 昔話でしか聞いたことのない、誰一人としてその存在を目にしたことのない竜。それが目の前にいる。圧倒的な存在感を前に、皆の視線は釘づけだった。

「少年よ、共に来い」

 凛とした声だった。憧れの存在の突然の出現に、呆気に取られていたリュカだったが、もう一度呼ばれて我に返った。蘇芳を見下ろし、ぎゅっと抱きしめる。離れたくない。

「その者はまだ生きておる」
「…っ!?…ほ、本当に…?」
「ああ。予断を許さない状況だが、助かる」
「助けて…!お願いだ…っ!」

 蘇芳が助かるかもしれないと聞き、目頭が燃えるように熱くなる。目の前の竜がどういった目的で飛来し、どのような思惑を持っているかなど、わからないのに。それでも、リュカはもたらされた僅かな希望に縋りついた。
 蘇芳の命を救えるなら、何だっていい。
 同行を了承するか、と問われ、少年は間髪入れずに頷いた。すると竜は図体に見合わぬ小さな手を伸ばし、二人を優しく掴んだ。巨大な羽を上下に羽ばたかせ、バトーと琥珀には目もくれずに飛翔した。激しい揺れを感じるかと思ったが、滑空はとても滑らかだった。両手で包みこむように抱えられ、風の抵抗もない。竜の手のひらは上質な革張りのソファのように、とても柔らかく快適だった。こんな状況でなければ、竜との邂逅に歓喜し、空の旅も楽しんでいただろう。
 リュカは腕の中の蘇芳に視線を落とした。目の閉じられた顔は血の気を失って青白く、冷たい。本当に、助かるのだろうか。そんな不安がよぎるも、頭を振って払拭する。赤鬼をぎゅうと抱きしめ、彼の額に口づける。
 絶対に助かる。助ける。死なせない。

「…蘇芳、俺のこと置いて行かないで」

 異空間を抜け、飛行は間もなく終わった。緑豊かな地に、竜は着陸した。地面にそっと降ろされ、リュカは周囲をきょろきょろと見渡した。木々が生い茂り、様々な植物が群生している。葉を間をぬって、柔らかな木漏れ日が差しこみ、きらきらと輝く光の粒子が空中に漂っているのが見えた。ここでどのように、蘇芳の蘇生をするのだろうと、背後の竜を振り返る。自分たちを運んできた、深緑色の鱗に覆われた竜は、うやうやしく頭を垂れていた。
 もう一度視線を戻すと、一人の男が立っていた。水色の絵の具を水に溶いて薄めたような、透けそうなほどに透明感のある色の長髪に、薄い茶色の瞳をしている。長身ですらりとしているが、つくところには筋肉がしっかりとついていて、とても見目が整っている。

「やあ、よく来てくれたね」

 そう言って男は両手を広げて、にこやかな笑顔で二人を出迎えた。
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