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43. じゃれあいと無邪気
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会合を終えた蘇芳は、どこか足取り重く自邸へと戻った。真っ直ぐ二階に上がり、開け放たれた障子から中をのぞけば、予想していた通りの姿がそこにあった。背を向けた状態で座卓の前に座り、背後の赤鬼に全く気がついていない。硬いものを食べている咀嚼音が聞こえ、後ろから見ても分かる程に頬が膨らんでいる。
蘇芳は戸口にもたれかかり、その後ろ姿をぼんやりと眺めた。やがて何かの気配を察したのか、黒く丸っこい頭がこちらを向いた。赤鬼を視認した茶色い瞳が大きく見開かれる。
「…びっくりしたー。気配なく後ろに立つなよな。おかえり」
思いがけず迎えの言葉をかけられ、今度は蘇芳が目を丸くする番だった。何気ない一言だが、何故だか心地良い。ふらりと少年に近づき、上から覆いかぶさり脱力する。
「ギャアアアッ!重っ、背骨折れるってえぇ…!!」
突然全体重をかけてのしかかられ、リュカは悲鳴を上げた。重みに耐えかね、座卓と抱擁する羽目になる。
少年の訴えを受け、蘇芳は少し体を起こした。彼の肩に顎を乗せ、リュカの顔を覗きこむ。
「…リュカ、お前、俺のことを可哀想だと思うか?」
「え?」
予想だにしない質問にリュカは驚きの声を漏らした。試されているのか、何かの意図があるのか、と悪い方に勘繰ってしまう。赤鬼の思考を少しでも読み取れないかとまじまじと見つめるが、無表情で感情が全く読めない。一体何なんだ、と少年はたじろいだ。
「かわいそう?蘇芳が?」
「ああ」
「急に何だよ?会合で何かあったのか?」
「何もねえよ。いいから質問に答えろって」
「……悪いけど、全然そんな風に思えない。俺からしたら羨ましくて仕方ないんだけど」
「羨ましい?」
意外そうに眼を瞬かせて聞き返してくる蘇芳に、リュカは頷いた。
「鬼族で力も強くて、金もめちゃくちゃ持ってるし、一般的に見れば顔もたぶん整ってるんだろうし、背も高くて体も大きいしさ、セキシっていう優しい従者もいるじゃん。俺にはないものばっかり持ってて、嫉妬しかないし」
言葉にすることで改めて現実を突きつけられ、自然と少年の唇が尖っていく。
金もない、力もない。茶色い三白眼の生意気そうな顔で、みすぼらしい。テル・メルでの味方はいなかったし、名前すらなかった。ないものづくめの自分から見れば、赤鬼の家庭環境と過去を差し引いてもお釣りがくるくらい、彼は恵まれていると思う。
自分と蘇芳を比べたってどうしようもないというのに、僻んでしまう自分が少し情けなくて、赤鬼の顔が見れない。おやつにとセキシから出された煎餅が盛られた器をじっと見る。
耳元で突然、勢いよく息を噴き出す音が聞こえた。かと思えば蘇芳が肩に顔を埋めてきた。声を押し殺して笑っているせいで、体が震えている。
「わ、笑うなよっ。バカにすんなっ」
「違ぇよ。馬鹿になんかしてねえ。ただ予想と違ってたから笑っちまっただけだ」
目尻に涙を浮かべる赤鬼を、信じられないとばかりにリュカは冷めた目で一瞥した。
「何もないって言うが、そんなことねえだろ。正体は分からずとも人間ではねえし、不細工ってツラでもねえ。セキシがよく、愛らしい愛らしいって言ってんだろ?」
「…セキシは目が悪いんだ、絶対。それか美的感覚狂ってる」
「曲解すんなよ。セキシが不憫だろ。体はこれから成長していくし、気にするほどのことじゃねえ。金だって好きに使ってもいいぞ。何か欲しい物でもあるのか?」
「…っない。今のままで十分…」
問われて、少年は咄嗟に頭を振って否定した。今までは貯金することが生きがいで、物欲など全くなかった。それは今もそう変りない。衣食住がしっかりと保障されていて、何ら不満がない。
欲しいものと言えば、金では買えないものばかりだ。力や身体能力、それにどうすれば蘇芳に一生飽きないでいられるかの秘密。
「ふーん。ま、必要なものがあれば俺かセキシに言え」
大きな手で頭をわしゃわしゃと撫でられる。慰められて、まるで小さな子供みたいだと少し気恥しくなる。蘇芳は粗暴だし、見た目も強面だが、器は大きい。彼と比べると自分は器の小さい人間だと実感した。
「つうか、顔もたぶん整ってる、ってどういうことだ?どこからどう見たって男前だろうが」
肩に腕を回されて抱えこまれ、親指と人差し指で両頬を掴まれた。むにむにと指を押しこまれて、アヒルのように唇を突き出す格好になる。
「ひっはんへひひっへ、ひっはひゃん!」
「何言ってんのかわかんねえ」
笑い声と共に、頬を解放される。
「一般的にって、言ったじゃん!」
「あ?お前はどう思ってんだよ」
「え?…うーん、強いって感じ?なんかこう…迫力っていうか、圧がすごいって言うか…」
「いまいちよく分からねえ」
「…俺も言葉にするのが難しいんだけど」
渋面を浮かべる赤鬼。蘇芳が何故こうもしつこく己の容姿のことを聞いてくるのかわからなくて、リュカも若干むっとする。他人の美醜なんて、特に気にしたことがないのだ。
すると顎を掴まれて、噛みつくような口づけを受けた。舌で唇をこじ開けられ、口内を舐め回される。
「生意気な口きくから、塞いでやったんだよ」
突然キスされて目を白黒させていると、蘇芳は全く悪びれもせずに舌を出してそう言った。リュカは呆けたままでいたが、前みたいに何も喋れないよう口封じた方が良かったか?と言われ、即座に頭を振って否定した。
鬼の力で口をきけなくされるのは、なけなしの尊厳をズタズタにされる気がして大嫌いだった。
「横暴!理不尽!俺、そんなに生意気言ったつもりねーのに!」
「ほおー。今のが生意気でなくて、一体何なんだ?」
にやついた顔を近づけてくる蘇芳に、またキスされると思ったリュカは咄嗟に両手で口を覆った。指で剥がされかけて、少年は赤鬼の腕の中からするりと脱出すると、背を向けて逃げ出そうとした。だがすぐさま首根っこを掴まれて、またのしかかられる。
「ぎゃあぁ、つぶれるつぶれるっ!!」
腹這いの状態で両手足をばたばたと動かす少年を、赤鬼は声を立てて笑いながら見下ろしていた。
********************
「あの穴、なくなってる」
一本の大樹を前に、リュカは困惑した様子で声を漏らした。
少年たっての希望で、二人は山の中にいた。あの日、赤足族の手から逃れて逃げこんだ先の洞穴のことが心に引っかかっていたのだ。同じく気にしていた蘇芳も二つ返事で了承し、二人はリュカの足跡を辿った。
一瞬、記憶違いで異なる木に案内したかと思ったのだが、ここで間違いないと少年の本能が告げる。恐怖に駆られて駆けた脳裏に、この風景が焼きついている。
「ほ、本当にこの木の中に逃げこんだんだよ、俺。嘘じゃない」
「疑ってねえよ。一週間も経ってんだ。何らかの力が働いて塞がれたってのも十分ありうる」
無条件に信じてもらえて、リュカは嬉しく思った。テル・メルにいた頃は、本当のことを言っているのに、嘘つき呼ばわりされて全く取り合ってもらえないのが日常だった。
「もしかしたら、落ち葉の下に隠れてるのかも」
「おい。あんまり、身ぃ乗り出すな。何があるかわからねえ」
リュカはしゃがみこみ、両手で落ち葉をかき分けようとしたが蘇芳に止められた。すると赤鬼はどこからともなく巨大な鉄の塊を出現させ、鉄塊の先で落ち葉をよけた。だが、現れたのは地面に深く根差した太い根っこだった。あの日見たはずの穴は見る影もない。
だが、少年の興味は消え失せてしまった穴よりも、突如現れた巨大な鉄に移った。
「…何もねえな。切り倒して―…どうかしたか?」
少年を振り返る赤鬼だが、彼のきらきらとした視線に気がつき、怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「蘇芳、何だそれ!?」
「あ?俺の得物だよ」
「そんなデケェの振り回して戦ってんのか!?」
「まあな」
「ちょ、ちょっと持ってみてもいい!?」
明らかに興奮し、ちょっとだけとせがむリュカを、蘇芳は不思議に思いながらも柄の部分を手渡す。だが蘇芳の手を離れた瞬間、金砕棒は地面にめりこんだ。重さに耐えかね、少年も地面に体を叩きつけられる。
「おい、大丈夫か」
ぎょっとする蘇芳をよそに、リュカはすぐさま立ち上がった。柄を両手に握って持ち上げようとするも、金砕棒はびくともしない。それが分かると、彼はますますはしゃいだ。
「何だこれ、すげえ!めちゃくちゃ重っ!武器って言うか岩みてえ!な、な、蘇芳、いつもみたいにこれ振るってみてっ」
催促されるがまま赤鬼は鉄の塊を持ち上げ、横薙ぎしたり頭上でくるくると回して見せた。重さなど全く感じさせない軽やかな手つきに、リュカは尊敬の念のこもった瞳をきらきらと輝かせた。
純粋な眼差しを受け、赤鬼も満更ではない。無意識に頬が緩む。
「それが武器とか扱いづらくねえ?それとも鬼ともなれば、重たく感じねえの?」
「金砕棒を好んで使ってる物好きは俺くらいだろうな。仲間内では小回りの利くものを使う奴が多い。俺としては大勢の敵を一網打尽にする方が好きだから、こっちの方が使い勝手がいい。硬い装甲の奴にも打撃を与えられるし、振り回した時の風圧で弱え奴は勝手に吹き飛ぶしな」
「へええ…!当たったら痛そー」
「だろうな。もろに食らった奴は大体即死だ」
「うええ…」
巨大な鉄の塊をまともに食らう場面を想像するだけで、自然と顔が苦々しくなる。ぶるぶると身震いして、蘇芳だけは敵に回してはいけない、とリュカは改めて思うのだった。
木を切り倒してみるかと提案を受けたが、これ以上の手掛かりは見込めそうになく、少年は断った。赤鬼の腕に抱かれて鬼の里に戻って来ると、何やら人だかりができていた。怒号が飛び交い、物々しい雰囲気だ。ただならぬ様子に、赤鬼が纏う雰囲気が張り詰めるのを感じた。
「リュカ、家に戻ってセキシといろ」
「俺も気にな…」
「いいから、戻ってろ」
「でもっ、セキシもあそこにいる!」
ぴしゃりと言い放たれたが、リュカは食い下がった。見慣れた海老茶色の装束を身に纏った後ろ姿を群衆の中に見つけて、指さす。己の従者の姿を認識した蘇芳は、盛大に舌打ちした。
「…セキシの傍にいろ。絶対に離れるなよ」
顔をしかめる彼に、しっかりと頷いて応える。赤鬼の後をついて歩き、セキシに近づくと駆け寄った。背後からぎゅっと手を握る。
セキシは一瞬驚いた様子だったが、少年の姿を視認するとふんわりと微笑んだ。おかえりなさい、と声をかけられ、リュカもつられて笑う。
セキシの傍にぴたりと立つ少年を一瞥し、蘇芳は他の鬼をかき分け人だかりの中心へと向かった。
「何かあったのか?何だか皆怒ってるみたいだ」
「ええ。何でも侵入者だそうですよ」
「侵入者?」
リュカが首を傾げるのと同時に、屈強な鬼を左右に侍らせた黒鳶がやってきた。何事か、と恫喝する顔は険しい。頭領の登場に、集まっていた鬼たちが後ずさり、黒鬼に道を開ける。リュカも例にもれず、セキシに手を引かれて場所を譲る。セキシの陰に隠れ、少年はこっそりと輪の中心を振り返る。
黒く長い髪が見えた。頭を垂れて、地面にうずくまっている。長い髪からのぞく手は異様に細く、老人のようにしわくちゃだ。か細い呼吸音が聞こえて、何故だか胸騒ぎがした。
「顔を上げよ」
黒鳶が侵入者の前で足を止める。厳かな声に、侵入者は大きく体をびくつかせ、やがてゆっくりと体を起こした。露になる姿に、リュカの目は釘づけだった。
全身に走るミミズ腫れに、落ち窪んだ目。しかも片目は潰れている。
見覚えがある。その瞬間、心臓がひときわ大きく拍動した。
侵入者は、闇オークションの会場で会った、バトーの奴隷だった。
蘇芳は戸口にもたれかかり、その後ろ姿をぼんやりと眺めた。やがて何かの気配を察したのか、黒く丸っこい頭がこちらを向いた。赤鬼を視認した茶色い瞳が大きく見開かれる。
「…びっくりしたー。気配なく後ろに立つなよな。おかえり」
思いがけず迎えの言葉をかけられ、今度は蘇芳が目を丸くする番だった。何気ない一言だが、何故だか心地良い。ふらりと少年に近づき、上から覆いかぶさり脱力する。
「ギャアアアッ!重っ、背骨折れるってえぇ…!!」
突然全体重をかけてのしかかられ、リュカは悲鳴を上げた。重みに耐えかね、座卓と抱擁する羽目になる。
少年の訴えを受け、蘇芳は少し体を起こした。彼の肩に顎を乗せ、リュカの顔を覗きこむ。
「…リュカ、お前、俺のことを可哀想だと思うか?」
「え?」
予想だにしない質問にリュカは驚きの声を漏らした。試されているのか、何かの意図があるのか、と悪い方に勘繰ってしまう。赤鬼の思考を少しでも読み取れないかとまじまじと見つめるが、無表情で感情が全く読めない。一体何なんだ、と少年はたじろいだ。
「かわいそう?蘇芳が?」
「ああ」
「急に何だよ?会合で何かあったのか?」
「何もねえよ。いいから質問に答えろって」
「……悪いけど、全然そんな風に思えない。俺からしたら羨ましくて仕方ないんだけど」
「羨ましい?」
意外そうに眼を瞬かせて聞き返してくる蘇芳に、リュカは頷いた。
「鬼族で力も強くて、金もめちゃくちゃ持ってるし、一般的に見れば顔もたぶん整ってるんだろうし、背も高くて体も大きいしさ、セキシっていう優しい従者もいるじゃん。俺にはないものばっかり持ってて、嫉妬しかないし」
言葉にすることで改めて現実を突きつけられ、自然と少年の唇が尖っていく。
金もない、力もない。茶色い三白眼の生意気そうな顔で、みすぼらしい。テル・メルでの味方はいなかったし、名前すらなかった。ないものづくめの自分から見れば、赤鬼の家庭環境と過去を差し引いてもお釣りがくるくらい、彼は恵まれていると思う。
自分と蘇芳を比べたってどうしようもないというのに、僻んでしまう自分が少し情けなくて、赤鬼の顔が見れない。おやつにとセキシから出された煎餅が盛られた器をじっと見る。
耳元で突然、勢いよく息を噴き出す音が聞こえた。かと思えば蘇芳が肩に顔を埋めてきた。声を押し殺して笑っているせいで、体が震えている。
「わ、笑うなよっ。バカにすんなっ」
「違ぇよ。馬鹿になんかしてねえ。ただ予想と違ってたから笑っちまっただけだ」
目尻に涙を浮かべる赤鬼を、信じられないとばかりにリュカは冷めた目で一瞥した。
「何もないって言うが、そんなことねえだろ。正体は分からずとも人間ではねえし、不細工ってツラでもねえ。セキシがよく、愛らしい愛らしいって言ってんだろ?」
「…セキシは目が悪いんだ、絶対。それか美的感覚狂ってる」
「曲解すんなよ。セキシが不憫だろ。体はこれから成長していくし、気にするほどのことじゃねえ。金だって好きに使ってもいいぞ。何か欲しい物でもあるのか?」
「…っない。今のままで十分…」
問われて、少年は咄嗟に頭を振って否定した。今までは貯金することが生きがいで、物欲など全くなかった。それは今もそう変りない。衣食住がしっかりと保障されていて、何ら不満がない。
欲しいものと言えば、金では買えないものばかりだ。力や身体能力、それにどうすれば蘇芳に一生飽きないでいられるかの秘密。
「ふーん。ま、必要なものがあれば俺かセキシに言え」
大きな手で頭をわしゃわしゃと撫でられる。慰められて、まるで小さな子供みたいだと少し気恥しくなる。蘇芳は粗暴だし、見た目も強面だが、器は大きい。彼と比べると自分は器の小さい人間だと実感した。
「つうか、顔もたぶん整ってる、ってどういうことだ?どこからどう見たって男前だろうが」
肩に腕を回されて抱えこまれ、親指と人差し指で両頬を掴まれた。むにむにと指を押しこまれて、アヒルのように唇を突き出す格好になる。
「ひっはんへひひっへ、ひっはひゃん!」
「何言ってんのかわかんねえ」
笑い声と共に、頬を解放される。
「一般的にって、言ったじゃん!」
「あ?お前はどう思ってんだよ」
「え?…うーん、強いって感じ?なんかこう…迫力っていうか、圧がすごいって言うか…」
「いまいちよく分からねえ」
「…俺も言葉にするのが難しいんだけど」
渋面を浮かべる赤鬼。蘇芳が何故こうもしつこく己の容姿のことを聞いてくるのかわからなくて、リュカも若干むっとする。他人の美醜なんて、特に気にしたことがないのだ。
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鬼の力で口をきけなくされるのは、なけなしの尊厳をズタズタにされる気がして大嫌いだった。
「横暴!理不尽!俺、そんなに生意気言ったつもりねーのに!」
「ほおー。今のが生意気でなくて、一体何なんだ?」
にやついた顔を近づけてくる蘇芳に、またキスされると思ったリュカは咄嗟に両手で口を覆った。指で剥がされかけて、少年は赤鬼の腕の中からするりと脱出すると、背を向けて逃げ出そうとした。だがすぐさま首根っこを掴まれて、またのしかかられる。
「ぎゃあぁ、つぶれるつぶれるっ!!」
腹這いの状態で両手足をばたばたと動かす少年を、赤鬼は声を立てて笑いながら見下ろしていた。
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「あの穴、なくなってる」
一本の大樹を前に、リュカは困惑した様子で声を漏らした。
少年たっての希望で、二人は山の中にいた。あの日、赤足族の手から逃れて逃げこんだ先の洞穴のことが心に引っかかっていたのだ。同じく気にしていた蘇芳も二つ返事で了承し、二人はリュカの足跡を辿った。
一瞬、記憶違いで異なる木に案内したかと思ったのだが、ここで間違いないと少年の本能が告げる。恐怖に駆られて駆けた脳裏に、この風景が焼きついている。
「ほ、本当にこの木の中に逃げこんだんだよ、俺。嘘じゃない」
「疑ってねえよ。一週間も経ってんだ。何らかの力が働いて塞がれたってのも十分ありうる」
無条件に信じてもらえて、リュカは嬉しく思った。テル・メルにいた頃は、本当のことを言っているのに、嘘つき呼ばわりされて全く取り合ってもらえないのが日常だった。
「もしかしたら、落ち葉の下に隠れてるのかも」
「おい。あんまり、身ぃ乗り出すな。何があるかわからねえ」
リュカはしゃがみこみ、両手で落ち葉をかき分けようとしたが蘇芳に止められた。すると赤鬼はどこからともなく巨大な鉄の塊を出現させ、鉄塊の先で落ち葉をよけた。だが、現れたのは地面に深く根差した太い根っこだった。あの日見たはずの穴は見る影もない。
だが、少年の興味は消え失せてしまった穴よりも、突如現れた巨大な鉄に移った。
「…何もねえな。切り倒して―…どうかしたか?」
少年を振り返る赤鬼だが、彼のきらきらとした視線に気がつき、怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「蘇芳、何だそれ!?」
「あ?俺の得物だよ」
「そんなデケェの振り回して戦ってんのか!?」
「まあな」
「ちょ、ちょっと持ってみてもいい!?」
明らかに興奮し、ちょっとだけとせがむリュカを、蘇芳は不思議に思いながらも柄の部分を手渡す。だが蘇芳の手を離れた瞬間、金砕棒は地面にめりこんだ。重さに耐えかね、少年も地面に体を叩きつけられる。
「おい、大丈夫か」
ぎょっとする蘇芳をよそに、リュカはすぐさま立ち上がった。柄を両手に握って持ち上げようとするも、金砕棒はびくともしない。それが分かると、彼はますますはしゃいだ。
「何だこれ、すげえ!めちゃくちゃ重っ!武器って言うか岩みてえ!な、な、蘇芳、いつもみたいにこれ振るってみてっ」
催促されるがまま赤鬼は鉄の塊を持ち上げ、横薙ぎしたり頭上でくるくると回して見せた。重さなど全く感じさせない軽やかな手つきに、リュカは尊敬の念のこもった瞳をきらきらと輝かせた。
純粋な眼差しを受け、赤鬼も満更ではない。無意識に頬が緩む。
「それが武器とか扱いづらくねえ?それとも鬼ともなれば、重たく感じねえの?」
「金砕棒を好んで使ってる物好きは俺くらいだろうな。仲間内では小回りの利くものを使う奴が多い。俺としては大勢の敵を一網打尽にする方が好きだから、こっちの方が使い勝手がいい。硬い装甲の奴にも打撃を与えられるし、振り回した時の風圧で弱え奴は勝手に吹き飛ぶしな」
「へええ…!当たったら痛そー」
「だろうな。もろに食らった奴は大体即死だ」
「うええ…」
巨大な鉄の塊をまともに食らう場面を想像するだけで、自然と顔が苦々しくなる。ぶるぶると身震いして、蘇芳だけは敵に回してはいけない、とリュカは改めて思うのだった。
木を切り倒してみるかと提案を受けたが、これ以上の手掛かりは見込めそうになく、少年は断った。赤鬼の腕に抱かれて鬼の里に戻って来ると、何やら人だかりができていた。怒号が飛び交い、物々しい雰囲気だ。ただならぬ様子に、赤鬼が纏う雰囲気が張り詰めるのを感じた。
「リュカ、家に戻ってセキシといろ」
「俺も気にな…」
「いいから、戻ってろ」
「でもっ、セキシもあそこにいる!」
ぴしゃりと言い放たれたが、リュカは食い下がった。見慣れた海老茶色の装束を身に纏った後ろ姿を群衆の中に見つけて、指さす。己の従者の姿を認識した蘇芳は、盛大に舌打ちした。
「…セキシの傍にいろ。絶対に離れるなよ」
顔をしかめる彼に、しっかりと頷いて応える。赤鬼の後をついて歩き、セキシに近づくと駆け寄った。背後からぎゅっと手を握る。
セキシは一瞬驚いた様子だったが、少年の姿を視認するとふんわりと微笑んだ。おかえりなさい、と声をかけられ、リュカもつられて笑う。
セキシの傍にぴたりと立つ少年を一瞥し、蘇芳は他の鬼をかき分け人だかりの中心へと向かった。
「何かあったのか?何だか皆怒ってるみたいだ」
「ええ。何でも侵入者だそうですよ」
「侵入者?」
リュカが首を傾げるのと同時に、屈強な鬼を左右に侍らせた黒鳶がやってきた。何事か、と恫喝する顔は険しい。頭領の登場に、集まっていた鬼たちが後ずさり、黒鬼に道を開ける。リュカも例にもれず、セキシに手を引かれて場所を譲る。セキシの陰に隠れ、少年はこっそりと輪の中心を振り返る。
黒く長い髪が見えた。頭を垂れて、地面にうずくまっている。長い髪からのぞく手は異様に細く、老人のようにしわくちゃだ。か細い呼吸音が聞こえて、何故だか胸騒ぎがした。
「顔を上げよ」
黒鳶が侵入者の前で足を止める。厳かな声に、侵入者は大きく体をびくつかせ、やがてゆっくりと体を起こした。露になる姿に、リュカの目は釘づけだった。
全身に走るミミズ腫れに、落ち窪んだ目。しかも片目は潰れている。
見覚えがある。その瞬間、心臓がひときわ大きく拍動した。
侵入者は、闇オークションの会場で会った、バトーの奴隷だった。
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